『モノリスの挑戦状』


 

シャウラの歓迎の言葉――それが見当違いな相手へのものだったとわかっていながら、スバルは最終的に否定せずに受け入れることにした。

 

ベアトリスの忠言もある。

実際、シャウラにスバルのことをフリューゲルと誤認させておいた方が、こちらにとって都合がいいことは間違いないのだ。これで今さら、シャウラに敵対されて戦闘になったとしたら、その圧倒的な力に蹴散らされないとも限らない。

一度、好意的に接した以上、スバルは少なくとも攻撃の手が鈍る。ただでさえ実力で劣るスバルがそうなれば、それは敗着の要因として十分すぎるだろう。

 

「心配しなくても大丈夫よ、スバル。もしもシャウラが本当はスバルがお師様じゃないって気付いても、きっとひどいことになんかならないわ」

 

とは、後ろの会話を聞いていたらしきエミリアの言葉だ。

銀髪を長い三つ編みに纏めているエミリアは、その先端を指で弄びながら、スバルの方に自信満々に言ってみせる。

 

「エミリアたんの太鼓判は嬉しいけど……その心は?」

 

「その心って言い回しはちょっとわからないけど、でも、シャウラいい子じゃない。私たちのこともスバルのことも助けてくれたんだし、普通に仲良くなることだってできるわ。そしたら、ケンカする必要なんてないでしょう?」

 

「……そだね」

 

いささか楽観的すぎる意見だが、悲観的すぎるのも十分に悪癖といえる。

シャウラが真実を知ったとしても、即座に敵対関係が成立するわけではない。仮に事実が明らかになっても、シャウラが自己判断で攻撃を止めればいいのだ。そしてそう思ってもらえるぐらい、仲良くなればいいというエミリアの考えは誤りではない。

 

情に訴える、という打算的な目的ではなく、戦いたくないという意思を理由に。

 

「あまりエミリア様のぽやぽやした考えは参考にしないことね、バルス。ここは『賢者』の監視塔で、砂丘には帰りも挑む必要がある。警戒はしすぎて損はないわ」

 

「もう、すぐにラムはそんな風に言うんだから。少しは気を緩めてもいいのに……」

 

「気を抜いた結果、バルスやアナスタシア様と地下に投げ出されましたから。か弱いラムにとって、あの絶望感は耐え難いもので……エミリア様にはわからないかもしれませんが」

 

「んー、そうかしら。でも、確かにこのあたりの地下ならへっちゃらかも?私、なんだかアウグリア砂丘にきてからすごーく調子いいのよね」

 

辛辣なラムの物言いに、エミリアは鷹揚に応じるご様子。主従の間柄として、エミリアとラムの関係は一年前から結構に良好だ。いささかラムの言動はエミリアへの敬意に欠けているが、エミリアはむしろその扱いが嬉しくて仕方ないらしい。

蔑視や差別にトラウマがあるはずのエミリアには、かえってラムの言葉にそういった悪感情が込められていないことが感じ取れるのかもしれなかった。

 

「それにしても、エミリアたんが調子いいってのは?」

 

「なんだろ、空気が肌に合うのかしら。マナも、国とか地域によってはちょっと色が違ったりするから、そういうことだと思うんだけど……このあたりのマナは特に、私の肌には合ってるみたい。あんまり嬉しくないかも」

 

「まぁ、そうだね。こんな魔獣だらけの魔女が封印されてる場所じゃなぁ」

 

力がみなぎる、とばかりに拳を握るエミリアだが、すぐに情けない顔で苦笑い。そんなエミリアの気持ちに同情しつつ、力強い意見でもあるのは確かだ。

前述通り、魔獣に魔女と危険に事欠かないこの地帯で、エミリアの力が高まっているのは素直にありがたい。それでも、シャウラに敗北した姿はスバルの脳裏に刻み込まれているため、楽観視できる要因にはならないが。

 

「でも、条件が違うしな。塔から一方的に攻撃できた状況と違って、互いに顔の見える距離ならエミリアたんだって負けちゃいねぇはず」

 

「何がッスか?何がッスか?」

 

「いや、お前ってメチャクチャ目がいいよなって話。すげぇ離れたところにいた俺たちに向かって、塔から正確に攻撃投げてきてたろ?あれ、どういう仕組みだ?」

 

「ああ、アレはあーしの針と狙いをマナで繋いで、そこに引き寄せられるようになってるってだけッス。ヘルズ・スナイプはお師様の考案ッスよ?」

 

「……そっか、余計なこと仕込んだな、フリューゲル」

 

おかげでひどい目に遭った。フリューゲルと話す機会はこないだろうが、もしもお茶会のような機会が得られたら存分に罵声を浴びせたいところだ。

そうして、上機嫌なシャウラの鼻歌を聞き、スバルが嘆息する。

すると――、

 

「歓談中のところすまないが、目的地に到着したよ」

 

「お?」

 

塔の上階へ続く螺旋階段――それを上る一行の先頭にいたユリウスの声だ。

アナスタシアの手を引き、エスコートしていた騎士の言葉に顔を上げると、斜め上に立つユリウスの向こうにいつの間にか天井が見えている。

 

「いや、天井じゃなくて、上の階の床部分ってことか」

 

「そこにあるのが五層『ケラエノ』ってことになるかしら。外との出入り口はここにあるだけで、ベティーたちは最初はここから入ったのよ」

 

五層を間近にしたところで、横のベアトリスがそんな注釈を入れてくれる。その言葉になるほど、と頷きつつ、スバルはすぐに「ん?」と違和感に気付いた。

分断されたあと、エミリアたちが五層から塔に入ったというのなら――、

 

「ジャイアンと竜車はどうやって最下層に乗り込んだんだ?さすがにこの階段、竜車が通れるほど広くないぞ?」

 

自分の通ってきた螺旋階段で手を広げ、スバルは道幅を確認する。階段の横幅はそこそこだが、それでも腕を伸ばしたスバルが二人は並べない程度。地竜の巨躯では単体ならかろうじて通れるかもしれないが、竜車の車体が通るのは不可能だ。

無論、これだけ長い階段を地竜に歩かせること自体、可能だとしてもやるべきではない道のりには違いないのだが。

 

「実はエレベーターがついてるとか、そういう仕組みか?なら、次からはそっち使おうぜ。健康志向はいいことだけど、文明の利器を否定しすぎるのもよくないよ」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない。……でも、竜車のことは簡単。シャウラが持ち上げて、運んでくれたの」

 

「……パードゥン?」

 

なんだか聞き捨てならないことを聞いた気がして、スバルはエミリアに聞き返す。その英語の返事にエミリアは眉を寄せたが、おそらく復唱を求められたのだろうと察したらしく、「だから」と言葉を継いで、

 

「シャウラが竜車と地竜をひょいって持ち上げて、簡単に下まで降ろしたの」

 

「いやいやいやいや、さすがにそれはダメだよ。竜車ったって、あのでかさじゃトン越えしてるかもしれないぜ?そこに地竜もセットって……」

 

恐ろしい発言にスバルは目を剥くが、同行者は誰もそれを否定しない。挙句、シャウラは自慢げに豊かな胸を張ると、小鼻を膨らませた。

 

「言われた通り、運んだのはあーしッス。いやぁ、あのぐらいなら楽勝ッスよ。出入り口のところに置いておくと、外から流れ込む瘴気でトカゲがおかしくなったりするかもしれないッスからね。ほんの気遣いッス。褒めてくれていいッスよ!」

 

「感謝の気持ちはあるけど、お前の細腕が細腕じゃないってわかってドン引きだよ。そんな怪力人間……ラインハルトでもできなさそうだぞ」

 

スバルの中で最高のビックリドッキリ人間は文句なしにラインハルトなのだが、その彼でもさすがに人間の限界を超えた質量を持ち上げるとかは無理ではあるまいか。

剣圧で世界を割ったり、水の上を歩いたり、一回生き返るぐらいはやれても、さすがに竜車を片手で担いだりは――、

 

「あれ、できるのかな。ちょっと不安になってきた。あいつが人間かどうか」

 

「むー、あーしの話なのにお師様が違う人のこと考えてる。ジェラシーッス」

 

ともあれ、竜車が最下層に運ばれた経緯は理解した。実際、運ぶ場面は見ていないので衝撃は少ないが、シャウラ激昂問題における新たな脅威材料とは受け止めておく。

さて、そうしてひとしきり話したところで、一行は五層に到着する。『ケラエノ』は何度も指摘された通り、塔の内外を繋ぐ入口が存在する階層だ。

 

円筒形の構造をした塔の奥に、一ヶ所だけ巨大な扉が備え付けられている。

見上げるほどの大きさで、横幅はゆうに十メートル近くあるだろうか。不必要に巨大な扉だが、開けるのにどれだけの力がいるのかも疑問で――。

 

「もしかしてこれ、試しの門方式で入るのも難しいみたいなことなのか?」

 

「少なくとも、私が押したところでびくともしなかったのは事実だ。おかげで、アナスタシア様や君の捜索もままならなくてね」

 

超巨大な扉を見やり、嘆息するスバルにユリウスが頷いた。どうやらこの扉、見た目通りの重量感で挑戦者の行く手を阻むものらしい。

竜車を軽々と片手で運ぶシャウラならいざ知らず、常人には開放もままならない。故にエミリアやユリウスはスバルたちを探しに出られず、やきもきする結果になったということらしかった。

 

「でも、あちこちガタがきてるのは間違いないみたいかしら」

 

「砂風が強いからやと思うけど、風に乗って砂が流れ込んでくるんやね。ちょこぉっと深呼吸すると、すぅぐに口の中が砂利っぽくなるから嫌やわぁ」

 

舌を出したアナスタシアが、その桃色の舌を指でなぞって砂利を落とす。彼女の言の通り、スバルも口の中に砂っぽい感触を味わっており、外と繋がる五層には微粒子のように砂埃が常に舞い散っているのがわかった。

 

「砂丘の砂は瘴気を孕んでいる。微量だからと甘く見ていると、体の内側から蝕まれかねない。用のない限り、ここは早々に通り抜けるべきだろう」

 

「それじゃ、そういうことにしようぜ。俺の目的はここじゃなく、四層『アルキオネ』の方なんだし。……また階段ってのが萎えるけど」

 

「相変わらず軟弱ッスね~。でも、安心していいッスよ。四層と五層の間の階段は六層と五層の間よりもよっぽど短いッス。あんまり遠いとあーしも行き帰りがだるくなるんで、それに配慮したッス~」

 

「揺らさないのお」

 

砂埃の中、両手を広げて駆け回るシャウラが後頭部にメィリィのチョップを浴びる。そんな様子を横目に、一行は五層を素通りして四層へ向かう階段に。

微かに風が流れ、薄暗い上に黄色く煙る視界の中、見上げた先にはそう遠くない位置に天井――上階の床が見えて、遠くないという意見は事実のようだ。

 

そうして、四層『アルキオネ』に向かって、軽口を叩き合いながら一行は歩き続け――やがて、目的の階層に辿り着く。

 

四層も、造り自体は五層や六層と大きく変わるわけではない。

塔の構造上、円筒形の建物であることは揺るがないし、大きさも劇的に変化することはない。――それでも、雰囲気の変化は明白だ。

 

まず、階段を上がったフロアの大きさが下層と大きく違う。

下層に比べると、円形のフロアはずいぶんと狭くできていた。それもそのはず、円形の建物の内縁に同じく円形の壁が敷居となって作られ、これまでワンフロアだった下層とは違った空間の使い方をしている。

下層からの螺旋階段は四層の中心に繋がる形になっていて、ぐるりと周囲を囲む壁にはいくつも扉が点在し、複数の部屋がフロアに存在するのがわかった。

 

「ここがあーしの住処にしてる四層『アルキオネ』。それで、お師様がきたがってた『緑部屋』がすぐそこッス」

 

「緑部屋……?」

 

趣の変わった四層にスバルが戸惑っていると、隣を抜けてフロアに立ったシャウラが大仰な動きで正面にある扉を示す。

四層に存在する複数の扉は、五層の出入り口と違って常識的な大きさだ。開くのに特別な力は必要なさそうだが、肝心の扉自体に奇妙な違和感がある。

『緑部屋』の異名通り、扉は緑色の無数の蔦に覆われていて、何百年も放置されたジャングルの秘境のような有様になっているからだ。

 

「俺がきたがってたってことは、ここにレムとパトラッシュがいるのか?」

 

「名前は知らないッスけど、女の子とトカゲがいるッス」

 

「安心なさい。中にいるのはレムとあの地竜で間違いないから」

 

尻込みするスバルに、シャウラの微妙に信頼性の欠ける証言。それらを小馬鹿にするように鼻を鳴らし、先頭切って緑部屋に向かうのはラムだ。

彼女は蔦だらけの扉に手を伸ばすと、石造りと思われるそれを躊躇いなく押した。彼女の細腕でも、扉はあっさりと滑るように開かれ、緑部屋が解放される。

 

「こないの?バルス」

 

「……いくよ、俺も」

 

試すようなラムの問いかけに、スバルは不安を蹴飛ばして前に出た。そして先に部屋に入るラムに続き、堂々と緑部屋の中に入り込む。

ただ、緑部屋にスバルとラムが入ると、そのまま扉はすぐに閉まってしまう。そのことに驚き、スバルが背後を振り返る。

 

「おい、分断されたぞ」

 

「なんでもビビる必要はないわよ。――この部屋、入る人間の数が限られるらしいわ。部屋の持ち主が嫌がるみたいね」

 

背後の異変にそう言って、ラムはさっさと進んでしまう。スバルはその説明に頭を掻いて、すぐにその小さな背中を追いかけた。

緑部屋はその扉の異様さを裏切らず、室内もしっかりと大量の緑に塗り潰されていた。のたくる植物が壁や床、天井を縦横無尽に張り巡らされており、時折、垂れ下がる蔦が行く手を阻むのを屈んで避ける必要がある。

そして、そんな緑の支配する空間の奥に――。

 

「レム……と、パトラッシュ」

 

緑の部屋の奥まった場所に、わずかに存在する雑多な植物のない空間。そこには生い茂る緑の草が折り重なり、所々に小さな花を咲かせたベッドができている。

その緑と花に彩られたベッドの上に、変わらない寝顔のレムが横たわっていた。

 

白い頬に色は差さず、寝顔には何の変化もない。微かな呼吸で胸が上下するが、生きている証は触れる熱以外にはその生命活動だけだ。

それなのに、やたらと力が抜けるほどに安堵感があった。

 

「ホントに、無事だったか……」

 

「だから言ったでしょうに。それとも、ラムがレムのことで嘘をつくとでも思ったの?何のためにそんなことする意味があるの」

 

「そうは言わねぇけど、目で見るまで安心できないのは仕方ねぇよ。……パトラッシュ、お前も無事で何よりだ」

 

ラムの言葉に微苦笑し、それからスバルは草のベッドに眠るレムのさらに奥、そこに四肢を畳んで座るパトラッシュへと歩み寄った。

こちらも、レムと同じく緑色のベッドに寝そべっており、厩舎に敷いた井草の上に横たわっている状態とさほど変わらない。ただ、はっきりと違うのは――、

 

「……この草、普通の草と違うのか?」

 

「――――」

 

歩み寄り、無事を確かめるスバルの掌にパトラッシュが鼻を擦り付ける。愛竜の反応を優しく受け入れながら、スバルはパトラッシュの寝そべる緑の寝台――そこから伝わってくる、微かに温かな波動を感じて首をひねった。

 

「精霊の力で、治癒が速まる効能があるそうよ」

 

「精霊って……いるのか?どこに?」

 

「精霊使いのくせにわからないの?この部屋が、精霊そのものよ」

 

「――――」

 

パトラッシュを撫でてやりながら、ラムの言葉にスバルは慌てて部屋を見回す。生い茂る蔦に壁の苔、精霊の存在はその目に映り込まないが、ラムに言われて初めてスバルはその圧倒的なマナの濃密さに気付かされた。

 

まるで高濃度の酸素の中にいるように、呼吸と肉体が安らかになる感覚。

癒しのマナには似たような効果があるのかもしれない。落ち着いて深呼吸すれば、負傷のないスバルもその恩恵を受け取れるような気がした。

 

「なんとなく、わかった。確かにこれは精霊だ。……話せない、のか?」

 

「ここの精霊は変わり種……といっても、変わっていない精霊なんていないわね。エミリア様の大精霊様然り、ベアトリス様然り……特段、ここの精霊には意思らしい意思はないそうよ。ただ、入った生き物の傷や病を癒そうとするだけで」

 

「ふ、うん」

 

「どうかしたの?」

 

「大したことじゃない。ただ、知ってる魔女にそんなのがいたなと思っただけ」

 

魔女、と聞いて戯言だと思ったのか、ラムは鼻を鳴らしてレムの隣に歩み寄る。すると、妹を見守る姉を慮るように、ラムのすぐ後ろに蔦が伸び始め、それは急速に結びついて編み上がり、緑の椅子となってその体を支える。

ラムは精霊の気遣いに「感謝します」と頭を下げ、椅子に体重を預けた。

 

「なんかすげぇな」

 

「少なくとも、今まで見知った精霊の中で一番紳士的なのは確かね。バルスも少しは見習った方がいいわ。この精霊と、騎士ユリウスの立ち回りを」

 

「どっちにしても釈然としねぇ」

 

見習え、と言われた両者を頭から追い払い、スバルはパトラッシュを撫でる。頭を撫でて、掌で首筋をくすぐってやり、もたげた頭をゆっくりと降ろさせる。

 

「ゆっくり休んでろ。またお前に助けられちまったし、働きすぎだよ。たまには有給休暇取っても罰なんか当たらねぇからさ」

 

「――――」

 

スバルの穏やかな言葉に、パトラッシュは体を丸め、黄色い瞳を閉じて眠りについた。塔まで連れてきてもらって、お互いの無事が確認できた。

それだけで十分、パトラッシュの仕事は十分だ。

 

「レムに変化は?治すのがレゾンテートルの部屋なら、今のレムにそれらしい干渉ができたりとか……」

 

「残念だけど、望み薄ね。可もなく不可もなく……治療に進展はないわ。傷でも病でもないものは癒せない。そういう判断みたいね」

 

「……そうかよ」

 

それでも、緑部屋の精霊は眠り続けるレムを労わることは惜しまないらしい。

眠るレムを見守るラムに対しても、ずいぶんと献身的なものだ。

 

「結局、このままじゃ何も変わらないってことだな」

 

「……変えたいなら、塔にきた目的を果たさなきゃダメでしょうね」

 

「大図書館プレイアデス、その試験か」

 

当初の目的は、プレアデス監視塔にいる『賢者』シャウラと接触し、その全知と謳われる知恵を借り、レムやプリステラに残る『暴食』と『色欲』の被害者を救済することだった。

 

だが、プレアデス監視塔の『賢者』シャウラは名ばかりの存在で、実際にいたのはスバルを『賢者』フリューゲルと勘違いする奇妙な少女が一人。プレアデス監視塔は実際には大図書館プレイアデスであり、シャウラの全知と謳われた知識は実際は、その図書館に貯蔵される無数の書物の中に眠っているという。

 

なるほど、大きく目的はねじ曲がり、終着点は予測もつかない方向へずれたが。

 

「知識に触れて、レムを取り戻す。――その目的はぶれてねぇ」

 

「……そう。ならいいわ」

 

肩を回して、軽くストレッチするスバルにラムは目を伏せた。それきり、彼女は眠るレムの手を優しく握り、スバルの方には一瞥もくれない。

そのラムの態度に片目をつむり、スバルは天井を指差して、

 

「俺は上の試験に挑むとする。お前は?」

 

「誰かがレムを見ていないと、いくらなんでも不安でしょう?それなら、ラムがその役目をするわ。元々、ロズワール様に無理を言ってまで同行してきたのは、レムのことを見守るためだったんだから」

 

「それは、まぁ、そうだな。それじゃ、レムのことはお前に任せた」

 

「見守るぐらいしかできないけどね」

 

「お前が見守ってくれてることに意味があんだよ」

 

珍しく自分を卑下するラムにそう言って、スバルは部屋を出る前にレムの寝顔を見る。安らかとも、苦しげとも言えない表情の消えた夢の中に彼女はいる。

その前髪のかかる額に手を伸ばし、そっとくすぐるように触れる。

 

「じゃ、いってくる」

 

「――――」

 

無論、返事はない。

ラムも自分が言われたわけでないことがわかっているから、無粋に口を挟まない。そのことに満足して、スバルは部屋の出口に向かう。

なんとなく壁に手を伸ばして、その蔦に触れながら「レムとパトラッシュをお願いします」と精霊に頼んでおくことも忘れない。

 

そして、部屋を出る間際、ふと足を止めた。

 

「そういえば、レムを放っておけないとか言って、でも今は空っぽにしてたよな?なんでわざわざ下りてきたんだ?」

 

「――――」

 

「まさか、俺が目覚めたって聞いて大急ぎで見にきてくれたってわけじゃないだろ?なんかあったなら教えておいてくれると……」

 

「とっとと行きなさい」

 

「え?いや、だけど、気になることがあるなら言っといてくれないと」

 

「早く行きなさい」

 

強烈に噴き上がる鬼気に気圧され、スバルはそれ以上何も言えず、すごすごと緑部屋を退散させられるしかなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ラムが何考えてんのか大体いつもわかんねぇけど、最近は特によくわからん」

 

「んー、そうでもないと思うわ。ラム、あれで意外と素直だもの。その素直なところを隠そうとするの、私は可愛いと思うし」

 

「珍しく年上みたいな発言を……実際、年上ではあるのか」

 

「そうよ、私、お姉さんなんだから。この場にいる誰よりも……でもなかった」

 

「ふふん、ベティーの方がお姉さんなのはお姉さんなのよ。これは誰にも塗り替えられない厳然たる事実かしら。慕ってもいいのよ」

 

緑部屋を出て、残った顔ぶれと合流したところでそんな会話が生じる。

チーム最年長の座を奪われてエミリアは悔しげ、ベアトリスは満足げに薄い胸を張っているが、正直なところ、どっちにしてもお姉さんの態度ではない。

それに、現状の面子で最年長が誰なのかという会話は実は非常にデリケートだ。

 

「んん?ナツキくん、なに?なんや、うちに言いたいことでもあるん?」

 

「別に。見た目と実年齢が噛み合わない面子が多いなって話」

 

「そう?うちもよく、実年齢よりお若いですねーって言われるんよ。喜んでいいんかちょっと難しいとこやけど、侮られるんは侮られるんでやりようあるしね」

 

商売っ気の強い顔でアナスタシアは笑うが、本心はどうだかわからない。

アナスタシア本人の年齢は二十歳過ぎで、外見年齢は十四、五歳といったところ。だが、スバルが指摘したかったのはそういった外側の話ではなく、アナスタシアの中身の問題だ。現時点でアナスタシアは襟ドナに今も中身を乗っ取られたまま。

襟ドナの出生がベアトリスと同じそれなら、最年長レースに名乗り出るのは難しくない。もっとも、そんなくだらない意地でここまで隠してきたことを明かすなどありえないだろうから、スバルの方からも余計なことは言わないのだが。

 

それに、現状に限れば最年長レースの有力候補は他にもいる。

 

「およ、どうしたッスか、お師様。ははーん、さては緑部屋の草臭さが嫌になったッスね?わかるッス。あーしもあの部屋、いけ好かなくて嫌いなんスよ~」

 

「お前、俺からもエグイ臭いするって言ってたじゃねぇか。俺は平気なのか」

 

「お師様のは癖になる臭さなんス。ホントッス。今度は嘘じゃないッス」

 

「うるせぇ」

 

スンスン、と鼻を鳴らしてすり寄るシャウラを遠ざけて、スバルは上の階を睨みつける。四層に残り、上の試験に挑む面子はレムとラムを欠いた残りの全員――。

 

「お前はどうすんだ?一緒にくんの?」

 

「あーしッスか?いやぁ、別に付き合う必要はないんスけど、せっかくなんでご一緒したいと思うッス。喋っていいのに喋れないのとか寂しいッスもん。何百年も黙ってたんで、喋りたいことだらけなんスよ~」

 

人懐っこい笑顔で切ないことを言われて、スバルもさすがに冷たくできない。エミリアやベアトリスも、その孤独には覚えがあるのだろう。シャウラに向ける気持ちは同情的な色が濃く、積極的に遠ざけるつもりはあるまい。

 

「私はこのお姉さん気に入ったしい、一緒がいいと思うわあ」

 

「試験に挑むのであれば、その場に試験官が居合わせるのは自然なことだよ。不正がないか見張るためにも、彼女が同行するのは正しいことだ」

 

そこに、意外な形でユリウスとメィリィからも援護射撃が入る。そうすると、もう過半数がシャウラの同行に好意的というわけだ。

スバルは最後に意思を統一するため、コメントしていないアナスタシアを見る。

その視線にアナスタシアは「うち?」と首を傾げ、

 

「ここでうちだけ強硬に反対しても意味ないと思うし、そもそも反対する理由もないし、別にええのと違う?それに、や」

 

「それに?」

 

「その子、ナツキくんにめちゃめちゃ懐いてるみたいやし、一緒に連れてったら試験の内容についてボロ出すかもしれんやん。そのうっかり、うちらに味方するよ」

 

「悪いッスけど、あーしは試験の内容全然わかんないからそれは裏切るッス」

 

「まぁ、口ではこう言うてるけどなぁ」

 

たはは、とアナスタシアが苦笑し、シャウラは褒められたような様子でドヤ顔。

アナスタシアの目算が吉と出るか不吉となるかは微妙だが、ひとまず、シャウラを連れ歩くことに誰も異論はないらしい。

やや不用心な感は否めないが、かといって一人歩きさせるのも不安といえば不安なので、危険物を手元に置くか遠くに置くかだけの違いである。

 

「わかった。一緒にいこう。当てにはならなそうだが、解説に期待する」

 

「言われてるッスよ、チビッ子。頑張るッス」

 

「お前が言われているかしら!何を聞いていたのよ!」

 

振られるはずのない話題を振られた顔で、シャウラが唇を曲げている。ベアトリスの怒声を聞きながら、一行は緑部屋と対面の部屋――扉を開けて中を覗き込むと、そこからすぐ上に向かうための階段と出くわす。

 

「螺旋階段は終わったのか?」

 

「四層『アルキオネ』と三層『タイゲタ』とはすぐ繋がってるッス。あーしも別に用がなきゃ上らないんで、滅多にいかないッスけどね」

 

「用事っていうと?」

 

「乙女の秘密ッス」

 

さっそく役立たずぶりを発揮するシャウラを見切り、スバルはユリウスの方を見る。スバルの眠る間、すでに三層に挑んでいたはずの彼らだ。

何かしら、有用な話が聞けるものと期待すると、彼の騎士は悠然と肩をすくめた。

 

「期待されているところ悪いが、私たちもわかっていることはほとんどない。三層を上がってすぐ、試験と呼ばれる部屋に出くわすが……」

 

「出くわすが?」

 

「そこに存在するのは難解な謎だ。解く手掛かりも見つからず、途方に暮れていたというのが正直な話だよ」

 

「難解な謎……?」

 

ユリウスの言葉に要領を得ず、スバルは階段の上に目を向ける。上階は暗く、下から様子を窺うことはできない。ただ、その静謐さはいっそう不気味な趣がある。

 

「でも、入って何がどうなるってことじゃないみたい。別に私たちも出入りしても何の変化もないし……ただ、門前払いされてるだけ」

 

「相手にもされてない、と考えると腹立たしい限りかしら」

 

エミリアとベアトリスも、ユリウスの感想に同感の様子だ。

実際、試験とは言うものの、挑んだ面子は誰一人欠けていない。なんとなく、似通った単語に『試練』があるため、警戒心が芽生えただけのこと。

 

「仕方ねぇ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。――いくか」

 

「うん、その意気」

「その意気なのよ」

「その意気ッス」

 

三者から三様の肯定を受け、スバルは率先して階段に足をかける。そして段差を一段ずつ踏みしめて上階へ――これまでの螺旋階段と違って、三層へ上がる階段の段数は常識的な建物の高低程度だ。

故に覚悟と裏腹に、呆気ないほどすぐ三層『タイゲタ』にスバルは侵入する。

 

「ここは……」

 

入ってすぐ、スバルが感じたのは完全なる違和感だった。

違和感の塊というか、違和感しか存在しない空間というべきだろうか。

 

――白い、白い場所だった。

 

円筒形の、これまでの塔の延長上にあることは間違いないはずなのに、階段を上がったスバルを出迎えたのは全方位が白く染め上げられた不思議な空間だ。

空間的な広さはこれまでの塔の面積と大差ないはずだが、白すぎる空間には壁が、果てが見えない。上を見れば天井の位置もわからず、足下を見れば階段がある場所だけが黒くぽっかりと口を開け、それ以外の床は歩くのが怖くなるほど白い。

 

床を床と認識できず、あるいはそのままどこまでも落ちていってしまいそうな錯覚に見舞われる。天井と壁も同じ――この場所で、階下へ続く階段を見失ってしまったら、発狂しかねないのではないかとスバルには感じられた。

 

そして、そんな白い空間の正面――階段の目の前に、浮かぶ不思議な物体がある。

 

「石板……か?」

 

その物体を目の当たりにし、スバルの口から漏れたのはそんな感想だ。

それは実際、そうとしか表現のできない物体だった。

 

四角く、やたらと滑らかな質感のある物体で作られた黒い一枚の板切れ。

石造りでなければ石板とは呼べないが、かといって金属とも異なるそれは他に呼び方がない。

あえて別の気取った呼び方をするなら、『モノリス』といったところか。

 

物言わぬモノリスは不思議な浮力を得て、床から数十センチの位置に浮いている。

浮いている、はずだ。床の白さに高低差を確かめる目が狂わされ、イマイチそれも判然としない。だが、宙に浮かぶモノリスは泰然としてそこにあった。

大きさはスバルの身長ほどもあり、横幅は人が並んで二人分――近い大きさのものに例えると、畳が浮いているような印象だった。

 

「この不思議物質が、なんなんだ?」

 

「それが、言ってみればこちらに謎を突き付ける装置といったところだ」

 

異様な光景に意識を奪われるスバルに並び、ユリウスがモノリスを睨みつける。

すでに何度もそのモノリスに辛酸を舐めさせられているのか、ユリウスの横顔は普段に比べていささか厳しい。他の面々も全員が三層に上がり、白い空間の中、あやふやな雰囲気に耐えるように寄り添っている。

 

「長居はしたくない部屋だな」

 

「同意するよ。長くいると、平衡感覚が失われかねない。とっさに階段に逃げ込んで足を滑らせては、見ている側の寿命が縮まってしまうからね」

 

「こーら、ユリウス。余計なこと言わんの」

 

ユリウスの軽口に、アナスタシアが不服げに頬を膨らませる。その様子を見るに、どうやら戻る途中で足を滑らせたのは彼女のようだ。

だが、その失敗を笑う気にはならない。実際、この部屋は明らかに人間の感覚を狂わせる目的で作られている。作った人間の性格の悪さが具現化したような部屋だ。

 

「それで肝心の謎っていうのはどうしたら?」

 

「あの、板に触ったらいいのよ。そうしたら始まるかしら」

 

「モノリスに触ればいいのか」

 

「モノリス、か。不思議と馴染む呼び方だ。以後、そう呼ぼう」

 

変な部分に感心しているユリウスを捨て置き、スバルは代表して前に出る。誰も止めないので、そのままモノリスの傍らへ。

近付いてみると、モノリスからは不思議な威圧感が放たれている――わけでもなく、浮いている以外はどこまでも普通の板だ。畳が浮いていると思えば、最初に感じた恐れ多さも多少なり薄れる気がするし。

 

「ともあれ、触るぜ?カウントする?」

 

「あ、じゃあ、私が言いたい。三、二、一……」

 

「早い早い!わかったけど!」

 

スバルの呼びかけに、挙手して立候補したエミリアのカウントダウンが始まる。それに合わせ、スバルは慌ててモノリスに向き直った。

そして、

 

「ゼロ――!」

 

そのカウントに合わせ、スバルがモノリスに触れる――次の瞬間、黒い板の表面が内側から輝き、途端にスバルの目の前の景色がぶれる。

 

否、ぶれたわけではない。

スバルの触れたモノリスは、黒く輝きながら増殖を始めたのだ。

モノリスは表面を輝かせながら、その背面から次々に複製したモノリスを射出する。それは凄まじい速度で部屋の中に飛び回り、不規則な位置に点在し、浮かぶ。

無数のモノリスが白い空間の各所に配置され、スバルはその変化に呆気に取られた。そして、呆然となるスバルの鼓膜――そこを通り抜け、脳に直接声が響く。

 

『――シャウラに滅ぼされし英雄、彼の者の最も輝かしきに触れよ』

 

「――っ!?」

 

唐突に聞こえてきたその声に、スバルは思わず驚いてモノリスから手を放す。そしてフラフラと後ずさると、その背中を誰かに背後から支えられた。

振り返る。すると、そこにユリウスの顔があった。

彼はスバルを右手で支えながら、左手で自分の前髪に触れると、

 

「どうだろうか。私たちの最初の驚き、共感してもらえたかな?」

 

「底意地悪いことしてんじゃねぇ――!!」

 

スバルの抗議の声が響き渡り、ユリウスの微苦笑にさらに一役買うことになる。

ともあれ、本格的に『試験』は始まった。

 

大図書館プレイアデス、第三層『タイゲタ』の試験。

制限時間『無制限』。挑戦回数『無制限』。挑戦者『無制限』。

 

――試験、開始。