『約束した朝は遠く』


 

「そぉれで、その後のスバルくんの様子はどんなもんだい?」

 

時刻は夜――すでに太陽は西の空の彼方へ沈み、空にはやや上弦の欠けた月がかかる頃、その密やかな報告は行われていた。

 

広い部屋だ。中央には来客を出迎える応接用の長椅子とテーブルが置かれ、奥には部屋の主専用の黒檀の机と革張りの椅子が配置されている。

黒檀の机には書類と羽ペンが散らばり、すぐ傍らにはまだ湯気の立つカップがほんのりと柔らかな香りを漂わせていた。

 

一見して執務室、と判断できるそこは屋敷上階中央の一室だ。

革張りの椅子に腰掛け、最初の問いかけを作ったのは藍色の長髪に、青と黄のオッドアイを双眸に宿した柔和な面持ちの男性――ロズワールだ。

 

問いかけは囁くような声量だったが、相手には過不足なく確かに届く。それもそのはず、密談を彼と行う相手は彼のすぐ近く――椅子に座る彼の膝の上で、その小柄な体をさらに小さくして横座りになっているのだから。

 

「あの啖呵から五日――いや、四日と半日か。そろそろ見えてくるものもある頃じゃぁないかね?」

 

「そうですね。――全然ダメです」

 

耳元で囁かれ、桃色の髪を大人しく撫でられるのはラムだ。部屋にいるのはロズワールとラムの二人だけで、彼女にとって半身とも呼べる双子の妹の姿はそこにはない。

それは単純に、レムではなくラムがスバルの教育係の立場にあるためだ。

 

その教育担当の明確なダメ出しに、ロズワールはきょとんとした顔をして、直後に吹き出しながら破顔した。少しせき込むほど。

 

「あはぁ、そうかい、全然ダメかい」

 

「バルスは本当に何もできません。料理もダメ、掃除も下手糞、洗濯を任せようとすると鼻息が荒い。どれも任せられません」

 

「それは使用人として由々しき事態だねぇ、特に最後」

 

あの年頃なら仕方ないかなぁ、と苦笑する主を見上げ、ラムは改めて四日間のことを振り返る。その短く濃密な時間が克明に思い出されるたびに、彼女の端正な面持ちが冷たい仮面を剥がされて歪むのが傍目にもわかった。

 

「君がそんな顔するなんて珍しい。そんなにダメかい」

 

「ダメダメですね。下手なのではなくて、知らない様子です。育ちがよほど良かったとしか思えません。ですが、それにしては教養に欠けます」

 

「ああ、ちょっと聞いたよ。色々と、質問攻めにあったらしいねぇ」

 

「その聞かれた内容も不可解なので、どうしたものかと」

 

眉を上げるロズワールに対し、ラムはスバルからぶつけられた質問をいくつか抜粋してこの場で上げる。それらひとつひとつを吟味し、ロズワールは「ふーむ」と顎に手を当てて思案顔だ。

 

「確かにエミリア様の好きなものは謎だね」

 

「ロズワール様、ロズワール様。その芸風、バルスに似ています」

 

「むむっ、そぉれは困った。私としたことが変人・変態・変わり者の舞台で後れを取るなんて……悔しいことだ」

 

真剣に眉を寄せて思い悩む主人に、ラムは気付かれないように吐息。それから腕の中で体勢を変えて、横座りの身をさらに内側へ潜らせる。

より深くロズワールの体に組みつきながら、その温もりを味わうように目をつむるラム。その桃髪を優しく、大きな掌が柔らかに撫でた。

 

「それでラム、肝心の話だ。――それで、間者の可能性はどうかな?」

 

声音の調子は変わらないまま、ロズワールは笑みを崩さず問いかける。主語のない問いかけだが、求めている答えはわかっている。

ラムは目を閉じたまま、目前の温もりとは違う男の顔を思い浮かべ、

 

「否定はできませんが、その目はかなり弱いと思います」

 

「ふぅむ、その心は」

 

「良くも悪くも……というか、特に悪い意味で目立ちすぎです。当家に入り込む手段もその後も……そもそも、彼自身が」

 

口ごもりながらもズケズケと答えが出る。

問いに対する否定の言葉ではあったが、ロズワールはその返答に満足したように微笑む。我が意を得たり、とばかりの主人の微笑み。その微笑みを直接向けられたわけではないのに、ラムは己の頬が熱くなるのを自覚していた。

 

「なるほど納得。となると、彼は本当に善意の第三者か」

 

言いながら椅子を軋ませ、ロズワールが体の向きを変える。これまで机と正面から相対していた体を正反対――ちょうど、月明かりが煌々ときらめいている大窓の方へ。

左右色の違う双眸が細められ、眼下の光景に彼は口の端をゆるませたまま、

 

「しぃかし、彼もめげないねぇ」

 

執務室の窓から見下ろせるのは、屋敷の敷地内にある庭園だ。少し背の高い柵と木々に囲まれたその場所は、外から見えない代わりに屋敷の窓からは非常によく見渡せた。

その月明かりを盛大に受ける庭園の端、そこに銀髪の少女と黒髪の少年が談笑している姿がある。

相変わらず、一方的に話しかけているのは少年の方のようだが、それに対する少女の表情は決して不快げな方向へは傾かない。

 

「微笑ましいものだ。ああいう情熱はもう私には持てないものだよ」

 

「アレぐらい追ってきてくれた方が女は嬉しいものですよ」

 

独白のつもりだったのかもしれない言葉に返答し、目を開けたラムは主が至近で自分を見下ろしているのに気付く。

そっと唇を震わせ、ラムは潤んだ瞳でその双眸と見つめ合う。が、

 

「ひょっとして、意外とスバルくんを高評価してる?」

 

「……全然ダメですが、悪いとは思いません。仕事に関しても物覚えは悪くないし、ただ知らないだけだから」

 

不満を瞳に宿すラム。彼女の少し温度の冷えた答えにロズワールは曖昧に笑い、髪を梳いていた手で彼女の頬をそっとなぞる。

ふっと、陶酔したように瞳を揺らす少女の期待に応えながら、ロズワールは静かに瞑目して今の答えを思う。

 

ラムがこうして他人を評することは珍しい。

知る機会を得ればもっと伸びる、と言外にそう進言しているのだ。よほど、黒髪の少年は彼女たちのお気に召したのだろう。

その事実が素直に、ロズワールにとっては喜ばしい。

 

「私の立場としては、邪魔するべきなんだろうけどねぇ」

 

黄色の瞳だけで庭を見下ろし、ロズワールはそうこぼす。それに、

 

「どちらも子どもですから、放っておいても何も起きませんよ」

 

「それは言えてる」

 

かすかな笑声が執務室で重なり、少年と少女の逢瀬を見下ろしていた窓の幕が引かれる。

――その後の執務室の様子は、月すら見ることは叶わなかった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

月が空の中央に我がもの顔で居座る時刻、スバルは気合いを入れていた。

 

袖を通した執事服の皺を伸ばし、己の身だしなみを窓に映して再確認。そろそろ着用四日目に突入し、この衣服にも着慣れてきた頃合いだと自分で思う。

 

「悪くない、悪くないぞ、俺。大丈夫、やれる。風呂上りの自分って鏡で見ると五割増しイケメンに見える。その現象が今、きてる気がする」

 

客観的に五割増してるかは謎だが、自己暗示も十分に大事。

雰囲気だけでもイケメンの気配をまとったまま、スバルは軽く深呼吸してから足を踏み出す。

短く刈り揃えられた庭園の芝生を踏みしめ、向かうのは緑の一角――背の高い木々に囲まれ、一際強く月の恩恵を受けている場所だ。

 

そこに銀髪を月光にきらめかせ、淡い光をまとう少女が座っている。

 

青白い輝き――その蛍の光にも似た現象の正体が『精霊』なのだと、今のスバルは知っている。

その事実を含めた上で、その幻想的な光景には見るものの心を捕えて放さない悪魔的な魅力があった。

 

思わず足を止め、息を呑む。その気配に気付いたのか、ふと目を閉じて囁いていた少女の双眸が開かれた。

二つのアメジストが正面、歩み寄るスバルを視界に捉える。

声をかけるより先に発見され、スバルの動悸がわずかに逸った。そんな動揺を表に出すまいとするようにスバルは手を挙げ、

 

「う、ういッス。こんなとこでキグーじゃね?」

 

「毎朝、日課に割り込んでくる癖に。それに奇遇って……同じ屋根の下よ?」

 

動揺が隠れる気をなくしている掴みの一言に、エミリアはすでに珍しくない吐息から入る会話の流れだ。

スバルはそんな彼女の態度を前に鋭く呼吸、「うし」と気合いを入れ直し、

 

「ひとつ屋根の下って、改めて言葉にするとなんかむらむらするな」

 

「たまに言うけど、そのむらむらってなに?すごーく、こう、背中がぞわぞわってなる響きなんだけど」

 

寒気でも感じたかのように、己の肩を抱いて身を震わせるエミリア。スバルは彼女のその仕草に破顔し、もはや当たり前のように座る彼女の隣に腰を下ろす。距離はほんの拳三つ分、微妙な距離感がヘタレの証である。

すでにそうして隣り合って座るのに慣れ切ったのか、今さらエミリアもそれを指摘したりはしない。

毎朝の日課と、食事を一緒にするたび隣にこられれば、それを言及する気など失われて当然だろう。

 

彼女のその無言の許容が内心嬉しくてしょうがない。よって、その後のスバルの声は自然と抑え切れない喜びが端っこからにじみ出たものになる。

 

「で、で、何してんの?何してんの?」

 

「子どもみたい。……朝の日課の延長をしてるの。だいたいの子とは朝のうちに会えるんだけど、冥日にしか会えない子たちもいるから」

 

エミリアの答えにスバルは納得、と頷きで応じる。

『冥日』というのはこの世界特有の時間表現で、おおよそ夜の六時から翌朝の六時までの十二時間を意味する。逆に朝の六時から夕方六時までの時間を『陽日』と呼んでいて、元の世界の午前、午後といった括りの代わりに一般的に使用されているのだ。

ちなみに、一日の時間は二十四時間でほぼ元の世界と同一。人間の活動時間なども変わらないようで、体内時計が狂わずに済んで一安心なスバルだ。

 

さらに細かな分類もあるにはあるらしいのだが、そのあたりのことはまだ詳しくは聞いていない。スパルタな教育方針を取る先輩は、それよりも仕事内容を優先して教えてくださるからだ。よっぽど、自分が楽をしたいらしい。

 

心中で四日間のスパルタへの恨み節がこぼれ始める。が、そんな最中にもエミリアの冥日限定のお友達との会話は進行中だ。

夜にしか会えない友達、というとなんだか妖しい響きにも感じる。

自分で自分の内心に変な照れ臭さを感じ、スバルは己の鼻をこする。そのまま、エミリアと精霊の静かな談笑を見守りながら、ぽつりと、

 

「なんか人魂みてぇだな」

 

それまでゆるやかだった精霊たちが機敏に動き出し、エミリアの隣に座るスバルの顔面を取り囲むように展開――ふいに鋭い痛みが顔中を刺激する。

 

「ぶわぅ!痛い痛い痛いっ!爪楊枝で突かれたみたいに痛ぇっ!」

 

「不用意なこと言って怒らせないの。私の言うことまで聞いてくれなくなっちゃうじゃない」

 

怒れる精霊たちの気持ちに同感なのか、集中攻撃を受けたスバルに対するエミリアの態度はそっけない。

もっとも、精霊が離れたあとも痛がるスバルに、「仕方ないんだから」と治癒魔法をさらりとかけるあたりが彼女の善良性を表していたが。

 

淡い輝きに痛みを癒され、スバルは転ばされた体勢のまま、上目にエミリアの様子をうかがう。

芝生に寝転がる彼の前で、エミリアは先ほどの幻想会談を続行中だ。

 

ふと、その美少女と精霊の共演に陶然と見惚れている自分にスバルは気付く。

それがどうにもむず痒くて、さっきは思わず軽口を叩いてしまったが、ただただ無心になってみればどうということはない。

むず痒さなど彼方へ消え去り、頭も心も空っぽにして、ただ眼前の光景を前に阿呆のような面をさらしていればいいのだ。

 

「見てて面白いものじゃないでしょ?」

 

無言のスバルが珍しかったのか、ふいにそうこぼしたのはエミリアだ。

精霊をまとう彼女のかすかに申し訳なさそうな声音に、体を起こしたスバルは「いや」と軽く手を振り、

 

「エミリアたんと一緒にいて、退屈と思うことなんてねぇよ」

 

「なっ」

 

あまりにもストレートな言葉に、思わず息を詰まらせてエミリアが赤面する。そんな彼女を見ながら、スバルもまた自分の発言を振り返って耳まで赤い。

狙って出た言葉ならまだしも、今のは完全に素面で出た台詞だ。

自分の本心には違いあるまいが、心の準備も待たずに勝手に飛び出すとは独断専行もいいところである。

 

ふいに互いの間に落ちてしまう沈黙。それが照れ臭くて、スバルは「あ、あー」とわざとらしく声を大きくしてから、

 

「それにほら、ここ何日かはゆっくり話す機会もなかったじゃん?」

 

「そう、そうよね。スバルはお屋敷の仕事を覚えるのに大変だっただろうし。うん、一生懸命やって……うん、一生懸命……だったもんね」

 

「フォローの気持ちが嬉しくて情けなくて泣きそうなう」

 

雰囲気を誤魔化すための話題で墓穴を掘り、思わず悲しみをツイート。

己の情けなさに地面に「の」の字を書き始めるスバルを、エミリアは気まずそうな顔でどう慰めるか悩みながら手をさまよわせる。

 

この四日間、使用人として新たな生活をスタートさせたスバルの評判は、かなり贔屓目とオブラートを多用し、上層部に賄賂と袖の下をふんだんに贈ったとしても、『使い道なし』の評価がいいところだった。

 

炊事、洗濯、掃除といずれの家事技能も持ち合わせていないスバルは、屋敷の使用人スキルとして必須のそれらの習得にまず追われることとなる。

現状は先の三つのスキルはいずれもALL『C』判定だ。

 

「ほつれたエプロンのボタンをつけ直したときだけ『S』判定貰ったよ」

 

「ホントに一部だけ突出して器用なのね」

 

「丸く平たいつまらない奴より、とんがった鋭い男になれよって育ったもんで」

 

無計画で放任主義な親の教育方針の賜物だ。

それで裁縫スキルを伸ばしたのは我ながらどうかしている。

 

「あ、でもベッドメイキングの技術には自信あんだよ。高一のときにホテルマンになる夢見たとき、夏休みの半分潰して練習したから」

 

「ひょっとして、ここ三日間のベッドがすごーくピッシリしてるのって……」

 

「心を込めて、なによりも愛情を注いでメイキングしました」

 

それこそ、「ここがエミリアたんの寝る部屋で、これがエミリアたんの眠るベッド。そして包まれる布団とシーツ!むはー!」と感動にむせび、誠心誠意を込めすぎてラムにドン引きされたほどの力の入れようだ。

あまりに力を入れすぎて、エミリアの部屋だけベッドメイキングの制限時間を付けられてしまったほどに。

 

「そっか、そうなんだ。よかった。スバルにも自信が持てることがあって」

 

そんな一幕があったことも知らずに、エミリアはスバルが自信満々にできる仕事がある事実に嬉しそうに微笑んでくれる。

良心がめった刺しにされる血の涙を流しつつ、黙して語らないスバル。エミリアはそのスバルに「それに」と前置きし、

 

「他の仕事もめげずにやってて偉いじゃない。ラムとレムもこっそりだけど、スバルのことを褒めたりしてたのよ?」

 

「マジか!先輩方も見てないとこでデレてるとかマジツンデレーションしてんな!でも正しい用法としては俺の前でやんなきゃ意味ないよ!」

 

ツンデレは使用法を間違えれば、単なる嫌悪感と混同されがち。相手が素人の場合にはおススメできない諸刃の剣だ。

その点、ツンデレのなんたるかを数々の恋愛遍歴(仮想空間)によって網羅したスバルにかかれば、目前でツンデリングすることは即ち『フィッシュオン』と同義だ。

 

もっとも、肝心の双子の目には変態貴族しか映っていなそうだが。

 

「まぁ、俺の目にもエミリアたんの御姿しか映ってないからお相子だけど」

 

肩をすくめてニヒルを気取るが、さすがに今のは照れ臭くてほとんど声にならなかった。故にエミリアにも届かなかったようで、少しだけ疑問符を浮かべて首を傾ける彼女は話題を変えて、

 

「でも、毎日大変じゃないの?」

 

「超大変、マジ苦しい。エミリアたんの腕、胸、膝の選択式ローテーションで眠りたい!」

 

「はいはい」

 

すげなく受け流すエミリアの答え。彼女はそのままついと腕を伸ばし、その伸ばした細い腕に青白い精霊たちをまとわせる。

まるで彼女の白い腕そのものが発光しているような光景に、思わず「ほへぇ」と抜けたスバルの感嘆。彼女はそれに苦笑して、

 

「そうやって茶化せる間は大丈夫そうね」

 

「折れそうになったら添い寝してね」

 

「考えておく……って答えるのなんか恐いから、嫌って言っておく」

 

「言質取り損ねた!!」

 

頭を抱えて芝生に盛大に寝転ぶ。

そのままひんやりとした草の感触と、満天の星空を見上げて吐息。ふいに吹いた風が短い前髪を揺らし、ふとスバルは思いのままに月を見つめ、

 

「――月が、綺麗ですね」

 

「手が届かないところにあるものね」

 

「ぐはっ」

 

「どうしたの!?」

 

純文学的な表現を駆使したアモーレを、意図せぬコメントに撃ち落とされた。

胸を押さえて痛みに呻くスバルに、エミリアが慌てた様子で近寄る。

そして、

 

「あ……」

 

と、近寄るエミリアが声を詰まらせた。

寝転がったまま彼女を見上げ、その紫紺の瞳がスバルの胸――痛みを感じるアクションのために、胸に当てた手を見ていた。

仕事での失敗が積み重なり、結果的に絆創膏だらけの左手を。

 

「おう、やべ、かっちょ悪い。努力は秘めるもんだよね」

 

照れ隠しに手を背中に回し、スバルは右手で頭に触れて「テヘペロ」と反省のサイン。が、エミリアの表情は真剣なままだ。

どうしたもんか、と彼女の反応をスバルが待っていると、エミリアはその瞳をわずかに伏せて、

 

「やっぱり、大変なのよね、みんな」

 

と、まるで自分を戒めるようにそう呟くのが聞こえた。

そんな彼女の独白を耳にして、スバルは「ああ」と静かに納得する。

 

今、このロズワール邸で一からなにかを学んでいるのはスバルだけではない。エミリアもまた、女王候補として学ばなければならない様々な事柄を吸収している最中なのだ。

一使用人と、一国の女王だ。求められるレベルも、その範囲も、比べるのが失礼なぐらいの重圧に決まっている。

そんな重たいものを持たされていれば、疲れてしまうこともあるだろう。誰にも言えないそんな悩みを、彼女も抱いていたのかもしれない。

 

ふいにエミリアの手が伸ばされ、スバルの反応が遅れる。彼女の手はこちらが背に回した腕を取り、彼女の眼前に導くというものだった。

傷だらけの治療痕だらけの指を見て、エミリアは痛ましげに目を細め、

 

「……治癒魔法、かけてあげようか?」

 

そう聞いてきた。

問いかけは優しく、治療されるその最中の温かみは言葉にし難い。生まれたばかりの傷口は小さいながらも産声を上げ続けていて、今も意識すればひりひりとかすかな熱を訴えている。しかし、

 

「いや、いいよ、治してくれなくても」

 

「どうして?」

 

「んー、なんか言い難いんだけど……そだな。これは俺の努力した証だからだ」

 

握られた手をそっとほどき、スバルはにんまりと笑って答える。

目を見開く美貌の前で、そのボロボロの手を力強く握り、

 

「俺ってば意外と努力って嫌いじゃねぇんだよ。じゃなきゃ毎日筋トレは続かないわな。できないことができるようになんのって、カ・イ・カ・ン」

 

リズムに合わせて腰を振り、身を回しながら立ち上がる。ふいに視線の位置を高くされ、慌ててこちらを追うエミリアの視線――それに指を突きつけた。

 

「大変だし、めちゃ辛いぜ?でも、わりと楽しい。ラムとレムは意外とスパルタだし、あのロリはムカつきやがるし、ロズっちは案外なんにも言ってこねぇから思ったより影薄いし」

 

「それ、ロズワールに言ったらきっとカンカンよ」

 

「カンカンてきょうび聞かねぇな……」

 

話の腰を折られたことを、腰を折り曲げて表現。それからバネ仕掛けの人形のように背筋を正し、しゅばっと掌を差し出してエミリアを牽制。して、

 

「ま、そうやって一個ずつ問題をクリアしてくのはいい。ここじゃ俺はそれしなきゃ生きてけねぇし……どうせなら、楽しい方がいいよな」

 

元の世界では『楽』して生きられればそれでよかった。だが、こちらの世界ではそんな安穏とした生活は望めない。

ならばスバルは『楽』しさぐらいは要求したい。理不尽にこの世界へ放り込んだ存在に対する、スバルにとっての意地ともいえた。

 

そんなスバルの決意表明に、エミリアは時間が止まったように制止。ただ瞼だけを何度も開いては閉じ、それからふいに表情を崩した。

 

「そう、よね。うん、そうだと思う。ああ、もう、スバルのバカ」

 

「あれあれ、リアクションおかしくね!?惚れ直してもいいとこだよ、ここ!?」

 

「もともと惚れてませんー。もう、バカなんだから……私も」

 

心外を表現するために『命』と人文字でやるスバルに、最後のエミリアの呟きは届かない。

彼女も座っていた裾を払い、立ち上がるとスバルの前で微笑む。

 

さっきまでの重圧、その一端でも解消されたような彼女の笑みに、スバルは何も言えずにただただ見惚れる。

こうなってしまったときのエミリアは、綺麗だとか可愛いだとかなんて言葉では全然表現できない存在になってしまう。そう、言うなれば、

 

「E・M・M(エミリアたん・マジ・女神)」

 

「感謝してるのにまたそうやって茶化す」

 

少しだけ怒ったように額を突かれ、スバルはその位置を押さえて後退。そこがやたらと熱を持っているような気がするのは、きっと気のせいではない。

彼女はそのスバルの反応に、小気味よい笑声を弾けさせた。

 

「それにしても……頑張ってるのはわかってるけど、どうやったらそんなに手がボロボロになるようなことになるの?」

 

「ああ、これは簡単。今日の夕方、屋敷の側の村までラムの買い物に付き合ったときに、子どもたちが戯れてた小動物に超ガブられた」

 

「努力の成果じゃなかったの!?」

 

「より大きな怪我で見えなくなったというべきか……俺、あんなに動物に嫌われるようなタイプじゃねぇんだけどなぁ」

 

元の世界ではそんなに小動物から殺気を向けられるような体質ではなかった。でなければどうしてモフリストの第一人者を名乗れようか。

もっとも、元の世界でも遺憾なく発揮された『子どもにやたら好かれるor舐められる』体質はこちらでも健在だった。

 

「あのガキども……容赦なく蹴るわ殴るわ鼻水拭くわ。最悪だった、チキショウ。明日は覚えてろよ……」

 

「なんか小さい子の面倒見とか良さそうだもんね、スバル」

 

「そりゃ勘違いだよ、エミリアたん。今からいい感じに手懐けておいて、いざ大きくなったときに収穫する算段なのさ。これぞ光源氏俺計画」

 

「悪ぶらなくても素直に認めればいいのに」

 

取り合わないエミリアは「さて」と空を見上げて背を伸ばし、

 

「そろそろ私は部屋に戻るけど、スバルは?」

 

「エミリアたんに添い寝しなきゃだから俺も戻るよ」

 

「その業務内容はもっと使用人の実力に磨きをかけてからね」

 

「うおおーい、夢広がりing!」

 

両手を掲げて天に吠えるスバルを、エミリアは小さく苦笑で見守る。

と、スバルはそんなエミリアに腰をひねって振り返り、

 

「そだ。よかったら明日とか、俺と一緒にガキどもにリベンジ……もといラブラブデート……もとい、可愛い小動物見学に行かね?」

 

「何回も言い直したわね。……でも、うん、私は」

 

口ごもり、そこから先をなかなか言い出せないエミリア。

そんな彼女の反応にスバルは首を傾げる。行くのが嫌だ、といった感じの反応ではない。となると、

 

「ま、まさか、一緒に行って友達に噂とかされると恥ずかしいし……みたいな」

 

「そんな酷い断り文句、言わないわよっ」

 

腰に手を当てて怒った仕草。効果音を付けるなら「ぷんぷん」といったその動きをしてから、改めて彼女は目を伏せる。

 

「嫌じゃないし、その小さい動物も気になるけど……」

 

「じゃ、行こうぜ!」

 

「でも、私が行くとスバルの迷惑になるかも……」

 

「よしわかった、行こうぜ!」

 

「……ちゃんと聞いてる?」

 

「聞いてるよ!俺がエミリアたんの言葉を一言一句聞き逃すわけねぇだろ!?」

 

「スバルなんて大っきらい」

 

「あー!あーー!急になんだー!?きーこーえーなーいー!!」

 

耳を塞いで走り回り音を遮断。

前言撤回を即座に行う思い切りの良さに、エミリアは毒気を抜かれたように笑う。それから「仕方ないなぁ」と前置きして、

 

「私の勉強がひと段落して、ちゃんとスバルがお屋敷の仕事が終わったら、って条件だからね」

 

「よっしゃ!ラジャった!超っぱやで終わらせてやんよ!」

 

デートの言質を取り、ぐっとガッツポーズで応じるスバル。

その現金な様子を見て、エミリアは肩を落としながら首を振り、

 

「スバルを見てると、私の悩みって小さいなぁってそう思う」

 

「そんなことねぇよ!?みんな女王様になるかもしんないクラスの悩みとか抱えてたら、ストレス社会で胃袋ハチの巣だよ!」

 

ついに堪え切れずに笑い出すエミリア。彼女の笑い声につられて、スバルもまた笑い出す。

二人して、そうしてひとしきり笑い合って、この日の逢瀬は終わりを告げた。

最後に、

 

「そういえば、どうして仕事終わったあとなのにその服装なの?」

 

「いやー、そういやエミリアたんにちゃんとこの格好の感想とか貰ってねぇなと思ってさぁ。どう?わりといけてね?」

 

「うん、そうね。すごい仕事できそうに見える」

 

「期待が重くて潰れそうなう!」

 

そんなやり取りがあったことを、ここに記しておく。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「うーい、ちゃんと寝たかよ、ロリっ子。あんまし遅くまで起きてると、成長ホルモンが分泌されなくて小さいままになんぞ」

 

「……当たり前のように『扉渡り』を破るようになりやがったのよ」

 

適当な扉に当たりをつけ、中を覗いて適当な声をかけたスバルに、そんな恨みがましい返事があった。

見ると、書庫の奥で木製の脚立に腰を落ち着ける少女がこちらを睨んでいる。手には分厚い本を抱えていて、ページは中ほどを開いているところだ。

 

「夜に暗いとこで漫画ばっか読んでっと、今に牛乳の瓶の底みたいな眼鏡かける羽目になって憧れの大学入試で超浪人すっぞ」

 

「またわけのわからない戯言を……ふざけてると石にするのよ?」

 

「はいはい畏まり畏まり。んじゃ、とっとと寝ろよ、おやすみぃ」

 

おざなりに手を振って、戸を閉めようとすると「ちょっと」と声がかけられる。スバルが扉を閉める手を止めて振り向くと、ベアトリスはわずかに脚立の上から身を乗り出すようにして、

 

「なにか用事があってきたんじゃなかったのかしら?」

 

「んにゃ、別に。寝るから挨拶しようと思っただけ。ドア三つぐらい開けていなかったら諦めようと思ったけど、一発目で見っけたから」

 

「相変わらずどんな勘してるのよ、こいつ……」

 

疲れたように縦ロールを引っ張るベアトリス。びよんと伸びたロールが、手を放された反動で弾む弾む。見ていてちょっと童心が震える。

 

「それやっていい?」

 

「ベティーに触れていいのはにーちゃだけなのよ。もういいからとっとと消えるといいかしら」

 

「んだよ、呼び止めといてそれかよ。はっ、まぁいいけどね!俺、今は機嫌いいから全然許すけどね!」

 

上機嫌をことさらアピールして、ベアトリスの顔に渋面を刻んでやってから部屋を出る。ただ、戸が閉まる瞬間に、

 

「――ベティーには関係のないことよ」

 

とだけ、寂しげな声が聞こえたような気がしたのが少し気がかりだったが。

 

「つって、聞き返そうと思ってドアを開けると」

 

開かれた扉の向こうは様変わりし、単なる客間へと戻っている。

少しだけ後ろ髪を引かれる思いがあったが、また探してうろつき回るのも気が向かない。明日は早起きして、できるだけ仕事を早く片付ける必要があるのだし。

 

「村まで行って、適当に理由作ってガキどもまかなきゃな。おっと、その前にあのあたりで見晴らしのいい場所とか、花畑の位置とかリサーチしとかねぇと……前準備、これがどんな戦も大事!戦う前に勝敗は決まってるもんだからな、やれるぜ俺」

 

鼻の穴をふくらませ、明日への期待に胸を膨らませる。

スキップするように宛がわれた自室――使用人用の個室に戻ると、着ていた執事服を脱ぎ捨ててぱぱっとジャージへモデルチェンジ。

 

「やっぱ寝るときゃこれだわこれ。一着しかねぇのが心許ねぇけど……ロズっちに頼んだら複製魔法とかかけてくれっかな」

 

もはや世界に一着しか現存しない希少品だ。扱いに最大の注意を払ったその上で、普段着扱いで着こなす程度のぞんざいな貴重さ。

駄目になったらなったで、それがその服の寿命である。元の世界の名残が失われるのは悲しいが、振り向いていてもしょうがない。

 

「だから俺は明日に希望を描いて生きるのさ、ぐふふ」

 

下品にほくそ笑んでから、スバルは自分でメイキングしたベッドに飛び込む。柔らかな感触に受け止められ、布団に潜り込んで就寝準備完了。

が、あまりに明日への期待が大きすぎて目が冴えわたり、どうにもこうにも寝付くことができない。

 

「くそ、なんてこった、俺の体め!お前、明日の俺の希望を踏みにじる気か!チキショウ、最大の敵は俺自身だったってことかよ……」

 

ジーザス、と天井を睨みつけてスバルは嘆きを上げる。

だが、こんな寝付けない夜には裏技があるのだ。スバルは熱を持つ自分の体に嘲るように笑いかけ、

 

「受けるがいい、俺の裏技――パックが一モフ、パックが二モフ!」

 

一流のモフリストならば、モフり対象を空想に描くことで仮想モフリングを現実のように体感することが可能となる。

スバルの脳裏に灰色のふわふわの猫が現れ、それが秒数を重ねるごとに数を増していく。次第にスバルの全身はそのモフっ子によって包まれ、体は至福と忘我の彼方――はるかな理想郷、アヴァロンへといざなわれる。

 

「パックが……百六十……三モフ……もふもふ」

 

呟きながら、スバルの意識は夢の世界へと沈み込んでいく。

桃源郷を描いたまま、意識はモフリングの果てへ辿り着き――やがて消えた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

意識の覚醒は海上への浮上に似ている、というのは二度ネタだ。

瞼を開き、陽光に目を焼かれながらスバルはわずかにだるい体を起こす。

 

どうにも少し頭が重い。多少、疲れが残っているのかもしれない。慣れない仕事を始めたばかりだ、こういうこともあるだろう。

しかし、今日はそんな弱気なことを言っている場合ではない。

寝起きのいいスバルは覚醒直後から、昨夜の約束をしっかり反芻している。

 

「そう、ナツキ・スバル――今日、男になります!」

 

誰にともなくサムズアップし、歯を光らせてお決まりの決め顔。

すばらしいものになる、約束された勝利の一日の起点に最高の起床。が、

 

それを驚いたような顔で見る、双子の視線によってへし折られた。

 

顔を覆い、布団にそれを押しつけて、スバルはいやいやと体を振って、

 

「なーんーだーよー!いたのかよー!恥ずかしいじゃねぇか、声かけろよ!うわ、うわ、うーわー、マジ恥ずかしー!」

 

じたばたと羞恥を殺そうとするスバル。

そんなスバルに対して、相変わらず双子の表情は変化に乏しい。指差して笑われるのも良くないが、その反応も滑ったみたいでなんか嫌だった。

 

「いや、ちょっと待て、お前ら。さすがにその反応は傷付く。人のデリケートな部分に触ったんだから、もうちょっとこう……あるだろ!?」

 

スバルの必死の懇願に、二人は顔を見合わせる。

せめていつものように、冷たいなり白けたなりの罵倒系が返ってくるのを期待。――なんかそれも酷い話だ、とスバルが内心思った直後だった。

 

「姉様、姉様、なんだかずいぶんと親しげな挨拶されましたわ」

「レム、レム、なんだかやたらと馴れ馴れしい挨拶をされたわ」

 

違和感、がスバルの脳裏をかすめるような言葉だった。

確かにそっけなさはいつもの通りな二人の発言なのだが――どこかがおかしい気がする。

 

「うん、と?なんか、変じゃね?どしたのよ、先輩方。仮にネタ合わせしてそれなら、ちょっとこの場に合わないってーか」

 

言いながら、スバルは違和感の原因に気付き始めていた。

――目、だ。

二人のスバルを見つめる視線――それが、昨夜までの親しみを失って、どこか他人行儀なものへと様変わりしているのだ。

そして決定的だったのは、

 

「姉様、姉様、どうやら少し混乱されているようですわ、お客様」

「レム、レム、なにやら頭がおかしくなってるみたいね、お客様」

 

――『お客様』とそう呼ばれて、スバルは思わず絶句する。

 

その響きの優美さと裏腹に、それは激しく鋭い切れ味でスバルの心の内側を抉った。実際に痛みを錯覚し、スバルは胸を抑える。

 

意味が、わからない。二人のその反応は、まるで。

 

「二人、とも……はは、冗談きついぜ。そん、な、こと……」

 

どこまでも他人を見る二人の目を遮りたくて、とっさにスバルは左手を掲げて己の視界を塞ぐ。だが、その瞬間に決定的なものを見てしまった。

 

――己の、左手から、絆創膏が、消えている。

 

水仕事で荒れた指先も、慣れない刃物仕事で切った手の甲も、子どもとの戯れの最中に小動物に噛まれた傷跡も――まっさらになっていた。

 

ことここにいたっては、スバルも現実を認めるしかない。

急に、突然に、目の奥に熱いものを感じて、スバルはさっきとは違う理由で布団に顔を押し付けた。

今のこの顔を絶対に、絶対の絶対に、誰にも見られたくない。

 

この、大好きな人たちに。大好きになっていけそうだった人たちに。大好きになっていたはずだった人たちに。

 

他人のような目で見られながら、涙なんて絶対に流したくない。

 

「どうして……戻ったんだ!?」

 

慟哭する。布団に顔を押し付けたまま、わけのわからない理不尽めがけ、牙を剥きながらただただ怒りを吠えたける。

 

――あれほどスバルを苦しませ続けたループが、再びその渦の中に彼を取り込んだ瞬間だった。

 

二度目の、一日目が始まる――。