『ルーザー』


 

――長い長い階段を駆け上がって、辿り着いたときには、もう手遅れで。

 

「――――」

 

呼吸を荒げ、過労を訴える肺を酷使し、絞り出すように叫んでいた。

だが、声に、言葉に、状況を変えられるような力はそうそう宿らない。それこそ、剣技を競い合うような場面では、言葉の力不足はますます深刻だ。

それを、『剣技』の競い合いなどと、そう呼んでいいものかすら、わからないが。

あまりに一方的すぎたことと、片方の得物がどう取り繕っても棒切れでしかないのだから。

 

――白光が、ただでさえ白い空間をより強い白さで塗り潰していく。

 

原理は不明だ。光すら斬る、と豪語された一振りだからこそなのか、それとも型破りな剣士の人間性が為せる業か、斬撃は衝撃波を伴い、空間を一掃する。

その剣撃の射線上にいた人物もまた、光に呑まれ、為す術なく吹き飛ばされた。

 

そして、文字通り瞬く間に光は消え、白光の晴れた空間に広がっていたのは、片袖を脱いだ赤毛の男の長身と――まるで躯のように転がる、紫髪の剣士の姿だ。

 

「よお、稚魚じゃねえか、オメエ」

 

その光景に絶句するスバルへ、気安く声をかけたのは赤毛の男だ。彼は直前の剣戟など忘れた顔で、息一つ乱さずに鮫のように笑った。

それから、打ち倒されている剣士――ユリウスを指差すと、

 

「遅かったな、オメエ。もう片付いちまったし、邪魔臭えからとっとと持って帰れ」

 

「……レイド・アストレア」

 

「ンだよ、オメエ。人の名前に探りなンぞ入れてンじゃねえぞ、オメエ。名乗らねえ方がカッコいいってオレのカッコつけの邪魔してくれてンじゃねえよ、オメエ」

 

名前を呼ばれて不機嫌になる『棒振り』――もとい、レイド。

その的外れな言い草に、スバルの方も不服を覚えつつ、あからさまな行動には出ない。ゆっくりと、レイドから視線を外さないままに倒れるユリウスの下へ。

 

「別に獲って喰いやしねえよ、オメエ。ンなじろじろ睨まなくてもな」

 

「悪いが、俺の故郷じゃ熊を相手にするときは目を逸らすなってのが常識なんだ。ユリウスは……」

 

警戒と視線をレイドに向けたまま、スバルは体を傾けてユリウスの呼吸を確かめる。意識は喪失しているが、口元に向けた掌には呼吸の反応があった。

あの剣撃を浴びても、命は奪われていなかったらしい。そのことに安堵する。

 

「次は容赦しねぇって言ってたわりに、温情があるんだな」

 

「そうでもねえよ。オメエ、箸に殺されるより、箸に負けて逃げ帰る方がダサいと思わねえか?オレは思うぜ。そンな情けねえ姿晒すぐらいなら死ンだ方がマシだ。だから、箸で負かして、逃げ帰らせてやンよ」

 

「温情があるってのは撤回するぜ、クソ野郎」

 

「かっ!稚魚に何言われても響きゃしねえよ。それに、今日はもう試してやるつもりもねえ。かかってくンならぶちのめすがな。オメエの足下のそいつみてえに」

 

右手で腹を掻きながら、レイドは左手の箸でスバルとユリウスを交互に示した。

そして現状、レイドの態度にどれだけ腹を立てようと、その無礼を撤回させてやるだけの手段はスバルの持ち合わせにない。

 

「クソ」

 

「おうおう、そうしろ。黙って担いで、負け惜しみでも言ってけよ。それで気が晴れンならオメエよ、その方が楽だし、利口だぜ。つまンねえがな」

 

どっかりと腰を下ろして、レイドが青い瞳を冷酷に細めて言い放った。その勝者の愉悦に晒されながら、スバルは倒れるユリウスを何とか担ぎ上げる。

ほんの小一時間前にしたのと同じように、強引にユリウスを背負う形だ。意識のない人間の体は重く、ましてやユリウスはスバルよりも身長が高い。かなり難儀な形になるが、背に腹は代えられなかった。

ここにユリウスを一人、残していく選択肢などあるはずないのだから。

 

「――次はいい女の誰か連れてこいよ、オメエ。あの激マブでもいいぜ」

 

最後まで、一度として誰かの名前を呼ぶことなく、レイドはひらひら手を振った。

そんなレイドの悪ふざけ同然の態度に、スバルは文字通り、何も言えずにただ逃げ帰る以外のことができなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「……はぁ、はぁ」

 

一歩ずつ、一段ずつ、確かめるように踏みしめながら階段を下りていく。

階段の通路はそれなりに広いが、石壁に囲まれた光景に閉塞感は拭えない。この階段を上り下りするのは二度目だが、真っ直ぐに続く階段が塔を突き抜けない構造上の不自然さ、その謎を解き明かす方法も今のところ手掛かりゼロだ。

 

「なんて、馬鹿なこと考えながらでもないと……やって、られねぇ……っ」

 

長い長い階段を、人を一人背負って下ることの辛さは説明するまでもない。

ましてや、この大階段の段数は四百四十四段(エミリア数え)もあるのだ。スバルがエミリアに悪感情を抱くことなどまずもってないのだが、辛い階段の具体的な数字を出してしまった今回に限っては、頬を引っ張って叱りたい衝動に駆られる。

無論、頬を引っ張られようとエミリアは可愛いに違いないのだが――、

 

「早く、連れ戻らないと……エミリアも、ベア子も心配してるな」

 

緑部屋でユリウスの不在に気付いたスバルたちは、全員が手分けして監視塔の中の彼を探し回ることになった。三層へ向かったり、四層の各部屋へ急いだり、シャウラは階下にいるジャイアンと竜車の下へ確認にいかせるなど、様々だ。

みんな、ユリウスのことを心配している。レイドに敗北し、折れた騎士剣を置いていなくなった彼がどんな心中でいるのか、

彼女らがその憂慮に心を痛める性質であることは、今さら疑う余地もない。

 

「でも、な……」

 

――ただ、スバルだけは違った。スバルだけは、すぐに理解できた。

騎士剣を置いたユリウスが、どこへ、何のために向かったのか。

それはきっと、スバルだけが――、

 

「――揺れる、ものだな」

 

「――ッ!気付いたのか!」

 

背中から届いた声に、階下へ伸ばした足を止めた。その呼びかけに、背中に担がれるユリウスが「あぁ」と身じろぎし、

 

「こ、こは……」

 

「ぼやっとした言い方すれば階段の途中、もうちょっと具体的に言えば長い階段の途中、さらに具体性を増せば四層と二層の間の階段を逃げ帰る途中だ」

 

「迂遠な、ことだね。……私は、君に背負われて?」

 

「そうだよ。言っとくが、この短時間で二回目だぞ、これ。二度とやりたくねぇって思った三十分後にまたこれやらされてる俺の気持ち、お前にわかるか?」

 

「道理で、乗り心地の悪いはずだ……」

 

「お前、振り落とされたいの?」

 

微かに息を抜くように、ユリウスが笑った気配が背中越しに届いた。その皮肉な物言いに反論しながら、スバルはわずかに緊張を緩める。

 

正直、目覚めたユリウスの第一声がどうなるか、スバルには予測がつかなかった。忌憚なく本音を言わせてもらえれば、恐れていたといっても過言ではない。

だから、目覚めたユリウスの最初の一声から派生したやり取りが、自暴自棄なものでなかったことにホッとしていた。

 

「何があったか、ちゃんと覚えてるのか?」

 

「……情けない、話だがね。易々と敵に打ち倒され、そのまま情けをかけられた挙句に、アナスタシア様や君に迷惑を」

 

「……あれが相手で、ボロ負けしたことを責めるほど悪魔じゃねぇよ」

 

ひどく、彼らしい物言いにスバルは嘆息し、階段下りを再開する。

意識の戻ったユリウスは、先ほどに比べればはるかに運びやすい。それに足取りを重くしていた不安も晴れてくれたおかげで、残りの段数も勢いでいけそうだ。

 

「……アナスタシア様は、ご無事だろうか。倒れられたことと、あの精霊の部屋で治療されていた姿は、見届けたのだが」

 

「命に別状はない、ってのが今のところの診断結果だ。お前の方がよっぽど死にかけたぐらいだよ。あれ相手に……つか、あの眼帯野郎が誰だか知ったら驚くぞ」

 

「――レイド・アストレア」

 

「――――」

 

確信に満ちた声音に、スバルは一瞬、驚きに呼吸を足を止めてしまった。だが、すぐにそれを誤魔化すように、呼吸も足も動きを再開する。

背中に、その動揺が伝わらないようにスバルは言葉を選びながら、

 

「よく、よくわかったじゃねぇか。こっちはあれだ。シャウラが知っててな。あいつは四百年前の顔見知りだろうから知ってて当然だけど……どうも苦手意識ってのは本当だったらしい。顔見るなり失神したのも、それが理由だと」

 

「なに、気付く余地は多くあった。炎の赤毛に、青い瞳。あれほど図抜けた剣技……剣技、といっていいものかな。私は彼に剣を振らせてすらいない。単に実力者と、そう言わせてもらおうか。『棒振り』というのも、文献に見られた彼を示す表現だ」

 

「まさか、あの箸で戦うから『棒振り』って昔から呼ばれてんのか?」

 

「正しくは、得物を選ばないという意味合いでだ。『棒振り』を自称された時点で思うところはあったが……確信が、持てなくてね。伝えられず、すまない」

 

申し訳ない、というユリウスのニュアンスに、スバルは何も答えなかった。

気付く余地はあったと彼は言ったが、それはあまりに酷な話だとスバルは考える。

 

レイド・アストレア、初代『剣聖』とされる男は四百年前に死んだはずの人物だ。

お伽噺や伝説に名を残した過去の偉人と遭遇したなどと、特徴が一致したからといって容易に発想できるはずもない。

 

気付く可能性があるとすれば、その発想力はスバルが持つべきだった。

この監視塔で行われる『試験』が、どこかエキドナの墓所で受けた『試練』に近しいものがあるとはエミリアとも頷き合っていたのだ。

ならばスバルこそが、この塔で行われる『試験』の内容にもっと考えを巡らせ、可能性を思いつく限りに挙げておくべきだったのだ。

それを怠った結果が、あの二層『エレクトラ』での、敗走に繋がったのだから。

 

「ふ。如何なる原理でか、過去から蘇った伝説の剣士との邂逅……か。本来、この奇跡的な巡り合わせを私は喜ぶべきなのだろうが……」

 

「心中お察しするよ。伝説の英雄が、実物あんなじゃガッカリもいいところだ。『賢者』って前評判のシャウラといい、この監視塔は肩透かしが多すぎる」

 

「……心中、察する、か」

 

どこか、掠れて自嘲的な響きを孕んだ声音だった。

ユリウスのこぼしたそれを間近で聞いて、スバルは配慮に欠けたと奥歯を噛む。しかし、「それにしても」とその言動には触れず、

 

「確か、金貨に彫られてるのが初代の『剣聖』って話だったけど、これも実物とは大違いだったな。シャウラが性別ごと違ってたのは人違いだから仕方ねぇにしても、こっちも相当ギャップがあるぞ。金貨の方は、もっとオッサンみたいで……」

 

「史実として、レイドが三英傑に数えられる功績を挙げたのはもっと上の年齢だ。金貨に描かれる姿はおそらく正しい。上にいる彼が、史実より若いんだ」

 

「そういえば、レイドはシャウラに見覚えがなかったみたいだったな……」

 

話題を逸らすつもりが、思わぬところで疑問の一つと結び付いた。

ユリウスの話と照合すれば、なるほど、確かにシャウラ側とレイド側では顔見知りにあったにしては温度差がありすぎた。あれが、仮の話として『シャウラと出会う前のレイド』だったとすれば、二人の認識の違いに頷ける部分もある。

もっとも、シャウラの方は反応が過剰すぎるし、レイドはあの性格だと人の顔と名前を覚えていない可能性がわりと高いのが根拠を弱めるが。

 

「それが正しいとなると、魔女と戦ったのは全盛期過ぎてからってことか。で、俺たちはその若い全盛期のあいつを突破しなきゃいけねぇと」

 

「前途多難か、あるいは不可能な難事に思えてくるな」

 

「しんどいのは間違いねぇな。けど、対策を練れば抜け道はきっとある。現に……」

 

レイド攻略のための糸口を探りながら、そこでスバルは言葉の先を躊躇った。

今、この瞬間に、それをユリウスに伝えるべきか、心が制止をかけたからだ。

 

だが、それは一歩、遅かった。

 

「現に……なんだろうか」

 

「いや、その……」

 

「スバル」

 

レイドを観察して突破口が見えた、などの言い訳はすぐに見破られる。実際、今すぐレイドを突破する方法や、弱点などが見つかっていないのは確かなのだ。

故に、スバルは短く名前を呼ばれ、観念した。

 

「……お前と、アナスタシアが倒れたあとに、エミリアが『試験』を突破した」

 

「――――」

 

「ただ、あれだ。単純な力比べで、あいつをぶっ倒したってわけじゃない。色んな偶然が味方したのと……エミリアが、その、特殊だったからだ」

 

単純な勝利と呼ぶには、あの結果は少し難しいところがある。

『試験』としては、試験官であるレイドにエミリアが自分の覚悟と実力を認めさせたといったところだが、その実情は目にしたもの以外には説明しづらい。

同じ勝ち方をしろといっても、エミリア以外の誰にもできないことなのだから。

 

「とにかく、色々複雑な要素が絡み合った結果、エミリアは『試験』をクリアした。ただ、あいつはクリアした本人だけが通るのを許すって話で、俺たち全員が上にいくには全員が勝たなきゃいけないのは一緒……むしろ、悪質だ」

 

「――――」

 

「なんで、作戦を練る必要がある。戦える面子はともかく、俺なんかはベアトリスとのコンビ戦を認めさせなきゃお話にもならねぇ。メィリィはそもそも、『試験』に挑む理由がない。そのあたり、話し合いで納得……気が重すぎるけどな」

 

「――――」

 

「だから、その、お前も再戦すれば目がないわけじゃない。つっても、あれだぞ。今回みたいなやり方じゃなくて、だ。もっときっちり、相手を見極めた上で傾向と対策を練っていく。今回ばかりは俺のスタイルに従って……」

 

「――――」

 

「……おい、聞いてるか?ユリウス、おい?」

 

早口に説明する間、応答のないユリウスを不審に思う。そのまま、背中にいる彼に呼びかけると、何度目かの呼びかけにユリウスは微かに息を詰め、

 

「あ、ああ、大丈夫だ。聞いているとも。……そうか、エミリア様が」

 

「そこは微妙に前の話なんだが……そうなんだ。それがあるから、これはクリアが絶望的な試験ってわけじゃない。気負いすぎるなよ?」

 

「気負う?なに、そんな心配はいらないとも。――全て、君の言う通りだ。エミリア様が『試験』を越えられたのであれば、彼は……『剣聖』レイドは越えられない障害では決してない。それがわかったのは、大きな収穫だ」

 

「お、おお、そうだ。そうなんだよ。……それが、わかってくれりゃいい」

 

思いの外、エミリアが『試験』を乗り越えたことを柔軟に受け入れられて、ユリウスの反応に怖々と説明したスバルは肩透かしを味わった。――否、これでいい。

 

自分が躓いた障害を、誰かが先にクリアしたと知らされる。

その事実に心を軋ませる心配など、ユリウスには無用のことだった。少しばかり、彼にナイーブな面を期待しすぎたといえる。あるいはスバル自身の物差しで、ユリウス・ユークリウスという騎士を推し量るべきではなかったというところか。

 

そんな感慨をスバルが抱くのと、ユリウスが長く息を吐くのは同時だった。

それから、ユリウスは「さて」と軽い調子で言葉を紡ぐと、

 

「そろそろ、下ろしてもらえるだろうか。いつまでも君に背負われたままだと悪酔いしそうだ。地竜と違って、君に『風除けの加護』はないようだからね」

 

「揺れと風は我慢して、ありがたく背負われておけよ。しんどいのは事実だが、ケガ人に自分で歩かせるほど薄情者にはなれねぇ。エミリアたんに叱られる」

 

ユリウスの申し出に首を振り、スバルは体を揺すり、ユリウスを背負い直した。

事実、ユリウスの状態はあまりいいとはいえない。緑部屋にいたのはほんの数十分のことで、あの部屋の精霊がどれだけ有能であったとしても、全身を痛めつけられたユリウスにどれだけの治療が施せたものか。

そして、二度目の敗北を経験したユリウスには何の処置もできていない。

 

裂傷や骨折などがあれば、スバルもクリンド印の応急処置技術の腕を振るうところだが、生憎とユリウスにそうしたわかりやすい外傷はない。

 

レイドの攻撃はひたすらに、ユリウスの心を折らんと放たれたものだった。

無論、それが外傷とは異なる形でダメージを蓄積していることは疑いようがなく、彼に無理をさせることが論外であることには代わりがない。

 

だからスバルはあと半分、おおよそ二百段はあるだろう階段を、ユリウスを背負ったまま下り切る覚悟を決めていたのだが――、

 

「――いや、君にそこまで苦労はかけられない。気絶したままならばまだしも、幸いにも目は覚めた。自分で、階段くらいは下りられる」

 

「つまらねぇ意地張るなよ。大体、突っ張っても今さらだぞ。背負われてるのを見られるのが恥ずかしいってんなら、一緒にいた全員に見られてる。……気絶してたシャウラと、アナスタシアだけは見てないけどな」

 

「ならば、それが理由だ。二人に……特に、アナスタシア様にはこんな姿を見せるわけにはいかない。下ろしてくれ」

 

「とってつけたようなこと言うな。そもそも……」

 

「――下ろしてくれと言っているだろう!」

 

――激発は、突然のことだった。

 

「うお!?」

 

張り詰めた声が耳朶を打った直後、スバルは階段の壁に肩からぶつかっていた。

原因は、背中にいたユリウスが強引に身をよじったことだ。とっさに壁の方へ体を向けたからよかったが、危うく階段から落ちてもおかしくなかった。

しかし、そうして自分の身を守るのが精一杯だったせいで――、

 

「――く」

 

「お前……馬鹿野郎!いったい、何考えてやがんだ!」

 

壁に寄りかかって振り向けば、少し下の段差に倒れているユリウスを見つけた。スバルの背中から落ちて、いくらか階段を滑り落ちたのだ。

うつ伏せで肘をつき、苦しげに喘ぐ姿には苦痛の色が濃い。明らかに、それは階段から落ちたことだけが原因のものではなかった。

 

「言わんこっちゃねぇ!おい、そこにいろ、馬鹿。今いく……」

 

「こなくていい!」

 

「――――」

 

「……一人で、立てる。手を借りる必要は、ない」

 

慌て、階段を駆け下りようとした足が止まった。

床に肘をつけながら、伸ばした手でスバルが駆け寄るのを制止したユリウス。彼はそのまま深く息を吐くと、その横顔を硬くしながら、何とか体を起こした。

そうして壁に背を預けると、背を擦り付けるようにゆっくり、ゆっくりと腰を上げ、膝を伸ばし、寄りかかりながらも立ち上がった。

 

「言った通り、だろう?一人で立つことぐらい、わけのないことだ」

 

どこか、投げ捨てるようなその声の響きに、スバルはとっさに言葉が出ない。

ユリウスはそのまま体を反転させ、右半身を壁に預けるようにしながら、それこそ赤子が床を這うような速度で、のろのろと、階段を下り始めた。

一歩、一歩と、踏みしめるように――。

 

「少し、時間はかかりそうだが、君の手を煩わせる必要はない。それより、階下の女性たちが心配だ。自分の行いを棚上げするようで恐縮だが、私の行方を探しているのが君だけとはどうしても思えないのでね」

 

一歩、また、一歩。

 

「できれば、先に階下へ向かって説明してきてくれないだろうか。とはいえ、詳しい話と、弁明は私自身からするのが筋だろう。君はあくまで、私が見つかったことだけ伝えて、安心させてくれればいい」

 

ゆっくり、ゆっくりと、一歩ずつ。

 

「……弁明するのが気が重いことなのは認めるがね。避けては通れない道だ。その荒れた道を少しでも整えてくれると、私としては君に多大な恩を感じざるを得ない。君にとって、私への貸しなどこれ以上増やしてもと思うかもしれないが」

 

こちらに顔を向けず、階段を一人で、独りで下ろうとするユリウスは話し続ける。

遅々とした足取りでも、立ち止まるスバルとの差は確実に開いていく。

詰めようとすればすぐに詰まる距離だ。彼の願いを叶えるにせよ、一度は追い抜く必要がある。――だから、スバルは足を動かした。

 

「エミリアたちに、先に話してくればいいんだな」

 

「……ああ、そうだ。もしも、アナスタシア様がお目覚めになっていたら……いや、やはりやめておこう。とにかく、君に頼みたい」

 

急ぎ足に階段を下りて、スバルは悠々とユリウスに追いついた。階段に響く靴音にユリウスは安堵に似た息を吐いて、スバルに先にいけと促す。

――否、『先にいけ』ではない。『先にいってくれ』と、促されたのだ。

 

「――――」

 

それを言ったユリウスの内心を、スバルは少しは理解できているつもりだ。

それが理解できた理由は、エミリアたちと違い、スバルにだけはユリウスがレイドへ挑みにいったのだと、すぐに直感したことと同じ理由――。

 

いつか、スバルが抱いたものと、どこか似通ったものが原因に違いない。

だから、あのとき、スバルは――、

 

「――ッ!ああ、クソ!クソクソクソ!馬鹿野郎!俺もお前も、大馬鹿野郎だ!チクショウ!」

 

苛立たしげに吐き捨てて、スバルは階段を蹴っ飛ばしてユリウスへ向かった。

追い抜くつもりでではない。壁に寄りかかり、おたおたとした足取りでいる彼の左腕を掴むと、乱暴に肩を組んで体を支えた。

 

「な……スバル、何のつもり……」

 

「うるせぇ!何が一人で立てるだ!へっぴり腰なのが丸見えなんだよ!そんな奴を置いてさっさといけなんて飲めるわけねぇだろ!エミリアに叱られる以前に、俺が俺に嫌気が差すっつーんだよ!」

 

「だが、私は……」

 

「俺だって、本当に手ぇ貸さなくていいんなら手なんか貸さねぇよ。ただでさえ、俺の両手はあれこれ色んなもんで埋まってんだ。本気で俺の力なんか借りたくねぇなら、俺が我慢できなくなるような情けねぇ格好でふらふら歩いてんじゃねぇ!」

 

「――――」

 

唾を飛ばし、そう怒鳴りつけるスバルにユリウスが押し黙った。

一度は振りほどこうとした力を失い、ユリウスが抵抗することに躊躇ったのを見て取った途端、スバルは無理やりに肩を貸したまま歩き始める。

いったん、そうしてペースを作ってしまえばユリウスも逆らう暇がない。

 

「お前の腹の底がわかってるなんて、知ったような口は利かねぇよ」

 

「――――」

 

「けど、今、お前が一人でこの階段を、長ったらしいこの階段を、独りっきりで歩いて下りる必要なんかねぇんだ。肩ぐらい貸してやるし、貸しだとも思わない」

 

貸し借りの話など、馬鹿げている。

それを言い出せばスバルなど、ユリウスにいったい、どれだけ借りがあるのか。

それこそ一番最初の借りはきっと、あの王城での練兵場から始まって。

 

――ユリウスが、レイドに勝てないとわかって挑みかかった理由は、わかる。

 

あのときと、あのときのスバルと同じだ。

あのときのスバルは、勝てないとわかっていても、ユリウスに挑みかかった。何度倒されても、殴られても、懲りずに立ち上がり、挑み続けた。

それ以外に、胸の奥から込み上げる激情を、吐き出す方法がなかったからだ。

 

そして、あのとき、スバルは、何もかもが終わったあの場所で、エミリアと口論の末に決別したあの場所で、『独り』になって、辛かった。泣きたかった。

 

――だから、ユリウスをこの階段に、独りきりにしてやるものか。

 

「――――」

 

腹の底が熱い。あのときと、同じように。

あのときと違って、この激情をどこへ吐き出せばいいかわからぬまま。

 

「――スバル」

 

「なんだ」

 

「……すまない」

 

「うるせぇ」

 

それが八つ当たりに聞こえなければいいと思いながら、答えた。

そのまま二人はゆっくりと、階段を下りて、四層へ戻っていった。

 

――エミリアが二人を見つけて安堵に胸を撫で下ろしたのは、それから十数分後のことだった。