『シャウラ』
ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。
△▼△▼△▼△
――塔外、押し寄せる無数の魔獣のスタンピード、『魔獣使い』の奮戦で突破。
――二層、ロイ・アルファルドの肉体を奪ったレイド・アストレアの撃破。
――四層、因縁の冒涜者、憎っくき大罪司教ライ・バテンカイトスの撃破。
――一層、まだ見ぬ未知の『試験』、エミリアの敢闘により突破。
プレアデス監視塔の攻略において、用意されていた複数の難題のクリアが為される。
これも、仲間たちが一丸となり、互いを信じて力を合わせた結果だ。
エミリア的な言い方をするなら、『みんな仲良く』が叶った結果と言えるだろう。
そのおかげで、ここまで辿り着くことができた。
ならば、あとは――、
「――全員で勝てなきゃ、嘘ってもんだろうが!」
最初、このプレアデス監視塔へやってくるとき、エミリアが言った。
なくしにいくのではなく、失われたものを取り戻しにいくのだと。
その彼女の言葉に同意したのだから、全員で無事に砂海から帰らなくてはならない。きたときよりも、帰りの人数が増えたとしても、それはそれだ。
スバル、エミリア、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、アナスタシア=エキドナ、ユリウスにパトラッシュ、そこにシャウラも加えてもいいだろう。
帰りの道中、どれだけ騒がしくても、ウザったくても構わないから。
「――往く!」
並んだ二人の精霊騎士、先手を引き受けたのは当然のようにユリウスだった。
一時的に治療のタイミングを抜け、治癒に預けたクアを引き戻したユリウスが、再び六体の精霊の力を借りて極光を纏う。
『コル・レオニス』の効果でわかるが、莫大に膨れ上がるオドの光と引き換えに、ユリウス自身にも精霊たちにも相当な負荷がかかっているはずだ。
ずいぶんと格好をつけてくれる。だが、元より長く戦うつもりは誰にもない。
「――短期決戦」
虹の軌跡を引きながら、砂の上をユリウスが飛ぶように走った。
開いた距離を一瞬で詰め、ユリウスの斬撃が紅蠍へ迫る。それを、紅蠍は獰猛な複眼で捉え、嵐のように荒れ狂う大鋏と尾針で打ち払った。
しかし、虹の剣撃を受けた蠍の甲殻が、一瞬の触れ合いで白い煙を上げる。
溶けたのだ。
虹と化したユリウスの斬撃は、極光を纏った魔法剣『アル・クラリスタ』を恒常的に発動しており、受けるという防護すらもまともに取り合わせない。
その上、全身に纏った虹の光も、ただの派手な見映えというだけではない。
「――――」
至近距離から放たれる紅蠍の尾針、スバルが十度以上も殺され、エミリアやユリウスの死因にもなったことがある『死』の一刺し――ヘルズ・スナイプ。
それを、ユリウスは剣で弾くのではなく、極光の防御力で受け流す。
全身に薄く纏った極光は、これもまた虹の壁を作り出す『アル・クラウゼリア』という魔法の概念を応用したものだ。
つまり、攻防一体、『虹の精霊騎士』とでも呼ぶべき超次元の剣士が生まれていた。
「~~ッッ!!」
必殺が通じず、防護も破られ、散々な目に遭わされる紅蠍。
だが、塔の星番として四百年を過ごした巨大な魔獣にも意地がある。紅蠍はその赤々とした甲殻の輝きをさらに鮮やかなものにして、生じる熱を大鋏から放出、ユリウスへと豪快に叩き付け、虹の騎士を大きく弾き飛ばした。
大鋏が強烈な熱を帯び、凄まじい火力に紅蠍の周囲の大気が歪み始める。
焦熱の大鋏――スバルが名付けるなら、『ジーザス・シザース・ヘルファイアフォーム』。
ここにきて新技を披露し、わざわざラストバトルを盛り上げようとしてくれる姿勢には頭が下がるが、相手する側としてはその成長性は勘弁願いたい。
殻を破って成長する敵キャラなんてものは、現状は望まれていないのだ。
「ミーニャ!!」
真っ赤な大鋏が大気を薙ぎ払い、ユリウスを狙うのを脇から紫矢が妨害する。
ユリウスと紅蠍の超級の戦いに割り込むには、スバル単騎では実力不足。ベアトリスの横槍でユリウスを援護しつつ、スバルはスバルの出番を探る。
「――――」
余波で死なないよう位置取りに気を付けながら、ちらとスバルが視線を向けるのは、塵旋風によって薙ぎ払われた砂上、そこから追いやられた魔獣の群れだ。
このアウグリア砂丘という環境において、魔獣たちがスバルたちの旅にもたらしてくれた被害や警戒、そういった影響は殊の外大きい。
それらが塔から一定の距離を置いて、こちらを眺める光景は異様だった。
監視塔の雲が晴れ、一層ではおそらくエミリアが塔のルールを書き換えた。
それが適用されたことで、何らかの魔獣を近付けない措置のようなものが働いたのか。元々、この監視塔には魔獣は近付かない仕組みだったようだから、あのスタンピードが起きていた状態が不自然だったのだろう。
いずれにせよ、魔獣たちのちょっかいが入らないのは、紅蠍――シャウラを正気に戻したいスバルたちとしては助かる状況だ。
「――スバル!!」
「あ」
最適な位置取りのため、砂海を斜めに突っ切るスバルへと声が届いた。
何事かと顔を上げれば、ユリウスの刺突を躱した紅蠍が、うっかりとスバルのすぐ傍らへと着地してくるところだった。
手を繋ぐベアトリスの訴えに、スバルはとっさに急停止。しかし、虫を払うような仕草で魔獣の尾が振られ、その一撃にスバルは『死』を意識する。
「根性――ッ!」
「――ムラク!」
スバルの判断と、ベアトリスの判断が同時に重なった。
重力の影響を軽くし、スバルとベアトリスの二人が綿菓子のように軽くなる。同時、スバルが放った鞭が紅蠍の尾の根元に絡んだ。
次の瞬間、尾を振り回す勢いに振られ、スバルとベアトリスが高速で宙を舞う。
「わ――」
「ぶやんっ!?」
振り回されるのではなく、振り落とされる。
足が浮いたと思った直後には、スバルとベアトリスは全身から砂に叩き込まれていた。
綿菓子のように軽くなっていようと、もし下が硬い地面ならそのまま全身が砕け散っていただろう勢いと威力、幸い、砂の上なので息詰まるだけで済んだ。
「追撃は諦めてもらおう――!」
「――ッ」
そのまま、砂に埋まったスバルとベアトリスを狙う紅蠍。しかし、進路に割って入る虹の光がそれを妨害し、灼熱と極光の剣戟が展開される。
光が散り、そのたびに砂海が割れ、衝撃波が快晴の空の下で砂風を生む。
破壊力は拮抗、速度はユリウス、持久力で紅蠍――決定打がないまま、このままでは時間切れで押し切られることになりかねない。
「――ぺっ、ぺっ!クソ、何とかしねぇと!」
「――ぺっ、ぺっ!勝ち筋を見つけないとダメなのよ!」
一緒に砂から抜けたスバルとベアトリスが、同じ仕草で砂を吐く。
互いに涙目になりながら、ユリウスの虹を、スバルたちの声を、シャウラへ届かせる方法を模索する。
縋りたい可能性は三つ――、
ユリウスがさらなる覚醒を遂げ、紅蠍を一蹴して癪だけど勝利。
スバルとベアトリスが新技を完成、それが紅蠍を完封してチームの勝利。
急に空からエミリアが降ってきて、可愛さで世界が平和になってラブ&ピース。
「三個目寄りの一個目に期待したいところだが……」
自分の覚醒を信じていないのは前言の通り、エミリアがここでタイミングよく現れてくれるご都合主義にも期待はしない。
そうなると、ユリウスの地力が跳ね上がるのが一番の期待株だが――、
「それも、もう一回やってるから、さすがに立て続けは期待しすぎ……」
スバルの目では追えない速度で、ユリウスと紅蠍の剣戟は続く。
近付けば余波で焼かれかねない破壊の光景を眺めながら、スバルは次なる手を探る。
結局、持てる手札を全て尽くして戦うしかないのだ。
ならばせめて、持てる手札を見落とさず、ナツキ・スバルを完遂しろ。
「考えろ考えろ考えろ……」
頭の回転をフルスロットルに、希望的観測でも夢物語でもない、本物を手繰り寄せる。
そうして、自分の持ち得る手札を探したとき、スバルは気付いた。
最後の一枚、まだ使っていない手札を残していたことを。
「――ベア子!」
「何か、思いついたかしら!」
待ってましたとばかりに、スバルの呼び声にベアトリスが応える。
わかってくれているパートナーに恵まれて幸せ者だと、スバルは「ああ!」と小さな手と手を繋ぎ直し、力強く頷いた。
そして――、
「――この旅の、全部の力をここで使うぜ!」
△▼△▼△▼△
ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。
目の前を、虹の光が猛烈に過るのを、本能のままに振るう両腕で打ち払う。
赤々と輝く両手の鋏は、あらゆる全てを焼き切るほどの火力を秘めており、それが岩だろうと鋼だろうと、バターのように切り裂くこと請け合いだ。
「まぁ、バターってなんなのかあんまりなんスけど」
聞きかじりの知識で物を喋りながら、煌めく標的を追い詰める。
しかし、場所は広い砂海の上、障害物も何もないものだから今一歩詰め切れない。逃げ場のない場所、あるいは遠距離戦闘なら自分の独壇場――、
「スナイパーってのは、常に孤独なもんッスからね」
これも聞いた知識だが、スナイパー=狙撃手というものは、獲物を仕留めるまでじっと構えて待つもの、だそうだ。
だから、待った。自分も、スナイパーとしての誇りを胸に、待ち続けた。
くる日もくる日も彼方を見据え、塔へやってくる相手を見据え、待ち続けた。
ルールがあった。自分を、この塔に縛り付けるルールが。
それを煩わしく思ったこともあったが、それがなくては忘れっぽい自分は、すぐに色んなことを忘れてしまったとも思う。
一緒に歩いたこと、喋ったこと、過ごした日々や交わした思いも、何もかも。
「あぁ……それは、嫌ッスねえ」
何もかもが、自分を置き去りにしていった。
待てと言われれば、いつまでだって待つけれど、待たせるからには戻ってきてほしい。戻ってきてくれさえすれば、いつまでだって待てるから。
だから――、
「お師様が戻ってきてくれて、嬉しかったッス」
みんなみんな、いなくなってしまったから。
戻ってくると、そう言った言葉を信じていいのか、わからなくなっていて。
自分が信じていたから待っていたのか、ただの惰性で待っていたのか、それさえも答えはわからなかった。考えもしなかった。
考える必要もなかった。だって、朽ちるより前に、約束は守られた。
「あーし、幸せ者ッスよ、お師様」
だから、いかないでほしい。ずっと、ここで過ごしてくれたらいい。
孤独でなくなったから、スナイパーはもう卒業だ。スナイパーを卒業した自分には、それなりのご褒美があるべきだと思う。
「もう、置き去りは嫌ッスよ、お師様。……あーしも、愛されたいッス」
何もかもが、自分を置き去りにしていったから。
今度は、どこまでも、いつまでも、ついていきたい。
だから――、
「あーしを、愛してほしいッス。――お師様」
△▼△▼△▼△
身を震わせ、紅蠍の甲殻の光がさらに鮮やかさを増していく。
それは『攻撃色』のより顕著な反応と考えられたが、スバルには違って見えた。
その鮮やかな赤い色は、シャウラが泣き叫んでいる結果みたいだ。
四百年、自分の感情を閉じ込めて、言いつけを守ってこの塔にこもっていたシャウラという存在が、溢れんばかりの思いを爆発させて、光り輝いている。
赤は情熱、赤は激情、赤は抑えられない『愛』の色。
紅蠍が赤く輝くのは、きっと誰かを愛していて、愛されたいと願っているからだ。
「――さそり座の女ってのは、愛情深いってのが通説だからな!!」
力強く叫んで、砂を蹴りながらスバルは大きく肩を使い、鞭を放った。
「――――」
狙いはこちらに背を向け、ユリウスと打ち合っている浮気な紅蠍。
忙しいところ申し訳ないが、お前の執着するお師様はこちらだと鞭で主張する。ぐいぐいこられているときは、煩わしいと邪険にしたが――、
「それで他の男にいかれると、もやもやするのが男心――っ!!」
「スバルながら、最低な物言いなのよ!」
肩車されたベアトリスの厳しい物言いに背を押され、スバルの放った鞭が狙い通り――紅蠍の尾の根元へ綺麗に絡んだ。
ただし、それでは直前に振り回され、砂に埋められた状況と何も変わらない。
紅蠍も、先ほどのあまりに軽い綱引きの結果があるからか、ユリウスの方へと意識を集中し、スバルたちへの対処は二の次だ。
スバルたちは弱い。――その認識を、悪用する。
「エル・ヴィータ――!!」
「ぐおおお!!」
ベアトリスが魔法を詠唱、その影響がスバルの全身にかかると、凄まじい重量がその両足を砂に埋もれさせる。
重力の影響を軽減するムラクの反対、重力の影響を増大させるヴィータ――これで幕内から、横綱級へと重量をアップさせ、紅蠍の尾に対抗する。
だが、当然、それでもまだ足りない。多少重かろうと、せいぜいが百数十キロ。竜車をも軽々と運ぶようなシャウラの怪力には遠く及ばない。
だから――、
「――ここが見せ場だ!やってくれ!!」
腕に力を込め、砂に足を埋めたスバルがそう叫ぶ。
次の瞬間、紅蠍の尾力に引き抜かれかけたスバルの体が地面にとどまった。
理由は明白、引き合う力が拮抗したのだ。紅蠍とスバル――否、スバルたちの間で。
「――――ッッ」
踏みとどまったスバルの前、ぴんと張り詰める鞭を掴んでいたのは、その異形の巨躯で引っ張り合いに乱入した餓馬王だった。
そして、その前代未聞の綱引きに参戦するのは餓馬王だけではない。
全身に花を纏った熊が、翼を持つモグラが、怪しげな蛇が、参戦する。
仇敵であるはずの魔獣たちが、スバルの戦いに助力していた。
それを引き起こせるのは――、
「……ホント、人使いが荒いんだからあ」
不機嫌な、けだるい雰囲気を纏った少女の声。
それを発したのは、砂の上、血の気の失せた顔で荒い息をつく少女――メィリィだ。
彼女はその可憐な横顔を引き締め、大きく長く、深い息を吐く。
そのまま、彼女は「ほおら」と強く手を打って、
「みんな、いらっしゃあい。見てるだけなんて、もったいないわあ」
両手を叩いたメィリィの声に、一拍遅れて砂海が揺れる。
それはなおも押し寄せる魔獣たちの足踏みであり、鳴き声であり、この魔境と呼ばれたアウグリア砂丘を支配する『魔獣使い』――否、もはやそうは呼べまい。
『魔獣使い』などと、そのような規模の現象ではなかった。
『魔操の加護』の力を用いて、アウグリア砂丘を占拠する魔獣の群れを意のままに操るその姿は、一介の『魔獣使い』などという肩書きではそぐわない。
それはかつて、南の帝国を荒らした存在、『魔獣の母』の再臨。
この戦いを、正しく総力戦とするスタンピードの再利用、それを為す本領発揮だ。
「――――」
痛々しい表情のメィリィ、それでも彼女が意識を回復し、ラストバトルに参戦できるまでに復調した背景にはカラクリがある。
当然、メィリィの受けたダメージを、スバルが『コル・レオニス』で引き受け、分配したのだ。――スバルの持つ、最後の手札に。
それはエミリアでも、ベアトリスでもラムでもない。ユリウスでもエキドナでも、パトラッシュやメィリィ、ましてや眠るレムでもない。
この、アウグリア砂丘攻略のための、最後の協力者――、
「――巻き添えにしてすまん、ジャイアン!手伝ってくれ!!」
遠く、監視塔の地下――六層に置き去りの地竜、ジャイアンの存在が『コル・レオニス』に引っかかり、スバルは地竜への負担の分配を敢行した。
ものすごい心が痛い決断だが、もっと心が痛いのは、ジャイアンがスバルの『コル・レオニス』による負担の分配の条件を満たしてくれていたこと。
つまり、ベアトリスや他の仲間と同様、ジャイアンもスバルを支えたいと、そう思ってくれていたということになる。
そのジャイアンの劇場版ばりの思いに甘え、メィリィの負担の大部分を、スバルを介して地竜に肩代わりしてもらう。それが、メィリィの立ち上がれたカラクリだ。
それが紅蠍が予想外に、力比べに敗北した原因でもある。
そしてそれは――、
「――そのまま、お前の敗因だ、シャウラ」
文字通り、魔獣と地竜の力まで借りた総力戦を制し、スバルの言葉に紅蠍の足が浮く。
その瞬間を、『最優の騎士』は見逃しはしない。
放たれる虹の斬撃が、力比べに拮抗する紅蠍の尾を、根本から断ち切った。
「――――」
切断される尾部が爆ぜ、自切と同じ破壊が周囲に広がるが、それは虹の光が通さない。遮られ、切り札を封殺された紅蠍が、猛然と大鋏をユリウスの背へ振り下ろす。
しかし、力比べに負け、尾を斬られ、動揺と焦りのある攻撃は、初代『剣聖』との戦いを乗り越え、壁を破った騎士には通用しない。
「し――っ!」
弧を描く斬撃が、左の大鋏を脆い関節部分で見事に斬り飛ばす。その腕の吹き飛ぶ勢いに身を揺らしながら、なおも残る右の大鋏がユリウスを挟み込む。
そして、胴でその長身を両断せんと鋏が閉じかかり――、
「――アル・クランヴェル」
閉じる寸前、ユリウスの全身の極光がほどけ、一気に拡大する。
纏った虹の鎧を脱ぐ瞬間、爆発的に広がる極光が閉じかけた大鋏を内から爆ぜさせ、根本から吹き飛ばしていた。
「――――ッッ」
生じる衝撃波に揉まれ、紅蠍の巨体が宙を舞う。そのまま、砂の上に豪快に転がった魔獣は、尾と両腕を失い、満身創痍の状態。
さらにそこへ、ひっくり返った紅蠍を囲うように魔獣が取り押さえる。
八本の足を押さえられ、身動きを封じられた紅蠍。
それが、迫る終わりを拒むように身をよじり、鋭い牙のある頭部を動かした。
あるいは紅蠍の対応力なら、ここから新たな技を派生させ、この窮地を乗り越える成長を遂げても不思議はなかったが――、
「――ここまでだよ、シャウラ」
身をよじる紅蠍の複眼、その全部に映るように正面にスバルが立った。
武器を失い、足を押さえられ、哀れな状態に追い込まれた紅蠍。トドメを刺すのも容易いだろう状況だが、それはスバルの望みではない。
ここまで追い込んで、それでもなお、何が正解かはわからないでいたが――、
「メィリィ」
「……お兄さんたちって、わたしがいなかったらどうしてたのかしらねえ」
名前を呼ばれ、メィリィがため息まじりに紅蠍の方へ。
スバルの隣に並ぶと、吐息と共に彼女は指を鳴らした。そして、複眼の意識を自分に集中させると、
「あなたはだあれ?赤くて怖いサソリさん?それとも……」
「――――」
「それとも、誰なのかしらあ?」
問いかけに、紅蠍の複眼の動きが鈍った。
揺れるそれが、静かにメィリィを見つめ、それから、視線がスバルへと移る。
攻撃的な赤い瞳、それがゆっくりと、色を変える。
「シャウラ」
その甲殻の赤々とした光共々、落ち着いていく。
瞳は緑に、甲殻は黒と、徐々に落ち着いていって、やがて――、
「――シャウラ!」
やがて――、
△▼△▼△▼△
ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。
何もかもがこぼれ、剥がれ、色褪せて、遠く遠く、煌めいて見える。
置き去りにされて、思い出が遠ざかって、だけれど、それは確かに輝いていて。
その日々が大事な全部だったから、掬い上げるのに必死になれて。
「――――」
「覚えてるッスか、お師様。あーしに、絶対戻ってくるから待ってろって、そう言っていなくなったッスよ」
小首を傾げて、体育座りのシャウラにそう問いかけられる。
その、昔の懐かしい思い出を語るみたいな彼女の態度に、スバルは首を横に振った。
「覚えてねぇ。つか、知らねぇって言ってるだろ。何べんも言わせるなよ」
「まぁ、仕方ないッス。お師様が忘れっぽいのはあーしに譲られてるッスもん。あーしとお師様は似た者同士ッス」
「ゾッとしねぇ!いや、言語センスが近いのは認めるけども」
とはいえそれも、彼女がスバルの世界の言葉を使い倒すものだから、ついつい感じてしまう親近感の一種ではある。
スバルは彼女ほど愛嬌もよくないし、可愛くないし、健気でもない。
四百年も、自分を置き去りにした誰かのためになんて、尽くせない。
「俺は辛抱弱いからな。せっかちだし、すぐ結果が欲しくなる。せめて、相手の傍にずっといられたら、我慢しようって気にもなるけど……」
「あ~、そりゃダメダメッスね、お師様。いいッスか?こんな名言があるッス。愛ってのは我慢ッスよ!」
「それ、オシャレは我慢の間違いだろ!?尽くす女っていうか、貢ぐ女のスローガンっぽいぞ!?」
「全てはこの胸の奥の昂る想いを成就させるためッス。馬鹿な女と、哀れな女と笑ってくれて構わねッス。その笑顔も、素敵だよ……ッス」
「いや、笑えねぇよ。見て、ちょっと涙目になってきた」
「どれどれ~ッス」
自分の顔を指差して、そう言ったスバルにシャウラが顔を近付ける。
ぐっと勢いよく立ち上がったシャウラ、彼女の顔が吐息が届くぐらいの近くにきて、改めてその端整な顔の造りを間近に見た。
大きく切れ長な瞳、目力があって、鼻筋がすっと通っていて。
長い睫毛と、砂海で長く過ごしたとは思えないきめ細やかな肌、コロコロと表情が変わるからわかりづらいが、可憐さよりも美麗さの方が際立つ全身の造形。
星の名前を与えられ、此の地でずっと、愛しい誰かを待ち続ける運命を背負った存在。
「あれ?お師様、涙目ってか、ちょっと泣いちゃってないッスか?」
「……お前のお師様は、クソ野郎だ。俺が、この手でぶっ飛ばしてやりてぇよ」
「それ、あーしめちゃめちゃ複雑な気持ちで見てなきゃなんないヤツッス!お師様がお師様をKOって、もうどんな状態なんスか!……もう」
わなわなと唇を震わせ、スバルはぎゅっと目をつむった。
熱い、込み上げてくる熱いものが、それで瞼から押し出され、頬を伝う。
その透明な雫を見て、シャウラはもう一度、「もう」と小さく呟くと――、
「――――」
不意打ち気味に、目を閉じたスバルの頬を湿っぽい感触が撫でた。
目を開けたら、ゆっくりと離れていくシャウラの顔。悪戯っぽく笑い、彼女は自分の唇に指を当て、赤い舌をちろりと見せる。
「……お師様の体液、しょっぱくて甘いッス」
「言い方……」
「言い方なんて、何でも変わったりしないッスよ。あーしの想いは、全身全霊、体で表現してる通りッス。――お師様、愛してるッス」
愛してると、たびたび彼女はそう口にした。
それを、軽い言葉だなんて、その背景を知っていたら絶対に言えない。
シャウラが折に付け、「愛してる」とそう口にするのは、愛が溢れているから。
ずっとずっと、伝えたいと思っていた言葉が、彼女の中から溢れてくるから。
四百年間、愛したい、愛されたいと、それを願い続けた彼女の想いが――、
「愛してるッス、お師様」
「……俺は、お前に愛してるなんて言わないぜ」
「わかってるッス。お師様はいけずだし、照れ屋でシャイッスから。でも、そこも好きッス。ぞっこんッス。オンリーユーッス」
「――――」
時間が彼女を置き去りにして、課せられた役割は鎖のようにその身を縛って。
それが愛しい人を傷付けそうになったとき、彼女は泣いて、『死』を懇願した。
傷付けるぐらいなら、失われていいのだと。そう泣きじゃくる彼女に、なんて言った。
泣いたままになんて、させてやらないと言ったのに。
「俺は、お前に、愛してるなんて、言って、やらない……」
「……いいッスよ。お師様が言ってくれない分、あーしが言い続けるッス。そしたらいつか、きっと跳ね返したくなる日がくるッスよ」
「いつかって……気の長ぇ話だな。四百年待つ気かよ」
「そうッスか?四百年なんて、すぐだったッスよ」
悲痛な声で、ずっと待っていたと泣き叫んだことがあった。
時の経過に取り残され、愛情を人質に束縛され、ずっと寂しかったと泣き叫んだ。
そんな自分の心情を吐露した世界があったことを、今の彼女は知る由もない。だから、あっけらかんとして見える態度の裏、彼女の胸中を吹き荒れる想いはどれほどか。
泣かせないと、そう誓った。今も、それを違えるつもりはない。
だから――泣いてほしかった。泣いて、まだ足りないと、訴えてほしかった。
泣いて泣いて、泣き喚いて、泣きじゃくって、泣き崩れてくれたら。
お師様でも何でもない、ナツキ・スバルが全霊で、その涙を止めるために奔走した。
それなのに――、
「四百年なんて、明日の明日みたいなもんだったッス」
紅蠍の姿の片鱗なんて見せず、ただ、美しい少女として彼女は微笑んだ。
思わず見惚れるほど美しく、指で触れれば崩れてしまいそうなほど儚く、シャウラは白い頬をほんのりと紅潮させ、恋する乙女の顔で「だって」と続けた。
恋する乙女は、「だって」と続けて――、
「――待ってる時間も、愛してたッスもん」
「――――」
「ねえ、お師様。だから、また、いつか――」
△▼△▼△▼△
ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。
「――シャウラ」
ボロボロと、剥がれる甲殻の一部が砂の上で塵に変わる。
それは一部に留まらず、剥がれ落ちる全ての部位に伝搬していく。
切断された尾も、切り離された大鋏も、魔獣たちに押さえつけられていた複数の足、そして、ナツキ・スバルに抱擁される頭部も、何もかもが――、
「……役目を、果たし終えたかしら」
抱擁する胸の中、徐々に存在の希薄になっていくそれを掻き集めようとするスバルに、小さな声でベアトリスがそうこぼした。
可憐な容姿の精霊は、力なく崩れていく魔獣を――否、自分と同じ、運命の課した役割に殉じ続けた同胞を、寂しげに見つめていた。
ベアトリスの言葉、その理解を脳が拒む。
だが、本能は理解していた。――これは『死』ではない。
これは、彼女が星番としてこのプレアデス監視塔を任され、そして、いずれ迎える今日が訪れたとき、避けられない結末だったのだと。
「だったら……俺たちが……」
ここにこなければ、彼女はずっと、ここにいられたのだろうか。
この砂の塔で、ずっと、戻らない誰かを待ち続けながら、この場所で――。
「――スバル、わかっているはずだ。その仮定は、彼女への侮辱だと」
「――――」
「そして、君がすべきは後悔ではない」
すでに騎士剣を鞘に納め、血や砂で汚れた装いを正した騎士が、そう告げる。
非情で、しかし、彼はどこまでも正しかった。
奥歯を噛み、その正しさへの憎々しさを隠して、スバルは息を吐く。
そして、ずっと一人きりだった彼女を、より強く抱きしめた。
置き去りにされ、誰もいない場所で長い時間を過ごした彼女に。
ゆっくりと、一人でなくなって、見送られていく彼女の一番傍で。
スバルが、ベアトリスが、ユリウスが、メィリィが。
遠く、監視塔から誰かが走ってくる淡い気配。それが、塔にいる仲間たちで。
ずっと、一人で過ごした彼女のために、みんなが集まってきていて。
『でも、あーしはお師様が一人いてくれたら十分ッス』
そんな、可愛げのないことを言う姿が目に浮かんで、それがそのまま涙に変わった。
ゆっくりと、その、スバルの頬を伝った雫を、魔獣の牙がそっとなぞる。
鋭い、何もかもを壊してしまいそうな牙で、この場にいる誰よりも壊れやすいだろうスバルを壊さないよう、愛おしむよう、優しく、優しく。
そして――、
「――ぁ」
抱擁する腕が、不意の感触を失った。
ボロボロと、その質量を喪失する紅蠍の外殻がほつれ、塵へと変わる。黒い塵が、砂の上に舞い、スバルは大きく口を開けた。
「シャウラ……」
『はいッス、お師様』
「シャウラ……シャウラ……シャウラ……」
『お呼びッスか?お師様』
「シャウラ、シャウラ……」
『も~、あーしってば、お師様に愛されすぎて、困っちまうッス~!』
目をつむれば、呼びかけに答える彼女の声が耳に蘇る。
それなのに、もう、彼女はどこにもいなくて。
「――ぁ」
砂の上に蹲って、砂海を掻き毟るスバル。
その鼓膜に、誰かの声が届いた。それが誰のものなのかわからない。確かめる余裕もなく、ただ、つられたように顔を上げ、スバルは目を見開いた。
黒い塵が降り積もった砂の大地、そこがわずかに揺れて、何かが這い出す。
それは小さな、掌ほどの大きさの存在。二振りの鋏で砂を掻いて、その尾部を使って器用に砂から体を引っ張り出す、赤い甲殻をした小さな存在――、
「――――」
それは、地面に膝をつくスバルの方へやってくると、砂についた手にそっと寄り添う。
その、ただの触れ合う仕草が、あの愛嬌の面影を残しているように思えて――。
△▼△▼△▼△
ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。
ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。
ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。
――煌めいていく全部に、あなたがいたから。
『四百年なんて、明日の明日みたいなもんだったッス』
『だって、待ってる時間も、愛してたッスもん』
『ねえ、お師様。だから、また、いつか――』
『いつかまた、あーしと出会ってほしいッス』
『今度は、お師様があーしを待つ番ッスよ?追う女より、追われる女ッス』
『――お師様、大事な、大事な、約束ッス』
『今度は、忘れないでくださいッス』
『――お師様、愛してるッス』
△▼△▼△▼△
「お前は、馬鹿だ」
忘れられるものかと、震える声で、スバルはそう呟いた。
そして、自分の手の甲にくすぐったく触れるそれを拾い上げ、両手で包む。
それをくすぐったく、こそばゆく思うように受け入れ、小さな、小さな蠍が震えた。
その甲殻は赤く、目に鮮やかなぐらいに赤く、真っ赤で。
――それは、四百年の時でも色褪せさせられない、『愛』の色をしていた。