『雪解けを待つあなた』
――黒い、暗い、遠い、深い、長い、重い、苦い、闇がある。
「――――」
およそ、この世の悪いものを全部一緒くたに混ぜ込んだような、そんな重苦しく、息苦しい闇が、全身にべったりとまとわりついている感覚があった。
顔が、体が、手足が、肌という肌がその闇に汚染され、じくじくと、血が滲み、渇きを訴えるような不快感が延々と付随する。
想像できるだろうか、体中、余すところなくカサブタに覆われるような感覚だ。
肌が突っ張り、触れれば人の肌とは思えない感触が返り、そもそもカサブタに触れる指先さえもカサブタに覆われていて、本来の『自分』の姿形がわからない。
――否、本当にわからないでいるのは、外見的な姿形だけではない。
「――――」
もっと奥の、本質と言い換えるべきか。
あるいはこれを『魂』と、そう言い表すべきなのかもしれない。
自分の、『魂』の形を、在り様を見失い、散々、どうしようもない迷走を繰り返した挙句に、ようやく、その一欠片に指がかかったような、そんな感覚。
そのかかった指に返る反応が前述のカサブタなのだから、徒労とは言わずとも、不安と嫌悪は一入と言えよう。本当に、これを手繰っていいものか。
「――――」
この先に、本当に自分の求める『自分』があるのか。
手繰った先に辿り着いたとき、全く違う己が始まったりはしないのか。奇妙な想像ではあるが、全くありえない話ではない。実際、自分の身に起きた出来事はそれに近い唐突感と、非現実性をもたらした。
それを我が事と受け止め、自分自身に訪れた試練と受け入れ、それを乗り越えた先にある光景を求める。――それだけのことに、どれだけ時を費やしたことか。
「――――」
だから、強い不安がある。
本当にこの先でいいのか。受け止め、受け入れ、求めた場所がそこにあるのか。
託し、信じ、赦し、願い、在ろうとした『自分』が、そこに。
『――愛してる』
――そんな、たとえようもない不安が、導くような声に溶かされ、薄れる。
「――――」
――白い、明るい、高い、尊い、美しい、甘い、光に向かって。
その魂は、ナツキ・スバルは――。
※※※※※※※※※※※※
瞬間、緩く深い眠りの淵から意識を引き上げ、ナツキ・スバルは覚醒した。
「――ぁ」
弱々しく、最初の一息が唇から漏れる。
ひどく掠れて、生気に乏しいものであったが、紛れもなく自分の声音だ。そのことで、自分が声も出せない単細胞生物に転生したわけではないことがわかる。
これで一歩前進だ。あとは、自分が全く新しい価値観の存在でないことを早々に確かめることができれば――、
「――スバル、目が覚めた?」
「――――」
その、スバルの鼓膜を、すぐ近くで揺すぶったのは銀鈴の声音だった。
涼やかで優しく、穏やかで芯が強く、華やいで、そして愛おしい、声音だった。
直前まで、本当にひどい状態で、聞いていたはずの声。
それが聞こえて心臓が弾む。胸が痛くなり、スバルは拍動に耐えながらゆっくりと視線を横へと向けた。
「――――」
――そこに、優しげな憂慮で瞳を満たした、紫紺の輝きが待っていて。
「……えみ、りあ?」
「ええ、そうよ。スバル、大丈夫?起きれる?ちゃんと話せる?」
「ええと……」
たどたどしく名前を呼ばれ、紫紺の瞳の持ち主――エミリアが唇を緩め、首を傾げる。長く美しい銀髪が、白くなだらかな肩の上を流れ落ちる。それはまるで、月の煌めきが光の中を優雅に泳ぐようにも見えて、壮烈な美しさがスバルの心を焼いた。
――端的に言って、この世のものとは思えない美少女がそこにいた。
「う、ぁ……」
それを意識した途端、スバルの頬を凄まじい勢いで血が満たした。
顔が熱くなり、顔が赤くなり、目が泳いで声が出なくなる。耳が痛くなるぐらいに充血して、「あわわ、あわわ……」と声が漏れた。
「あわわ……?」
激しく動転するこちらの様子に、エミリアが形のいい眉を顰める。その、ほんのささやかな仕草にさえも、稀代の芸術家が描いた二枚の名画のような別種の感動がある。
それを至近で、息がかかるほどの距離で目の当たりにしてしまい、痛みと切り離せずにいた拍動がさらに高く強くなり、スバルを苦しめた。
「――――」
なんだこれは。なんなのだ、これは。
現実なのか、これは。質量を持った幻か何かではないのか。砂漠で見る蜃気楼と言えばオアシス――つまり、その瞬間に最も欲するものを見るのがお約束だ。
そのルールに則って考えれば、これは蜃気楼なのではないか。なんと贅沢な幻――、
「だ、大丈夫、スバル?やっぱり、どこか調子が悪いんだわ。倒れてたんだもの」
「ひゃぅっ!」
「ほら、今、ひゃうって!」
混乱の極みにあるスバルだったが、額に当てられたすべらかな掌に肩が震えた。
それを見たエミリアがスバルの不調を確信して目を瞬かせるが、スバルの方も『エミリア蜃気楼説』が否定されて、天動説を覆された学者のような心境を味わっている。
ただ、確かに触れた感覚はあった。彼女の存在は、現実が肯定している。
そして実在するエミリアが呼びかけてくれている以上、自分がナツキ・スバルであることもまた、肯定される。
それに何より――、
「――さっきから、ベティーを蔑ろにして話をするんじゃないかしら。まったく、心配してたのはエミリアだけじゃないのよ」
「――っ」
そのエミリアの反対側から、不満を訴えるような幼い声が聞こえ、振り返る。
そうして振り返る視界に飛び込んできたのは、可愛らしく頬を膨らませる幼女――、
「ベアトリス……」
「また、ずいぶんとへちゃむくれた声を出すかしら……まるで、可愛いベティーがここにいるのが信じられないみたいな顔つきなのよ」
弱々しい呼びかけを受け、ベアトリスが憂えるように眉尻を下げる。言葉の内容は叱りつけるようだが、その響きには心配と安堵の色が濃い。
スバルが目覚めたことへの安堵と、そもそも意識をなくしていたことへの心配。それを思わせるベアトリスの態度に――否、彼女の存在に、スバルの心が動いた。
すなわち――、
「――にゃっ!?」
つんと澄ました表情でいたベアトリスを掴んで、スバルはその軽い体を一気に自分の胸元へと引き寄せる。軽い。本当に軽い体だった。
突然の行動にベアトリスは何の抵抗もできず、目を白黒させながらすっぽりとスバルの腕の中へ。蔦で編まれた緑色のベッドの上、スバルは力一杯、その存在を確かめた。
「ベアトリス、ベアトリス、ベアトリスぅぅぅ!」
「な、な、な、なんなのかしら!?どうしたのよ!?いきなりすぎるかしら!」
「お前、お前……お前は、ホントに、落ち着く顔してるな!実家に帰ってきたような可愛さだ。惚れ惚れするぞ」
「それ、まさか褒めてるつもりじゃないと思いたいのよ!?」
ベアトリスを抱きしめ、その顔を眺めながらスバルはしみじみと言い放つ。その行動と内容に顔を赤くして、ベアトリスが小さな掌でスバルの顔を強く挟み込んだ。
少女の小さな指が頬や耳に引っ掛かり、可愛い痛みを味わいながら、スバルはこの場所に確かに、ベアトリスという少女の実在を実感する。
「もう!スバル、起きてすぐにふざけないの!まだ、なんで倒れてたのかわかってないんだから……」
そうして、ベアトリスを抱きしめてはしゃぐスバルの様子に、若干の仲間外れ感を味わったエミリアが口を挟む。
スバルの身を案じ、エミリアがそっとスバルの肩を掴もうとして、止まった。
「――スバル?」
怒りより、心配の色が濃かったエミリア。その声色に混ざる感情が、心配一色に変化した。驚きに見開かれる瞳が、触れようとしたスバルの肩を見つめる。
微かに震え、嗚咽するスバルの肩を。
「……ぅ、く」
「スバル?スバル、どうしたかしら。ベティーはここにいるのよ。大丈夫、大丈夫かしら。泣かなくていいのよ」
喉で声を詰まらせ、嗚咽するスバルの様子に気付いて、ベアトリスが混乱の色を消した顔で、そっと涙に濡れるスバルの頬を撫でた。
小刻みに震える手が、ベアトリスの幼く小さな体を手放すまいとしている。それが、不安と恐怖を起因としたものだと、ベアトリスはわかっていた。
だから、ベアトリスは優しく、語りかけるように、スバルの心に呼びかける。
泣かなくていい。自分はここにいる。スバルは、大丈夫だからと。
「泣かないで、スバル。焦らなくていいから。ゆっくり、深呼吸して、落ち着いて。ちゃんとベアトリスも、私も、一緒にいるから」
ベアトリスと同じように、エミリアもまた、寝台の上のスバルを慰める。
先ほどは触れるのを躊躇った手で、今度は躊躇わずにスバルの肩に触れて、エミリアの銀鈴の声音が、ナツキ・スバルの行動を、決断を、尊重する。
「――――」
二人の、その存在も、在り方も、変わらない。
何もかもが崩れ、失われ、取り返しのつかなくなってしまった世界で、それでも自分よりも他人を、スバルを優先して、死地の中でも気高くあった二人は、変わらない。
それを確かめて、それを求めて、それを今度こそ、やり通すために。
ナツキ・スバルは、『ナツキ・スバル』として、全てを取り戻すために――、
「戻って、きたぜ……」
嗚咽まじりの、締まらない態度と声で、これ以上ないほど情けない、みっともないシチュエーションではあったが。
――ナツキ・スバルは、全てを奪還するための新たなループを開始する。
※※※※※※※※※※※※
「そんなわけで、実は『タイゲタ』の書庫で記憶を落っことしてきたらしいんだ。みんなには色々と、会話が噛み合わなかったりで迷惑をかけるかもしれないんだが、そこのところは了承してほしい」
「――――」
朝食の席、車座となった仲間たちの真ん前で、スバルはそう言って丁寧に頭を下げた。
そんなスバルからの爆弾発言というか、発言の絨毯爆撃にみんなの反応は様々だ。とはいえ、一番色濃いのが混乱であり、戸惑いや悲嘆は後回しの様子だった。
「みんな、すごーくスバルのことが心配だと思うわ。でも、私たちがしゃんとしててあげないと、一番不安なのはスバルなんだから……」
「……エミリア様はそうおっしゃいますが」
と、頭を下げたスバルの隣で、思わしげな表情でエミリアがフォローを入れる。
しかし、そのエミリアの言葉に懐疑的な目をするのはラムだ。彼女は己の腕を抱いて、薄紅の瞳を細めてスバルを睨みつけると、
「ラムには肝心のバルスが一番不安がっているようには見えません。というか、これは何の茶番なの、バルス」
「茶番じゃねぇよ。すげぇ正直に不安と事実を打ち明けてるよ。意固地になって話さないでいて、それで引き起こされる悲劇が目に浮かぶみたいで俺の胸は張り裂けそうだ」
「――――」
渋い顔をしたスバルの受け答えに、ますますラムの視線が疑わしげになる。
そんな二人の険しいやり取りを、一足先に緑部屋で事情を聞いていたエミリアがあたふたとした反応をする。『記憶喪失』の話を打ち明けられ、エミリアとベアトリスが動揺しつつも、スバルの身を案じて受け入れてくれるのはこれまで通り――今回もその形は踏襲され、彼女にはこの打ち明けの席での援護をお願いしていたのだ。
――あの戦慄の周回を半ばでリタイアし、ナツキ・スバルは新たな周回へ突入した。
格好いい言い方をすれば、再びゼロから異世界生活を始める覚悟を決めた、といったところだが、もちろん、実態はそんな素敵なものではない。
覚悟を決めたはいいが、『死』に臨んだあの瞬間、終わっていた可能性もあった。
そうはならず、こうして『死に戻り』によって再出発の機会を得たことには、正直、安堵と感謝を禁じ得ない。――だが、それに頼りきりになるつもりも毛頭なかった。
スバルの身に宿った『死に戻り』の力は、運命を捻じ曲げる強大な力だ。
トリガーが『死』であることは使用者であるスバルには辛いが、それが運命を捻じ曲げるための代償の一つと考えれば、このぐらいはあって然るべきだろう。
代償の一つ――そう、スバルは『死』は、代償の一つに過ぎないと考えていた。
強力な力には、それに見合った代償があると考えるのが自然だ。当然、スバルは自分の『死に戻り』も、そのご多分に漏れないものと想定している。
回数制限付きか、あるいは繰り返すたびに何かを犠牲にしている可能性が高い。
無限の試行回数を与えられるほど、スバルは自分が運命の女神に溺愛されているなどと自惚れていない。誰かに愛された経験など、胸を張って言えるのは両親ぐらいだ。
そうなると、『死に戻り』の限界を知るための試行錯誤――自分から『死』を重ねるといった行動は自然と選択肢から外れる。これが最後の機会でも、何の不思議もない。
仮に何かを犠牲にしているパターンであれば、よくあるのは大切な存在や、重要な思い出を引き換えにする、などだろうか。
生憎、記憶のないスバルにとって、大切な存在となり得るのは元の世界の家族を除けば、この世界では塔で接点のあるエミリアたちだけ。
と、そこまで考えて思ったのは――、
「まさか、俺の記憶が消えてるのって、『死に戻り』の代償じゃねぇだろうな……」
想像するだに恐ろしいことだが、十分にありえる可能性ではあった。『死に戻り』する代償として記憶を捧げる。悪辣な趣向だが、『死に戻り』自体そもそも悪趣味だ。
何より恐ろしいのは、仮にそうだったとして、これを確かめる術がないことにある。
実際、スバルの記憶喪失と『死に戻り』の関連性は不明だ。ひとまず、『記憶喪失』を自覚した以降、すでに四回死亡しているスバルは、少なくとも自分で把握できる範囲では記憶の欠落を確認していない。
コンビニ帰りに塔で目覚めた、というスタート以降の記憶は鮮明だ。
――まさか、間の記憶にない周回が無数にある、なんてことがないことを願いたい。
「――ちょっと、聞いているの、バルス」
と、思索の内にいたスバルを、険の強いラムの声が現実に引き戻す。その視線に、スバルは「ん……」と喉の奥から声を漏らし、
「ああ、聞いてるよ。驚かせたのはわかる。いきなりの話だし、簡単に信じてもらえないって気持ちはわかるんだが……」
「わかるけど?」
「俺に……」
「スバルに、こんな悪趣味な嘘をつく理由がないのよ。ラムも、スバルの考えにそのぐらいの信用は持っているはずかしら」
言葉を選ぶスバルに代わり、ラムに応じたのはベアトリスだ。スバルの隣にお行儀よく座る彼女は、緑部屋で事情を受け入れて以来、全面的なスバルの味方だ。
「ベアトリス様……」
「エミリアの言葉も、まんざら嘘じゃないのよ。記憶をなくして、一番不安がってるのはスバルかしら。だから、ぽろぽろ子どもみたいに泣いたりもしたのよ」
「そのエピソード、話されると恥ずい」
思わぬ暴露にスバルは頬を掻き、自分の涙の理由を『そういうこと』にした。
実際は『死に戻り』できたこと、再会が叶ったこと、自分にやり直すチャンスが与えられたこと。色々と様々な要因が重なった涙だが、涙は涙だ。
男の涙の理由など、細かく掘り下げる意味もない。
ともあれ、こうして味方してくれるベアトリスには感謝の念が堪えない。
エミリアと同じで、緑部屋で話を聞いた当初は混乱していたベアトリスだったが、エミリアより事情を呑み込むのに時間をかけた分、見た目にそぐわない思考力と包容力でスバルのサポートを約束してくれたのだから。
――それだけに、前回の最後、ベアトリスが見せた儚い安堵と、『連れ出した』という言葉が思い出され、スバルは胸中を鎖で締め付けられる痛みを覚える。
いったい、『ナツキ・スバル』は、ベアトリスに何をしてやったのか。
それを知らずして、彼女の信頼を頼りにすることへの罪悪感。これを、当然のことと甘ったるく受け止めたくはないと、自分を戒める。
「正直、記憶がなくなったみたいなデリケートな話を、ここでそんな嘘をつく理由がないって理屈で蹴飛ばすのは乱暴だけど、そこは呑み込んでほしい」
「呑み込めって……」
「その上で、建設的な話をしよう。幸い、今の俺は前向きだ。前進するための話なら大歓迎だし……言いたいことがあれば、それもちゃんと聞くぞ」
ベアトリスの意見を下地に、スバルはそう言って改めて頭を下げる。そのスバルのフォローのために、エミリアも「お願い、信じてあげて」と頭を下げてくれていた。
「――――」
エミリアとベアトリス、それにスバルの神妙な態度を見て、さしものラムも反論の言葉が出てこない様子だ。そうして、最初の衝撃に対する反射的な反発が済めば、遅れてやってくるのは順当な戸惑いである。
もちろん、スバルの『記憶喪失』発言に衝撃を受けたのはラムだけではない。一番顕著な反応を見せたのが彼女であるだけで、ラム以外の面々――エキドナにユリウス、シャウラの反応も、スバルが二度ほど経験した流れと一致していた。
「――――」
正直、エミリアとベアトリスとの再会もかなりくるものがあったが、この場でいっぺんに他の面々との再会も叶った瞬間、スバルの心は壮絶に揺るがされた。
レイドと共に下層へ残したユリウス。両足を吹き飛ばされ、スバルを疑ったことを謝罪しながら命を落としたエキドナ。あの混乱の最中、塔の中で姿の見えなかったシャウラ。そして、最も強い疑いをスバルへ向け、その後の再会ができなかったラム。
全員、全員が揃っていた。全員と、また言葉を交わす機会が与えられたのだ。
そうして、何より、この場でスバルが最も強く意識していたのが――、
「――それにしてもお、お兄さんってばホントに困った人よねえ」
「――っ」
「なあに、その反応。まるで死んじゃった人に会ったみたいな顔して、すごおく失礼じゃなあい?」
そう、スバルの話を聞いても、大した驚きを得ていないような態度で少女が嘯く。
濃い青の髪を三つ編みにして、黒い装いにワンポイントのお洒落を欠かさない幼い殺し屋――メィリィ、だ。
メィリィ・ポートルートが、動いて喋って、確かにそこにいる。
「メィリィ……」
「あらあ?わたしの名前は覚えててくれてるのねえ。……っていうか、わたしはお兄さんがいつもとどこが違うのかわからないんだけど、何を忘れちゃったのお?」
「――。ああ、ちょっとややこしいよな。今のとこ会話に支障ないように見えるかもしれないけど、少し深掘りすると結構ぐずぐずだ。いわゆる、エピソード記憶の欠落ってヤツで、物の名前とかはわりと覚えてるんだが、人との思い出はかなり危うい」
「……それって、例えば昨日のこととかもなのお?」
「――そうだ」
目を細め、微かに声の調子を落としたメィリィ。彼女の問いかけに、スバルは一瞬だけ躊躇ったが、その感覚に負け、おためごかしを並べることをやめて答えた。
たぶん、苦しい言い訳で言い逃れることもできたが、それはしなかった。しないと決めていた。――可能な限り、スバルは誠実に、彼女らとやっていく。
「――昨日のことを、か。それは、それは、そうだな」
「――――」
そのスバルの答えを聞いて、ある意味では『記憶喪失』発言以上のショックを受けるのが、そう呟くユリウスや、何やら怪しげな密会があったとされるエキドナだった。
ただ、そんな彼らの反応を余所に、
「お師様、また記憶なくしたッスか?あーしのこと何回忘れたら気が済むんスか。あーし、まいっちんぐッスよ~」
と、自分の豊満な胸を押し潰して、シャウラが不満げに唇を尖らせる。
前回まではさらっと流せたシャウラの戯言だが、ここまでくると、微妙に聞き流せない雰囲気の発言である印象が強い。
「お前の与太を掘り下げるのもおかしな気分だけど、そんなにお前のお師様ってのは記憶がポンポン飛んでるもんなのか?」
「――?結構、ポンポン飛んでたッスよ。朝起きて、あーしが挨拶したら『お前、誰だっけ?覚えてねぇなぁ。知らねぇなぁ』ってよく昔の女扱いされたッス」
「うーん、そのレベルだと、悪ふざけなのかどっちなのか判断がつかねぇな……」
仮の話だが、スバルがシャウラともっと仲良くなって以降の日常でなら、彼女をからかうためにそのぐらいの軽口のやり取りは全然やりそうであった。
ただ、スバルは記憶をなくして、そのことをエミリアたちに隠そうと、記憶をなくしたことを言わない選択肢を取る自分がいることも自覚がある。悪ふざけのふりをして、本当に記憶がないのを誤魔化している、というムーブもなくはない。
我ながら死ぬほど面倒くさい。実際、四回死んでいるので笑い話にもならない。
「記憶喪失の一件はわかった。正直、まだ受け入れるには時間のかかる内容と言わざるを得ないが……この塔に、そうした現象を起こす可能性、罠のようなものがあると、そう考えて行動した方がよさそうだね」
「事件現場として一番可能性が高いのは、倒れてる俺をエミリアちゃんたちが見つけてくれた『タイゲタ』の書庫だ。元々、曰くつきみたいな場所だしな」
「ちゃん……」
「――?」
真剣な表情で検討を始めたエキドナに、スバルも頷いて意見を並べる。ただ、その途中で一度、エミリアが寂しげに呟いたのが印象的だった。
前の周回でも、彼女はスバルと会話中、何度かこんな表情と反応を見せた。結局、その原因の正体は今も明らかになっていない。
何か、致命的な見落としがあるのだろうか。――それが、怖いが。
「――みんな、とにかく驚かせてごめん。いきなり受け止めて、それでそのまま話を続けようって言っても無理だと思う。いったん、休憩入れようぜ。俺はその間、ラムと水汲みでもしてくるから」
そう提案して、スバルは車座の中央で跳ねるように立ち上がった。その話にラムがピクリと眉を上げ、エミリアとベアトリスが気遣わしげにスバルを見る。
しかし、スバルは二人の視線に頷きかけ、ラムへと黒瞳を向けて、
「いこうぜ、ラム。――ちょうど、俺を水場に誘いたそうな顔してただろ」
「――いやらしい」
と、スバルの誘いに、ラムが視線を逸らしてそう呟いた。
※※※※※※※※※※※※
「それで、さっきの茶番はどういうつもりだったの?こうしてラムを連れ出した以上、それを話すつもりがあるということでしょう?」
バケツを手に、会議場を離れて水場へ向かうスバルとラム。その道中、十分にエミリアたちと距離を置いたと判断したのか、ラムがスバルにそう切り出した。
彼女がスバルの『記憶喪失』発言を、全く真に受けていないのは毎回のことだ。これは証拠云々や意固地がどうのといった話ではなく、もっと大事な理由がある。
――レムの存在。眠り続ける、ラムの最愛の妹。
その身を案じるが故に、スバルの『記憶喪失』をラムは認めることができないのだ。
だからこそ、彼女は頑なに、スバルの『記憶喪失』を否定する。詳しいいきさつはわからない。だが、きっとスバルには、起きていたときのレムとの繋がりがあった。
それがラムの、彼女の姉としての存在を、大きく支えていたのだと。
だから――、
「エミリア様とベアトリス様に、あまり大役を任せるのはやめなさい。ベアトリス様はともかく、エミリア様にはまだ荷が重いわ。だから、ここでラムを巻き込もうと考えたことは評価してあげる。詳しい話を……」
「――ラム、俺の記憶がないのは本当だ。嘘でも、ペテンでも、作戦でもない」
その、細い糸に縋り、頼ろうとするラムを、しかしスバルは否定しなくてはならない。
「――――」
スバルの真っ直ぐな言葉を聞かされ、ラムが言葉を中断し、目を細めた。薄紅の瞳の奥に宿るのは、戸惑いと不安――そして、強い怒りの種火だ。
種火はやがて火勢を増し、スバルの魂を焼き尽くさんとする大火へと広がる。それをそうさせたのは、他ならぬナツキ・スバルの不審で、不誠実な行いの数々。
まさしく、自分の行いが身を亡ぼす、その一例だった。
「記憶がなくなった。塔の中の、みんなの名前と関係性ぐらいは把握してるけど、それ以外のことはあちこちがおぼつかない。これも本当だ」
「やめなさい」
「エミリアとベアトリスには、先に話しただけで、同じことしか伝えてない。伝えられることがそれ以上ないんだ。今、俺の手の中は空っぽだ」
「やめなさい、バルス。それ以上……」
「この塔に、奪われたたくさんのものを取り戻しにきたってことは知ってる。『試験』の真っ最中ってことも。でも、それだけだ。俺の、動機は……」
「バルス、それ以上は」
「――レムのことも、俺は」
「バルス――!!」
覚えていないのだ、とスバルは断腸の思いでラムにそう告げた。
嫌々と、スバルの言葉に耳を貸したくないと、態度で示していたラムが、そのスバルの謝罪を聞いて、怒りの形相で掴みかかってくる。
「ぐぅっ!」
胸倉を掴まれ、壁に背中から叩き付けられた。この細腕のどこにそれだけの力があるのか、信じられない膂力で、ラムがスバルを押さえ付け、至近で睨みつけてくる。
薄紅の双眸の奥、種火だった火が強く燃え上がり、スバルを、そしてラム自身を焼き尽くさんとしているのがわかった。
この炎がスバルを――否、ラムを焼き尽くしたとき、悲劇は繰り返される。
「何のつもりなの?こんな……こんな、くだらない嘘を!」
「嘘じゃ、ねぇよ……お前には、俺が、そんな嘘を……」
「ついていないとでも?じゃあ、どうしろっていうの?ラムに、信じろとでも?バルスがレムを、忘れた……そんな、そんな馬鹿な話!」
「ラム……」
眦をさらに鋭くして、唇が触れ合いそうなほどの距離でラムがスバルを睨みつける。煌々と燃え盛る炎、それが怒りより、嘆きによるものだとようやくスバルは気付く。
彼女の抱える葛藤、その根は深く、スバルが想像するよりはるかに複雑だ。
四回繰り返して、スバルはようやくその一端に触れた。本当の意味で、他人が胸に抱く想いを、傷を、理解しようと思えば、いったいどれほど思慮深くなればいいのか。
繰り返す反則技を駆使するスバルが、四回重ねてようやく気付けるそれを、エミリアたちがたった一度きりで、ああも真っ直ぐ貫けることが、眩しい。
その眩しさに、焼かれてばかりでいられないから、スバルは――、
「――レムは、必ず取り戻すよ」
「――っ!」
すぐ近くの薄紅を見つめ返し、スバルは喉の力を搔き集め、はっきりと伝えた。
それを耳にして、ラムの瞳が再び驚きに見開かれ、すぐに怒りがそれを隠す。
「どの口で……取り戻すも何も、忘れたんでしょう、バルスは、レムを!」
「それでも、取り戻す。レムのことも、記憶のことも、この塔にきた目的も、全部、一切合切やり遂げて、全員で帰る。――そのぐらいの報酬、あって当然だ」
「――バルス?」
「あって、当然なんだ……この塔で、起きたことを思えば」
息苦しさもある。だが、それとは違う要因で、苦々しく頬を歪めるスバル。ラムはそんなスバルの反応に眉を顰め、胸倉を掴む手からわずかに力が抜けた。
その手を、今度はスバルが両手で掴み、引き離す。そのまま、体を入れ替えた。
「――いやらしい。離しなさい」
入れ替わりに壁に押し付けられ、至近で見つめ合うラムがスバルに言い放つ。
しかし、力なく、覇気に欠けた言葉にスバルは怯まない。
「ラム。俺は記憶も、レムも、取り戻してみせる。そのために、力を貸してくれ」
「――――」
「全員の力がいるんだ。お前たちの知ってる、昨日までの『ナツキ・スバル』なら、こんな情けないこと言い出さなかったかもしれねぇ。けど、今の俺には」
ユリウスが託し、ベアトリスが信じ、エキドナが赦し、エミリアが願った。
そうしてみんなに期待される『ナツキ・スバル』ならば、ひょっとしたら一人でも、この手詰まりの事態を変えられたのかもしれない。
でも、今のナツキ・スバルにはそれはできない。それで不貞腐れて、諦めて、何もできないと駄々をこねるには、この塔にいる人たちが、愛せすぎる。
「レムを忘れた俺を、お前が信じられないし、許せないのもわかる。だけど、その怒りは今は後回しにしてくれ。その代わり、約束する」
「約束……?」
「必ず、やり遂げる。何度でも、食らいつく。もし、この約束を破ったら、お前の前で俺が諦めたら、そのときは煮るなり焼くなり好きにしろ」
「――――」
ラムの瞳が見開かれ、そこから怒りの熱が引いていく。自然、熱が引いて現れるのは、それまで怒りに隠されていた別の感情だ。
それを見据えながら、スバルは頭を引いて、彼女と真っ直ぐ向き合ったまま――それこそ、氷の檻を挟んで、彼女と視線を交錯したときの距離で、続けた。
「それが、俺の覚悟だ」
「……どうしてそこまでするの。バルスが本当にレムのことを忘れたなら、そうまで取り戻したいなんて思えないはずよ」
「――――」
「忘れたら、空なのよ。ぽっかりと、そこには空白があって、そこにあったものへの想いは失われてしまう。消えてしまう。愛も憎しみも、温もりも寂しさも、全部」
ラムの静かな声色が、冷たい硬さを装っている。
その、ひどく実感のこもった言葉は、あるいは彼女自身が経験した空白なのだろう。だから彼女には、スバルの覚悟が信じ難い。
そうまで強い願いを、空白に抱くことはできないはずだと、そう問うている。
「実際、そうだな。記憶は空で、昨日までの俺がレムをどう思ってたのか、それは指の隙間からこぼれ落ちていったあとだけど……」
「なら、どうして?」
「でも、お前がレムを大切にしてて、取り戻したいって必死に願ってるのは知ってる」
レムを、最愛の妹を、取り戻したいと願い、足掻くラムの姿を見た。
あれほど強固に抱いた願い、愛情、それをスバルは目の当たりにして、圧倒されたのだ。そうして必死になるラムも、スバルが救われてほしいと願った一人だから――、
「今、俺がレムを取り戻したいのは、『ナツキ・スバル』と、お前のためだ」
「――――」
「だから、俺が諦めたとき、どうするかはお前に任せる。それが、自分の都合で頭の中身を落っことしてきて、お前を泣かせた俺の罪滅ぼしだ」
「泣いてないわよ、ふざけないで」
「痛ぇッ!?」
すごい勢いで横っ面を引っ叩かれて、スバルはその場に崩れ落ちた。
赤くなった頬に手を当てて、スバルは信じられないものを見たようにラムを見る。
「お、お前……俺、今、結構、勇気のいる話を……」
「勝手に盛り上がって、何が勇気のいる話?大体、バルスが約束なんて笑わせないで。この世で一番、信用の置けない条件をよく自分から出してきたものだわ」
「それ、エミリアちゃんにも言われたんだけど、昨日までの俺はどんだけ約束破ったの!?」
「守った約束がいつあるの?」
「そんなレベル!?」
冷え切った声で悪罵され、スバルは『ナツキ・スバル』への評価をまた改める。良くも悪くも株価の変動が激しいが、約束破りはかなりの下落要素だ。
大体、約束したなら守るために奔走するのが最低限の義務だろう。
誰が見ていなかったとしても、交わした約束は守られると、そう信じるからこそ、人は進んで損ができる。その精神が、欠けている証拠だ。
「やっぱり、『ナツキ・スバル』なんて碌な奴じゃねぇな……」
「ええ、そうね。勘違いしていたようだけど、昨日までのバルスも、物事を一人でどうにかできるほど有能な男じゃないわ。むしろ、一人で何とかしようとした挙句、結局被害を広げるのが得意なウスノロよ。ラムも、迷惑ばかりかけられたわ」
「マジかよ。なんでそんな奴を塔に連れてきたんだ……」
「出しゃばりだったのよ。それに、口先だけはぺらぺらと回る男だったの。それなりに小器用で、雑用を任せるのに向いてた。あと、エミリア様とベアトリス様をあやすのも得意だったわね。あとは……」
ボロクソに言われ、床に胡坐を掻くスバルは何とも居心地が悪い。
自分のことではないのに、自分のことを叱られている。エミリアたちに、『ナツキ・スバル』のことを良く言われるのもかなり複雑な苦しみがあったが、ラムがこうして言葉を尽くして『ナツキ・スバル』を罵ってくれるのも、まぁ複雑だった。
この際、聞ける内容は全部聞いてやろうと、スバルはいっそ開き直り、
「あとはなんだ?足が短くて、物覚えが悪くて、偏食家で、諦めが悪くて?」
「足が短くて、物覚えが悪くて、偏食家で、諦めが悪かったわ」
「ですよねー」
「――それと、レムを大事にしてくれてた」
「――――」
ふと、声の調子が変わり、ラムの感情の凍えた声音に色がつく。
温かな――声に色があると例えるなら、それは柔らかな薄紅、包み込むような淡い色。
レムを、妹を思う声音に慈しみが、そして妹の傍らに『ナツキ・スバル』がいたときのことを思い浮かべて、なお消えない、柔らかな愛情が垣間見えて。
薄紅は、優しさの色だと、スバルが錯覚するほどに。
「バルス。――本当に、レムを忘れたのね?」
「……ああ」
ラムの瞳が、スバルを映して離れない。すごい、尊敬する。
こんな場面で、聞きたくない言葉を聞くとき、スバルなら目を逸らしている。それなのに彼女は、ラムは一度だって、目を逸らそうとしない。
「バルス。――本当に、レムを思い出すのね?」
「ああ、思い出す。レムだけじゃなく、他の全部も」
「他の全部が抜けてても最悪気にしないわ。レムのことだけは思い出しなさい」
「無茶言うなよ。全部取り戻させてくれよ……」
「繰り返すわ。レムのことだけは、死んでも思い出しなさい」
「ああ、それは誓える。――死んでも、全部、思い出すよ」
文字通り、死んだとしても、全部思い出す。
この異世界で、『ナツキ・スバル』が何を見て、何を聞いて、何を感じて、何を築き上げて、ここまでやってきたのか。――それを全て、ナツキ・スバルが取り戻す。
「……いいわ。この場は、見逃してあげる」
その答えを聞いて、ふっとラムから放たれる威圧感が消えた。
それを感じ取り、スバルは床の上で胡坐を掻いたまま、「いいのか?」と聞く。
「俺から頼んだことだけど、本当にそれで?」
「男でしょう。素直に受け止めなさい。バルスの覚悟は聞いたわ。その上で、諦めたなら煮るなり焼くなり削るなり抉るなりもぐなり殴るなり好きにしろとまで言われたのよ。これに聞く耳を持たなかったら、ラムの慈母のような心が疑われるわ」
「煮る焼く以降の工程に聞き覚えがねぇ……」
「何か言った?」
「言ってません」
ゆるゆると首を横に振り、スバルは丁寧語でラムに応じる。
慈母、とはなかなか大見得を切られたものだが、仏の顔も三度までの慣用句を思えば、すでにスバルは仏すら許せぬ五度目の挑戦に突入している。
神にも仏にも縋れないなら、裁きを慈母に委ねるのも一興だろう。
「立ちなさい、バルス。諦めることも、膝を折ることも、ラムは許さない」
「地べたに座るのと、それらを一緒にしないでくれよ……っと」
ぴょんと立ち上がり、スバルは尻を払って、ラムと向き直った。
壁に背を預け、乱れた服を直して自分の腕を抱くラムは、もはや普段通り――これがラムの『普段通り』なのだと、そう思わせる立ち姿で、スバルを見つめ返す。
「……エミリア様とベアトリス様にも、同じことを言ったの?」
「あの二人は……俺が諦めるなんて、まるで考えてない風だったからな」
「それもそうね。――悪いバルスがうつったんだわ」
「だから、あの二人には頼めない。ユリウスとエキドナにも、心情的にな」
それにたぶん、エミリアとベアトリス、ユリウスとエキドナ。
四人の答えは、前回の周回で、彼女たちとの接触の中で聞いたのだと思う。
だから、残った答えは、これから確かめていく。
「しかし、あれだな。……お前の話からすると、昨日までの俺も、あんまり大した奴じゃなかったみたいだな」
「レムの記憶の有無で、ラムにとっての価値は激変しているわ。口の利き方に気を付けなさい」
冷たく言い捨て、ラムがスバルに背を向けて歩き出す。
二人は水汲みの途中、足を止める時間が長かったが、手ぶらで帰ればそれこそ、エミリアたちに変な心配をかけてしまいかねない。
スバルはバケツ片手に、ラムを追いかけて隣に並んだ。
そして、
「俺は……『ナツキ・スバル』は、確かにここにいたんだよな?」
小さく、スバルがラムの横顔に問いかける。
それは確認というよりは、どことなく不安な弱音に近いものだった。諦めないと誓った直後に口にするには、たぶん不適当なものだったに違いない。
それこそ、舌の根も乾かぬうちにと、ラムから懲罰を受けても不思議はなかった。
「――馬鹿ね」
だが、ラムはそうせず、足も止めず、慈しむようにスバルを罵倒して、
「今はほんのひと時、見えなくなっているだけよ。多くのものが積み重なって、その奥底に隠れているからなくしたように感じるだけ。それは冷たい雪に埋もれた花のように、雪解けの季節が訪れれば姿を見せる。――きっと、ただそれだけの話なのよ」
そう、表情を見せないラムに、スバルは今の表情を見せられなかった。
あれだけ格好をつけた直後に、こんな情けない顔は見せられない。
だから、何も言わずに、こちらを見ようともしないラムの在り方が、この瞬間のスバルには本当に慈母のように思えた。
※※※※※※※※※※※※
状況は、大きく変わりつつある――と思いたいが、実はそれほどでもない。
スバルが記憶の喪失を打ち明けるのはこれが初めてではないし、混乱を残しつつも、表面上は皆がその衝撃を受け止めてくれるのも見た光景だ。
ただ、心の置き方が、構え方が変われば、それぞれへの見方も変わってくる。
前回、あれほどスバルはエミリアたちを疑い、その行動の端々、態度、発言をあらゆる角度から疑ってかかった。何かを企んでいるに違いないと、そう決めつけて。
しかし、そんな疑惑のフィルターを外してみれば、行動の端々、態度、発言のあらゆる角度に見えてくるのは、スバルへの気遣いと、基本的には自己への叱咤。
つまるところ、彼らは意識して自制し、スバルを不安がらせまいとした。
その行動を不審に、不自然に、そう感じたのはスバル側の問題でしかなかったのだ。
「ちゃんと、やろう。ちゃんとやれよ、ナツキ・スバル……」
自分で自分に言い聞かせ、スバルはじっと掌を見る。
スバルの記憶がなくなった原因、それが『タイゲタ』にある可能性は高い。『試験』の踏破も大事だが、その記憶喪失の原因究明も急務だ。
今のところ発生していない事態ではあるが、仮にスバル以外にも記憶喪失の人間が続発した場合、全員揃って『はじめまして』なんて馬鹿げた状況にもなりかねない。
それに、あまり悠長に構えている余裕も、実はないのではないか。
「前回も、前々回も、塔の中はしっちゃかめっちゃかだった」
前々回は、塔の中でスバルはエミリアたちの――否、エミリアとベアトリスを除いた、塔にいる仲間たちの『死体』を次々と発見した。
前回はそれとは違い、今度は仲間たちの『死』を次々と見届けることとなり、スバルの心は荒れ果ててささくれ立っている。
しかし、この異常事態はいずれも、そう遠くないうちに塔内で発生する災厄だ。
スバルは最悪の悲劇を知るものとして、そうなることを防がなくてはならない。
そのためにできる万全を尽くす。――だから、まず最初に、スバルは。
「――――」
これ見よがしに、高所の淵に立ったスバルの背後で、微かな息遣いがした。
意識していれば、存在の端を捉えることが可能なぐらいに、適度な気配の殺し方。それを事前の知識で反則気味に感じ取り、寸前で身を翻す。
「――っ」
「おっと、危ねぇ。――俺の代わりに落っこちるなよ」
突き出した両手が空振りして、その勢いで前のめりになる相手の体を、スバルはとっさに伸ばした手で支えて、落ちないように引き戻した。
その体は軽い。様々な局面であった、不吉な意味合いでの軽さではなく、その少女の見た目に適切な軽さ――そう、その少女に、適切な。
「さあ、話をしようぜ。――俺を殺した責任、取ってもらうからな」
そう言って、スバルは腕を掴んだ少女――メィリィに笑いかけ、過去に二度、自分を突き落とした犯人に、クライマックス推理を叩き付けたのだった。