『水門都市プリステラ』
――都市に到着したスバルたちを最初に出迎えたのは、見上げるほどの威容を誇る高く強大な外壁だった。
「やっぱり最初の説明で聞いたときの、監獄っぽいイメージで間違いねぇな……」
御者台をオットーに譲り、客車の窓から顔を出したスバルがぼそりと呟く。その呟きを聞きつけて、スバルの下から同じように顔を出していたベアトリスが、
「ヨシュアとかいう奴は風光明媚とか言ってたけど、ベティーにはとてもそんな風には見えないのよ。気が安らぐどころか滅入りそうな様相かしら」
「そりゃ俺も同意見だ。まぁ、大橋とか水門とかいちいち立派ではあるけどさ」
ベアトリスの感想に頷き、スバルは応じながら視線を下へ向ける。
スバルたちを乗せた竜車が現在走っているのは、プリステラの正門へ繋がる石造りの『ティグラシー大橋』なる巨大な橋だ。
少し背を伸ばして地平線の方へ目を向ければ、そちらには日光を照り返す水面の輝きが見える。スバルの目には海原に近いものに見えるが、原則的に海が存在しないというこの世界では、あくまでそれは大河と湖であるとのことだった。
「元々、プリステラは湖の上に建造された都市なのよ。あの外壁の中はすり鉢状に中心でいくほど高低差が低くなっていくかしら。都市そのものが罠だったって成り立ちを考えると、中央に水が集まりやすくなっているのも当然と言えるのよ」
「なんかヤバい魔獣を仕留めるための罠、って話か。エミリアたんも言ってたけどそれってマジなのか?」
「ベティーも現物を見るのは初めてだし、実際に何を狙っていたのかまでは聞かされていないかしら。ただまぁ実物を見て、間違いなかったとは思うのよ」
ベアトリスの青みがかった瞳が、橋を渡り切った先の都市正門を見つめる。
いまだ都市内部は外壁に阻まれて窺えないが、ベアトリスの目にはその中身がおおよそ想像がついているのだろうか。禁書庫の蔵書がどれだけ詳細に世界のことを記述していたのかは謎だが、ベアトリスの見識の深さには助けられることが多い。
「……なんでベティーの頭を撫でてるのかしら」
「そこにベア子がいるからかなぁ。俺は時間の許す限り、お前を撫でてやりたい」
「なんかわかんないけど恩着せがましい上に余計なお世話なのよ!?」
それでも手を跳ね除けないベアトリスの頭を継続して撫でつつ、スバルの視線は欄干の向こう側に見える湖へ。ゆらゆらと揺れる水面は底が見えるほどに透き通っており、見渡す限りにポイ捨てなどの環境破壊の影響が見当たらない。
これが一部でなく、全体で統一されているのなら素晴らしいモラルだ。
「そういえば街道とかでもだけど、ポイ捨てとか産業廃棄物の不法投棄とか見かけねぇよな。そのあたり、物が溢れてないってのもあるだろうけど立派だわ」
「プリステラでは特に厳しく、景観の維持が義務付けられてますからね。正門を抜けるときに簡単な入都監査がありますけど、変な積極性を発揮して誓約書の内容を拒否したりしないでくださいよ」
御者台の方から、スバルの呟きを聞きつけたオットーの注意が飛んでくる。その言葉にスバルが「誓約書?」と首をひねると、
「王都だと家紋の入った竜車は免除されることが多いみたいだけど、プリステラは例外なく都市の出入りで書類を提出しなきゃいけないの」
エミリアの答えにスバルは感心したように頷き、パスポートなどの入国審査みたいなものかなと受け止める。それから改めて誓約書という響きに首をひねり直し、
「ひょっとしてセルフギアス的な力のある紙?その誓約書は書いた相手の体のオドとかと作用して、破った途端にゲートの全機能を喪失するとか……」
「やだ、それすごーく怖い……そんな強制力はないはずよ。ただ、悪いことはしませんっていう誓約書。でも、自分の良心は見張ってるんだから」
「……エミリアたんぐらいみんな、自分に厳しければそれで平和なんだけどね」
微妙に性善説なエミリアの主張に、自分の性格の悪さを自覚するスバルは苦笑。
ともあれ、誓約書が事実上、拘束力を持たないものである点は理解した。
「王国法に定められた厳守すべきルールはありますが、都市の運営に関してはその都市を仕切る都市長や領主の権限が大きいですからね。プリステラでもいくつか単純に王国法とは異なる部分がありますよ。誓約書にはその旨もきちんと記されているはずですから、小馬鹿にしないでちゃんと読み込んでくださいよ」
「面倒ッちィなァ。オットー兄ィが読んで、噛み砕いたのを後で教えッてくれりゃァそれでいいじゃァねェか」
「それだといつまで経っても成長が見られないでしょうが。ガーフィールも立場があるんですから、そろそろ書類の斜め読みだけでも覚えないといけませんよ。好きな本ばっかり読んで変な知識蓄えてるばっかりじゃなく」
「変な知識じゃァねェ、男のロマンだ。なァ、大将」
「ああ、そうだな」
屋根の上のガーフィールが危うげなバランスで首を伸ばしてくる。その呼びかけにスバルが力強く頷くと、オットーがため息をこぼし、エミリアは微笑ましいものを見る顔。そしてベアトリスが嘆息して首を横に振る。
「まったく、スバルもガーフィールも子どもで敵わんのよ」
「本当に、引率するのも楽じゃありませんよねえ」
ベアトリスの言葉にどれだけ賛同したものか。
オットーの声に含まれていた悲嘆と疲労感は、残念ながら竜車に同乗する他の誰にも共感できないものだったのかもしれない。
――パトラッシュが嘶き、全員が意識を正面へと向ける。
水門都市プリステラの正門が、すぐ間近まで迫っていた。
※※※※※※※※※※※※※
入都監査そのものは、呆気ないほど簡単に終わるものだった。
事前にエミリアやオットーから聞かされていた通り、書面には都市入りに際しての注意事項と遵守を義務付けられた都市法が羅列されていた。
といっても、その内容は普通に過ごす分には逸脱しようのないものばかりだったので、それほど意気込んで「守らねば!」と意識するほどのものでもない。
簡単に目を通し、さらさらと自分の名前を記して監査官の許可が出れば、それだけでさっと正門をくぐっての都市入りが許される。
多少、エミリアが名乗ったところで入都市監査官が慌てる一幕があったが、おそらく彼らはアナスタシアも通しているはずなので、何事が起こるのか内心であれこれと詮索していたかもしれない。
「まぁ、王位継承権的なもんを持ってる子が同時期に二人も集まったら、そりゃそれだけで色めき立ちもするわな」
「だけど、アナスタシアが事前に知らせてくれてたみたいで、あんまり時間は取られなくて済んだから。ヨシュアくんかミミちゃんかもしれないけど」
「態度の悪さを度外視すればヨシュアはありそうだけど、ミミはないと思う」
あの猫娘にそんな気遣いの心があるとは思えない。
自分本位であるとかそういう意味ではなく、何といえばいいのか言葉に困る。
「可愛いからな」
「そうね、ミミちゃん可愛いから」
と、謎の説得力でエミリアも頷いてしまう。スバルも腕を組み、それ以外に言いようがないなと思った。あと、何故かそれを言ったらベアトリスに足を踏まれた。
不機嫌なベアトリスをなだめて時間を潰していると、ようやく最後まで監査に引っ掛かっていたガーフィールとオットーが正門を抜けてくる。
「お疲れさま。なんであんなに引き止められてたの?」
「ガーフィールのせいですよ。だからあれほど字の練習をしておけって僕が口を酸っぱくして言ってたのに……」
「ガーフィール、まさか字が書けないの?」
「違ェよ。ただちょっとなんだ、大将的に言わせてもらうと前衛的っつーか、まァいいじゃァねェか」
つまり、字が下手糞すぎて読めないから足止めを食ったというわけだ。
それならそれで、識字できない相手のための代筆を監査官が申し出るはずなのだが、それを頼ることはガーフィールのプライドが許さなかったのかもしれない。
「悪いことは言わないから、これに懲りたら勉強しろ。リューズさんに手紙出してるのは知ってるけど、それはちゃんと読める字なんだろうな」
「ハッ、笑わッせんなよ、大将。俺様とババアの付き合いの長さだぜ。俺様が左手で字ィ書いても、婆ちゃんなら読み解いてくれらァ」
「それお前が努力するつもり全然ないじゃねぇか」
誇らしげなガーフィールに突っ込みを入れつつ、スバルは脱力して息を吐く。
ガーフィールの祖母のリューズだが、彼女とはロズワール邸で同居していない。現在リューズは、自分と同じ出自にある複製体二十四人。彼女らに最低限の人格と知識を持たせ、メイザース領の複数の村にそれぞれ住まわせる役割を負っている。
複製体への指揮権はいまだにエミリアとガーフィールの二人が所持しており、その二人の指示であれば遠方にいる複製体たちに届く。それを利用して、ちょっとした命令伝達役として役割を持たせたい、というのが狙いだ。
これはスバルが提案し、リューズが責任を負った仕事でもある。最初は反対していたガーフィールだったが、現在はおおむね納得をしたようだった。
そのためリューズと複製体は今はアーラム村に身を寄せている。そこで教育が済んだものから順繰りに、各町村へと複製体が送り出される予定だ。
「まんまスパイ大作戦みたいで、人聞きは悪いけどな……」
ただ、役割も目的も持たずに在るだけとして扱うのは嫌悪感があった。あるいはそれは一度、ループの中で彼女らを捨て石に使ったことのあるスバルの、罪悪感によって背中押された考えだったのかもしれない。
「スバル?竜車の方の荷の検めも済んだから、いきましょ」
物思いにふける意識がエミリアに呼ばれ、スバルは慌てて顔を上げる。
怪訝そうな視線に苦笑し、それからパトラッシュの手綱を握った。賢い漆黒の地竜はスバルの心のしこりを察したように、鼻面を寄せて主人の首筋を擦る。
そのざらついた感触が、ひどく安堵感を誘うのがスバルには不思議だった。
「……いつもありがとうよ」
言葉のない思いやりに、スバルは固い鱗を撫でることで応える。パトラッシュが鼻息だけでそれに応えると、今度こそ手綱を引いてプリステラの中へ。
正門を抜けると、外壁と都市との間を流れる川がある。その上を渡された石橋を通り、内門が開閉されて、プリステラがお披露目された。
「おお……」
目の前に広がった光景を前に、スバルは思わず感嘆の呻きを漏らす。
その反応はスバルだけのものではなく、左右に並んでいたエミリアとベアトリスもそれぞれの仕草で感動を露わにしていた。
監獄、などと表現したことを詫びたくなるほど、それは水の都であった。
最初にプリステラの説明を聞いたとき、スバルはその場所を元の世界の水の都ヴェネチアのようなものを想像した。そしてそれは、間違いではなかった。
円状の都市、外壁はそれをぐるりと囲うように同じ円を描いて構築される。
都市内部の構造は規模の大小を無視すれば、スポーツ観戦などが行われるスタジアムの形式が近いだろうか。外周がもっとも位置的に高く、中央へいくに従って低くなる形で高低差がついている。
その階層ごとに段差のある大地には石造りの建物が所狭しと並び、スバルの目にはこれまででもっとも西洋的な街並みの印象に近しいものを与えた。
さらに街並みの各所には大きな水路が走っており、円状の都市を四等分するような形で一際巨大な水路――否、運河が存在する。渡し船のようなものがいくつも水面を泳いでいるのが見えて、水先案内人の響きにスバルの背筋が震えた。
青い都市、水の都、水門都市プリステラ。
その響きと名前に偽りなし。素直に、感動しかない光景だ。
「すげぇ……」
思わず感嘆の言葉が漏れるが、一行の誰もがそれに反論しない。
内門を開けて、スバルたちの感動を目にする門番の口元を会心の笑みが飾る。おそらくはここを訪れた誰もが、スバルたちと同じ反応をするのだ。
そしてその反応を目にすることこそ、彼らが職務を遂行する上で最高のご褒美であるに違いない。違いないだろうさ。これはやられた。
「なるッほどなァ、確かにこりゃァ壮観だぜ。オットー兄ィがホラ吹いてたわけじゃァなかったってわけだ」
ひと足早く、その衝撃から立ち直ったガーフィールが鼻の頭を指で擦る。それでもまだ興奮が冷めきっていないのか、わずかに頬には赤みが差していた。
男のロマン、『何かでかいもの』に通ずるものがある『なんかすごい場所』に心を震わされたのだろう。
「商売の神様、ホーシンの所縁の地ですからいずれはきたいと思ってましたけど、これは眼福です。ただきただけでも甲斐がありましたよ」
その隣でオットーも、感極まった顔で何故か手を合わせている。
彼が口にしたホーシン所縁の地、という表現で思い出したのが、何度か耳にしている『荒れ地のホーシン』の名前だ。
「ホーシンってあれだよな。ずっと昔の、焼け野原からでっかくなった稀代の大商人」
「ちょこっと違うところもありますけど、大体はそれで合ってます。ホーシンは四百年前、まだまともに開拓も進んでいなかった西のカララギに単身で渡り、己の才覚一つで経済の基盤を作り変えて財を成した、本物の英傑ですよ」
根は商人と言い切るだけに、ホーシンの伝説を語るオットーの瞳には熱がある。
今では四大国の一つになったカララギ都市国家、その骨子を単身で作り上げたともなればその偉業が語り継がれるのも頷ける。
「アナスタシアがホーシンの家名を名乗るのも、それにあやかってって話だったしな」
「大胆不敵だと思いますよ。心意気と目標を示す意味ではこれ以上ないほど明確ではあると思いますが、誰もが知っているだけに誰もが疑問視する。今のところ、その名前負けしないだけの結果を出しているとは思っていますけどね」
「本気で名前負けしない結果を出そうとすると……まぁ、ルグニカの王位をかっさらうのが一番ってわけだ。淡々と目標に邁進してるねえ」
素直に感嘆しつつ、スバルもようよう目の前の絶景から意識を切り離す。
それからまだ水の都に心を囚われているベアトリスの頭を撫で、エミリアの袖を引いて意識をこちらへ引き戻した。
「で、アナスタシアたちが待ってるのは『水の羽衣亭』って話だよね。どこにあるのかわからないけど、立場上、安宿ってことはないだろ」
「うん、そうね。監査官の人に話が通ってたみたいだし、ちゃんとした場所だと思うわ。オットーくんたちがさっき話を聞いてたみたいだけど……」
エミリアの言葉にオットーが頷き、彼がひらりと竜車の御者台へと飛び乗る。
それから背後の客車を示すように顎をしゃくり、
「道は窺いましたから、僕が案内しますよ。この都市内だと、運搬は竜車よりも船舶の方が扱いが上なので急がせられません。ゆっくり走らせるのは、まだナツキさんには難しいでしょうから」
「言ってくれるもんだ。パトラッシュ単独なら、俺が言うまでもなく震えて見つめれば意図を酌んでくれるぜ。なぁ?」
オットーに負けじとスバルがパトラッシュを見つめると、ウィンクするスバルからパトラッシュは顔を背けた。心なしか、ため息をつかれた気がする。
思わぬ反応にスバルが凹んでいると、エミリアが慰めるように背中を叩き、ベアトリスが手を引いてスバルを竜車の中へと連れていく。
「じゃ、出発」
すっかり特等席と化した竜車の屋根上で、ガーフィールが堂々と宣言。苦笑するオットーが手綱を操り、竜車がゆっくりと動き出す。
その速度は本当に緩やかで、勾配になっていることを加味して速度を落としているにしても、徐行というべき速度だった。
「しかし窓から見る限り、本気で竜車とか数が少ないな」
「そうね。それに道も水路の方を優先してるから、こうして見てみると竜車が通れる広さの道って、真っ直ぐ進むんじゃなくてクネクネしてるかも」
「あー、確かに」
エミリアの指摘通り、都市の中心を大きな水路を通しているため、徒歩や竜車が通るための道が自然と迂回路のような形になっている。不便にも感じるが、ゆっくり走る竜車の横手の水路を、すいすいと小舟が通り抜けるのを見るとそうでもない。
「そういえば竜車には『風除けの加護』とかあるけど、船にはあるのかな。転覆禁止の加護とか、潮風の加護とかそんなの」
「あんまり聞いたことないけど、船自体に加護が与えられてることってないんじゃないかしら。漕ぎ手の人はやっぱり、『湖の加護』とか『水運の加護』とかそういうのに恵まれてることはあるかもしれないけど」
「それほど広く知られてるわけじゃないけど、水竜には相応の加護があるのよ。地竜と同じで、基本は水の影響を受け難いとかそんな感じかしら」
「水竜か。いっぺんぐらいは見てみたいけどな」
「場所が場所だし、都市のどっかしらにはいると思うのよ」
スバルの疑問には答えながらも、動物嫌いのベアトリスは積極的ではない。パトラッシュに不思議な苦手意識を抱くだけに留まらず、どうやら水竜に対してもあまりいいイメージはないらしい。
「ライガーあたりなら、抱かせてもらってもそんな嫌な思いしないと思うぞ?」
「別に動物に触れなくても死にはしないかしら。ベティーの方が可愛いに決まってるのよ」
「動物的と可愛さで競うのって、不毛な気がするけどな……むしろ同じ土台で勝負して株が下がってねぇか?」
パトラッシュも、スバルには格好よい上に可愛いように見える。もちろんそのベクトルと、エミリアやレム、ベアトリスに抱く可愛いのベクトルは違うのだ。
スバルの答えにベアトリスは胡乱げな顔をしたが、ライガーの単語を聞きつけたエミリアは興味津々にスバルを見つめる。
「私も!頼んだら触らせてもらえるかな?」
「ミミが屋敷にいる間に頼めばよかったのに。エミリアたんもそういうところで変な遠慮とかするよね」
「大事な乗犬だし、勝手なことしちゃいけないかなって。しばらくパックと触れてないから、私も毛並みの感触が懐かしくて」
パックに家族愛を抱いていたエミリアも、やっぱりあの毛並みには心を奪われていたらしい。スバルが「頼んでみるよ」と請け負うと、エミリアはひどく喜んだ様子で鼻歌などを歌い出す。音痴だ。
生温かくその鼻歌を聞きながら、スバルは頬杖をついて街並みを眺める。窓に寄り掛かるスバルと、席に膝立ちで窓の外を眺めているベアトリス。いかにも子どもらしい仕草に、行儀が悪いと注意すべきかスバルが悩んでいると、
「あ、スバル。ちょうどいいタイミングなのよ」
「ん?お、おおー!」
ベアトリスに呼ばれて見れば、水路を水飛沫を上げて通り抜ける魚影――否、魚ではない。それは蛇のように胴体が長く、しかし短い手足もちゃんと付いた生き物だった。水竜だ。ぬらぬらと青い体皮は蛇を思わせるが、その頭部はなるほどしっかりと『竜』をしている。
鋭い牙を備えた顎に、まるでナマズのような長いヒゲ。地竜が四足で駆け回るトカゲのイメージだが、水竜はまんま東洋の竜のイメージが近い。シェンロンと呼びたくなる見栄えだ。
「でもプライドが高そうっていうか、根性悪そうな面してるな」
「人間の目線で見るとそういう感じかしら。実際、地竜と比べると圧倒的に水竜は飼い馴らすのがしんどいタイプの生き物なのよ。生まれたてを、成竜になるまでの間、きっちり世話して始めて主と認めるらしいかしら」
「そりゃ手間暇かかるわけだ。俺とパトラッシュなんか目と目でいきなり通じ合ったぞ」
「アレがスバルにあんなに懐いてる理由が、ベティーには不思議でならんのよ」
それはスバルも同じである。
元々はクルシュのところで使役されていたパトラッシュだが、白鯨討伐戦で借り受けた時点からだいぶスバルに懐いていたのだ。今にして思うと、『好きな地竜を選べ』と言われたとき、自己主張の激しいパトラッシュを選んで正解だったと思う。
実際、パトラッシュ抜きでは突破できなかった事態が何度あったことか。
「ふん。うちのパトラッシュの方が品がある顔立ちをしていますわよ」
「スバル。急にアンネみたいな喋り方になってどうしたの?」
踊るように水路を進む水竜に、スバルは変な対抗心を燃やしてしまう。と、その視線に気付いたわけではないだろうが、水竜の頭がふとこちらを向いた。それから水竜は水面に顔を出すと、その口から甲高い鳴き声を上げた。
スバルにはそれが何故か、『へっ、余所者がじろじろ見てんじゃねー』と言われたように感じてカチンとくる。
「あの野郎、たぶん俺らを馬鹿にしやがったぞ。こうなったら……」
「――――ッ!」
仕返しに、燃え落ちた屋敷で見かけた黒くてでかい魔獣の鳴き声を声帯模写でもしてやろうと意気込むスバル。
その意気込みを遮るように、鋭く凛々しい嘶きが水面へ向かって放たれた。
パトラッシュだ。
彼女は水竜の挑発的な態度に対し、主の怒りを感じ取って返礼を行った。その叫びがどんな意味を込めていたのかは不明だが、水竜は地上から自分を睨みつける地竜の声と眼光に恐れを成した様子で、掠れた鳴き声をこぼすと水の中に潜る。そのまま速度を上げて、水竜が引く小舟は一気に加速。小舟を操る船主が慌てる姿が見えて、スバルはぽかんとそれを見送った。
「い、今のって?」
「――ナツキさん、あんまりパトラッシュちゃんに変なことさせないでくださいよ。きて早々に厄介事とか、僕は本気で御免ですからね」
御者台から怒ったオットーの声、スバルはそれに小さく手を振り返して、それからパトラッシュに聞こえるように指笛を吹いた。それで意志疎通できるほど器用ではないが、パトラッシュに感謝の気持ちを伝えたつもりだ。
「水竜もかっちょいいけど、やっぱりパトラッシュが一番だ」
「……まぁ、ベティーもあの下品な水竜よりは、うちの子の方がいいと思うのよ」
スバルが嬉しげに言ったからか、ベアトリスも渋々それには同意したのだった。
その後の移動はさしたる問題もなく進行する。
水路を渡る石橋を超えながら、スバルは何となしに脳裏に正門から見下ろせた都市の内観を描きつつ、
「そういえば、この町って水路で都市が四分割されてたっぽいんだけど」
「うん、そうなの。プリステラは中央のおっきな大水道で区画を分けてて、正門から順番に右回りで一番街、二番街、三番街、四番街って呼ばれてるんだって」
疑問に対するエミリアの答えに、スバルは「はーん」と鼻を鳴らし、
「ひねりのないネーミングだなぁ。もっとイーストブルーみたいな呼び方にすりゃいいのに。そう思わねぇか」
「思うぜ、大将」
「スバルとガーフィールの趣味はどうでもいいかしら」
意気投合する二人に対し、ベアトリスの態度は冷たい。その三者の様子にエミリアは頬を緩めながら、いかにも本で得た知識といった風情で指を立てて、
「それぞれ、番号分けした区画ごとに集まってるお店とか職場とかが異なってるらしくて、正門から離れた二番街と三番街の方に居住区が集中してるみたい。私たちが向かってる『水の羽衣亭』は、出入りする旅行者が多いから一番街ね」
「それならそろそろ着いてもいい頃……って、ちょうどいいみたいだな」
会話で時間を潰している間に、ゆっくりと走っていた竜車が停止する気配。どうやら目的の宿に着いたらしく、御者台にいるオットーが客車の方へ回り込み、
「無事に到着しましたよ。僕は従業員に言って、フルフーたちを厩舎の方へ移してきますから、先に……いえ、やっぱり入口のところで待っててください」
「なんで意見を変えたんだ?俺らが先に宿に入ったら困ることでもあるのかよ!」
「ありますよ。アナスタシアさんと遭遇でもされて、それで僕が到着したら早々にやり込められてたなんてことになったらたまりませんからね」
信用のないオットーの言葉に渋い顔をしつつも、前科のある面々は誰も反論ができない。そのまま手荷物だけ持って竜車を下りると、オットーが案内に出てきた従業員に連れられて店の裏手に消えていく。
その姿を見送って、スバルは背伸びをするとようやっと宿――『水の羽衣亭』へと視線を向けた。そして、
「さて、どんなお宿に招待してくださったやら……って」
驚きにぽかんと口を開けるスバル。
そのスバルの隣で、エミリアが頬に指を当てながら小首を傾げ、
「なんだかすごーく不思議な形の建物ね。私、初めて見たかも」
エミリアの端的な感想が、そのままガーフィールとベアトリスの感想でもある。しかし、スバルだけは違う感想を抱いていた。
それも当然だ。だって、
「これは宿っていうか……旅館じゃねぇか」
平たい木造建築に、木戸は引き戸でガラス張り。
生垣があれば、門前から入口までの道には砂利が敷き詰められ、屋根には瓦が使用されているとなれば、それはもはや見間違える余地もない。
異国情緒溢れる街並みの中に、違和感どころではない建築思想。
ナツキ・スバルはその日、『水の羽衣亭』と呼ばれるワフー建築と出会う。
「おーおー、驚いとるようやね。ほんなら、ウチもわざわざここを宿に選んだ甲斐があったわぁ」
唖然としたままの一向に、ふいにその穏やかで楽しげな声がかけられた。
スバルは呆然としたまま、ゆっくりと視線を声の方向――生垣の向こうから、こちらを覗き込むように顔を見せた人物を見やる。
動物の毛皮を使用した白いドレスに、一際目を引く狐の襟巻き。すでに寒い時期は通り越しているだけに、ドレス自体は薄手のものでサマードレスといった風情があるが、その襟巻きだけは大事なものなのか以前に見かけたときと変わらない。
小柄な体に薄紫色のウェーブがかった長い髪。はんなりとした微笑みを浮かべた愛らしい顔立ちに、どこか底知れないものを宿した浅葱色の双眸。
見間違う余地もなく、彼女こそがスバルたちをここへ招いた張本人。
アナスタシア・ホーシン、直々の出迎えだ。
そして、
「お久しぶりやね。本日は遠いところ、ご足労いただいておおきに。長旅で疲れてるやろから……まずは部屋で、ゆっくりしてからお話しよか?」
オットーが戻るより先に、当たり前のように先手を取られた。
――その場の全員が、それを如実に感じ取ったのだった。