『帰路の違和感』


 

ロズワールの提案――アーラム村からの避難民の解放。

この案自体はそれほど苦なく通るのは前回同様。避難民を『聖域』に抱え込むメリットがほぼほぼない状況では当然だが、前回と違っているのは付随する条件が削られている点か。前回は、『試練』をスバルが受けることが条件だったが。

 

「今回はその条件をつけてくる奴に徹底的に嫌われてっからな……」

 

「どうしたの、スバル?」

 

「んーや、なんでもないって。それより、エミリアたんの方こそ平気?落ち着いてる?俺がいて邪魔なら部屋の外までは譲歩するけど」

 

苦笑して手を振り、スバルは傍らの少女――エミリアにそう声をかける。

場所はエミリアの寝所として宛がわれたリューズ宅であり、寝室の寝台に隣り合って座りながら、特に話題に花を咲かせることもなく時間を過ごしていたところだ。

 

時刻はすでに夕刻で、もうすぐ夜の帳が下りる。

昼前に目覚めたエミリアと遅い朝食をとり、それからロズワールやリューズを交えた『避難民問題』を主題とした話し合いを終えた。つつがなく議事は進行し、避難民の解放は明日になるだろうと解散しかけ――、

 

「で、当たり前の話っだがよォ……エミリア様は今夜も、『試練』にゃァ挑むんだよなァ?」

 

と、釘を刺すようなガーフィールの発言がなければお茶も濁せたのだが。

彼の言葉に舌打ちしたい気持ちを堪えながらエミリアを横目にし、その横顔に一瞬ではあるが恐怖と哀切が走ったのを見て、スバルはやはりエミリアは今回も『試練』を越えることはできないだろうと半ば確信する。

 

記憶を持ち越せるスバルと違い、エミリアの条件は究極的には変わらない。仮にエミリアが『試練』を乗り越えられるとしたら、もっとスバルの行動によって彼女を取り巻く環境が劇的に変化していなくてはならない。

そして今回のループでは、その短期間で彼女の環境を大きく変えるような手立ては今のところ目処が立たない。――今夜挑んでも、おそらくは摩耗するだけのことだ。

 

「でも、そこで弱音吐かないでやるって言っちまうのが、エミリアたんだもんなぁ」

 

挑発めいたガーフィールの問いかけに対し、エミリアは刹那だけ過った感情を即座に瞳の裏側に隠すと、毅然とした態度で「もちろん、やるわ」と断言した。

その姿勢にガーフィールもいくらか感心したように目を細め、ロズワールが小さく口笛を吹くのを聞いてスバルの方が怒りではち切れそうになった。

ともあれ、今さら撤回することもできず、今夜の『試練』も始まるまであと数時間を残すのみとなっている。

 

話し合いを終えて、朝食からさほど時間の経っていない昼食をとり、それからこの家に戻ってきてすでに三時間ほど。その間、ずっと一緒にいたスバルはエミリアに途切れることなく話題を振りまいていたのだが――刻々と『試練』の時間が迫るにつれて、目に見えて彼女の口数は減っていってしまっている。

今では、スバルの言葉にほんのささやかに相槌を打つのみだ。それでも――、

 

「んっと……それは、ちょっとダメ」

 

「あー、了解。いいよ。エミリアたんが落ち着くまで、俺はエミリアたんの吐いた息を吸うのに集中してるから安心してて」

 

「それはすごーく嫌。……だけど、ここにいて」

 

乙女心の複雑さに、スバルは肩をすくめて言われた通りにその場を維持する。

隣り合って座りながら、手を重ねるような勇気もないへたれた状態ではあるが、求められていることは素直に嬉しい。他でもないエミリアに、だ。

それが彼女にとって、最も頼れる存在がいないことの代替行為だったとしても。

 

この『聖域』にきて以来――否、より明確に言うなら、パックが彼女の呼びかけに応じなくなった屋敷帰還以来、エミリアのスバルに対する態度は軟化の一途にある。

単純にこれを心を許してくれている、と喜ぶ心がある一方で、スバルの別の部分は静かな懸念を抱いてもいるのだ。

その別の部分曰く、今のエミリアは拠り所を失って危ういところではないのかと。

 

「……ぅん?」

 

「なんでもないよ?エミリアたん睫毛長くて可愛いなー、食べたいなーって思っただけ」

 

「スバルって、髪の毛食べたいとか睫毛食べたいとかほっぺた舐めたいとかよく言うけど……その、そういう趣味が?」

 

「俺の地元じゃ最大限の愛情表現なんだけどなー」

 

若干引き気味のエミリアに拗ねたように応じて、スバルは己の頬を掻く。

prprしたいというのはスバル的に最大限の求愛発言だと思うのだが、実際に行動に移したらさぞやドン引きされることだろう。裏の意図が読み取ってもらえないこちらの世界ではなおさらだ。発言に注意したい。今さらすぎるが。

 

こうして時折、くだらないことを言ってエミリアの気を紛らわすぐらいが今のスバルにできる精いっぱいだ。エミリアの向き合う過去、その断片を今は知っている。それを口にすれば、前回と違う劇的な変化は起こり得るだろうが、

 

――どう考えても、いい方向に変化するとも思えねぇしな。

 

どんな事態においても、やはり必要なのは時間なのだ。

エミリアが過去と向かい合うに当たり、己の心に覚悟を抱くのに必要なのも時間。スバルが過去の断片を彼女に差し出し、その口から本当のところを聞き出すのに必要なのも時間。時間、時間、時間。それが足りない。

 

「なんだってこんな窮屈なスケジュールでバタバタやらなきゃならねぇんだ。俺、この世界きてから落ち着いた時間過ごせてたことってちゃんとあったっけか?」

 

記憶を探るが、スバルにとって安寧というべき時間があったとすれば、それはジャガーノートの一件が片付いたあとのほんの数週間だけだっただろう。

その前後からは怒涛の時間が続きすぎて、我ながら人生で過労死しなかったのが不思議なぐらいの働きぶりである。

と、そんな風に益体もないことを考えていると、

 

「――スバル」

 

ふいの呼びかけに反応が遅れる。スバルが声の方――エミリアを見ると、彼女は至近で紫紺の瞳を潤ませながらスバルを見ていた。

途端、その濡れた双眸に魅入られて心臓が止まるかと思うほど大きく鳴る。息を呑むスバル。そのスバルを見つめながら、エミリアの瞳に揺らぐ決意と迷い。あるいは『試練』を目前に、なにかをスバルに打ち明けようとでも惑うような。

 

「なんだ?」

 

だからスバルは出来得る限りの優しさを込めて、エミリアの急かさないよう注意しながら言葉を紡いだ。彼女の決意が成るのであれば、それを決して邪魔しないよう。

しかし、エミリアはそのスバルの返答にふっと視線を落とし、

 

「ぁ……ん、ごめん。違うの。ちょっと、呼んでみただけ」

 

「――。そ、っか。呼んでみただけか!なんかそれ、付き合い始めたばっかの恋人とかにありがちなやり取りっぽいよね!」

 

「私、もうそろそろ行かないと……」

 

挫けてしまった彼女の決意。それを逃したことを悔やみながら、だがそれを悟られまいと空元気を装うスバル。その声を聞きながらエミリアは立ち上がり、日が落ちて夜が始まった窓の外を見上げ、

 

「――墓所に行かないと。スバルは、途中までなのよね」

 

「ガーフィールに頭下げて入口まで見送らせてもらいたいけど、説得できるかどうかはわからない。……エミリア、こんなこと言っても無駄かもしれないけど」

 

「――無駄。ダーメだよ、スバル」

 

無理をすることはない、と彼女の足を止めようとして、しかしそれは先読みしたエミリアの拒絶にあえなく打ち落とされてしまった。

口をつぐむスバルの前でエミリアは気丈に微笑み、己の唇に立てた指を当てると、

 

「大丈夫、なんて昨日の取り乱してた私を見てたら思えないかもしれないけど、頑張ってくる。頑張りたいの。頑張らないと、いけないと思うの」

 

ぐっと、彼女は顔の前に持っていっていた手を拳に固めて、「だから」と言葉を継ぎ、

 

「私になにか言葉をかけるなら、『やめてもいい』じゃなく、『頑張れ』って応援して。そうやって誰か一人でも私に期待してくれてるって思えれば、私はきっとそれを力にできると思うの」

 

「期待、してるぜ、エミリアたん。俺ほど君に期待してる男は、ひょっとすると君のパパ猫ぐらいしかいないかもしれないレベル。――頑張って」

 

「ん、頑張る」

 

この日、初めて気負いない心からの微笑を見せてくれたエミリア。そんな彼女の微笑みに安堵を得て、スバルも立ち上がると建物を出る彼女に続く。

日差しが落ちた夜の『聖域』には、いっそ肌寒さを感じるほど冷たい風が吹く。

 

その流れる風に、前を行くエミリアの銀髪が踊ってきらめく。

月光を受ける銀の川を見ながら、スバルは一歩一歩を強く踏む背中を見つめて、

 

――それでもきっと、今夜は無理なのだとそう悟っていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

避難民を連れてのロズワール邸への帰還は、前回より二日の短縮を経て実現した。

前回との違いは日時を除けば大きな部分はない。避難民はそれぞれ、『聖域』へ辿り着いたときと同じ竜車に乗り込み、雇われていた行商人たちもまとめて『聖域』の外へと解放される。スバルとオットーも、それに同行する形だ。

前回と最も違う点があるとすればそれは、

 

「道案内を買って出てくれたのが、リューズさんってのが驚きだ。普通、こういうのって下っ端っていうか……そういう立場の人の役回りじゃないの?」

 

「なんじゃ、儂では不満かえ?一緒に茶飲み話もした仲じゃというに、スー坊は年寄りに冷たいのぅ、心が荒むのぅ」

 

言いながら泣き真似するロリババア。小柄な体を窮屈な御者台の押し込み、スバルの隣に堂々と陣取っている。もともと二人掛けの御者台なので、そこに幼女体型とはいえ人が一人入るとスペースがかなり厳しいのだが。

 

「ええ、心中お察ししますよ。ナツキさんって本当に容赦とか遠慮とか全然ないですから、その辺の機微ってやつをお母さんにお腹に忘れてきちゃったんでしょう」

 

「おい、スー坊。御者台の隣に知らん顔がおるぞ、誰じゃ、こいつ」

 

「僕の立ち位置ってあなたの中でもそんなところなんですかねえ!?」

 

スバル被害者の会を立ち上げようとして梯子を外されるオットー。御者台で手綱を握り、まさしく竜車の生命線を担う立場だというのに、相変わらず軽んじられている。

彼はその意外と整った面貌に陰影を落として、

 

「ああ……なんか僕、この場所にきてずっとこんな感じで叫び続けてた印象しかないんですけど、ちゃんとメイザース伯に印象付けできましたかね?」

 

「今の調子で肩の力の抜けた普段のお前が見せれたし、笑いすぎて腹の傷開くぐらいだったから印象って意味じゃかなり強いんじゃね?」

 

「世の中には良い印象と悪い印象があるんですが、お腹破れたときの印象って普通に考えてどっち側になりますかねえ?」

 

「人の腹破っておいてこれだよ……もうダメだな、こいつ」

 

「僕がダメなら揃ってあんたも十二分にダメだよ!」

 

オットーが『聖域』に同行した理由、ロズワールとの面通しは滞りなく終了した。そのあたりは前回と同じ流れを踏襲しており、実際、オットーの人となりを爆笑で見届けたロズワールの中で彼の評価は低くはないだろう。

もっとも、純粋に商人として見てもらえた感はまずまず低いが。

 

「まぁ、そのあたりは今後の付き合いでおいおい詰めてったらいいさ。どっちにしろ、すでにメイザース領のトップシークレットを知るお前は逃げられないんだし」

 

「ナツキさんと出会ったのが運の尽きってことなんですかねえ……いえ、もうなんかある種の悟りを開いたんでそこらへんはいいんですけど」

 

さすがは薄幸街道を突っ走りながらもめげずに商人してきた根性の持ち主。大成する運命にはきっと乗れないだろうが、それでも選んだことを後悔はさせまい。

内心でこんなことに付き合ってくれる彼への友誼を確かに感じながら、

 

「今後も扱き使ってやるからよろしくな!オットー!」

 

「爽やかな顔つきでなにを言い出しやがりますかねえ、この人!」

 

肩を叩いてサムズアップを向けるスバルにオットーが絶叫。

間に挟まれるリューズがうるさげに耳を塞ぐアクションを入れるのを見ながら、スバルは改めて出発前の竜車から眼下を見下ろし、

 

「――んじゃ、いってくるよ、エミリアたん」

 

「ん、気をつけてね」

 

胸の前で小さく持ち上げた手を振り、心細げにこちらを見送るエミリアと言葉を交わした。

 

――昨夜、スバルを伴って『試練』に挑んだエミリア。結果はわかっていたことだが失敗。墓所にスバルが同行することができなかったため、途中で『試練』が中断されることもなく、呆然自失としたエミリアは自ら墓所の外に這い出て、瞳を震わせながらスバルの腕の中に倒れ込み、そのまま意識をなくした。

 

眠るエミリアの傍らに一晩中ありながら、彼女の寝顔から何度涙を拭ったか、スバルはもう覚えていない。

それほどの精神的摩耗を抱える彼女を残していくことに、不安を感じないといえば丸っきり嘘になってしまう。できるならばできる限り傍にいて、その震える体を支えていてやりたいのだが。

 

「一両日中に戻るから、無理はしないこと。村の人たちのことがなくなれば、焦る必要はないんだ。ゆっくり、時間かけて攻略しよう」

 

「そう……かな。うん、スバルがそう言うなら……」

 

昨夜見せたわずかに力を取り戻していた笑みと違い、儚さ以外のなにをも見るものに感じさせない弱々しい笑み。それでも、こうして立ってスバルたちを見送りにきているだけ無理をしている。あるいは別のことに意識を割くことで、その根幹を揺るがすものを忘れようとしているのかもしれない。

 

「ラム、釘を刺すわけじゃねぇけど」

 

「それが釘刺し以外のなんだというのか、ラムには疑問だわ。……安心なさい。癪ではあるけど、ラムもバルスと同意見。もともと長期戦で見るべき問題だもの。ロズワール様のご下命がない限り、ガーフは牽制してあげるわ」

 

「恩に着る……っていうと恐いな。なにか別のもんで礼するよ」

 

「ちっ。バルスの癖に勘がいい」

 

「今、こっそりと俺は別問題の死亡フラグを回避していた――っ」

 

舌打ちしたのを聞かれていながら、悪びれずにお辞儀だけは丁寧にこちらを見送るラム。その彼女が一歩下がり、スバルは今度こそ出発と御者台に座り直し――見送りの列のはるか後方に、腕を組んでこちらを眺める金髪の青年を見た。

 

スバルが気付いたことにあちらも気付き、互いの視線が絡み合う。

その向けた視線に、向けられた視線に互いにどんな感情を込めたのかはわからないが、昨夜のエミリアのこともあって剣呑さは欠片も和らがない。

 

「にゃろめ。どうにか攻略の糸口を掴んできてやっからな……」

 

「ナツキさん?そろそろ出発しますけど、いいですか?」

 

「いいですとも。リューズさん、案内お願いしまーす」

 

「任せれよう」

 

気取った仕草でリューズが頷くと、手綱を操るオットーがパトラッシュとフルフーの二頭に合図。ゆっくりと竜車が動き出し、避難民の大移動が始まる。

竜車の速度は全速には程遠く、車でいうところの徐行程度のものだ。子どもや年寄り、女性ばかりが乗り合わせているためその配慮は仕方ない。

 

「それでもやっぱり、戻れるってわかったみんなの顔色はいい感じだな」

 

「故郷、というのはそれだけ力があるものじゃ。どれだけ見るところがなくて、どれだけ退屈でも、けっきょくは心はそこに置いてきてしまうものじゃからな」

 

後方を見ながらぼんやり呟くスバルにリューズが追従。彼女の言葉に「そんなもんかねぇ」と腕を組んで首を傾げながら、

 

「リューズさんも、やっぱり『聖域』には愛着がある?」

 

「……どう、じゃろな。儂の場合、あの場所以外を知らんという特別な状況でもあるしの。あの場所以外を思うことが恐い、と思わないでもない」

 

「恐い?」

 

「知らない場所へ足を踏み出すのは恐ろしいものじゃよ、スー坊。儂のように無駄に歳だけ重ねてしまった老僕には特に、な」

 

老成した笑みを浮かべ、どこか遠い目をするリューズ。が、見た目が幼いせいでどれだけシリアスを気取っても、幼女が背伸びしているようにしか見えないのが難点。

道中、そうしてぽつりぽつりと会話を交わしながら、森の中をゆっくりと竜車の行軍は続く。片道およそ八時間の長期戦だ。風の加護でロイヤルシートにいるような快適な走行性は保障されているが、それがかえって時間の経過を遅く感じさせる。

 

「なかなか賢い地竜じゃの。儂の案内なしでも、ほとんど道を間違えん」

 

「俺の自慢のカワイ子ちゃんだからね。俺が胸張るのも若干筋違いしてるけど、俺の周りはかなりレベル高ぇぜ?」

 

ロズワール邸の面々を始め、王選開始からこっち出会う面子はそれぞれが一角の人物ばかりだった。そうそうたる顔ぶれに混じった自分の凡庸さがいかにも情けない話だが、今は上を見上げるばかりでもいいといっそ開き直っている。

スタートが遅くて周回遅れではあるが、走り出したことは確かなのだ。追いつくためにあとは走り続けるだけ――そのための力は、もうもらったのだから。

 

「そういや途中まで案内してくれんのはいいけど、帰りってリューズさんどうすんの?竜車は全部アーラム村まで戻んだし、交通手段がないよ?」

 

「心配せんでも普通にこの足で帰るに決まっとるじゃろ。言っておくがこの健脚、まだまだ若いもんに負けたりはせんぞ?」

 

ブラブラと、竜車の動きに従って揺れる短く細い足を叩いてみせるリューズ。はっきり言って説得力は微塵もないが、やたら自信満々な童女の気力を折るのも気が進まず、

 

「わかったわかった……おい、オットー。お前、幼女背負って『聖域』まで走ったりする気力とかってある?」

 

「その質問の意図がわからないので回答拒否したいんですがよろしいですかねえ?」

 

「聞いたか、リューズさん。どうやらあいつは暗い森を一人で歩かなきゃいけない幼女を背負って歩く甲斐性もないらしい。幼女の一人や二人、知ったこっちゃないってよ」

 

「ひどい話じゃのぅ、人心は荒み切ってしまったんじゃのぅ」

 

「あんたら二人して打ち合わせでもしてたんですかねえ!?」

 

森の静けさをいつものようにオットーの叫びが切り裂き、そのままリューズと顔を見合わせて笑っていると、ふいに彼女は顔を上げ、

 

「そろそろ、じゃな」

 

と、呟くリューズにスバルは眉を寄せる。途端、そのスバルの方へリューズが唐突に体を預けてきた。軽い体を受け止め、スバルが「おお?」と小さく声を上げると、

 

「オットー、ストップ。リューズさんの様子が変だ」

 

「村、戻りますか?」

 

短い声で告げると、オットーが手綱を操って竜車を停止。背後の隊列に手旗で同様の指示を出すと、次々と停止する地竜たちの嘶きが聞こえる。

すると、スバルの腕の中のリューズが小さく手を掲げ、

 

「……すまん、戻る必要はない。結界がすぐ間近まできた影響があっただけじゃ。これ以上、森の外まで進めば意識が持っていいかれるじゃろうがな」

 

「結界……エミリアが『聖域』に入ったときと同じか」

 

スバル時間ですでに一週間近く前になる、『聖域』来訪時の記憶。

今と同じように竜車に揺られていた中、ふいにエミリアが意識を消失し、そこをガーフィールに手荒な歓迎を受けたのだ。

リューズの容態はそのときのエミリアに酷似しており、このまま勢いよく竜車が駆けていれば意識をバッサリと断ち切られていただろう。

 

「しかし本気で見境ねぇんだな、この結界。敏感肌の俺も、鈍感肌のオットーも特になにも感じてねぇんだけど」

 

「鈍感肌ってなんですか。肌に敏感も鈍感もありゃしないでしょうに」

 

「そうして肌ケアを疎かにしてる若者が、二十代後半から徐々に徐々にシミ・ソバカスに悩まされて若い頃の無知を後悔するようになるのさ」

 

「本気でなに言ってんだかわかんなくなってきたんですが、話戻すとリューズ様はこのあたりでお別れ……ってことですかね?」

 

軽口の叩き合いに辟易としたのか、オットーがスバルを無視してリューズの方へ話を振る。それを受け、彼女はいくらか苦しげな顔のまま首肯し、

 

「そう、じゃな。儂はここまでじゃ。『聖域』のものはどうにもこの結界と相性が悪い。久しぶりにきてみたが……やはり、どうにもならんもんじゃ」

 

「ひょっとして、それ試す意味でついてきた部分もあったり?」

 

「存外、儂も都合のいいことを考えたものじゃな。結果は見た通りじゃが。……儂がダメなら、やはり『聖域』は『試練』を終えなくては解放されん。それがわかったじゃろ、スー坊」

 

ちらとこちらを見る童女の眼差しに、スバルは彼女が身を持って『聖域』に閉じ込められるものたちの実情を見せてくれたのだと悟る。それと同時に、やはり彼女も『聖域』の外へ焦がれているのだと、極々当然の欲求を抱えていることも。

 

「エミリアも、やっぱりここまできたら同じ感じになんのかね」

 

「中に入った以上、そうじゃろうな。『聖域』の住民の誰も彼もがあそこで生まれ育ったわけではないのじゃ。ロズ坊が時折、外から似た境遇のものを連れてくることがあった。その子らもまた、『聖域』に入った時点で魔女の所有物。エミリア様とて例外ではあるまいよ」

 

「……なんかまたイマイチ、聞き逃せない情報が混じってた気がすんな」

 

外部からロズワールが、『聖域』に住民を――結界の影響を受けるということは、そのものたちもつまり『ハーフ』であるということになるが。

 

「それを連れ込んで閉じ込めてるって?おいおい、なに考えてんだよ」

 

「その真意に関しては……儂の口から話すのも違うじゃろうな。戻ってスー坊が直接、ロズ坊に問い質すとよい」

 

力なく首を振り、顔をしかめるスバルの腕から抜け出すリューズ。彼女はその小柄な体を御者台から軽やかに下ろすと、頭を向けてくるパトラッシュの首筋を撫で、

 

「よい地竜じゃ。主人の力になってやるんじゃぞ」

 

鼻を擦りつけるパトラッシュが、リューズの言葉を肯定するように見える。なにより、自惚れではないがスバル以外にあれほど懐くパトラッシュの姿をスバルは初めて見た。オットーなど、会話できるわりにしょっちゅう頭突きを食らっているのに。

 

「色々と『聖域』でやることもあるし、フレデリカに聞きたいこと聞いたらすぐに戻るかんな」

 

「そうするがいいじゃろう。……儂の勘じゃが、お前さん抜きで『聖域』の話が動くような気がせん」

 

「またずいぶんな過大評価を……勘だけど」

 

「百年以上生きとる女の勘じゃぞ?」

 

「年季入ってるのが良いと見るか裏目と見るかで判断変わるね」

 

リューズにそう応じて、スバルは御者台の上から丁寧に彼女にお辞儀。それを見届けた彼女が竜車から距離を開けると、オットーが「行きます」と小さくこぼし、

 

「じゃ、リューズさん、また。気をつけて帰ってくれよ」

 

「うむ。ここをまっすぐゆけば森を抜ける。そのまま街道に出れば、あとは地竜がどうとでも導くじゃろう。気をつけてな」

 

小さく手振りしてくれるリューズに見送られ、オットーが手旗を振ると再び竜車の行軍が始まる。

遠ざかるこちらを見送りながら、リューズもまた背を向けて森の奥の方へ。その姿が木々の隙間に埋もれていくのを見届けて、彼女が無事に帰りつけることを祈りつつ――スバルは胸中に、言葉にならないしこりを覚えていた。

 

「……なんか、違和感があったな」

 

先の会話の中で得た違和感。それが具体的になんなのかを言葉にできないまま、スバルは竜車の揺れに体重を預ける。

森を抜け、日差しが差し込み、道が広がり――結界を越えて、『聖域』を抜ける。

ここから先、また長い長い道のりが続く。

 

やらなければならないこと、話さなくてはならないこと。

それらを山積みにしたまま、スバルは竜車に揺られ続けていた。