『無理解と理解』


 

――思えば、前後不覚になっていない状態で転移を体験するのは初めてだった。

 

踏み出した足が、本来あるべき場所とは違う場所に辿り着く違和感。本来感じられるはずの大気を、まったく別のものとして肌に味わう異質感。重力を無視し、慣性を無視し、その結果訪れる内臓の不和による異物感。

 

それらを一緒くたに、ない交ぜにしてまとめた不快感。

ベアトリスに突き飛ばされて、禁書庫から飛び出したスバルが意識の喪失から舞い戻った瞬間、感じたのはそれだった。

 

「――君が突拍子もないことをするのはわかっていたつもりではいたが、こうして私の常識を軽く破られてしまうとなかなかどうして。平静を保つのが難しくなるな」

 

「次の機会は年末年始のかくし芸大会で見せてやるよ。俺と……ドリルロリ娘の合体技だ。ここって、村の中でいいんだよな?」

 

「そのはずだよ。ちなみに君が出てきたのは私の推測が正しければ、おそらくは家畜小屋かなにかの戸だと思ったのだが」

 

足下を指差し、ユリウスがその表情をいくらか気の毒そうにしかめる。つられて指を追ってみて、スバルは自分が大量の鳥類の糞を踏んでいるのに気付き、

 

「トイレから、ニワトリ小屋の糞塗れに転移か……あの一瞬で、嫌がらせしてくれやがる」

 

不満をつらつらとこぼしながら、スバルは持ち上げた足を振りながらゆっくりと家畜小屋の外へ。中に残るニワトリ風の鳥たちは、突然の闖入者であるスバルが退去したのを見て、安堵したように餌を啄み始めていた。

その様子を横目に、スバルはぐるりと首を回して周囲を確認。見ればそこは間違いなく、つい先ほど通りがかった村の景観であり、

 

「今のはひょっとして、転移魔法だろうか。だとすれば、君は非常に稀有な経験をしたことになる。隔てた空間と空間を繋ぐ魔法は、陰系統の魔法の中でももはや失伝した次元に近い。扱えるものは五指に満たないはずだ」

 

「それはそれはラッキー……だなんて話じゃねぇぜ、これは。あのバカ娘、どうしてくれようか……!」

 

感嘆するユリウスに軽口で応じて、屋敷の方を振り返るスバルの目が怒りで血走る。脳裏を過るのはクリーム色の髪を縦ロールにした少女であり、こちらの話をばっさりと打ち切って勝手な行動に出た相手だ。

別れ際、彼女が見せた哀切の表情が瞼に焼き付いて離れない。

 

「あんな面して、なにが行けないだ。ふざけやがって。こうなりゃ、無理やりにでも引っ張り出して……」

 

「それはやめた方がいいんじゃないかな」

 

袖をまくり、肩を回してやる気をみなぎらせるスバルを、ふいに届いた長閑な声がせき止めた。「う」と喉を鳴らし、その聞き覚えのある声にスバルの動きが止まる。

ゆっくりと、スバルは首が鳴りそうなほど不自然な動きで振り返り――眼前、こちらへ向かって宙空を浮遊してくる灰色の体毛の猫の存在に気付いた。

同時に、ユリウスもまたその存在に気付き、彼は背筋を正すと丁寧に腰を折り、

 

「ご無沙汰しております、大精霊様」

 

「そんなに畏まる必要ないってば。ボクの精霊としての格なんて飾りみたいなものだし、恩恵もリア以外に与えるつもりがない。そう、精霊界の穀潰しとはまさにボクのこと……」

 

「偉大な力を持つ存在を崇めるのに理由は不要かと。さらに付け加えさせていただければ、私も一介の精霊術師である身です。契約にある準精霊たちのことも含め、貴方を敬わぬ理由がない」

 

「優雅だね、よきかなよきかな」

 

己のヒゲを手で伸ばしながら、ユリウスの馬鹿丁寧な口上を聞き入れるパック。そんな彼を、スバルはじっとりと背中に冷や汗を浮かべつつ見上げる。

心臓の鼓動が早まり、手足が痺れるような感覚を訴えていた。パックの周囲にエミリアの姿は見当たらない。単独行動中だ。それがひどく、心をざわめかせた。

 

「そんなに熱視線で見つめられるとボクも困るよ、スバル。久しぶりに見たボクが辛抱たまらないくらい可愛いのはわかるけどさ」

 

「……一介のモフリストとして、否定し切れねぇのが恐いとこだよ、ったく」

 

そんなスバルの心情などお構いなしに、こちらを見下ろすパックが戯けたことを口にする。その軽口に乗る形で肩をすくめ、スバルは精神的な重圧による硬直をレジスト。ただし、今もジッと拍動は早いままだ。

 

この感情に名前をつけるなら、やはり『恐怖』なのだろうなとスバルは思う。

目の前で呑気な顔で、長い尻尾を揺らしながらとぼけたことを口にする小猫に、まぎれもない恐怖を今、スバルは抱いている。

 

その存在が本当の力を発揮すれば、スバルなど塵を吹くのと変わらないほど容易く蹴散らされるのだ。それをスバルは三度、すでに繰り返している。

緊張をするな、怯えるな、という方が酷な話だった。

 

「それで、さっきのはどういう意味だよ?」

 

「さっきのって?」

 

「自分の発言を即座に忘れんな。……ベア子を迎えにいこうとしたの止めたじゃねぇか」

 

本気で自分の発言を忘れていそうなパックに苛立ちながらも、スバルは複雑な心境を押し隠したまま聞き返す。するとパックは「ああ」と軽く手を叩き、

 

「言葉の通りだよ。ベティーを連れ出そうとするなら、やめておいた方がいい。会って話して、それで遠ざけられたんでしょ?なら、それがあの子の答えなんだよ」

 

「屋敷に残るのは危ないんだよ。魔女教の連中が暴れる可能性が高いんだ。見つからないとか、そんな悠長なこと言ってる場合じゃ……」

 

「ベティーの扉渡りを破れるとは思えないし、仮に破られたとしたらそれはそれで仕方ないことだよ。それが、あの子の答えなんだから」

 

投げかけられる言葉に、スバルは思わず目を見開いて息を止めてしまう。

冗談かなにかかと聞き返そうと思ったが、目の前の小猫は依然としてその表情も態度も崩さない。本気、としか思えないその態度に、

 

「いくらなんでも、それは冷たすぎるんじゃねぇか?あいつはあんだけお前のことを慕ってるのに、そのお前が……」

 

「ボクだってあの子を妹のように思っているとも。だけど、その家族愛と自分の運命の選び方はまた全然別のお話だよ。一緒にされても困る」

 

「お前……っ!」

 

酷薄なまでの割り切った答えに、スバルは思わず激昂して足を前に踏み出す。まさかパックがそのような態度をとると信じられず、それを訂正させるつもりで掴みかかろうと腕を伸ばした。が、

 

「スバル、それ以上はやめるんだ」

 

「ぐ、お前も止めんのか、俺を……俺が間違ってるって……!」

 

「事情が把握し切れていないが、そうじゃない。大精霊様の考えを変えさせようとしても無駄な努力だ。私たちとあの方々では価値観が違う。相容れることはできない」

 

前に出ようとするスバルを腕で差し止め、ユリウスは首を横に振ってみせる。その彼の言葉を証明するように、激昂するスバルを見下ろすパックの様子は泰然としていて掴みどころがない。まるで、今のやり取りになにも感じていないように。

 

「どうしたのかな?」

 

黒目がちの瞳を瞬かせ、パックはその愛らしい顔を小さく傾げて問いを発する。

しかし、その声音と表情と態度と仕草が日常のそれと変わらないことこそが、今のスバルにとっては非常であるようにしか思えなかった。

 

スバルとパックの付き合いは、これでも異世界召喚時から数えれば長い方に入る。エミリアと同時期に遭遇する彼と交わした言葉も多く、その人ならざる人となりにはそれなりに好感を抱き、これまで仲良くやってきたつもりでいた。

しかし、そんな気心の知れた間柄であると思っていたはずの彼の内心が、今のスバルにはまったく理解できない。

 

彼は見た目と違って人間味が強くて、笑い合えもすれば怒りに声を震わせることも、ましてや誰かの無念を思って悲しむことだってできるはずなのに。

 

「エミリアが聞いたら、きっと怒るぜ」

 

「――それは余計なお世話だよ、スバル」

 

初めて、それはパックの口から発された明確な拒絶の言葉だった。

顔を上げるスバルの前で、パックはくるりと宙に浮いたまま背を向ける。そして、

 

「いずれにしても、ベティーが顔を出すことはもうないよ。魔女教の奴らも、まさか禁書庫にまで目ざとく気付くとは思えない。あの子の場合、表に出てこない方がきっと安全さ。家族なら、信頼しなくちゃ」

 

「……家族なら、間違ってるって思ったことは直してやるべきじゃねぇのか」

 

「誰彼かまわず助けたい守りたい。スバル、それは自分のことがしっかりできる一人前が言っていい台詞だよ」

 

絞り出すようなスバルの言葉に、パックは辛辣に応じて遠ざかっていく。

その小さすぎる背中を悔しさを噛みしめて見送るしかないスバル。その肩を、横に立つユリウスがまるで慰めるように叩くものだから、

 

「同情されたくてやってるわけじゃねぇ。惨めになるからやめてくれ」

 

「君の志は立派で、それは騎士の資質だ。だが今はまだ、彼の存在が仰る通り、君には足りないものが多すぎる。――それで、どうする?」

 

「どうするってのは……なんの話だ」

 

「全て、だよ。村人は説得し、すでに竜車に乗り込むだけの段階だ。エミリア様と従者の女性も、村人とは別の竜車に乗車していただいている。あとは我々が出発する準備が整えばいいだけだ。……さっきの話の人物は?」

 

スバルが屋敷でエミリアやベアトリスと会話している間に、ユリウスを筆頭に討伐隊の面々はうまくこの場を取りまとめていたようだ。

すでに避難の準備は完了し、残すところは屋敷に勝手に残った心残りだけなのだが。

 

「時間かけすぎて、避難に遅れが出ちまったら意味がなくなっちまう……くそ、恨むぞ、ベア子。お前が素直についてきてくれてりゃ」

 

「悔やむのはあとだ。時間をかければかけるほど、せっかく押さえ込んだ住民の不安を助長することになってしまう。私は今が分水嶺だと考えるが」

 

ユリウスの指摘にスバルは唇を噛み、心底思い悩んで頭を振って、地団太を踏み踏み「あー!」とうなってから、

 

「屋敷のメイドのラムの案内で、ロズワールが出向いてる聖域って場所へ避難する。戦力もあって、安全性は少なくとも保障できるって話だ」

 

「……いいのだね?」

 

「よくねぇよ。よかぁねぇけど……仕方ねぇ」

 

悔しさに歯を噛んで、スバルは屋敷を振り返る。

そこに今も、誰に開かれることもない扉の奥、暗がりの部屋で少女は脚立に腰を下ろして、ひっそりと本を読みふけっているのだろうか。

 

「心配ばっかかけやがって、不良娘め。頼むから絶対に見つかるなよ……エミリアたんを送り届けて、すぐに戻ってきてやっからな」

 

手と手を合わせ、スバルは信じてもいない神の存在に祈りを捧げる。

そうして形だけの祈りで無理やりに自分の心に決着をつけ、女々しい気持ちを引きずりつつも歩き出し、

 

「聖域に避難誘導したら、すぐに戻ってきて屋敷を拠点に魔女教の残党狩りだ。ペテルギウス……大罪司教はどうしてる?」

 

「ヴィルヘルム様とフェリスが付きっきりだよ。目覚める兆候があればヴィルヘルム様の打撃が入る。マナの様子を探らせれば寝たふりなどはフェリスには一切通用しないのだから、見張りとして最適だろう」

 

「なーる、それなら安心。……じゃ、行くとすっか。パトラッシュ!」

 

街道側の村の出口へ向かい、スバルが手を掲げて地竜の名を呼ぶ。と、すっかりその愛称で定着した黒い地竜がスバルの方へ歩み寄り、主の騎乗を待ち望むかのように悠然と振り返り、背を預けてきた。

 

「お前と培った信頼だけが今の俺を支えてるよ、実際」

 

「――――」

 

固い鱗の目立つ脇を軽く撫でて、それからスバルは颯爽――とはいえないながらもそれなりの挙動で背に飛び乗り、手綱を使ってパトラッシュを歩き出させる。

すでに地竜の群れ――行商人たちの竜車は出発の号令を待っており、彼らを囲むように歴戦の勇士たちが武器を携えてこちらを見ていた。

 

「スバル、君の号令を待っているんだ」

 

「俺の?」

 

ふいに、地竜にまたがって隣に並んだユリウスがスバルにそう声をかける。

その彼の言葉を肯定するかのように、向けられる視線の数々が同意の意味を込めて目配せを送ってきていた。自然、胸が熱くなる。

その感情が羞恥によるものか、あるいは感激の類なのかわからないまま、スバルは高々と拳を振り上げて、

 

「――聖域目指して、出発する!!」

 

「――おお!!」

 

重なり合う騎士たちの声が高く空に上がり、大移動が始まった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「流れの傭兵ユーリって人と会って、すごーく驚いちゃったんだけど」

 

唇を尖らせて、立てた膝の間に顎を置いたエミリアがじと目でスバルを睨みつけた。その子どもっぽい仕草が常軌を逸して可愛らしく、思わず目を奪われるスバルに、エミリアはさらに拗ねたような顔つきで「ちょっと」と言葉を継ぎ、

 

「私、すごーく、驚いちゃった」

 

「俺も今、改めてエミリアたんの可愛さに驚いてるとこだけど、なにが?」

 

「だからっ、流れの傭兵さん!ユーリって全然知らない誰かかと思ったら、ユリウスなんだもの。あれだけ思いっきりケンカしてたのに、いつ仲直りしたの?」

 

わずかに声を高くして、それから彼女はそっと停車した竜車の向こうを指差す。そちらには獣人傭兵団と会話するユリウスの姿があり、それを見つけたスバルは思いっきり嫌そうに顔をしかめると、

 

「仲直りなんかしてねぇし。あれ、流れの傭兵のユーリさんだから。俺とあいつは雇い主と傭兵の、金で繋がっただけの希薄な関係だから。協力して当然じゃん?」

 

「そうやって変な意地張って……男の子ってそういうところわからない。私としてくれたみたいに、ユリウスとも仲直りしたらいいのに」

 

「エミリアたんとは心バキバキになりそうなほど仲直りしたかったけど、俺はあいつと別に仲直りしたくないんだよ。俺、あいつ、嫌い、フォーエバー」

 

片言で言葉を刻み、リズミカルに腕を振りながらスバルは憮然とした顔で言い切る。その頑なな姿勢にエミリアは呆れたように吐息をこぼし、仕方なさそうに弱々しく首を振ったのだった。

 

――ロズワール邸を出発し、避難が始まってから約四時間が経過していた。

 

目指す目的地である聖域までの距離を約半分まで踏破した現在、今は林道の入口に差しかかったところで一度行軍を止めて、休憩をとっているところだ。

さすがに子どもや老人、女性が少なからずいる大移動である。無理をさせすぎても問題が出ると、先頭を進んでいたユリウスの判断だ。

 

逸る気持ちを考えれば立ち止まるのに不満はあったものの、いざ休憩を始めてみれば意識していなかった疲労感がドッと全身に圧し掛かるのがわかって唖然。

それもそのはずで、すでに一昨日になるクルシュ邸でのクルシュとの交渉以来、心休まる安息の時間を一度も得ていなかったのだ。

 

「鯨退治の移動時間と、実際の戦闘。それが終わってすぐに魔女教対策班編成して夜通し走って、ペテ公叩き切って今ここ……か。そら、疲れも出てくるわ」

 

思いのほか重労働がかさんでいた時間を振り返り、くたくたになりながら水を傾ける。行商人のひとりに手渡された、竹筒のような容器に入った水だ。どういった魔力が働いているのか、キンキンに冷えた水が喉をすり抜け、活力がみなぎる。

 

「ぅあーぁ!この一杯のために生きてんだよなぁ!」

 

「バルス、おっさんくさいわ」

 

喉越しの爽やかさに思わずうなるスバルの横を、同じ容器を持って給仕中のラムが一言で切り捨てて通り過ぎていった。

その背中を忌々しく睨みつけていると、隣に腰掛けているエミリアが小さく笑い、

 

「スバル。なんだかすごーく、顔つきが変わったね」

 

「そう?いや、そうだろな。ぶっちゃけ疲れが半端ないから目の下の隈とかスゴイことになってる気がする。嫌だわー、寝不足はお肌の大敵だわー」

 

「そういうんじゃなくて……なんだか、男の子の顔してる気がする」

 

微笑みとともにそう言われてしまい、思わずスバルの息が詰まる。その一瞬の停滞を見透かされまいと頭を掻き、彼女に赤い顔を見られまいと顔を背けつつ、

 

「それ今までタマナシだと思ってたってこと?」

 

「たまなし……って?」

 

「ぬぁ、照れ隠しで思わぬ爆弾を……ピュアアイズが痛い!」

 

卑猥な単語に理解が追いつかず、首を傾げるエミリアが可憐で苦しい。

胸を押さえてスバルが悶える仕草をしていると、白い指先が銀色の髪を撫でつけ、背中に流しながら、

 

「ベアトリスは、話を聞いてくれたの?」

 

「…………」

 

「会えたけど、ダメだった……ってことなのかな、その沈黙は」

 

「顔に出てたかな、今」

 

「じゃ、当たりだ。ふふ、私もスバルの気持ちがわかるようになったかも」

 

情けなく眉を下げるスバルに、エミリアはしかし微笑を崩さない。そうして笑いかけられる資格が今は足りない気がして、ずっと見ていたいそれからスバルは意識して目をそらす。そんなスバルの横顔にエミリアは手を伸ばし、その細い指先でこちらの頬に触れてきた。驚き、視線を戻すと、

 

「そんな顔しないの。スバルがベアトリスのために頑張ったことぐらい、私だってわかってるもの。あんな風に別れたのに、それでも私のところへきちゃうぐらいだもん。ベアトリスを見捨てられるわけ、ないものね」

 

「わがままで、思い込みが激しいんだよ、あいつ。ひとりで勝手に突っ走って閉じこもっちまいやがった。エミリアたんたちを送り届けたら即行で戻って、引っ張り出してお尻ぺんぺんしてやらにゃぁな」

 

「そんなことしたらベアトリス、すごーく怒るんじゃないの?」

 

「俺とあいつのトムジェリぶりを思えば可愛いもんだよ。エミリアたんも、言いたいこととかあんなら俺からビシッと言っといてやるけど」

 

エミリアが取り戻してくれた調子で軽口を滑らせていると、ふいに彼女の表情が硬くなる。それに気付いたスバルが目を丸くすると、エミリアはわずかに視線を伏せ、

 

「あんまり、ベアトリスと私は話せたことがなくて。だから、なにを言っていいのかわからないのよね」

 

「あんまりって……」

 

口にしかけて、しかしスバルは気付く。

これまでの屋敷での日々で確かに、彼女とベアトリスが会話をしていたシーンに思い当たらない事実に。

ベアトリスがエミリアの傍に近づくのは、決まって彼女と常に一緒にいるパックと話をするためだ。それが済めば、あの少女はエミリアに一言も、それどころか一瞥もくれることなく通り過ぎてしまう。そして、エミリアもまたそれを受け止めているように思えてならない。

 

「ベアトリスには、避けられてるみたいなんだ、私」

 

スバルの沈黙の理由を察して、エミリアがそう答える。

二の句が継げないスバルにエミリアは紫紺の瞳を揺らめかせ、記憶を探るように、

 

「初めてロズワールの屋敷で会ったとき、パックとベアトリスはすぐに打ち解けたの。といっても、そのときも二人きりになられちゃったからなにを話してたのかはわからないんだけどね」

 

「あの二人も、よくわかんねぇ関係だよな。兄妹みたいにしてるけど」

 

そもそも、小猫の兄と幼女の妹という組み合わせが意味不明だ。共通点が見当たらない二人の、どこに兄妹設定を割り込ませる隙間があるのか。

首を傾げるスバルにエミリアはやはり首を振り、

 

「ごめんね、それもわからないの。ただ、パックとの契約でベアトリスとの関係について追及しないように言われていて」

 

「契約……って、精霊と交わすとかいうやつか。え、なに、そんな私的な内容まで契約条件に盛り込めんの?」

 

「精霊本人が、その術者と心を通わせるかどうか判断するための基準だもの。契約の内容は精霊次第で全然違うって言うわ。パックぐらいの格の高い精霊になると、本当はすごい大変な対価を払わないといけないらしいんだけど……」

 

と口にして、少しばかりエミリアは気まずそうに口を閉ざす。そこで言葉を切られて意味がわからず、スバルが「だけど?」と先を促すと彼女は目をつむり、

 

「パックはすごーく、その、私に甘くしてくれてるから、条件も簡単なものばっかりなの。その分、数は少し多いけど」

 

「ベア子との関係を問い質すな、の他にも色々あるわけ?」

 

「いくつかね。朝、髪型はパックが決めたものにするとか、寝起きと寝る前の簡単な運動と食事の好き嫌いをしないこととか。微精霊の子たちと朝晩にお話するのもそうだし、パックの毛並みの手入れとか……」

 

「駄々甘じゃねぇか!健康的で健やかな生活送らせてるだけじゃん!駄々甘じゃねぇか!」

 

思わず、二回繰り返して突っ込んでしまうほどに娘に甘いパック。スバルの反応にエミリアは顔を赤くして俯き、

 

「だから言いたくなかったのっ。私も、森を出るまでは全然変だなんて思ってなかったんだけど……ロズワールの屋敷で暮らすようになってから、ちょっとおかしいんじゃないかなって思ったりしてて……」

 

「なにも知らない無垢なエミリアたんになにを教えてんだ、あの猫……。いちいち俺の好みの方向にエミリアたんが誘導されてて俺得なのが困るよ!なんなの、あいつ。あんなナリして実は俺のキューピッドなの!?」

 

パックが育ての親に近いのだとすれば、エミリアの今の天然女神ぶりはパックの教育の賜物ということになる。先ほど、わりと剣呑なやり取りを交わした間柄だというのに、現金にも許してしまいそうになる自分がいるのが残念だった。

ともあれ、

 

「それが理由でパックからは聞き出せないんだけど……ベアトリスはどうしてか、私と話をするのを避けられちゃってて。その理由もなにも、わからないままなの」

 

寂しげに、最初の話の主題に戻ってエミリアは瞑目する。長い睫毛が小さく震えて、固い表情が悲しみを堪えているのがわかった。

そんな彼女の顔に感じ入るものがあり、スバルは頬を指で掻きながら、

 

「おし、わかった。んじゃ、今度は俺とエミリアたんの二人でベア子の禁書庫にお邪魔するとしようぜ」

 

「え?」

 

「禁書庫だよ。本好きのベア子がひたすら引きこもってるカビ臭い健康に悪そうな部屋だ。あんな場所で本だけ読んで暮らしてるとか、今に目が悪くなって牛乳瓶の底みたいな眼鏡かける不健康児童ができあがっちまう。そうなる前に、日夜その美貌と健康を維持するために努力するエミリアたんを、あいつに見習わせよう!」

 

大きな瞳をぱちくりとさせる彼女の前で、スバルはこれは名案と手を叩く。

パックとベアトリスが仲が良くて、パックとエミリアも仲がいい。なら、パックの提案をエミリアが実行するところにベアトリスを放り込めば、いくらか関係改善の目が見えるのではないだろうか。見えなくても、そのやり方がうまくいかなかったと結果が得られればそれはそれで前進だ。進まなかった、という前進だ。

 

「何事も挑戦してからだよ、エミリアたん。話しかけようとして逃げられるなら、今度はふん捕まえようとしてみようぜ。やっぱり逃げられるかもしれないけど、逃げられる前にきっとあいつはでかい声で文句を言ってくる。それにでかい声で文句を言い返してりゃ……そのうち、笑って話せるようになってるさ」

 

「――――」

 

乱暴で楽観的なスバル流のコミュニケーション講座。

その内容の過激な意味不明ぶりに、さしものエミリアも驚きを隠せないでいる。そして数秒、固まったままでいた彼女はふいに、

 

「ふふっ」

 

と、口に手を当てて笑い出した。

 

「お、エミリアたんの笑顔が手に入った」

 

「あは、なに言ってるんだか、もう。スバルって……ううん、すごい。スバルってすごい、本当にすごい。うん。うんうん……すごい」

 

後半だけ録音しておきたかったな、とわりとふしだらなことを考えつつ、褒められっ放しで意外とこそばゆい心情のスバル。

エミリアはそんなスバルの様子に気付かず、深く吐息を漏らして、

 

「次は、そうしてみようかな。あの子と、今度はそうやって話をしてみようかな」

 

「おう、そうしよう。そのためにも、今は全力で避難。そのあと俺は全力で舞い戻って、全力でベア子確保。その後、エミリアたんに全力で引き渡すから」

 

「常に全力なのね」

 

「手抜きで生きてると碌なことがないって、最近学び始めたとこなんで」

 

舌を出してそう応じると、エミリアも小さく舌を出して真似をする。真似ではあるが可愛らしさが万倍ぐらい違うそれに衝撃を受けるスバル。硬直するスバルを残し、エミリアは「そろそろね」と座っていて汚れた衣服の裾を払い、

 

「休憩予定の一時間、そろそろ過ぎちゃうから準備しなきゃ。スバルも少しは休めた?無理してない?」

 

「エミリアたんのおかげでリラックス効果がヤバい。E・M・H。」

 

「またそうやって……そのよくわかんない言葉、聞くのも久々ね」

 

このやり取りが久しぶりで嬉しいよ、とスバルもまた尻を払って立ち上がる。

それから腰をひねる挙動を入れて振り返り、エミリアに気付かれないように周囲に視線を送る。

 

三十台近い竜車を停留させて、それなりの規模で休憩地を作っての休息だ。

めいめい、行商人や村人などのメンバーで集まり、それぞれに不安や情報の交換などを行っている。そしてその間、エミリアとスバルの方へ足を向けたものは、給仕をしていてうろついていたラムを除けば実にひとりもいなかった。

 

いい雰囲気の二人に気を遣って、というのなら微笑ましくもあるだろうが、実際にはそうではない。

――誰も、ハーフエルフであるエミリアと関わり合いを持ちたくないのだ。

 

屈強で、共に苦難を乗り越えた討伐隊の騎士たちであっても、その先入観は例外ではない。スバルの手前、彼らも表情や態度に出すまいと努めてはいるが、こうした機会を得ると、やはり自然な動作で彼女の存在を拒絶している部分が表に出る。

彼女と自然に接したのはスバルとラムの身内を除けば、ユリウス・フェリス・ヴィルヘルムの三名と、なにも考えていなそうなミミぐらいのものだった。

 

避難の最中、言ってしまえば運命共同体の状態ですらこの有様だ。先行きの不安さにスバルは表情を曇らせ、その曇った顔をエミリアに見せまいと掌で拭う。

乱暴に拭い、振り回し、指を天に突きつけて盛大にターンし、

 

「んじゃ、そろそろ再出発といこうか!エミリアたんも俺といたいのはわかるけど、ここは涙を呑んで竜車の中に戻っておくれ」

 

「ところでスバル、さっきからスバルが乗ってる地竜がすごーくこっちを睨んでる気がするんだけど……ずいぶん懐かれてるのね」

 

軽口をさらりと聞き流され、指摘された方を見ればエミリアを睨むパトラッシュの姿。まるで、その姿は主を取られまいとする騎獣のプライドのようなものすら見えて、

 

「おいおい、相棒、エミリアたんに嫉妬か?やめろって、俺とお前は一蓮托生だ。そこだけは譲らねぇよ。ただ、俺の魂はエミリアたんに預け――ぶふっ!」

 

滑らかな口調でなだめようとして、途中でパトラッシュの旋回する尾に吹っ飛ばされる。地べたを勢いよく転がるスバルを見て、エミリアは呆れた様子で肩を落とし、

 

「そうやって、誰彼かまわず女の子に優しい言葉をかけてると、ひどい目に遭っちゃうんだから。本当に大事な子のために、とっておかなきゃダメじゃない」

 

「お、俺の心の一番星は……いつも、君……っ」

 

「はいはい。ほーら、出発しますよー」

 

打たれた脇腹を押えて転がるスバルにおざなりに応じて、エミリアが竜車へと乗り込んでいってしまう。見れば周囲も、それぞれの休憩を終えて移動再開のために動き出しているところであり、

 

「バルス。いくら疲れているからって、地べたで寝るなんてロズワール様の使用人としての自覚が足りなすぎるわよ」

 

エミリアのあとに続いて竜車に乗り込むラムが、打ち捨てられたように転がるスバルを蔑むように見下していった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

休憩をはさみ、聖域への移動が再開される。

 

王都へ向かうリーファウス街道と異なり、丘陵の多い道を行くこのルートは地竜はもちろん、騎乗者にとっても負担が大きい。傾斜が繰り返し続くのもそうだが、林道や岩肌の覗く荒れた道を進み、時には竜車が一台抜けるのがギリギリというような細い道を通らなくてはならない場面もあった。

 

自然、こうした行軍に慣れていない村人や、当然のように素人のスバルが受ける疲労感は募るばかりで、緊張の糸が切れそうになるのを幾度もスバルは意識的に気を張ることで堪えていた。

 

「休憩を除いて、これで移動時間は大体六時間半……そろそろ、聖域ってのがどこなのか目星がついてもいい頃合いだと思うんだが……」

 

パトラッシュに全体重を預けて、器用な相棒の騎乗者を気遣う動きに助けられながら、スバルは首を傾けた状態で傾いた世界をざっと見渡す。

が、正面には今度は小高い丘に両側を挟まれた道が広がっており、丘向こうが見えないために目的地は依然としてわからないままだった。

 

「スバル、そろそろ目的地の様子がわかる頃だと思うが……」

 

「あと十秒早くその話振れよ。二回もガッカリしないで済んだはずだから」

 

鍛えている優位だろう。いまだ疲労を感じさせない優美な挙動を維持するユリウスが隣に並び、だらりと脱力しているスバルの言葉に苦笑する。

彼は風に揺れる前髪を指で整えると、スバルが見たのと同じ丘下の道に目を細め、

 

「なるほど、今度もまた行軍の足がゆるみそうな道だ。――緊張を切るわけにはいかないだろう」

 

「……わかってるよ。俺が敵なら、そろそろ仕掛けるもん」

 

声を鋭くするユリウスにスバルがそう応じると、彼はこちらを横目にする瞳にかすかな驚きをたたえて、

 

「君と同意見とは驚きだ。やはり、襲撃はあると思うだろうか」

 

「ある、と考えといた方がいいだろ。ここまでなんの動きもねぇのがかえって不気味すぎるし、こっちの手の内にはまだ大罪司教が残ってる。仲間意識とかそういうもんに期待するわけじゃねぇけど……これで終わるような奴らじゃない」

 

「ずいぶんと、確信を持っているようだ。私もそう思っているが」

 

スバルの答えに満足げに頷き、ユリウスは帯剣している騎士剣の柄を鳴らし、行軍している竜車の列の中の真ん中――ヴィルヘルムとフェリスが乗り込み、ペテルギウスの監視を行っている一台に目を向け、

 

「死なせれば別の肉体に憑依する、か。真実だとすれば厄介極まりない権能だ。最終的には、大精霊様の力をお借りして封じてしまうのが最善だろうね」

 

「やっぱりそれか。俺もそれが一番だとは思ってた。悔しいっちゃ悔しいんだけどよ」

 

ペテルギウスだけは、本音を言えば息の根を止めてしまいたい。

それはスバル自身の憎悪がそうしろと言っているのもあるが、それ以上にあるのは義憤の感情だ。具体的にあの男の所業の全てを知っているわけではない。知っているわけではないが、ただひとつだけわかっていることがある。

――この男はきっと、ここで死ぬべき男なのだ。

 

「すげぇ考え方だ。元の世界にいたら、とてもこんなことリアルに考えられねぇ」

 

口先だけで『死ね』だの『殺す』だの言うだけならできただろうが、この世界にきて以来、命の価値と重さを実感させられてばかりだ。軽々しく、二度とそれらを口にすることなんてできそうにない。

そう思い知らされた上で、そう思うのだから、あの男は救いようがない。

否、救われるべきではない人間も、いるということだ。

 

――そのときだ。

 

「――スバル!」

 

「――っ!?」

 

ふいに鋭い声をユリウスが上げ、掲げた彼の手に従ってパトラッシュが止まる。素早い指示の伝達が全体に伝わり、行軍の足が即座にストップ。

原因は先頭を進んでいた老齢の騎士の指示であり、彼は剣を抜いて天にかざし、全員に聞こえるだけの声を振り絞り、

 

「――前方、丘陵に挟まれた道に人影多数!黒い装束の……魔女教だ!!」

 

高らかにその報告がなされ、スバルとユリウスは顔を見合わせると頷き合い、混乱が走りかける列の中を先頭へ向かって走り出す。

駆け出しながらユリウスが、負けじとスバルが、

 

「落ち着いて行動せよ!王国騎士は国民を守れ、『鉄の牙』は私に続け!」

 

「慌てなくていい、大丈夫どうとでもしてやっから!強くてかっちょいい騎士がこっちにゃいっぱいついてて、タフでワイルドな傭兵団だっているんだ。おら、顔出さないで母ちゃん守ってろ、ミルド。ペトラも俺の勝利に期待しとけ!」

 

ユリウスの号令に騎士と傭兵たちが動き、スバルの掛け声で不安に駆られていた村民たちが竜車の奥へと顔を引っ込める。

それらを見届けて、戦闘要員と避難民を前後に分けることは成功。そのまま、先頭に飛び出したスバルとユリウスは、展開する魔女教を視界に入れる。

 

丘向こうからぞろぞろと這い出す魔女教――その数、おおよそ三十名。

見つからなかったアジトが二ヶ所で、残党の予想された数よりわずかに多い。

 

「俺がペテルギウスでも、襲撃用とは違う別働隊は用意しただろうからな。驚くほどじゃねぇ……どうだ、ユリウス。いけるか?」

 

「予想より多いが、数でなおこちらが勝っている。加えて正面からの衝突だ。影に隠れて卑劣に振舞う魔女教がそれで、騎士たる我々に敵う道理はないな」

 

騎士剣を抜き、スバルの問いかけに堂々たる振舞いでユリウスは応じる。

その彼の動きに準じるように、騎士たちが次々と己の獲物を抜き出し、ライガーにまたがる傭兵団も血の臭いを待ち望むように舌舐めずりを始めていた。

 

戦意の高潮を感じながら、スバルは背後に振り返る。

下がった竜車の先頭に、エミリアの乗り込む竜車がある。開いた小窓から銀髪が風になびき、紫紺の瞳が心配げにこちらを見るのがわかった。

その視線に安心させるように指を立てて、それから視線をさらに後ろへ。

 

そこには依然、沈黙を守るペテルギウスが拿捕されており、竜車を降りたヴィルヘルムが宝剣を構えて油断なく、内外の脅威に対して警戒している。

 

「あの正面の魔女教を叩き潰して、ペテルギウスを氷漬けにすりゃ終わりだ。――思い返すと、なんとも長い道のりだったぞ、おい」

 

しかし、いよいよもってその道のりにも終わりが見えてきた。

根拠はない。だが、漠然と魂が理解している。ここにいる全存在が、お互いにとっての全戦力であるのだと、心がわかっていた。

故に、全力で挑むことになんの躊躇もない。

 

「魔女教を殲滅する。総員――」

 

息を吸い、ユリウスが高い号令の声を発する。

戦意が爆発的に高まり、次の叫びで全員が一斉に走り出す――直前、

 

「――――ッ!!」

 

鳴り響いたのは、鼓膜を破りかねないほどの衝撃を伴う爆音だった。

 

すさまじい震動が地を伝い、衝撃と爆風に巻かれて上体が揺らぐ。金属を強く打ったような耳鳴りが頭蓋に反響し、視界が明滅するのがわかった。

 

「なに、が……」

 

自身の口にした言葉すら聞き取れない中、ただ衝撃の発信源がそこであるという確信だけを抱き、スバルは首を後ろへ向ける。

 

――そこには、『ペテルギウスを乗せていたはずの竜車』が跡形もなく消し飛んだ跡だけが残っており、

 

「しま――っ!!」

 

その可能性に思い当たった瞬間、スバルは己の浅慮さを理解する。

同時、周囲の騎士や傭兵たちもスバルが見たものと同じものを見て言葉を失う。そうして戦意の高まりに水を差された形になったこちらに対し、丘向こうの道から近づいてくる魔女教――その先頭に立つ女が歪に笑い、

 

「さあ、終わりの始まり――デス!!」

 

空を覆うような勢いと圧力を伴って、黒の魔手が伸び上がってくる。

 

伸び上がってくる。

 

伸び上がって――くる。