『埋め難き価値観』


 

「――――」

 

――神聖ヴォラキア帝国、七十七代皇帝。

 

アベルの名乗ったその肩書きを聞いて、スバルの思考が真っ白に染まった。

それは言葉の意味が呑み込めなかった無理解であったり、王族と対峙したことへの畏れが理由によるものではない。

 

確かに異世界と言えど、スバルが直接王族と会うのはこれが初めてのことだ。

 

スバルが異世界に召喚された時点で、ルグニカ王国の王族は全員が病に倒れていた。王族の生き残りの疑惑があるとされるフェルトは、フェルト自身が認めていないのもあるが、王族っぽさが欠片もないため、カウントには入らない。

 

その点、スバルがこの世界で出会った人々の中で一番偉い立場にあったのは、王選の場で見かけた賢人会のお歴々か、公爵であるクルシュということになるのだろう。

辺境伯の立場にあるロズワールも、それなりに高い立場にある。――そもそも、王選を競い合う次期王候補のエミリアは、どんな立場に相当するのだろうか。

 

「……いや、現実逃避を、してる場合じゃない」

 

思考が乱れ、散り散りになるのを直前で引き止める。

とにかく、重要なのは自らが『皇帝』であると名乗ったアベルのことだ。密林の平原、そこで出会ったときから只者ではないと感じてはいた。

だが、まさか皇帝なんて立場の人間とは完全に想像の外側だった。

ただし――、

 

「それが本当の話なら、だ」

 

「俺の言葉を疑うのか?」

 

「当然、疑うだろ。なんで森の中で、その国の一番偉い奴と出くわす羽目になるんだよ。お前のふてぶてしさは皇帝クラスって信じてもいいが……」

 

そこでスバルは言葉を切り、凶悪な面を被ったアベルを正面から睨みつける。

アベル側からはせいぜい、視線の鋭さしか感じられない対峙、これはフェアではない。確かにアベルの声音には、一角の人物しか持てない意思の強さがある。

それは異世界で、何の因果か様々な立場ある人間と接してきたスバルの直感が証明している。――だが、そのこととこのこととは別だ。

 

「ちょっと前にも言ったはずだぜ。顔も見せないような奴の、いったい何を信用しろってんだってな」

 

焚火の向こう、揺らめく炎の中でアベルがスバルの言葉を受け止める。

朦朧と、燃える野営地を見下ろしながら交わした会話を引き合いに出し、スバルは面で顔を覆ったアベルを強く睨みつける。

あのときは面ではなく、ボロ布で顔を隠していたアベルにも同じことを言った。

そしてそれを聞いたアベルは布を外し、自らの顔を見せたのだ。

 

「うだうだとうるさい男だ」

 

そう言いながら、外した面を傍らに置いた、今この瞬間と同じように。

 

「――――」

 

「なんだ、その不躾な目は。特段、貴様と違うものなどついてはいまい」

 

「……パーツは、そうだな。配置に神の悪意を感じるが」

 

まじまじと顔を眺めるスバルに、アベルの皮肉がそう突き刺さる。

答えた通り、スバルとアベルは同じ人間と言えるだろう。ただし、それはカテゴリーの話であり、さらに細分化すれば所属は大きく異なるはずだ。

艶のある黒い髪と、切れ長で凛々しい目つき。威圧的な印象は強いが、目を離し難い独特の魅力を持った魔貌――、

 

これが、神聖ヴォラキア帝国の皇帝のご尊顔というわけだ。

ただ、そのアベルの顔にスバルは全く見覚えがない。王選候補者であるエミリアの一の騎士の立場にあり、一応は隣国の国家問題に関わるスバルにも。

 

「そういう、もんなのか?国のてっぺんなのに、お前の顔は……」

 

「貴様の知る由もあるまいよ。元より、俺の顔は帝都の外で見られるものでもない。この国には俺の首を狙うものが多すぎる」

 

「自衛のためってことか?そんなに人の恨み買ってるのかよ」

 

「違う。精強たることが帝国民の信条だからだ。惰弱死すべき、脆弱死すべき、弱卒死すべし……なれば、強者は全てを手に入れる資格がある」

 

「――――」

 

「皇帝の座も、例外ではない。それが、帝国が他に類を見ない強国である所以だ」

 

自分の膝に頬杖をついて、ヴォラキアの極端な思想を語るアベルにスバルは閉口した。

彼の言葉が嘘でないことは、帝国兵の野営地で数日過ごしたスバルも知っている。トッドや帝国兵も、今のアベルの言葉に大いに賛同するだろう。

彼らを含め、帝国人は勝利が全ての帳尻を合わせると本気で信じている節がある。

 

まさに、帝国万歳という在り方だ。

そのためなら、部族を滅ぼすために密林を焼き払うことも躊躇わない。

そのためなら、同じ帝国人の陣地を急襲し、兵を皆殺しにすることも――、

 

「――待てよ、おかしいだろ」

 

「何がだ?」

 

「仮に……仮にお前が本当に皇帝だとしたら、なんで帝国兵の陣地を攻撃したんだ。普通に出てって、陣地のお偉いさんと話をすれば……」

 

「たわけ。のこのこと出ていくような真似ができるか。俺に自殺願望などない。貴様と一緒にしてくれるなよ」

 

「俺にだって自殺願望なんてねぇよ。けど、自殺……?」

 

皇帝が、自国の兵士と接触するのを自殺行為と言われる理由がわからない。

アベルにとって、帝国兵は全員まとめて自分の部下のはずだ。それらと接触することが自殺行為になるなんて筋が通らない。――否、筋を通す方法もある。

それは――、

 

「俺の聞き間違いじゃなかったら……皇帝の座を追われたって言ってたか?」

 

「聞き逃してはいなかったか。だが、俺は同じことは言わんとも告げたぞ」

 

「茶化すな!重要な部分だろ。その、皇帝の座を追われたってことは……」

 

表情の変わらないアベルが、自分と同じ人間なのか疑わしく思えてくる。

だって、アベルの置かれた状況がスバルの予想通りだったとしたら、それは絶望的な状況のはずだ。

その考えが、スバルに続く言葉を躊躇わせた。

 

「――貴様の考えは正しい」

 

しかし、アベルはスバルの躊躇いをあっさり踏み越え、頷いた。

息を詰めるスバルの前で、アベルの視線がわずかに下がり、燃える焚火を見る。火の中で薪が爆ぜ、微かな音が木片の断末魔のように聞こえた。

その断末魔を聞きながら、アベルは静かに片目を閉じ、

 

「バドハイムの外に展開した帝国兵の陣は、政敵が俺を始末するために派遣したものたちだ。貴様は正しく、巻き添えを食らったというわけだな」

 

「だけど……だけど、陣地の人たちはそんな話はしてなかった。あの人たちは、自分たちが森の『シュドラクの民』と交渉するのが目的って言ってたんだ」

 

スバルに他人の嘘を見抜く能力があるわけではない。

それでも、何十人もの人間がひしめく場所で、部外者のスバルやレムを騙すためだけに全員が口裏を合わせていたなんて現実的とは思えない。

だから、帝国兵たちは、トッドたちは自分たちの目的が『シュドラクの民』だとそう信じていたはずだ。

 

「なのに、真の狙いはお前を捕まえることなんて……」

 

「言葉を飾るな。攻撃を企てていたと、そう言ったのは貴様自身だ。そして、貴様は自分と女の身を守るため、シュドラクと帝国兵を天秤にかけた」

 

「ちが……っ」

 

「違わん。起きた出来事は変えられん。奴らが蘇ることもない。死者は何も語らぬし、生者に何も及ぼせん」

 

「――――」

 

――死者は蘇らない。

アベルのその痛烈な言葉に打たれ、スバルは強く目をつむった。

何も、何も知らない奴が好き放題に言ってくれる。

 

――死者を蘇らせる術はある。

スバルだけが持ち得る、唯一の権能がその手段だ。

 

「――――」

 

『死に戻り』すれば、スバルは陣地の全滅前に戻れる可能性があった。

そうすれば帝国兵たちに警戒を促し、彼らを死の運命から救うことができるかもしれない。だが、それをすれば今度は『シュドラクの民』が危うくなる。

あちらを立てればこちらが立たず、対立する両者を救うことは困難だ。

何より――、

 

「俺には……」

 

彼らのために、『死に戻り』をするための気概がない。

次をやり直したとしても、もっとうまくいく可能性がどれだけあるだろうか。今回、レムとスバルの身柄が無事なのは、最善ではなくとも次善の状態と言える。

これ以上を望むことは、果てのない挑戦へ挑むことと同義だ。

そのために、自分の命をすり減らすことがどこまで――、

 

「貴様は、得体の知れん懊悩を抱える愚かな男だ」

 

そう自問自答するスバルの鼓膜を、不意にアベルの言葉が打った。

一瞬、何を言われたのかがわからず、スバルは唖然と目を開ける。正面、揺らめく炎の向こうでアベルはスバルを見つめていた。

その眼差しが、まるでスバルを憐れんでいるように思えて。

 

「何故、他者におもねることばかりを望む」

 

「おもねるって……俺が?」

 

「貴様は他者ばかりを見ている。貴様はそうした己を意図的に作り上げてきた。戦士が己の技を鍛えるように、自分自身の心を施しという欺瞞で覆い隠してきた」

 

「――っ、お前にそこまで言われる筋合いはない!」

 

わかったようなことを言うアベルに、スバルは堪え難い怒りを覚える。

『死に戻り』のことも、スバル自身のことも何一つ知らない相手に、スバルの抱えるものなど万分の一も理解できるはずがない。

説教される理由も、憐れまれる理由だってない。

 

「そもそも、お前は俺の質問に答えてないだろ!帝国兵の狙いは『シュドラクの民』だった。お前のことなんか一言も……」

 

「一兵卒にまで伝わる話ではない。おそらくは指揮官すらも知らんだろう。皇帝が野に下ったなどと、帝都の外に漏れていい話ではない。帝国が揺れることを、俺を追い落としたもの共も望みはしない」

 

「――――」

 

「加えて、奴らがシュドラクを狙ったのは必然だ。皇帝の座を追われ、帝都から逃れた皇帝の手を取る可能性があるのはシュドラクのみ。――故に、シュドラクを殺すことは、かろうじて溺れずいる俺の手足を斬り、水底へ沈めるも同然のこと」

 

淡々とした説明が脳に染み込み、スバルの疑問が氷解させられる。

トッドら帝国兵が密林を取り囲んだことも、彼らが『シュドラクの民』を交渉によって無力化、あるいは殲滅を目的としていたことも、全部。

 

「……なんで、シュドラクだけが頼りなんだ?」

 

「かつて、ヴォラキアの皇帝がシュドラクの窮地を救ったことがあった。シュドラクは恩義を忘れない。『血命の儀』もある。それが俺の勝算だ」

 

皇帝に対する種族に跨る古い恩義と、儀式を重んじるシュドラクとしての在り方。

帝都を追われるアベルはそれに賭け、『シュドラクの民』との接触を試みた。そして、アベルの政敵はそれを防ぐため、帝国兵を密林へ派遣し、皇帝を葬ろうとしたわけだ。

 

分の悪い賭けだったが、アベルはその賭けに勝ったと言えるだろう。

見事、相手の思惑の上をゆき、自分を追い詰める敵の第一波を退けた。しかし、スバルにもわかる。――これで、相手が引くはずがないと。

 

「お前と、お前の敵との戦いは終わってない」

 

「無論。――死ねばそこまでだ。だが、俺は生きている。ならば、俺は俺のモノを取り戻すために、俺の持てる力を尽くして奪いにいく」

 

それが、ヴォラキア皇帝としてのアベル――ヴィンセント・アベルクスの選択。

彼の口にした『モノ』という単語が、スバルには『国』とルビが振られているように思えた。それはあまりにも、スケールの違うモノの見方だ。

その凄まじさに圧倒されると同時に、スバルは遅まきに失して気付く。

 

「じゃあ、お前はこれから……シュドラクの人たちと戦争を始めるってのか!」

 

「そうだ。奴らには協力を約束させた。『血命の儀』の結果と、かつての皇帝との盟約。誇りを謳うものたちは扱いやすい。俺と共に戦うだろう」

 

「あれだけやって……まだ足りないってのかよ!?」

 

皇帝の座の奪還、そのためには避けられない戦いがいくつも起こることになる。

それは戦争――人間と人間が争い合い、その命を奪い合う壮絶な戦いの幕開けだ。

 

「――――」

 

焼き払われた帝国の陣地、そこにはスバルの知る限り、百人以上の帝国兵がいた。

アベルとシュドラクが攻撃した陣地があの一つに留まらないなら、逃げ延びたものがいたとしても、被害は百人以上。千には届かない、そんなところだろうか。

 

――スバルの意識のない数時間で、百人以上の人間が命を落としたということだ。

 

「それだけで……」

 

スバルの経験してきた異世界の生活、その日々の中で最も被害が大きい。

白鯨戦でも、ペテルギウスとの戦いでも犠牲者は出た。プリステラでの戦いなど、救えなかった人も、現在進行形で救えていない人も大勢出してしまった。

 

その避けられなかった犠牲者の数より、ここで失われた命の数の方が多い。

 

それも、戦った相手は魔獣や邪悪なる存在ではなく、人間同士だった。

話の通じない相手ではなく、話せばわかる相手だったのに。

 

「どうして、殺すんだよ……」

 

「それ以外の術がない。それだけだ」

 

「……本当に、そうなのか?それ以外の手段を本気で探したのかよ?相手を殺して、全部の可能性を奪う前に、最後の最後まで」

 

「――――」

 

蚊の鳴くようなスバルのか細い訴えに、アベルが目を細める。

それはスバルの意見を熟考しているというより、何故そんなことをしなくてはならないのかと、根本的な部分を問いかけているように思えた。

 

言葉が通じないのではなく、対話の意思がないわけでもない。

それなのに話ができないのは、恐ろしく隔絶した価値観の違いが理由だった。

 

これまでナツキ・スバルは幸運にも、大きく価値観の異なる相手と関係を築かなくてはならない状況に陥ることがなかった。

この異世界で遭遇する多くの人々は理性的で、スバルの言葉にも耳を傾け、自分の意見を伝えながら誠実に接してくれた。それが理解できず、彼らの配慮に気付けなかった馬鹿な自分が台無しにしたこともあったが、それでも、やってこられた。

 

価値観の違いで話が通じなかった相手は、それこそ魔女や大罪司教ぐらいのものだ。

だが、スバルは彼らや彼女らを明確な『違う』存在だと定義することで、やはりそれらと価値観をぶつけ合わせることをしないで済んだ。

 

しかし、アベルは違う。『シュドラクの民』も、帝国兵たちも違った。

 

彼らに悪意はなく、人間の生死を弄ぶことも、絶大な力を自儘に使うわけでもない。

その考え方の根本を除いて、スバルと同じ人間であるのだ。

それなのに――、

 

「……俺は、ただレムを連れて帰りたいだけだ」

 

これから、アベルの皇帝の座を奪還する戦いが始まる。

これが他人事であるなら、あるいは伝記か何かで伝わっている過去の出来事なら、スバルも胸を熱くしてページをめくる手が逸ったかもしれない。

 

だが、これは現実だった。

頼るもののいない別の国で、その国の根本を揺るがす壮絶な内紛が起きかけている。その事態に介入し、歴史を変えようなんて考えはスバルには皆無だった。

 

目的は、レムを連れてルグニカ王国へ帰還すること。

一刻も早くエミリアやベアトリス、ロズワール邸の仲間たちと合流し、レムが目覚めたことの喜びや、今後のことを相談し合うことだ。

 

それ以外の問題など、付き合ってはいられない。

 

「――最寄りの町とか村を教えてくれ。俺はそこから、帰る手段を探す」

 

両手で自分の頬を叩き、スバルは目的を一本に絞って言い切った。

それを受け、アベルは「ほう」と小さく吐息をつくと、

 

「道理だな。だが、それも容易い道ではないぞ」

 

「簡単でも難しくても、必要なら道を歩くんだよ。できれば舗装された道をな」

 

「ふん」

 

鼻を鳴らすアベルの前で立ち上がり、スバルは口の中で頬肉を強めに噛んだ。

痛みで脳を刺激して、色々と生まれる迷いを打ち払い、前を向く。それから、姿勢を変えないアベルの方を見た。

 

片目をつむり、スバルと視線を交差する孤独な皇帝を。

 

「まだ、お前に礼を言ってなかった。……手段はともかく、レムを助け出してくれてありがとう。そのことは感謝してる」

 

「あの娘だけでなく、もう一人も助け出したぞ」

 

「あれは余計だった。……おかげで、俺の悩みはしばらく据え置きだ」

 

もちろん、帝国の陣地でルイが失われていた場合、それでスバルの抱える問題が綺麗に解決するわけではない。むしろ、レムとの関係に限れば深刻化する可能性が高かった。

どっちがよかったかなんてわからない。わからないから――、

 

「俺は、俺の納得できる方を選ぶ。……複雑だけど、お前はお前で頑張れよ。でも、シュドラクの人たちを……」

 

「巻き込むな、とでも?どのみち、俺や貴様が介入しなければ森ごと焼かれていたのが奴らの末路だ。これはもう、奴らの戦いでもある」

 

「――――」

 

それは、否定の余地がない。

彼女たちはもう、自分たちの身を守るために戦わなくてはならない立場なのだと。

しかし――、

 

「俺にはとても無理だ。……お前みたいには一生なれないだろうよ」

 

首を横に振り、スバルはアベルを見ながら呟いた。

片目をつむるアベル――その閉じた瞼は、先ほどとは反対だ。もっと言えば、アベルの瞬きは独特なものだった。片目ずつ、決して一度に両目をつむらないのだ。

 

それが、ほんの刹那でも両目を閉じないためなのだと、スバルは理解した。

そして、それが習慣になるような世界で生き抜いてきたヴォラキアの皇帝、剣狼の帝国の頂点の存在を恐れ、畏れる。

そのスバルの呟きを聞きつけ、アベルはやはり片目を閉じたまま、

 

「当然だ。貴様にも誰にも、俺の代わりは務まらぬ」

 

と、そう言ったのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

『シュドラクの民』と別れ、バドハイム密林の最寄りの町へ向かう。

そのスバルの決断を聞いたとき、思いの外、周囲の反応はさっぱりしたものだった。

 

「そうカ、残念だが仕方あるまイ。それが同胞の決断ならバ」

 

とは、スバルの話を聞いたミゼルダの反応だ。

言葉通り、ミゼルダはその凛々しい面差しをいくらか寂しげにしつつも、スバルの選択をそう尊重してくれた。

正直、戦わなければ戦士ではないと、そう罵られることも覚悟しての告白だったので、彼女がそう気遣ってくれたのがかえって申し訳なかった。

 

そうして族長の許可を取ってしまえば、スバルの決断を妨げるものはいない。

ミゼルダ以上に寂しげにするウタカタの存在には後ろ髪を引かれたが、しかし、それもスバルがここに留まる理由にはなり得なかった。

 

「スー、どっかいク。ウーは残念……」

 

「ああ、悪いな。……なぁ、ウタカタはこれから何が起きるかわかってるのか?」

 

裾を摘んだ少女の頭を撫でながら、スバルはウタカタにそう問いかける。

『シュドラクの民』の価値観や連帯感に疑いはなく、ミゼルダの決断が部族の決断であることに違いはないだろうが、それでもウタカタはまだ幼い。

何もわからず、周囲の熱に浮かされているとしたら――、

 

「――?これかラ、戦いが始まル。ウーも、ミーとターとみんなと戦ウ」

 

「……そうか」

 

そう言いながら、自分の背中に装備した弓を見せるウタカタに、スバルは嘆息した。

幼い子どもは何も知らなくてあってほしい。そんな欺瞞も、やはりこの密林では通用しない甘っちょろい考えであったらしい。

 

元々、ウタカタには一度、スバルを毒矢で射殺したという実績もあるのだ。

そうは見えなくとも、ウタカタも『シュドラクの民』の一人には違いない。戦うための覚悟も、相手を殺すという覚悟も、備わっている。

それでも――、

 

「死ぬなよ、ウタカタ」

 

「ウー、死ななイ!スーも死なないデ、頑張ル」

 

声援のつもりが、もっと大きな声援を返され、スバルは言葉に詰まり、何とか弱々しい笑みを作ることでそれに応えた。

正直、アベルとシュドラクの戦いの勝算がどれほどあるのか、全く想像がつかない。

 

皇帝の座を追われたアベルを狙い、相手はバドハイム密林に討伐隊を派遣した。

つまり、敵は帝国の戦力を自分の判断で動かすことが可能な状態にある。一方、アベルが有する戦力はシュドラクだけで、彼女らは百に満たない小勢だ。

もちろん、帝国の陣地を一方的に攻撃し、討伐隊を退けたような神算鬼謀を用い、アベルが連戦連勝を重ねる可能性もあるが――、

 

「――準備ができました」

 

「――っ」

 

と、切り替えたはずの思考に支配されるスバルに、横合いから誰かが声をかける。

途端、びくっと肩を震わせてスバルが振り向き、その勢いに相手も目を丸くした。

 

「――?どうしたんですか、そんなに驚いて」

 

そう言って、顔を強張らせたスバルを見ているのはレムだ。

木製の杖を片手に、少ない手荷物を背負った姿のレムは、スバル同様に森を出ていく準備を済ませたようだった。

 

――そう、この森を離れるスバルの選択を伝えるにあたって、最も意外な反応を見せたのが他ならぬレムだった。

 

正直、スバルはレムに頑なに抵抗され、説得する必要があると思っていた。

最悪の場合、寝ているレムを無理やり連れ出し、夜逃げのような勢いでシュドラクの集落から別れる覚悟をしていたほどだったのだ。

だが、まずは断られることを覚悟で正面から事情を打ち明けたスバルに、レムの反応は思いがけず、あっさりとしたものだった。

 

『――。わかりました。明日までに準備を済ませます』と。

 

だから、こうして旅支度を終えたレムを見ても、スバルはそれをイマイチ現実のものとして受け入れることができずにいた。

 

「……あの?」

 

「あ!いや、悪い、大丈夫だ。うん、旅支度も決まってる。可愛い可愛い」

 

「は?」

 

「じゃなく、しっかりしてる!助かるよ。お前がしっかり者で、俺は幸せ者だなぁ」

 

受け答えがぎくしゃくしすぎて、レムにかなり怪訝な目をされてしまった。

別にご機嫌取りがしたいわけではない。もちろん、レムに反抗されないのが助かる状態ではあるので、できれば関係性の現状維持が望ましい。

理想は、もっと打ち解けたいところではあるが。

 

「――――」

 

それは、スバルの方の精神状態がもっと落ち着いたところで改めて試みればいい。

今は少しでも早く、立ち込める戦争の気配から遠ざかりたいのが本音だった。

 

「それで、あなたの準備は済んでいるんですか?別れを惜しむ時間はあったみたいでしたが……」

 

「ああ、そっちは平気。元々荷物は少ないし、ほとんどレムが持ってくれるしさ」

 

「……でも、あなたは私ごと持っていくことになるんですよ」

 

声の調子を落としたレムが、ちらっと目を向けたのは広場に置かれた手製の木組みだ。

太い枝と蔦を組み合わせて作られたそれは、スバルがレムを背負って移動するために組んだいわゆる背負子というものだった。

 

杖があればたどたどしくも歩くことができるレムだが、ここから最寄りの町へ移動するにも数日がかりの旅路となる。

その間、レムの歩調に合わせていてはどれだけかかるかわからない。そのために、スバルがシュドラクの協力で作ったものだった。

 

「ハンドメイド感はかなりあるけど、強度は問題ないはずだ。ちゃんと、レムよりも重いタリッタさんで実験済みだから」

 

「あまり重い軽いに頓着はしていませんが、タリッタさんに失礼だと思います」

 

またしてもレムの不興を買いつつ、スバルは苦笑して頬を掻いた。

それから、スバルは視線をレムの後ろ――旅の道連れであるルイに向ける。当然だが、スバルがレムを連れていくとなれば、彼女も同行者となるのだ。

 

「いくら何でも、シュドラクのみんなに爆弾押し付けていくのは無理だしな……」

 

そうでなくても、大罪司教から目を離すなんてことは言語道断。

これまで、幾度も目を離してきた機会はあり、そのたびにルイには本性を露わにするチャンスがあったことになるが、今後はそうはさせたくない。

たとえ、ルイの素振りが演技ではなく、本当のそれと思い始めていても。

 

「あー、うー」

 

そのルイだが、長い髪を頭の後ろでまとめて、白い衣装を繕い直し、ずいぶんと印象の変わった装いとなっていた。

どうやらシュドラクの集落では可愛がられていたらしく、直した服も集落の人々からの贈り物であるようだ。

 

「何から何まで世話になって悪いな」

 

「気にするナ、スバル。お前は『血命の儀』を乗り越エ、己の魂の輝きを示しタ。我らがお前に力を貸すのハ、同胞に対する当然の誉れダ」

 

「同胞……」

 

腕を組み、見送りにやってきたミゼルダの言葉にスバルは俯いた。

同胞と、そう親しみを込めて呼んでくれるミゼルダに顔向けできない。だって、スバルはこれから過酷な戦いがあるとわかっていて、そして彼女たちをその戦いに巻き込んだ張本人の一人であると自覚しながら、この場を逃れようとしている。

はたしてそれが、彼女らの語った誇りと誉れある同胞のやることだろうか。

 

「気に病むナ、スバル」

 

しかし、ミゼルダはそんなスバルの心中を読み取ったようにそう言った。

 

「ミゼルダさん……」

 

「我らは戦イ、自らの価値を証明すル。だガ、大事なものを守り抜くことで未来を創ル。一族を守るために必要な考えでもあル」

 

「――――」

 

「レムとルイを守レ。それガ、私が同胞に期待する誉れダ」

 

真っ直ぐなミゼルダの言葉に、スバルは眦の奥が熱くなった。

ルイのことは勘違いだと、そうミゼルダに訂正する気も起きない。せめて、その役割を果たすことで、ミゼルダたちの信頼に応えなくては。

あるいはもう二度と、彼女らと相見えることはないのだろうが――。

 

「こっちは準備できたノー。そろそろ、出発する頃合いなノー」

 

ミゼルダの発破を受けたところで、大きく手を振る女性――髪の先を黄色く染めたホーリィが、満面の笑みでスバルを呼んだ。

そのホーリィの傍らには、髪を緑に染めた細身のクーナがいる。朗らかなホーリィと対照的に無口な印象のクーナ、その二人がスバルたちのお守役だ。

 

最寄りの町――『グァラル』への道中、スバルやレムたちが何かに襲われないよう、守ってくれる手筈となっている。

 

「護衛なんて恐れ多いと思ったけど……」

 

ここは異国で、スバルはたったの数日ですでに何度も死んでいる。

特殊な状況だったことは否めないが、用心するに越したことはない。スバル自身には過信するまでもなく戦闘力がなく、レムとルイに期待するのも無茶な話。

クーナはわからないが、ホーリィは大岩を軽々と持ち上げるのもこの目で見た。道中の護衛役として、十分以上の信頼できる相手だった。

そして――、

 

「――レム、どっか痛いところないか?」

 

背負子をぐっと担ぎ上げ、スバルが背中越しにレムに聞く。

背負子越しに背中合わせのような形になるため、スバルの方からレムの顔を見ることはできない。レムの体を固定するため、できるだけ柔らかい葉っぱや布を詰めてはみたものの、長時間の移動となると不便はいくつも出てくるだろう。

 

「大丈夫です。……あなたの方こそ、いけるんですか?」

 

「一応、適度に鍛えてたからな。まだ体力も完全復活とはいかないけど、いざってときにホーリィたちの手が塞がってるのは避けたいから」

 

そもそも、護衛をしてくれるだけでも大助かりなのに、その上、レムまで運ばせるような真似はどの面を下げても頼むことなんてできない。

 

そんな意地を発揮するスバルと背負われたレム、ちょこんとルイが隣に並び、同行するホーリィとクーナも軽装ながら旅の準備を終えて立つ。

すると、集落の入口にぞろぞろとシュドラクの人々が集まってきた。

 

「でハ、同胞たるナツキ・スバルの安寧ト、目的が果たされんことヲ」

 

「――果たされんことヲ!」

 

先頭に立ったミゼルダの呼びかけに、他のシュドラクが声を合わせる。

びりびりと風が起きたような錯覚を味わいながら、スバルは彼女たちの心意気に、せめて笑顔で「おう!」と応じることを返礼とした。

 

「ありがとう、みんな。どうか元気で!」

 

言ってから、それがひどく欺瞞に満ちた挨拶だったと自分で思う。

これから、彼女たちに待ち受ける波乱の道のりを思えば、「元気で」なんてあまりにも空虚で意味のない言葉だった。

だが、それ以上の何も言えない。それ以上の何も望めない。

 

元気で、この気持ちのいい女性たちにこれからも生きていてほしい。

 

「――――」

 

そう望みながら、スバルは見送りの列の中にあの凶悪なお面の存在を探す。

しかし、当然と言えば当然だが、その姿はどこにも見当たらなかった。

 

見送りにくるような相手でも、そんな関係性でもない。

ここで見かけたところで、スバルがかけられる言葉もなかった。

だから――、

 

「――いってきます!」

「うー!」

 

やけくそのように言ったスバルに、ルイの声が高らかに重なった。

そして、スバルたちは『シュドラクの民』の下を離れ、これから始まるだろう戦火から逃れるべく、最寄りの町であるグァラル目指し、最初の一歩を踏んだのだった。