『罵倒と感謝』


――おお、スバルよ、死んでしまうとは情けない。

 

寝そべってボーっとしていた頭を振り、スバルは上体を起こして周りを見た。

寝起きはいいはずなのだが、意識が判然としないのは純粋な眠りとは違うからか。意識を失う前のことを思い出そうと頭を働かせていると、まず自分のいる場所に見覚えのあることが先に思い浮かんだ。

 

「屋敷のリビング……だよな」

 

「あ、スバル、起きたの?」

 

確かめるような呟きを放った直後、戸を開いて顔を覗かせたのはエミリアだった。

銀色の髪を三つ編みに束ねた彼女は表情をわずかに明るくし、長椅子に横たわるスバルの下へ歩み寄ると腰を折って視線を合わせた。

丸い瞳にジッと見つめられ、スバルは小さく肩を縮めると、

 

「えっと、なにがあったんだっけ、エミリアたん」

 

「屋敷の中に入ってすぐ、スバルが悲鳴を上げたのが聞こえたの。もう私もオットーくんも驚いちゃって。それで中に飛び込んでみたら……」

 

「俺、寝てたりしたの?」

 

「ちょっと語弊があるけど……大枠は間違ってない、かも?」

 

唇に指を当てて首を傾げるエミリア。彼女のその態度からは、スバルが口にした状況に対する切迫感のようなものは伝わってこない。

起きて早々、リラックス状態の彼女がいたことからスバルも緊急性の高い事態にはなっていないのだと判断していたが、それにしたって不可思議さは拭えない。

確か、意識を失う直前になにか鋭い牙の生き物が――、

 

「エミリア様、少しよろしいですの?」

 

外から戸がノックされて、女性の声がエミリアを呼んだ。そちらへ視線を向けた彼女が「ええ」と肯定の返事をすると、ゆっくりとその扉が開かれる。

何気なしにその開かれる扉を見ながら、ふとスバルは疑問に思った。

――はて、今の声は聞いたことのないものに思えたが。

 

そして、そんな彼の疑念はすぐに扉の向こう側によって晴らされることになる。

 

「お飲み物と代えの手拭いを――ああ、お目覚めになられたのですわね」

 

言って、微笑みを浮かべる人物の姿にスバルの目は釘づけになった。

 

透明質な金色の髪を長く伸ばし、ピッシリと背筋を正した女性だ。佇まいと所作の端々に洗練されたものがまじり、流麗な動きには一部の無駄も感じられない。

その格好はロズワール邸では見慣れた給仕用の制服――つまりメイド服であり、可愛らしくも機能的なそれをこれまた折り目正しく着用している。

手にした盆には先述の言葉通りに水差しと手拭いが乗せられており、リビングの中央の卓へそれを音もなく静かに置いた。――採点するならば、完璧で満点。

 

ただし、ガタイと笑顔が凶悪なことを除けばの話だが。

 

折り目正しく着用された給仕服ではあるが、着用者の身長がややスバルより高い上に筋肉質な体格のそれとほとんど変わらない。男ならば屈強で通るそれも、女性に置き換えると途端にたくましいでは済まない事態に陥る。

さらには完璧な所作の終着点として発生する微笑み――それをたたえる口元が、外からはっきりと見てとれるほどに鋭い牙の群れに台無しにされている。落ち着いてみれば細めた瞳の鋭さも尋常ではなく、緑色の瞳の瞳孔は獲物を狙い定めるネコ科の肉食獣のような輝きを宿していた。

 

「お初にお目にかかりますわ。わたくし、ロズワール・L・メイザース辺境伯の屋敷にて使用人を務めさせていただいております、フレデリカ・バウマンと……」

 

「顔恐ッ――!?」

 

丁寧な口調で自己紹介をするのを遮りつつ、スバルの口が率直過ぎる感想を漏らす。と、目の前でそれを聞いた当事者である女性の表情がかすかに固まり、その凶悪な瞳が何度かの瞬きのあと――ジワリと、涙が浮かんだ。

 

「ふ、ぇ……」

 

「あれ?」

 

「スバルのバカ!!」

 

口ごもり、顔を背ける女性にスバルが唖然。直後、怒声と共に耳を引っ張られる痛みがスバルを襲った。

「痛い痛い!」と悲鳴を上げながら視線を向ければ、そこには優しげな眉をきりりと怒らせているエミリアがいて、

 

「女の子になんてこと言うのっ。フレデリカがどれだけ献身的にスバルに……」

 

「お、おやめになってくださいまし、エミリア様。いいのですわ。わたくしが、わたくしが悪かったのでございます。お屋敷に呼び戻していただけたのがあまりに嬉しくて、調子に乗っていましたのですね。……自分が、人に好かれるような見た目でないことも忘れて」

 

怒るエミリアの袖を引き、女性――フレデリカと呼ばれる彼女が顔を横に振る。彼女はエミリアを引くのとは反対の手で己の口元を隠し、

 

「驚かせてしまって申し訳ございません。また、先ほどは大変な失礼をいたしてしまいました。お戻りになられたナツキ・スバル様を、不審者と間違えるだなんて」

 

「不審者って……あ、待て。なんとなく、話の繋がりがわかってきたから」

 

エミリアの折檻から一時解放されて、スバルは耳を撫でながらフレデリカの発言を吟味。そして、今に至るまでの状況のおおよそを把握した。

つまり、スバルが屋敷に入ってすぐに遭遇した謎の人物は――、

 

「屋敷に戻ってたフレデリカさんで、不審者と勘違いした俺を撃退。で、あとから入ってきたエミリアたんと話して誤解が解けて今に至る……ってとこ?」

 

「大正解ですわ……頭の回転が速くていらっしゃるのですわね」

 

「流れでそのへんは読めないことも……いや、その前に」

 

フレデリカの肯定に自分の考えが正しかったことだけ確認し、スバルは彼女の背後で顎をしゃくってフレデリカを示すエミリアを見る。その仕草の意味も、腕を組むエミリアの心中も痛いほどわかる。故に、スバルは長椅子を降りて彼女と向き合い、

 

「初対面の初顔合わせで、いきなりひどいこと言ってすみません。寝起きだとか悪ふざけとか、女の人に許されないことしたと思います。煮るなり焼くなり……あんまり痛くはしないでくれると助かります」

 

潔く、というにはやや弱気の目立つ態度でスバルは頭を下げる。

ファースト接触で互いに好印象とはいえないスタートを切ったのは事実だが、不審者迎撃の意があった彼女と違い、スバルの側の発言は完全な失言だ。

言葉の通り、彼女の怒りが晴れるのならどんな処遇でも受け入れなくてはならない。できれば体の痛みはなしで、罵詈雑言で心抉られるぐらいにしてほしいが。

 

ただ、そんなスバルの男らしくも女々しい謝罪の覚悟は、

 

「――ふふ、面白い方ですわね」

 

と、口に手を当てたまま笑顔を隠すフレデリカの微笑に押し流されてしまう。

疑問符を浮かべるスバルの前で、フレデリカはその透き通る金髪をいただく頭を下げて、謝罪するスバルと同じような姿勢になると、

 

「こちらこそ、謝罪しなくてはいけませんわ。わたくし、エミリア様のお言葉に従ってスバル様を試させていただいておりました」

 

「試し?」

 

フレデリカの言い分に、スバルとエミリアが同時に首を傾げる。意味がわからない。

スバルはまだしも、彼女の言葉を信じるならエミリアまで疑問符を浮かべるのは道理に合っていない。が、フレデリカは同じような仕草の二人を見て笑みを深め、

 

「屋敷を守る使命感があったとはいえ、客人であるスバル様にご無礼を働いてしまいましたから。これはもはや、わたくしは責任を取るには首を差し出すより他にないものと覚悟いたしたのですわ」

 

「いや、それは覚悟決めるの早すぎるだろ。話し合えばわかる男よ、俺?」

 

「と、そのようにエミリア様も強硬に主張されましたわ。それはもう一生懸命に、聞いているこちらが赤面しそうになるほどスバル様への美辞麗句を並べ立てて……」

 

「ふぁ!?」

 

思いがけないフレデリカの言葉に動揺し、スバルが奇声を上げてエミリアを見る。そこには赤面してそれを誤魔化そうとするエミリアが――。

 

「フーレーデーリーカ」

 

おらず、腰に手を当てたエミリアは彼女らしくない剣呑な目つきでメイドを睨む。それを受けてフレデリカは「あら、恐いですわ」と平然と応じ、

 

「相変わらずエミリア様は可愛げがありませんですのね。普通、今の場面ではわたくしの発言の真偽に関わらず赤面して慌てふためくのが様式美ですのに」

 

「え、そうなの……って、今日は騙されないんだから。私だっていっつもいっつも騙されてれば学習しますー。そう、フレデリカは嘘をつくときに目が寄るのよ!」

 

「それは存じ上げませんでしたわ。ところでエミリア様は、ご自分が嘘を口にするときに耳が長くなってらっしゃるのにお気付きでいられますの?」

 

「嘘っ!?」

 

勝ち誇った顔でフレデリカを指差していたエミリアが、彼女の言葉に慌てて自分の両耳を摘まむ。が、もはやその反応が引き出せた時点でフレデリカの勝ちだ。

焦るエミリアはまだ自分の敗北に気付いていない様子だが、それを逐一見守っていたスバルは吐息を漏らして肩をすくめると、

 

「どうも完敗って感じだな。……俺の名前はナツキ・スバルって自己紹介いる?」

 

「ええ、もちろん受け取りますわ。改めて、お互いのことを知り合うといたしましょうか」

 

そう言って口元を隠していた手を除けて、ギバッと牙が並ぶ笑顔を見せるフレデリカ。さっきの反応と違い、その笑みすら武器にしているような彼女のたくましさを目の当たりにして、スバルは今度こそ脱力したのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「そういえばちらっと聞いたことあったな。俺が屋敷にくる少し前に辞めたメイドがいたって。俺が屋敷きて一ヶ月だから……辞めて三ヶ月ぐらいか?」

 

「そうなりますわね。わたくしの一身上の都合での辞職でしたの。ここを離れるのはひどく寂しかったのを覚えていますわ。……思った以上に早く、戻ってくることになってしまいましたけれど」

 

袖口で口を隠して笑うフレデリカ。そうして口元さえ隠してくれれば、美しい金髪にかろうじて凛々しいで通る眼差しも相まって麗しい女性そのものに思える。

その要素も悪戯好きらしき性格と、牙の口がどうしても打ち消してしまうのだが。

 

場所は変わらずロズワール邸のリビングで、今はスバルとフレデリカが名前以外の情報を簡単に交換したところだ。そうして、彼女の自己紹介を改めて聞くうち、その名前に聞き覚えがあったことを思い出したのである。

 

「三ヶ月前ってことはエミリアたんとは面識あったんでしょ?」

 

「ふーんだ。そうですよーだ」

 

「ふーんだとかってきょうび聞かねぇな。そして拗ね方古臭くて可愛いな、オイ」

 

と、問いかけるスバルにすらも目を向けないエミリアは長椅子に腰掛け、こちらに聴覚だけ差し向けながら話には入ってこない様子だ。

フレデリカにしてやられたと遅れて気付いて以来、彼女の様子はこれである。

ともあれ、

 

「戻ったってのはここ二、三日の話だよな。俺らが村を出てから三日……いや、移動時間含めて四日か。かなりのすれ違いっぽいけど」

 

「わたくしも戻って屋敷にきてみればもぬけの殻でしたので驚きましたわ。幸い、旦那様の執務室に置き手紙がありましたのでそこまで困惑せずに済みましたけれど」

 

「置き手紙?」

 

「ええ、ラムから。あの子から屋敷へくるよう呼び出しておきながら、ああして連絡業務を適当に……そこも、あの子らしいところだと思うのは甘やかし過ぎですわね」

 

フレデリカの苦笑には年季の入ったものが感じられて、スバルは彼女とラムとの付き合いがけっこうな月日を刻んでいたのだろうと思う。それは同時に、きっと彼女の記憶からも消えているレムとも同じだけの月日を過ごしているはずで。

 

「ラムがフレデリカを呼び戻したってのは?」

 

「その理由はわたくしもはっきりとは。ただ、当事者であるエミリア様がいらっしゃるのでしたらわかると思いますわ」

 

水を向けられて、ついでに二人の視線もその頬に浴びるエミリア。当の彼女はいまだに『私、今は激おこぷんぷん丸だから』という態度を崩さずに顔を背けたまま。とはいえ、視線を意識してちらちらと薄目でこちらをうかがうのが丸わかりだが。

 

「エミリアたん、機嫌治して……っていうか、そもそも今回は怒らせたの俺じゃねぇし、ちゃんとフレデリカが謝れよ」

 

「お許しくださいまし、エミリア様。先ほどのことはわたくしが悪うございました。お久しぶりにお会いできたのが嬉しくて、フレデリカもついつい魔が差して」

 

「……もう、そうやってからかったりしない?」

 

「ええ、いたしませんわ。わたくし金輪際、今の手口でエミリア様をからかったりいたしません」

 

イマイチ、スバル的には詭弁の疑いが晴れないフレデリカの弁解。だが、我らが女神であるところのエミリアはあっさりと彼女の言い分を信じてしまったらしく、それまでの不機嫌な表情を「仕方ないなぁ」という感じにゆるめてしまい、

 

「わかりました。もう怒ってません。これでいい?」

 

「はい、申し訳ありませんでした、エミリア様。――ちょろいですわ」

 

後半の呟きがなぜかスバルにだけは聞こえて、思わずギョッとしてフレデリカを見るが彼女は知らぬ顔。そして、ちょろいと思われたことにも気付かないエミリアは「それで」と立てた指を頬に当てながら、

 

「えっと、ラムがフレデリカをお屋敷に呼び戻した理由……よね」

 

「そ、そ。辞めさせた相手を急遽呼び出すぐらいだし、なんか火急の用件が……って、それは思い当たる節があったか」

 

火急の用件もなにも、つい先日までこの屋敷及びアーラム村は魔女教の脅威にさらされていたのだ。一瞬にしてスバルの意識を奪ってみせた技量からして、フレデリカもまたロズワール邸の怪しいメイドらしくなにか戦闘技能があるに違いない。

つまり、ラムが彼女を呼び出したのは緊急時の屋敷戦力として――、

 

「ラムの家事能力が壊滅的で、お屋敷がひどい有様になっていったから……よね。なんだか数日で、もうどんどん住める場所がなくなっていっちゃって」

 

「切実な理由だった!そしてホントに口ほどにもねぇ……いや、あいつは自分じゃダメだって自己分析してた!正しかったけど、少しは見返す努力しろよ!」

 

深読み外れて切実さに胸が張り裂けそうな理由だった。

スバルの叫びにエミリアが苦笑し、それからリビングを――否、それを通して屋敷の全域を見通すように視線をめぐらせ、

 

「でも、フレデリカが戻ってくれたおかげでお屋敷が綺麗になってるじゃない。変な意地張って事情を悪くするより、できる人に任せるラムの判断は正しいと思うわ」

 

「エミリアたんにそんな気ないと思うけど胸に痛いよその台詞!そして、でもあいつが即行で諦める理由にはならないとも思うんだ!」

 

「ラムの評価はともかく、わたくしとしては久しぶりにやりがいのあるお仕事をさせていただきましたわ。幸い、皆様が留守にしていらしたので、お世話に回る時間の分も屋敷の清掃や片付けにあてられたんですもの」

 

その働き者ぶりの片鱗を感じさせるフレデリカには凄みがある。そんな彼女の発するハウスヘルパーとしての実力に息を呑みながら、その一方でスバルは痛感せざるを得なかった。

『暴食』の権能がもたらす、レムの存在抹消による世界の埋め合わせの力を。

 

「ラムひとりじゃ屋敷が回せないから、誰かを頼るのは当然の帰結……か」

 

故に、ラムは辞職したフレデリカに連絡をとって屋敷へと再び呼び戻した。レムの存在なくして機能を維持できないロズワール邸を、それでも機能させるためにレムの代替品としてフレデリカを。

だが、そんな悲しい真実を知るものはスバルしかいない。フレデリカは必要とされたことに応じ、ラムは何故急に彼女の力が必要になるほど自分と屋敷の間のキャパシティの違いがあるのかわからないまま。それだけの話だ。

もっとも、

 

「勝手にしんみりしといてなんだが……ひょっとして、ロズワールの屋敷のメイドってなんかイロモノじゃないとなれなかったりするの?」

 

「……?旦那様が雇用主の時点で、スバル様はなにを言い出していらっしゃいますの?」

 

「すげぇ嫌な説得力!」

 

もうそれだけで今までの疑問に決着がついてしまう安定の答え。

それを受け、フレデリカは満足そうに頷くと、それから姿勢を正してスバルを見つめる。何事か、と構えるこちらに「ところで」とフレデリカは声を落とし、

 

「屋敷の前に止めた竜車で、もう御者の方が一時間近く放っておかれていらっしゃいますけれど……よろしいんですの?」

 

「うん?ああ、オットーのことか。そうか、一時間も放置……うん、まぁ、いいんじゃない、別に。パトラッシュはちゃんと厩舎入れて休ませてやりたいけど、オットーの方はそんな気遣わなくても」

 

「死線を一緒にくぐった仲だったのに薄情もいいとこですねえ、ナツキさん!まさか僕ぁ地竜より優先度が下とは思いませんでしたよ!」

 

言いながらリビングの扉を派手に開いたのは、今しがた話題に上がったオットーだった。肩を怒らせる彼はスバルの方を鼻息荒く睨み、不機嫌を露わにしている。

そんな彼の出現にスバルはゆっくり立ち上がると、首を横に振って吐息をこぼし、

 

「違うな、間違ってるぞ、オットー」

 

「なにがですか。今さら、さっきの発言を撤回しようとかしても遅い……」

 

「地竜より優先度が下なんじゃない。地竜より優先度がずっと下なんだ」

 

「二番底じゃん!なお悪いじゃぁないですか!」

 

地団太を踏むオットーの反応に満足して、スバルは窓の方へ視線を向ける。そっちが正門側で、つまりはパトラッシュ率いる竜車が止めてあるはずの場所だ。

その視線のあとを追い、意図に気付いたオットーは渋い顔で、

 

「パトラッシュちゃんは厩舎に入れてありますよ。気位が高くて扱いづらい子ですけど、ナツキさんには迷惑かけたくないみたいで従順ですから」

 

「お前の口から聞くと『言霊』の加護の効力を疑うな。擬人化したらクーデレ系まっしぐらじゃねぇか、パトラッシュ。いつフラグ立ったんだ?」

 

「知りませんよ、んなこたぁ。それより……」

 

真面目に尽くしてくれるパトラッシュの気持ちの発生源がわからず、首をひねるスバルにオットーが別の話題を振る。それは引き続き竜車の扱いのことであり、それはつまり――、

 

「中に寝かせてる女の子、どうします?ずっと竜車に押し込めておくのは可哀想ですし、お忙しいんでしたら僕が部屋まで連れて……」

 

「――レムに触るな」

 

悪気のないオットーの申し出。だが、それに応じた自分の声の冷たさにはスバル自身が驚くほどの切れ味が込められていて、思わず彼がギョッとするのがわかった。

小声で呟かれたそれは低く暗く、重々しい粘ついた意思が反映されている。幸いにも女性陣の耳には届かなかったらしいが、スバルは自分自身の喉から出たその声の異常さにかすかに動揺しつつも、

 

「……運び込むのは俺がやるから、お前はいいよ。女の子抱え上げて、お前の腰に悲鳴を上げさせるのもよくないし」

 

「言っときますけど、行商人は仕事柄もっと重たい商品の持ち運びもしますんで、ナツキさんが思ってるほど僕ぁひ弱じゃぁないと思いますよ」

 

先の発言を誤魔化すようなスバルの軽口に、オットーは刹那の躊躇いのあとで乗っかってくる。その彼の計らいに感謝しながら、スバルは吐息をこぼす。

いくらなんでも今のは過剰反応が過ぎる。意図していないとはいえ――いや、無意識になっていたからこそ問題だ。神経が過敏になりすぎて、善意悪意問わずにレムに干渉しようとするものに敵愾心を抱くようになっている。

 

「よくない傾向だな……クソ、情けねぇ。どうして俺はいつもこう……」

 

ひとつのことを乗り越えたはずなのに、またすぐ次の石ころにつまずくのか。どうしていつまでも真っ直ぐに立つための、強いなにかを持つことができないのか。

レムがいてくれれば、エミリアを見つめていられれば――彼女ら二人とともにあれたのなら、きっと揺らがないそれを手にしていたはずなのに。

 

「自業自得……いや、そのツケをレムに払わせてんだ。とんだヒモ野郎だな、俺は」

 

もっと、うまくやる道はきっとあったはずなのだ。

自分にできる最善を尽くしたと、数日前のループの終了直前までは思い込んでいた。でもきっと、もっと完璧で一部の隙もない、最高で最善の結果もどこかにあった。スバルはそれを見つけ出す道を取りこぼし、そこそこの道を妥協の意思で通り抜けて不完全な未来に辿り着くことしかできなかった。レムの犠牲は、その代償だ。

 

スバルがもっと賢ければ気付けたはずだったのだ。

屋敷からエミリアたちを避難させる前、スバルがクルシュの使者に持たせた親書は中身が白紙になっていた。あれは使者に同行していた魔女教徒がすり替え、こちらを撹乱しようとしたものと判断していたが、それはおかしいのだ。

あの時点で魔女教がスバルたち一行の脅威を把握していたはずもなく、また親書をすり替えることによるエミリア陣営への不信感の植え付けなどと迂遠な手段を用いるとも思えない。なにより、それをするならば白紙であるより内容を改竄してしまう方がよっぽど効果的ではないか。

ならばなぜ、親書は白紙になっていたのか。魔女教徒の手によるものでないとしたら、その答えはひとつだけだ。

 

「親書の内容はレムが書いた。届けるよう頼んだのは俺で、持たせたのがクルシュさんだったから受け渡しの事実だけ残って、中身だけ消えたんだ」

 

それが『暴食』の権能によって、記憶と名前を喰われた存在の辿る末路。

世界からその存在を抹消されて、わけのわからない継ぎ接ぎだらけの世界が残る。意識しなければ気付けない違和感は、存在の抹消で意識することすらできない。

そうなればその存在は、なんのために誰のために――。

 

親書が白紙であったその事実をもっと深く受け止めていれば、もっとちゃんと考察して真実を看破していれば、ひょっとしたらどうにかできたのではないだろうか。

エミリアの発言を思い返せば、親書が届いたのは最終日の前夜。その時点で中身が白紙になったのなら、レムが暴食に襲われたのはその時間前後ということになる。その時点ならばスバルはレムと別れてまだ時間が経っていない。合流の目は、極小ではあるが残されていたはずだった。

だが、現実にはスバルはそのチャンスを見落とした。どうして見落としたのか、今となってはもはやわからない。違和感はなかったのだろうか。

 

シスコンのラムが、王都に一緒に残してきたことを知っているはずのエミリアが、この二人がレムのことを一切話題にしなかったのに、どうして――。

 

「――あ」

 

そして、ふと気付く。

気付いた瞬間、スバルは間抜けな声を発して額に手を当てる。それから流れるような動きで壁に歩み寄り、思い切り頭を叩きつける。

衝撃と痛み。だが一度では足りず、二度、三度と繰り返す。

 

「ちょ、スバル!?」

 

スバルの奇行に唖然としていた三人だったが、最初に我に返ったエミリアが驚いた様子でスバルへ声を飛ばす。彼女はそのままスバルの肩を後ろから掴んで、額を打ちつける彼を振り返させながら、

 

「急にどうしたの。スバルが変なことするのは今に始まったことじゃないけど、今のはいくらなんでも……あー、ほらおでここんなに赤くしちゃって」

 

「自分の馬鹿さ加減に心底呆れ果ててたとこだよ、マジで」

 

額に触れてくるエミリアの指先の冷たさを感じながら、スバルは思い切り首を振って自嘲を表現。口にした通り、あまりの自分の愚かさに目も当てられない。

スバルは間近のエミリアを真っ直ぐに見つめて、

 

「エミリアたん、お願いが」

 

「な、なぁに?ちょっと、スバル、顔が近くて目が恐い……」

 

「どうしようもなく馬鹿な俺を、ちょっと罵ってくんないかな」

 

「え?」

 

驚きに目を丸くするエミリア。その態度に拒絶を見て、スバルは彼女の両肩に手を伸ばすとしっかりと逃がさないようにホールドして、さらにずいと顔を近づけ、

 

「お願いします。どうか俺を許さないで、罵ってくれ」

 

「そ、そんなことできないってば。私、スバルが悪いなんて思わないし……」

 

「そこをなんとか!」

 

「なんとかって言われても……」

 

「お願い!やってくれたら、俺の魂はエミリアたんに捧げるから……!」

 

「そんなに重たいこと言われても困るってば!もう、しょうがないんだから」

 

必死に変態的なスバルの申し出に、エミリアは散々の逡巡のあとで仕方なく頷く。それから彼女は小さく咳払いすると、ちらとスバルを上目に見て、

 

「スバルのバカ」

 

「うっ」

 

「やんちゃ坊主、意固地、自分勝手、悪ガキ、根性悪、すぐ調子に乗る」

 

「うぐうぐぅ」

 

「頼んでないのに他人のことばっかり気にして、身の程知らず。嫌われ者のハーフエルフに肩入れなんかしてお人好し。なじられて落ち込む私の代わりに前に出て、無鉄砲に振舞って扱き下ろされてる向こう見ず」

 

「うぐ……うん?」

 

「聞いてるのにはっきり答えないで、曖昧な言葉で逃げようとして臆病者。大ゲンカしたのに困ってるときに助けにきちゃう大バカ。どうしようもなくなって、なんとかしてほしいときに欲しい答えをくれる卑怯者。全部終わって、みんなが後片付けに駆け回ってる中でひとりだけ寝ちゃって怠け者。スバルのオタンコナス」

 

「オタンコナスってきょうび聞かねぇ……てか、エミリアたん」

 

なじる言葉の数々を期待していたのに、かけられる罵詈雑言は予想のそれとは違っていて。スバルの心を掻き毟るような醜い傷を与えるのではなく、深く優しく、スバルだけでなくエミリアの心も傷付け合いながら発されていた。

スバルの呼びかけにエミリアは上目のまま唇を尖らせて、

 

「なに」

 

「なんつーか、俺のことそんな風に思ってたのかよ」

 

「ホント、思わぬ本音が飛び出しちゃった感じ。勢いに任せて自分でもなにを言ってたのかわかんないぐらい。……スバルは本音だと思う?」

 

「どうだろな。勢いに任せて出たのが本音かどうかってのは……判断が難しいとこだと俺は思うぜ」

 

少なくともスバルは、勢いで口にした言葉を後悔した経験がある。

果たしてそれはいつも思っていたから出た本音なのか、それとも勢いに任せて飛び出してしまったその場限りの感情の吐露でしかないのか。

その答えはきっと、誰にもわからないものだと思うのだけれど。

 

「ありがとう、エミリアたん」

 

「私、スバルに文句言っただけ。それで感謝するなんて……スバル、変態さんなの?」

 

「エミリアたん専門の変態なんだ。君が俺に向けて発信してくれるなら、罵詈雑言だろうと誹謗中傷だろうと交通安全の俳句だろうと快楽中枢を刺激してくれる」

 

「最後だけわからないけど、すごーくわからなくていいことみたいだから聞き流してあげる。――それで、満足したの?」

 

含み笑いで応じたあとに、最後の最後で憂いの瞳。

そういうことを素で見せてくれるから、離れられなくなるのに卑怯だ。

彼女のその仕草にスバルは歯を見せて笑い、

 

「ああ、大丈夫。いや、やっぱダメかも。エミリアたんが俺に勇気の出る口づけのおまじないとかしてくれればなんとか……」

 

「残念ですが、本日のお願い受付窓口は終了してしまいました」

 

「ガッデム!失敗した!どうして俺はいつも……遅すぎるんだ……ッ!」

 

本気で崩れ落ちて悔しがるスバルの姿にエミリアは苦笑。ともあれ、ひとしきり悔しがったあとでスバルはけろりと立ち上がって部屋を見回し、

 

「それはそれとして、ちょっと野暮用が生じちまった。エミリアたんたちには悪いけど、少しだけ時間が欲しい。そんなにかからないと思うけど……なんだよ、オットー、その面は」

 

「今のこそばゆいやり取りを目の前で見せられてた僕は賠償を請求したい気分だったりするんですが、その値段交渉は後回しにするとして……なにをするんです?」

 

蚊帳の外にいたオットーが不服そうにそう呟くと、スバルは腕を組んで首をひねる。そういえば、オットーはこの屋敷にまだ面識のない人物がもうひとり潜んでいるだろうことを知らないのだ。

そんな彼に、これからスバルがどこへ向かおうとしているのかを説明しようとすれば、どんな言葉がふさわしいのか。

ほんのわずかな時間だけ悩み、それからすぐにスバルは組んだ腕を解くと、

 

「ちょっと、カビ臭い部屋に引きこもってるドリルロリに会ってくる」

 

と、完全に説明責任を放棄した言葉でオットーを混乱させたのだった。