『決闘の顛末』


 

「――マーコス団長、ご報告が」

 

駆け込んできた衛兵が敬礼しながらそう告げたのは、王選を定める条約の細かな部分を詰め終え、その日の会談に一区切りがつこうかというときのことだった。

 

慌てた様子で肩を上下させる若い兵は、自分の踏み込んだ場所に集まる顔ぶれに気付くと顔を青ざめさせ、自分の働いた無礼に肝を冷やしている。

さっと音が聞こえそうなほど血の気が引く衛兵、その彼の無礼を室内の人々の視線から庇うようにマーコスは動き、

 

「部下が失礼をいたしました。私の指導不足です」

 

「話の区切りはよく、当人も反省が顔色に出ている。その上で上役の卿がそう言うのであれば、こちらが咎めることなどありはしない」

 

謝意を示すマーコスに対し、部屋の面子を代表して寛大を示すのはクルシュだ。彼女は束ねた自身の長い緑髪を手で撫でつけると、「それより」と息を継ぎ、

 

「この場の事情を忘れて乗り込んでくるほどだ。よほどのことだろう?」

 

首を傾けて問いを投げるクルシュに、衛兵は一も二もなく頷いてみせる。それから衛兵は口を開きかけ、その内容が広まるのを恐れるような顔つきになり、

 

「団長、内密にお伝えしたいことが」

 

「……皆様の前で、あまり感心しない態度だが」

 

「それでも、です」

 

それとなくたしなめる言葉に食い下がられ、マーコスは部下の態度に直感的に『マズイ』事態が起きているものと判断する。それだけ感じ取り、室内の人々に断って外で報告を聞こうとマーコスは決断するが、

 

「部屋を出ること、まかりならんぞ、マーコス。妾が許さん」

 

言葉を作るより先に、豪奢な椅子に腰掛けるプリシラが道を塞いできた。彼女はマーコスの思惑など知らずに、ただそうするのが面白いからとでも言いたげな嗜虐的な表情を浮かべたまま、

 

「場を乱した無礼は許そう。が、その原因を聞かんことには溜飲が下がらぬ。よって報告を聞かせよ。この場にいる全員に、聞こえる声でじゃ」

 

「お言葉ですが、プリシラ様。皆様のお耳に入れる必要のない内容も多々ございます。このこともその手合いで……」

 

「たかだか城に忍び込んだだけの老骨が、それまで腑抜けていただけの小娘に見栄を張る気概を与えた。――なれば、それも些細とは言えんかもしれんじゃろ?」

 

扇子で口元を覆い、プリシラはちらりと部屋の対面に位置するフェルトへと流し目を送る。揶揄された形になったフェルトは唇をへの字に曲げ、

 

「変な言いがかりはよしてくれよ、おめでた女。ロム爺はもともと連れてくるつもりだったのが城の中ではぐれたんだ。で、それをわざわざ見っけた兵士が広間まで連れてきてくれた。そーだろうが」

 

腕を組み、プリシラから顔を背けながらフェルトは傍らに立つ禿頭の巨漢――ロム爺を見上げて「なあ」と同意を求める。

瞑目し、痛みを堪えるような表情を続けている老人はその彼女の求めに、「……そうじゃな」と力ない声で応じ、フェルトはわずかに憂いを赤い双眸に宿しながらも、それ以上の言及を拒み、プリシラの皮肉の追及をそれで断ち切った。

 

「姫さん、姫さん。まだまだ始まったばっかなんだから、あんまし敵とか作んのやめてくんねぇ?オレってばただでさえ腕が一本足りねぇんだから、人の倍働かねぇと帳尻合わない困ったさんなんだから」

 

「ふん、まあよい」

 

なおもフェルト苛めを続ける姿勢でいたプリシラであったが、従者であるアルの進言によってその意思を渋々と収める。それから彼女は改めてマーコスに向き直り、

 

「が、そちらへの追及は終わらぬ。報告は妾たちにも聞こえるよう、大声で述べるがよい。妾が許す。否、それ以外を妾は許さぬ」

 

「……団長」

 

「やむを得ん。指示に従え」

 

プリシラの傲岸不遜な命に対し、衛兵はマーコスの判断を求めたが、それに対するマーコスの答えは不本意のにじんだ声音で要求を受け入れるものだった。

上司と、さらに国の今後を担うやもしれぬ人材からの命令――二つの指示を下された衛兵に、それを断るような胆力の持ち合わせはなかった。

 

彼はその表情を強張らせ、瞳を戸惑いと焦りに揺らめかせたまま姿勢を正し、

 

「報告いたします。広間での会談の終了後、騎士ユリウスが練兵場の使用を申請。受諾した現在、練兵場にて騎士ユリウスと……」

 

ちらと、報告の最中に衛兵の視線が部屋の隅――そこに所在なさげに立つ、エミリアの方へと向けられた。

その視線を受け、エミリアはふいに話を振られたような唐突感に目を瞬かせる。

そんな彼女の驚きが疑問に変わり、それが明確な言葉となって意味を結ぶ前に、正しい情報が衛兵によってもたらされる。

 

「――エミリア様の従者である、ナツキ・スバル殿が木剣にて模擬戦を行っております」

 

「……へぇ」

 

背筋を伸ばし切り、衛兵は今まさに見てきたばかりの内容をここにぶちまける。

それを聞き、顎に手を当てて感嘆の吐息を漏らすのはアルだった。他のものも多かれ少なかれ、困惑以外の感情を瞳に、あるいは表情に浮かべている。

そんな中で、はっきりと当惑以外の感情を出しようがないのがエミリアだった。

 

「……え?」

 

告げられた言葉の意味がわからず、エミリアは息の抜けるような声を漏らし、大きな紫紺の瞳をぱちくりさせて思考を停止させてしまう。

 

冷静に、落ち着いて、報告された内容を順次整理する。

つまり、こういうことだ。練兵場という場所で、木剣を使って、なぜかユリウスとスバルが決闘を行っている――整理したはずなのに、意味がわからない。

 

「ど、どうしてそんなことに……!?」

 

理解の感情が浮かばず、エミリアは浮上してきた疑念をそのまま言葉にする。

前に出て、机の向こう側に立つ衛兵に歩み寄りながら、

 

「練兵場って、お城の隣にある騎士団の建物の中でしょう?そこでスバルとユリウスが……ケンカ、なの?」

 

「失礼いたしますが、模擬戦であります。ケンカなどと、私怨が理由で始まったものと思われては騎士ユリウスの名誉に関わります」

 

声を震わせるエミリアに、衛兵はそこだけは譲るまいとはっきり訂正する。

そんな彼の言葉を耳に入れながら、エミリアはそんな些細な情報に頓着していられない。スバルとユリウスの激突は、それほど彼女に衝撃を与えていた。

 

広間を出される形になったスバルがどうなっていたのか、エミリアは自分のことで手いっぱいでしっかり見ていられなかったことを悔いる。

全員の前で、勢いで恥を掻いた形になってしまったスバル。うなだれる彼を広間の外に出し、わずかに安堵した自分がいたことも否定できない。

そんな身勝手な考えのツケが、こうして今になって回ってきているのではないか。

 

そもそも、スバルはユリウスに対してあまりいい印象を抱いていないはずだ。

広間でのスバルの独壇場――そこに水を差すような形で現実をぶつけたのは彼の騎士であったし、昨日の王都での衛兵詰所でも一件でも、スバルは貴族らしいほど貴族として振舞う彼の態度に反感を抱いていた節があった。

 

いまだ素姓をはっきりと教えてくれないスバルではあったが、そんなユリウスへの接し方などから、いわゆる上流階級の人間に敵愾心を抱く理由があるのではないかとエミリアはぼんやり思っている。

ロズワールに対してその影響が見られないのは、ロズワール自身が貴族としては非常に変わり種に位置するからという理由もあるのだろう。

これまで表面化してこなかった問題、それ故に後回しにしてきた事情が、今の事態の火種となったことも否定の材料がなかった。

 

一度、思考が悪い方向へ転がり始めると、あとは底辺まで一気に転がるだけだ。

エミリアもその傾向に従って想像は悪い方へ進み、彼女はその整った面持ちにはっきりとした憂いを浮かべ、

 

「とにかく、すぐに止めにいかなきゃ。その練兵場に案内して……」

 

「あー、それはどうかとウチは思うんやけど」

 

急ぎ、現場に向かって二人の仲裁を。

そう考えるエミリアの言葉を、今度は特徴的な口調の少女が遮った。

 

出鼻をくじかれて顔をしかめるエミリアを無視し、長い青髪を揺らすアナスタシアはいまだ背筋を正したままの衛兵に指を向け、「ちょっと確認したいんやけど」と前置きして、

 

「その『模擬戦』やけど、持ちかけたんがどっちなんかわかるかな?」

 

「騎士ユリウスであると、聞いております。ナツキ・スバル殿がそれを受け入れた結果、練兵場での現在の状況が……」

 

「ああ、ええよええよ、言い訳せんでも。持ちかけたのがユリウスの方やって言うんなら、それで十分やから」

 

どう言い繕っても私闘――そう判断されかねない状況だ。衛兵は少しでもユリウスが不利にならないよう努めようとしたが、手振りでその努力を打ち捨てるアナスタシア。が、彼女は衛兵の意図したところを無視するわけではなく、

 

「――模擬戦がユリウスからの提案なら、ウチは止めるの反対やな」

 

と、アナスタシアは自身の従者の判断を肯定する構えを見せ、止めるために動こうとしているエミリアと真っ向から対峙したのだった。

息を呑むエミリアは、小さく肩をすくめるアナスタシアに「どうして」と声を紡ぎ、

 

「スバルとユリウスが……その、あなたの騎士と私の知人がぶつかってるのよ?心配にならないの?」

 

「心配?なんの?ユリウスがやりすぎて、そちらさんのとこの子の治療費を払わなならんこと?」

 

不思議そうに首を傾げるアナスタシアの答えに、エミリアは言葉を失う。

しかし、彼女のその驚愕を嘲笑うように、事実嘲笑を口元に浮かべるプリシラが、

 

「確かに。あれは妾の見たところ、引き際を弁えない類の面構えをしておる愚物じゃ。今頃はそれこそ意地を張りすぎて、ただでさえ見目の悪い顔つきが二目と見れんものになっておるやもしれんな」

 

「せやね。広間で口上切ったあの度胸は見上げたもんやけど、見上げたそのまま軽すぎて飛んでってしまいそうな子ぉやったから」

 

プリシラの皮肉にアナスタシアが追従し、二人して意地悪い笑みを交換する。

その二人の姿勢にエミリアは額に手を当て、紫紺の瞳に動揺をたたえながら、

 

「あ、あなたたちは……他に、もっと言うことがあるんじゃないの?」

 

「話し合うこと……あ、賭けでもしよか?あの、ナツキ・スバルくんやったっけ?あの子がユリウスとどれぐらい打ち合ってられるか、賭けよ」

 

「普通は勝ち負けで賭けるものじゃと思うが」

 

「それじゃ賭けにならんもん。胴元のウチの総取りでええならそれでもええよ」

 

アナスタシアが指で輪っかを作っていやらしい笑みを浮かべると、プリシラは「お話にならん」と退屈そうな顔で言い捨てて前言を切り捨てる。

その二人の一貫して『傍観』に徹する態度にエミリアは絶句。彼女の考え方からすれば、彼女らの思考は発想からして受け入れ難い。

だが、息を呑んで言葉を見失う彼女に対し、さらに畳みかけるように、

 

「模擬戦の是非を問うのであれば、私も途中で止めるのは感心しないな」

 

腕を組み、それまで静観していたクルシュまでもが仲裁に向かおうとするエミリアを相反する意見で引き止めた。

「どうして」と、これまでの二人に比べれば比較的常識に則った判断をしてくれそうだと思っていたクルシュがそう述べたことに、エミリアは瞳を曇らせる。その無言の問いかけにクルシュは瞑目し、

 

「これで決闘を申し入れたのがエミリア殿の従者であれば、エミリア殿が仲裁を申し出るのは正しいだろう。だが、申し入れたのが騎士ユリウスであり、受けたのが卿の従者であるのなら、卿が止めに入るのは筋違いだ」

 

「どうして?だって、スバルは私の……」

 

「それがわからないようなら、いくら説明したとてわかりはしない。――それに性急ではあるが、必要なことだ」

 

強い口調で言い切られ、エミリアはそれ以上の追及をクルシュに行えない。クルシュもまた、エミリアに語るべきことはないとばかりに唇を固く結んでしまった。

 

言い包められたわけではないが、自分を除く三者が『傍観』で意思を統一している現状、エミリアは彼女らの判断がどういう理由で行われたものなのかを考えざるを得ない。考えなしに口を開けば、それは彼女らに同じ舞台に立っていないと見切られることに他ならないのだから。

 

唇を震わせ、いくらか血の気の失せた顔色で思案に沈むエミリア。そんな彼女を含めた今のやり取りを傍目に見届け、フェルトは小声で隣に立つロム爺に、

 

「全然わかんねーんだけど、つまりロム爺はどういう意味かわかるか?」

 

「あの小僧が儂が広間にくる前になにをやらかしたのかわからん。だから儂も今のやり取りを聞いた限りでの想像しかできんわい」

 

「あの兄ちゃんがなにしたか……なにしたと思う?」

 

フェルトの問いかけにロム爺は顎に手を当て、「そうじゃの」としばし黙考し、

 

「向こう見ずに全員の前でおどけてはしゃいで啖呵を切って、売り言葉に買い言葉で方々に顰蹙を買い、しまいには言い返す言葉も出ずにとぼとぼ退室命令――と、そんな感じの雰囲気が感じ取れたが」

 

「すげーな、ロム爺。ひょっとして見てたんじゃねーの?」

 

ほぼ正解そのままのロム爺の想像をフェルトが賞賛。それを受けてロム爺は「最悪の予想のも少し悪い可能性を挙げたんじゃが……」と禿頭に触れながら眉根を寄せる。それから老人は合点がいったとばかりに頷き、

 

「儂の想像通りなら、なるほど……話に上がった騎士とやらは、よほど貴族主義に凝り固まった嫌味な人間か。あるいは……」

 

もう片方の可能性を提示しかけるロム爺。が、その言葉の先を心待ちにするフェルトの心を裏切り、場の空気を一新するような音を立てたものがいる。

 

固く、鋭い踏み込みの音が会議室の床に渇いた破裂音を立て、静謐さが立ち込めていた室内の人々の心に揺さぶりをかける。

驚き、あるいはかすかな不快感などの込められた視線、それらを浴びるのは音を立てた主犯の人物――向けられた視線に対して肩を揺らし、金属製の兜の縁を隻腕で弾いて鳴らすアルだ。

 

「悪い悪い。ほら、オレってば片腕ないもんだからよ、周りの注意引こうにも手拍子ができねぇ体質なんだわ。それで代わりに足拍子ってわけ」

 

メンゴメンゴ、と悪びれない態度でアルは手刀で謝意を表明し、それからその場でくるりとターンしながら前に進み、ビシッと正面を指差すと、

 

「ま、ま、ま、お話が中心からちょいちょいずれてんぜ、気付いてる?別に男が二人、気に食わない同士が揃えば殴り合いになることもあるだろうよ。立場やらなんやらややこしいけど、騎士だの自称騎士だの以前に男なんだから」

 

「そんな簡単な話じゃないと思うけど……」

 

「簡単な話を難しくしすぎなんだよ、嬢ちゃん。そんでもって問題なのは殴り合いやってることより、そんな秘密話をここに持ち込んだ理由の方だよ」

 

ちっちっちと指を振り、アルはエミリアに応じてから指差した相手――即ち、この場に報告を持ち込んだ若い衛兵を再度指名し、

 

「別にやり合ってるだけなら報告は事後報告でいいわな。なんでまた、団長呼びにくるぐらい焦りっぱな感じになってるわけよ?」

 

アルが差し出した疑問を受けて、傍目にもはっきりわかるほど衛兵の顔色が悪くなる。彼は問いにどう応じるべきか、戸惑うように視線をさまよわせ、アルの隣で嫣然と微笑んでいるプリシラと目が合ってしまった。

唇を横に裂き、愛らしい天使の笑顔に残虐性を入り混じらせる狂悦の表情。

 

衛兵は最後にマーコスに救いを求める目を向けたが、その救いに対するマーコスの答えは無慈悲な首振りだけであった。

 

「自分が団長をお呼びに上がったのはその……」

 

「はっきり、大きな声で、滑舌よく頼むぜ」

 

「騎士ユリウスとナツキ・スバル殿の模擬戦が……あまりに一方的過ぎるため、指示を仰ぎに参りました!」

 

アルの意地悪な要求に、衛兵は半ば自棄になったような声で背筋を正して言う。その内容を耳に入れて、珍しくマーコスは表情を怪訝そうなものに変え、

 

「……一方的、というのは?」

 

「騎士ユリウスも加減されているとは思うのですが、その……とても、見ていられなくなるほどで」

 

言いづらそうに衛兵はエミリアに視線を送り、自分が見てきたばかりの凄惨な現場の情景を、図らずもその場にいる全員に想起させる。

その態度の苦々しさに、エミリアは事態が自分の想像を越えて悪くなっているのだと遅まきに失して気付き、それまでの躊躇などの一切を放り捨てる。

 

「止めなきゃ……っ!」

 

焦燥感に彩られた呟きを漏らし、エミリアは扉の脇に立つ衛兵の横に飛びつくと、そのまま部屋を出て騎士団詰所――件の練兵場へ続く通路へと駆け出していく。

 

「お待ちください、エミリア様!おい、エミリア様を追え!」

 

「――は、はい!」

 

飛び出してしまったエミリアを部下に追わせ、衛兵が通路を駆け抜けるエミリアを追って同じように外へ。

結果、取り残された形になった室内の人々にマーコスは振り返り、

 

「お騒がせして申し訳ありません。ただいま、事態の収拾に努めます故……」

 

「いや、いいよ。それよか、嬢ちゃん追っかけてオレらも模擬戦見にいこうぜ?」

 

頭を下げようとするマーコスを制止し、アルはあっけらかんとそう言い放つと、すぐ傍らのプリシラに同意を求めるように「なあ」と肩をすくめた。

 

「姫さんも好きだろ?弱い生き物が猛獣にいたぶられてるショーとか見るの」

 

「勝手な想像で妾を見誤るでないぞ、アル。……まあ、大好きじゃが」

 

従者の言葉を条件付きで肯定し、プリシラはそれまで体重を預けていた椅子から立ち上がると、軽く背をそらして豊かな胸を揺らし、

 

「いいじゃろう。少しばかり、退屈な話が長引いて窮屈しておったところじゃ。雑多な愚物の無様でも見下して、嘲笑するのも悪くはない」

 

音を立てて扇子を閉じ、プリシラは扉の側に立つマーコスへ先端を向ける。

そして、変わらない傲岸不遜さを保ったままで、

 

「その練兵場とやらへ案内するがいい。――妾の命である」

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

浅く裂けた額から滴る血が無事な方の目にかかり、視界が赤く染まるのをスバルは乱暴に拭って苛立ちを吐き捨てた。

 

もうすでに、何度地面に打ち倒されて転がったのか数えていない。

腫れ上がった左の目は完全に塞がり、唇が切れたのか口の中が切れているのか、血の味が濃すぎてもうその判断もつかなかった。

 

痛みは、強くは感じない。

ケガの度合いにもよるが、あまりに負傷が重すぎる場合、脳がそれを受け入れることを拒否して、体に痛みが伝わらないという現象が人間にはままある。

事実、スバルもこの世界に召喚されて以来、命に関わるような負傷には縁が深い。実際に命を落とすような負傷も幾度も経験した身として言わせてもらうなら、痛みを感じないほどの痛みというのは本当にあるものだ。

 

脳内分泌されるアドレナリンの過剰な働きが原因であるとか、そういった現代知識を披露して語り尽くしてもかまわない現象であるが、もっと原始的な言葉で今の状況を表すのであれば――スバルに痛みを忘れさせていたのは、純粋なまでの『怒り』の感情であった。

 

「――――クソのクソ濡れのクソ溜まりのクソが」

 

口汚い言葉を吐き捨てて、スバルは胸中に蔓延る鬱屈とした感情を持て余す。

それは眼前で涼しげな顔つきのまま構えるユリウスへの怒りであり、そんな相手に対して一矢報いることすら叶わない自分の不甲斐なさへの怒りであり、ままならない状況に子どものような癇癪を抱いているが故の怒りであった。

 

怒りである。怒りしかない。怒りだけが、今のスバルの全てだった。

 

今もまた思い切り腹部に木剣を打ち込まれ、吐瀉物をまき散らしていたスバルは座り込んでいた地面から億劫そうに立ち上がる。

膝が震え、息は荒く、拭い切れなかった血糊で視界は赤く霞みがかっていた。

だが、それでもなお、尽きることのない怒りに動かされて、スバルは勝ち目のない相手へ向き合うことをやめようとしない。

 

「もうそろそろ、自身の限界を認めてはどうだろう」

 

そんなスバルの常軌を逸した気概に、ユリウスは賞賛でなく呆れでもって応じる。

彼は依然として砂埃もつかず、汗ひとつ掻かない精悍な面のままで、ただただスバルを打ち続けた名残の強い木剣の先端を揺らし、

 

「埋めることのできない私と君の差が、その身でもって痛感できたはずだ。君が侮辱した『騎士』というものがどういうものか、その差もわかったことだろう」

 

呼びかけはスバルの心に訴えかけるものではなく、心をへし折りにかかっていた。

それも当然だ。決闘の果てに互いを認め合うなどという展開は、両者の間で少なからず感じ入るものが発生しなければ起こりようがない。

 

ユリウスはただ騎士の在り様を示すためにスバルを打ち続け、そしてスバルも彼の突きつける現実に無力な抵抗を立ち上がり続けることで示しているだけ。

そこになにかが生まれる余地はない。二人の間にはこれほど長い間打ち合い続けても、なにも生まれようとはしていなかった。

 

「これ以上は、命に関わると思うが?」

 

「ああ?」

 

心の折り方に変化を付けようとしたのか、ユリウスの挑発の方向性が変わる。が、それに対してスバルは明確に怒りを舌に乗せて応じ、

 

「このぐれぇで死ぬわけねぇだろうが。知ったかぶりしてんじゃねぇよ」

 

「まるで経験者のように語るものだね」

 

「この世界で誰よりも、俺はそれを知ってる男だよ」

 

ハッタリでも冗談でもなく、スバルはそれを口にする。

通算七回――スバルがこの世界にきて以来、命を踏みにじられた回数だ。

前の世界とこちらの世界、否、三千世界のいずこを見渡したとしても、今のスバルほど自分の死と向き合った存在はいない。

 

その感覚が言っている。

 

死ぬほど痛いし、死ぬほど苦しいし、死ぬほど悔しいし、死ぬほど死ぬほどだが、こんなことで人間は死んだりしない。

 

「わからないな」

 

血を吐くように啖呵を切るスバルに、ユリウスは首を振って吐息を漏らす。

彼はふらつくスバルを流し目で見ると、

 

「なぜそうまで意地を張る?すでに君では私に敵わないことはよくわかっているはずだろう。いや、君がすでに私に勝てないことを自覚しているのはわかっている」

 

「……なにを」

 

「無為なやり取りはいらない。君の狙いはすでに勝利ではない。違うな。君と私では見ている勝利条件が違う、というべきか」

 

押し黙るスバルを視界に入れたまま、ユリウスは演説するように腕を振る。

わずかに顎を持ち上げ、心持ちこちらだけでなく周りにも声を聞かせるように、

 

「君にとっての勝利条件は私を打ち倒すことではなく、『私に一矢報いること』だろう?それが一度でも木剣を届かせることか、あるいは私に土を付けることなのかまでは私にはわからないが」

 

「――――ッ!」

 

唇を噛みしめ、スバルは喉の奥で叫び出しそうな絶叫を必死で押し殺した。

 

図星だった。

真実、痛いところを突かれた罰の悪さだけがあった。

 

屈辱が、恥辱が、スバルの胸中を染め上げていき、震える唇が言い訳を紡ごうとするのを、なんとか決死のプライドでそこだけは堪えた。

 

「ふむ、聞くに堪えない言い繕いが出るかもしれないと思ったが……それを弁えるぐらいの分別はあったようだ。もっとも」

 

そうして、なけなしの矜持を搾り尽くすスバルを見ながら、

 

「相手の技量を見誤った挙句、打ち立てた指針すら戦いの最中に条件を引き下げ、そうまでして己の価値を貶める君には過ぎたプライドであるとしかいえないが」

 

「――てめぇ!!」

 

すでにここまでの試合の中で見慣れるほど繰り返されたユリウスの呆れの仕草。

それを目にしたスバルの思考が怒り一色に染まり、内心を言い当てられた悔しさも相まってスバルを爆発させる。

 

全身に浴びせられた打撃の痛みも、霞みがかった赤い視界も、その全てを無視して渾身の力で飛びかかり、振り上げた木剣をその澄まし顔目掛けて――、

 

「美しくないな」

 

振り下ろす直前に突きが放たれ、剣を握るスバルの右手の手首が穿たれる。

その鋭さに握りしめていた手の中の木剣が吹き飛び、それを思わず目で追った直後――二度目の打突が鳩尾にめり込み、スバルの体が軽々と打ち倒された。

 

息が詰まり、受け身も取れないまま土の上を転がり、五度ほども天地の逆転を味わったあとで仰向けに地面で大の字だ。

文字通りの血反吐を吐くスバル、その顔の真横に、吹き飛ばされた木剣が回転しながら落下、地面に突き立って持ち主の無様な特攻を嘲笑っていた。

 

「もう認めたまえよ」

 

苦しげに咳き込み、血と砂利を吐き出そうともがくスバル。そんな彼を見下ろしながら、ユリウスはもう幾度も繰り返した降伏勧告を再び行う。

 

「君では私に届かない。どれほど君が自分の内に、私に対する勝利の条件を改めて挑んだとしても同じことだ。――私は決して、君にそれを達しさせない」

 

「――――」

 

「完膚なきまでに君の心を砕き、へし折り、自身の行いを悔いさせよう。身の程を弁えない自身の言動を省みさせよう。その上で、君に決断させよう」

 

「――――」

 

「エミリア様の側から、自ら身を引くことを――!」

 

「――――ッ!?」

 

喘ぎ、か細い呼吸を繰り返していたスバルは、そのユリウスの一言に猛然とした勢いで上体を持ち上げる。

痛みに打たれた胸部が痛み、苦しみが全身に悲鳴を上げさせていたが、そんなことにはかまっていられない。身をよじり、歯をむき出して、

 

「ふざ、けんな……てめぇに、なんの権利があってそんな……ッ」

 

「無論、私に君の処遇をどうするかの人事権などない。故に私が君の進退に対して口出しすることはできない。だから私がこう言うだけだ」

 

真っ直ぐにスバルを見つめ、ユリウスは一呼吸の間を空けて、

 

「――君は自ら、エミリア様の側を離れるべきであると」

 

絶句するスバルに、ユリウスは言い聞かせるように「いいかい」と前置きし、

 

「君の行いは、言動は、みすみすエミリア様を苦境に導くだけに他ならない。先の広場でのやり取りと、そしてこの場での君の立ち振舞いを見て私は確信した」

 

「いったい、なにを……」

 

「君は利己的で自分本位で、なによりあらゆる考えが浅く、青く、甘すぎる」

 

指折り、ユリウスはスバルの軽はずみな思考の数々を打ち砕いていく。

 

「君はエミリア様にとって、ただ負担を強いるだけの厄介者だ。なにひとつあの方のためにできないし、できることもない。これまではエミリア様のその優しさに縋り、側にあることを許されたかもしれない」

 

無力感を、スバルは幾度も味わってきた。

この世界にきて以来、スバルは自身の力が足りないことで、何度も何度も覆し難い現実への悔しさを噛み殺して足掻いてきた。

 

「しかし、これからの彼女には甘えてくるだけの存在など側にあることは許されない。これよりあの方が歩むのは王位への道だ。道筋に立ちはだかる障害は高く多く、あらゆる苦難がその身に降りかかることは容易に想像できる」

 

それでもこれまで、振りかかる災難の数々をスバルは乗り越えてきた。

己の力が足りない場面では、側にいる人々の力を借りて、あるいはゆいいつ自分の持ち得るアドバンテージである未来の情報、それを活かして状況を組み替えて。

 

「その道行きを共にするものは、その苦難を共に乗り越える覚悟と力を持つものであるべきだ。遥かなる高みを目指すその背を、力強く押すことのできるものであるべきだ」

 

それも全ては、たったひとりの少女への想いから始まったのだ。

どんなに苦しくて、どんなに辛くて、どんなに悲しくて、どんなに悔しくて、どんなに足りなくて、どんなに届かなくて、どんなに痛かったとしても、スバルが折れずにここまでやってこれたのは、たったひとりの少女への想いがあったからだ。

それを――、

 

「断じて、優しさに甘えて縋りつき、足を引くものであってはならない」

 

それをこの男は。

 

「君は彼女の――エミリア様の側に、いるべきではない」

 

この男は、自分から生きる意味すら奪おうとでもいうのか。

 

「るるるるるるるぁぁぁぁぁ――ッ!!」

 

感情が爆発し、飛び上がるように立ち上がり、突き立っていた木剣を引き抜き、身を回す勢いを乗せてユリウスの上体を木剣で狙う。

 

先端は風を薙ぎ、遠心力のこもる一撃は当たれば容易く骨を砕く。

これまでの打ち合いの中、溜めこまれてきた鬱屈というなの激情が込められた、文字通りの乾坤一擲の一撃――それがユリウスの鼻面を叩き潰す、

 

――打たれた手首の骨が砕け散る音が、スバルにはまるで無音の世界で行われたかのように高く高く響いて聞こえた。

 

旋回する木剣を握る右腕、その先端が待ち構えていた木剣の剣先に迎撃され、ぐしゃぐしゃに砕け折れているのが視界の端に見えた。

手首は完全に反対側を向き、突き出した骨が手首の肉を突き破って白い先端を覗かせており、数秒後には激痛を伴う出血が始まることだろう。

 

冷静にそれを確認し、スバルの意識はゆるやかに動くユリウスを追う。

 

ゆっくりと、音のない世界をユリウスだけが動けている不思議。

死にかけるほどの絶望的な状況下で世界が緩慢になる感覚に囚われ、スバルは場違いな思考に結びついた自分の馬鹿さ加減に心底呆れる。

 

目の前で、無様をさらすスバルに追撃を放とうとするユリウスの動き――その流麗な動きの全てが、あまりに鮮やかな感傷をスバルにもたらしていた。

 

「――ただ君を哀れもう」

 

放たれた木剣の打突は、刹那の間にスバルの全身に無数の衝撃を打ち込んでいた。

 

腕が折られた。肋骨も何本かへし折られ、ヒビの入っていない部分があるかどうか。裂けただけで済んでいた額が完全にかち割れ、木剣の先端は一度口内を蹂躙して永久歯を何本かこそぎ落としていった。喉笛への一発も言及せずにいられない爪痕をスバルに刻み、極めつけの一発に突きではないスウィングが腹へ直撃、鈍く水っぽい音を立てて内臓が破けたような感覚があった。

 

上下もわからないほど錐揉み吹っ飛び、おびただしい量の血を盛大に吐き出し、練兵場の赤茶けた土がスバルの出血によって朱の色を濃くしていく。

 

あまりに暴虐的な結果に、ユリウスはもちろん、誰ひとり声を上げられない。

練兵場には変わらず、ユリウスによるスバルの公開リンチを目にしようと集まってきた騎士や衛兵たちでごった返している。にも関わらず、その観衆の誰もが口を閉ざし、ボロ雑巾のように転がるスバルを見て無言を貫いていた。

 

熱狂が、彼らの身を支配していたのも、最初の数回の打ち合いまでの話だ。

騎士たる身份を小馬鹿にし、王国の未来を定める王選そのものを侮辱した無礼者。それが近衛騎士の筆頭であるユリウスに痛めつけられ、自身の行いを痛みの中で味わって謝罪する――それが、この場に集まった彼らの期待した光景だ。

 

事実、始まってからの十分ほどは彼らも歓声を上げ、あるいは嘲笑を浮かべてスバルの無様を見下し、同輩であるユリウスに惜しみない賛辞を贈ったものだ。

だが、その様相が一変し始めたのはその公開リンチが、文字通りの意味で本当の公開リンチでしかあり得ないと全員が察したときだったのだろう。

 

隔絶した実力差が、スバルとユリウスの二人の間には横たわっていた。

剣の技量でも騎士団の上位に位置するユリウスと比べ、スバルの剣の腕前はお世辞にも素人の域を脱していない。かといって特別な能力を持つわけでもないスバルの戦い方は、長物に多少慣れ親しんだだけの児戯に等しい脅威でしかなかった。

 

攻撃をさばかれ、逆に稚拙な防御の隙を穿たれ、幾度も地面に倒されるスバル。

最初の数回は嘲笑が支配していた。十回を超えると、呆れの吐息が重なり始める。そして数えるのも嫌になり始めた頃には、

 

「やりすぎだろう」

「どうしてあいつはとっとと諦めちまわない」

「くだらない上につまらない意地だ。クソ、嫌なものを見せやがって」

 

口汚く罵り、それでも立ち上がるスバルに彼らは顔を掌で覆う。

見ていられないとはこのことだ。あまりに弱く、あまりに無様で、その醜態は見ている彼らの『恥』の感情をいたく刺激する。

やめてしまえばいい。勝敗などすでに誰の目にも明らかであり、『騎士』という存在の優位性を誰しもが再確認することができた。これ以上は無意味な争いだ。

 

しかし、ユリウスはスバルを打ち続ける木剣に容赦を決して加えない。

立会人としてその戦いを止める権利を持つフェリスは、スバルがどれだけ傷付いたとしても止める素振りすら見せない。

そしてスバル自身も、騎士たちの懇願を振り切って、なおも立ち上がる。

 

こんな戦いに、争いに、なんの意味があるというのか。

言葉もなく、ただただ無様にスバルが打ち据えられるのを見下ろしながら、観衆は誰もが眼下の光景の意味を探し求める。

 

誰もがわかっていた。この争いに意味など、意義などない。

あるのはただひたすらに、無様でみっともなく、無価値な意地があるだけだ。

 

ならばせめて、その意地がどうなるのか決着を見届けなくてはならない。

その場に集まった騎士たちが、衛兵が、目も背けたくなるような情景を前に、それでもその場を立ち去ろうとしないのは、目の前で起きたこの事態に観衆という形であったとしても関わったものとしての、責任あってのことだった。

 

砕かれた手首からの出血が、おびただしい量の吐血が練兵場の大地を赤く染める。

小さく震えるスバルの体はうつ伏せになったまま、それまでの狂気的なまでの戦意を萎ませて、完全に戦える状態というものから逸脱してしまっていた。

 

今度こそ終わりだと、誰もがそう思った。

完膚無きまでに打ち倒されたスバルの姿に、誰もがこの一方的な暴虐の終焉を感じ取った。しかし、血に濡れた木剣を構えるユリウスの姿勢はほどかれない。

彼は意識も定かではないだろうスバルを見やりながら、その戦意に一片の揺らぎもないままに戦闘態勢を維持し続ける。

 

その確固たる姿勢に、二人を囲む観衆も彼の騎士の意思を読み取り、息を呑む。

まだ、終わっていないのだ。この戦いが終わるには、ただ一方が打ち倒されるだけでは終わったとしてはならない理由があった。それは――、

 

「――そこまでだ」

 

それは、これまでの練兵場の惨劇の中で一度たりとも発されなかった声だった。

観衆が喝采を、そして次第にため息を増やす中。あるいはユリウスが淡々と、あるいは冷静な情熱を込めて騎士たる在り様を示した中。あるいは立会人としてこの場を取り仕切るフェリスが時折、感嘆とも暗澹ともつかない吐息を漏らす中。

 

たったひとり、沈黙を守り続けた青年が練兵場の中央――即ち、倒れるスバルと構えるユリウスの間に割って立っている。

 

赤毛の青年はその端正な顔立ちの中から表情を消し、ひたすらに義憤に駆られるままの青い瞳でユリウスを射抜く。

 

「これ以上続けるつもりだというのなら、君の相手は僕がしよう」

 

ただ一言を呟いただけで、特別なことをしたわけではない。

しかし、その一言を聞いただけで、当事者ですらないはずの騎士たちの全身を悪寒が走った。怖気立つ自分の肉体の反応に彼らは驚き、体に遅れて心がその余波を受けて凍りついたように痛み始める。

 

『剣聖』ラインハルト――親竜王国ルグニカで最強の、否、大陸全土を見渡しても比類ない力を持った存在の威圧感、それが練兵場全体を包み込んで離さない。

 

ただの余波ですらこの有様だ。いざ、この威圧感を直接浴びせられる側に立つことを思えば、彼の青の視線を真っ向から浴びるユリウスの心情が危ぶまれる。

が、観衆たちのラインハルトへの評価が過小であったのと同じように、彼らのユリウスへの評価もまたあまりに過小であった。

 

戦いにおいて、命をなげうつ覚悟すら固めた騎士たちすら震え上がらせるラインハルトの戦意――それを浴び、しかしユリウスはあくまで泰然とした姿勢を崩さない。側に立つフェリスもまた同様であり、彼らもまた別格であることを如実にこの場で証明されていた。

 

そんな観衆の思惑を無視して、ただ視線を向けただけのラインハルトは動かないユリウスにかすかに目を細めて、

 

「繰り返すよ、ユリウス。これ以上の行いは単なる暴力行為に他ならない。近衛騎士として……いや、それ以前にひとりの人間として見過ごすわけにはいかない」

 

「――――」

 

ぴくり、とそれまで表情を動かさなかったユリウスの眉がその言葉に反応する。

ラインハルトはそのユリウスの反応に訝しげに眉を寄せたが、そのラインハルトに対してユリウスは構えそのままに空いた方の手を軽く振り、

 

「ラインハルト、私は君のことをとても良い友人だと思っている」

 

と、さらにラインハルトを困惑させる言葉を放ったのだった。

怪訝さに眉間の皺を深めるラインハルトに、ユリウスは首を小さく振って続ける。

 

「君の騎士としての高潔さは近衛騎士の中でも抜きん出たものだ。王国を思うその忠義に疑いはなく、またそれを果たすための技量も、努力も申し分がない。英雄という存在がどんなものであるのかと問われれば、私は迷わずそれは我が友ラインハルト・ヴァン・アストレアのことである、と答えるだろう」

 

「……過分な評価だ」

 

ユリウスがなにを言いたいのかわからないまでも、ラインハルトは謙遜というより本心の色が強い顔つきでその評価を辞し、

 

「僕も、君のことは同僚である前に良い友人だと思っている。だからこそ、これ以上、君という人物が自身の行いで自らを貶めることを……」

 

「誰が否定しようとも、己でそう思えなくとも、君は英雄だよ、ラインハルト」

 

説得の言葉を続けようとするラインハルトを、ユリウスはさらに遮った。

ただ、それは内容こそ賞賛を送るものであったが、その口ぶりには決して快い感情が込められたものではなかった。

 

「英雄すぎるほどに君は英雄だ。生まれながらに与えられた加護、君の在り様をもっとも相応しい形で示したアストレア家。そしてそれを疑うことも、その理由すらもないほどに高潔で純粋な魂――だからこそ、君は英雄だ」

 

「なにを、言いたいんだ、ユリウス」

 

「君は英雄だ。――英雄にしか、なり得ない」

 

力なく首を振り、ユリウスは戸惑うラインハルトにそう告げる。

それから彼は揺らめく木剣の先端を持ち上げ、仕草でラインハルトの背後を示し、

 

「英雄としてしか生きられない君には、この場の戦いの意味はきっと見えないだろう。私が剣を引かない理由も、そして……」

 

うごめく気配を背後で感じ、ラインハルトはわずかに驚きを瞳に宿して振り返る。

そこに、

 

「どうしてまだ、彼が立ち続けるのかも」

 

幽鬼めいた動作で緩慢に、それでも満身創痍の肉体を引きずって、立ち上がるスバルの姿がそこにあった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

目の前で、ユリウスとラインハルトがなにか言葉を交わしているのが見えた。

 

盛大に体内の不純物を吐き出したおかげで、いっそ体は楽になった。

痛みは断続的に続いているし、手足は相変わらず鉛を詰めたように重たいし、なにより地面につこうとした右手は見るも無残なほど破壊されている。

それでも、立ち上がる気力を奪いそうな倦怠感は消え去り、肉体が緩慢ながらも自分の意思に従って動き始めてくれていた。

 

右手が使えないから肘から肩までを地に擦りつけ、無事とはいえないまでも使い物にはなる左腕を駆使して体を持ち上げる。震える下半身に反骨心を注いで活力とし、たっぷり時間をかけてどうにかこうにか立ち上がった。

そして、最後に地面を離れる途中で、左手が身近に落ちていた木剣に当たる。それを拾い上げ、杖のようにして上体を起こし、かろうじて立つ。立った。

 

「――スバル」

 

見れば息が届きそうなほどの至近距離で、赤毛の精悍な顔が自分を見ていた。

その瞳には明確な憂慮の感情が浮かび、同時に義憤を交えた灯火がそこに燻っているのもわかった。

 

ラインハルトがスバルを案じてその前に立ち、ユリウスと対峙している。

 

回転が鈍かったはずの頭がすんなりとその答えを導き出した。その結論に至った途端、スバルの口元にゆっくりと半月の笑みが広がる。

口の中は盛大に切れ、歯も何本も足りない有様で、笑いには痛みが伴った。が、これが笑わずにいられようか。

 

「無理をすることはない。君の仇は僕が討とう。これはあまりにも、不当すぎる扱いだ。断じて、許されることじゃない」

 

こちらを意識しながらも、ラインハルトの視線は相対するユリウスへ向かう。

ユリウスはそんなラインハルトを悲しげに、静かな瞳で見ているだけだ。

いったい、二人の間にどんなやり取りが交わされていたのかはわからない。わからないのだが、これだけはわかることがあった。

 

「スバル、とにかくこの場は僕に任せて……」

 

「ラインハルト」

 

正面に立つ青年の名を呼び、スバルはその蒼穹を映した瞳を片目だけの視界ではっきりと見据える。

こうして彼に庇われ、前に立たれる経験はこれで三度目だ。

 

無様に助けを求めた一度目と、危うく命を救われた二度目、そして今回。

三度目ともなると、彼に任せてしまえばどうにかなるものという楽観も芽生える。繰り返されてきた庇護するものとされるものの信頼関係――スバルの内に確かにあるそれは、この場をもっとも良い形で切り抜ける方法をまたしても提示してくれた。

差し伸べられるその手をとり、全てを力強い背中に預けてしまえばいい。

そうすれば、スバルが味わった痛みも、精神的な苦しみも、その全てが目の前の青年によってもっとも良い形で昇華されることだろう。

万々歳だ。大団円だ。誰もが幸せで、マンモスハッピーな展開が見えた。

だから、

 

「――そこ、どけ」

 

「……え?」

 

「……お前が、超絶いい奴で、この行動になんの悪意も……悪気もなくて、全部全てなにもかも純粋培養雑じりっ気なしの善意から飛び出たアクションだってのはわかってる。……それは、わかってる」

 

だけど、

 

「……それだけは、ダメだ。この場だけは、譲れ……ねぇ」

 

スバルが始めたことだ。スバルが受けて立った戦いだ。

スバルにしか通せない意地があり、スバルでしか届いてはいけない結末がある。

この終わりを見届けるのは、スバルである義務があるのだ。

その義務を放棄して他人に下駄を預けて、終わりに沈むなどあってはならない。

 

もっと単純に、シンプルに、たった一言で告げるのなら、

 

「意地があんだよ、男の子には――」

 

血走る瞳で、血の滴る唇で、流血に赤く染まる顔のまま、血を吐く思いでスバルはただひたすらに救いようがないだけの意地を張った。

その予想だにしなかった答えにラインハルトは絶句し、心中の衝撃を隠し切れないまま何度も瞬きして、

 

「意地、だって?そんな、そんなもののために……」

 

「――エルドーナ」

 

震える全否定は紡がれるよりも、大気中のマナが詠唱に反応する方が速かった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

大気に満ちるマナが自身を変質させる詠唱に反応し、術者の意思に従ってその効果が発動する。

 

「――――!」

 

突如、ラインハルトの足下の地面が爆ぜ、割れ目から鋭い先端を覗かせる土塊が隆起する。それは足先からラインハルトの胴体を狙って突き上がり、その身を強烈に打撃しようと迫り――、

 

「――はっ!」

 

巨獣の突撃に匹敵する大地の隆起現象に対し、ラインハルトの踏み込みが炸裂――衝撃が波紋となって大気を震わせ、近くに立っていたスバルの全身にも突風を浴びたような錯覚をもたらす。

驚愕に目を見開くスバルの眼前で、大地は完全な隆起を達する前に足裏に叩き潰され、その目的をついぞ果たすこと叶わず平時の状態へ戻される。

 

そうして力技で魔法という技術に対抗したラインハルトは、激突の衝撃を和らげるために軽やかに後ろへと飛んでおり、着地と同時に裾を払うと、今の出来事がなにもなかったかのように平素の状態へ立ち帰る。

と、それから彼は真剣味を増した視線を斜め上――そこから跳躍して飛来する存在に向け、険しい表情を作った。

 

「なんのつもりだ」

 

「なんのつもり、ね」

 

言いながら、砂埃を上げて着地したのは漆黒の兜の男――アルであった。

彼は腰に備えつけた大剣の柄に隻腕を当てながら、首の骨を盛大に鳴らして「うあー」と気だるい呻きを漏らし、

 

「てめぇとおんなじ横槍だよ、色男」

 

音を立ててその大剣を引き抜き、鈍い輝きを放つ先端をラインハルトへ向ける。

使い込まれた気配の強い青竜刀は、隻腕ながらも筋肉質の太い腕を持つアルには絶好の獲物なのだろう。だとしても、ラインハルトの脅威になるとは思えない。

事実、アル自身もそれを自覚していたはずだ。

 

「君じゃ僕には勝てない。彼我の実力差が見ないほど、未熟だとは思えないが」

 

「オレだって普段なら勝てねぇ相手になんぞ挑まねぇよ。やるかやらないか、迷ったらやらないってのがオレの座右の銘なんだからな。……だが、今の場面を見ちまったらそうもいかねぇ」

 

アルはぶらぶらと青竜刀の先端を揺らし、その場にいる当事者たちをそれぞれ示しながら、

 

「空気読めよ、色男。てめぇにゃこの白けた空気ってやつが見えねぇのか?」

 

「白けた……?」

 

言われ、ラインハルトは訝しむ顔つきのまま周囲を見回す。そして、遅まきに失してようやく気付く。

こちらを見ている騎士や衛兵――数十名からなる観衆のその瞳に、熱狂とそれが覚めた故の理性的な感情、それとは別に浮かぶ掠れた感情の波が浮かぶのを。

 

「どうも本当にわからねぇらしいな。なるほど、騎士ってのはタチが……」

 

言いかけ、アルはそこで一度言葉を切る。

彼は周囲を見回し、ユリウスやフェリス、その他の状況を見守る騎士たちの姿を目に入れてから首を振り、

 

「いや、騎士ってくくりは違ぇな。ああ、英雄ってのはタチが悪ぃ」

 

「なにが言いたいんだ」

 

「言いたいことなんぞなにもねぇよ。オレとお前の間に、交わして有意義なものが生まれる話題なんてねぇんじゃねぇの?なにせ、価値観が違う」

 

肩をすくめ、アルはラインハルトの問いかけに一方的な断絶を告げる。あくまで戦闘態勢を崩さないまま戦意を収めるという、矛盾に満ちた態度に出るアル。

彼は訝しむラインハルトに取り合わず、青年が移動したことで再び対峙する形になったユリウスとスバルの方を見ると、

 

「さ、続けろよ。そこの空気読めない超人はオレが押さえといてやっから」

 

「君と彼は既知だったと思ったが?」

 

出方の見えないアルに対し、ユリウスはかすかに眉を上げると首の動きでスバルを示す。満身創痍でアルの登場の時点から碌なリアクションを起こせていない彼を見て、アルは青竜刀の先端で器用に自身の首裏を掻き、

 

「ある意味友達以上で永遠に恋人未満ってとこだな」

 

「ならば友誼にかけてこの場をどうにかするという選択肢もあるのでは?」

 

「今のオレの行いほど友誼に長けた判断もそうねぇと思うけどね。なにせ、心と体はどんだけ痛めつけられてもその内に治るけど、治りようのないもんが傷付くのだけは助けてやってんだから」

 

「なるほど」

 

こもったアルの応答に、ユリウスは納得とばかりに顎を引き、

 

「感謝する」

 

「いらねぇ。感謝の気持ちは金に代えてくれ」

 

ラインハルトを牽制しつつ、アルはユリウスにそっけなく答える。

それを受け、すでにユリウスの意識は当事者外である彼らにはなく、

 

「待たせたね」

 

「今の、油断の間に……ホントなら、十回殺せたぜ……」

 

短い謝意に、減らず口で傷だらけのスバルが応じる。

改めて木剣を構え直すユリウスに、スバルは折れ砕けた右手を放棄して左手一本に木剣を持ち替えると、その柄をしっかりと絞るように握り直した。

 

それを見て、ユリウスは静かに確信する。

――次の交錯が、この無益な争いの最後の打ち合いとなるだろうと。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――次の一撃が最後だろうな、とスバルは内心で結論付けていた。

 

肉体の限界を感じている。もとより、立っているのが不思議な重傷状態。小汚い根性だけを支えに膝を屈さずにいるが、それもいつまでもつものか。

 

打たれれば、根性だけが支えの堤防はあっけなく崩壊して意識も矜持もなにもかもを押し流すだろう。

逆に打ち込めたとしても、そこからの先に繋げるだけのものが内側になにも残っていない。やはり苦痛と疲労の濁流がスバルを沈没させることは違いがない。

 

ならば、どうして挑むのか。

進んだ先に待ち構える結果が同じなのなら、どうしてなおも挑むのか。

 

答えは見えない。今もなお、スバルを突き動かすのは八つ当たりにも似た怒りの感情それだけだった。

目の前で、澄まし面のままこちらを見ている男が気に入らない。その鼻っ柱をへし折ってやろうと幾度も挑んだが、結果はこっちの鼻っ柱以外の色んな部分がへし折られて砕かれる有様だ。

 

だから決めた。今、決めた。

どうして挑むのかは、あの鼻っ柱をへし折ってやりたいからだ。

一発ブチ込む、一発必ずブチ込んでやる。それさえ叶うのならば、なにをしてやろうと構いはしない。

 

息を吸うだけで肺が痛む。息を吐くときに口の中が盛大に痛む。

痛みで意識を晴らしながら、スバルは全身に残された力をかき集めて機を待つ。

ユリウスの意識がそれる瞬間を、彼の鼻っ柱をへし折る、そんな天機の訪れる刹那の可能性を、そのひと欠片の瞬間を逃さないために。

 

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い死ね。

 

ユリウスの視線が一瞬、泳いだ。

それを見た瞬間、スバルの体が前に飛び出していた。

 

音は聞こえない。なにもかも置き去りだ。

雄叫びを上げる余裕すらなく、スバルは握りしめた木剣を振り上げてユリウスへ迫る。わずかにスバルから視線を外した騎士は、まだこちらに反応していない。

 

なにがその気を引いたのか、それを考える脳細胞すらこの一撃に込めた。

 

「――――!!」

 

声が聞こえた気がする。

音も聞こえない世界で、景色もなにもかも置き去りにしたはずの世界で、自分と殴るべき相手以外、なにも存在しないはずの世界で。

 

声が聞こえた。

誰かの声が聞こえた。スバルの耳を、誰かの声が聞こえた。

 

「――――ル!」

 

音になった。確かな音になった。

意識が引きずられそうになる。なにもかも、赫怒で塗り潰して忘れさせてくれ。

今は一点、目の前の存在へと向かうことだけがスバルの存在意義なのだ。

 

「――――バル!」

 

鮮明になり始める。意味を持ち始める。

それがはっきりと聞こえてしまったら、もはや取り返しがつかない。

だからスバルは全てを振り切るように、すぐ側にまで迫ってきている圧倒的な恐怖から逃れるために、全身全霊を振り絞り――叫ぶ。

 

「――――スバル!!」

「――シャマク!!」

 

はっきりと、聞こえた銀鈴の声を裏切って、声高にそれを詠唱した。

黒雲が、赤茶けた練兵場の大地を塗り潰す――。

 

無理解の世界が展開された。その中を駆け抜け、スバルは理解の及ばない世界の中でただひたすらに脳が命じるままの行動を行う。

 

視界は確保されていない。

目的はもはや脳が認識してない。

心はすでになにも見えていない。

 

――ただ左手を、振り上げた左腕を、目の前に向かって振り下ろす。

 

理解の及ばない行為だったが、左腕は黒雲に呑まれる前にその挙動に入っていた。故に、意識のあるなしに関わらずその行動は果たされる。

 

全てを見失ったスバルの判断が、行動が、どんな結果に結びつくのか、もはや自ら世界を閉ざしたスバルにはわからない。わからないはずだった。

だが、

 

「これが、君の切り札というわけか――」

 

聞こえないはずの世界で、はっきりとその声が鼓膜を震わせて、

 

次の瞬間、晴れた黒雲の向こうから迫る刃をその身に受けて、スバルの体は激しく容赦なく、大地の上に叩き落とされていた。

 

痛みではなく驚きがあった。

膨大な量が噴出した黒雲が完全に霧散し、空に広がるのは先ほどからなにひとつ変わらない憎たらしいほどの晴天の空。

仰向けに大の字になっているのだと、スバルはそれでようやく気付く。

 

「『陰』の系統魔法を使うというのは予想外だった。意表を突かれたのは認めよう」

 

声が上から投げかけられる。

いまだ、視界を空に占有されるスバルはそれを呆然と聞きながら、流れ落ちてくる現実を受け止めるのに手いっぱいになっている。

 

「だが、錬度が低すぎる。なにより、低級の『陰』魔法など自分より格下の相手か、あるいは知能のない獣でもない限りは通用しない。私にはもちろん、近衛騎士の誰ひとりにすら、この策は通じなかったことだろう」

 

否定の言葉が降り注ぐ。

動けない。動かない。

意識ははっきりとしているのに、体がもう言うことを聞かない。

 

「切り札を切ってすら、これだ。もうわかっただろう」

 

憐れむような声が投げられている。

全てを諦めろと、スバルの心を殴りつける声が降り注いでいる。

 

状況を変えられると思った。

縋れるものに縋り、吐き出せるものを吐き出し、やれると思っていた。

なのに――、

 

「君は無力で、救い難い。――あの方に、ふさわしくない」

 

その言葉だけは否定したくて、スバルは軋む首だけを動かして視界を空から移動させる。どうにかこうにか、その果てに立つ男を睨みつけようとして、

 

「――――」

 

――銀色の髪の少女の、紫紺の瞳と視線が絡んだ。

 

詰所に隣接する棟と王城を繋ぐ、細い通路の上に彼女は身を乗り出していた。彼女の背後には他にも見覚えのある女性陣が並び、それぞれがそれぞれの感情を瞳に宿して練兵場の様相を見下ろしていた。

 

だが、そんなことはもうどうでもよかった。

他の誰にどう思われたとしても、スバルにはなにもかもがどうでもいい。

 

ただひとり、たったひとり、この世で、この世界で、もっともこんな場面を見られたくないと思っていた人が、そこに立っていなければ。

 

ぷつんと、自分の中でなにかの糸が切れるような音がしたのをスバルは聞いた。

 

それを最後に、意識が一気に遠ざかり始める。

それまで鮮明だった意識が切り離され、世界が急速に霞み始め、今度こそ本当の意味でなにもかもを置き去りに、スバルの意識は奈落の底へ落ちていき、

 

「――スバル」

 

聞こえるはずのない呟きで呼ばれた気がして、なにもかもが消えた。