『逃れ得ぬ呪縛』


 

ヴィルヘルムの口から伝えられた、聞いたこともない魔女の名前に戦慄する。

スバルの知る『魔女』は、サテラを除けばエキドナの墓所で出会った六人の大罪を冠する魔女たちだけだ。

まさかそれ以外に、『魔女』が存在しようとは青天の霹靂だった。

 

「じゃあ、ヴィルヘルムさんはそのスピンクスって魔女が、今回の魔女教の襲撃に関わってると……大罪司教以外にも、魔女がいるって言うんですか?」

 

だとしたら、敵の主力は大罪司教四人に死者が二人。そこにさらに魔女が加わる形になって、ただでさえ厳しい戦力比は絶望的なことになる。

が、そのスバルの懸念にヴィルヘルムは手を上げ、

 

「申し訳ありません。言葉が足りませんでした。魔女スピンクスの存在は、その亜人戦争のときに滅しています。彼奴が此度の襲撃に関わる余地はありません」

 

「魔女は死んでる?それ、間違いないんですか?死んだふりして、逆に死んでも自由にしてるのが魔女ってのが俺の印象にあるんですが」

 

スバルがタブーに触れたときに出てくるサテラもそうだし、夢の城で死後の世界を満喫していたエキドナも然りだ。

死んだと聞かされても、それがまったく保障にならないのが魔女である。

 

「スバル殿が魔女にどのような印象を持たれているかはわかりませんが、スピンクスは魔女とはいっても便宜上、そう呼ばれただけの存在です。王国軍がそう呼称した事実があるだけで、当人がそう名乗ったことはありませんでした」

 

「当人がって、ヴィルヘルムさんは直接の面識があるんですか?」

 

「内戦中に幾度か。亜人戦争の終結は、スピンクスの首を取ったことが直接の切っ掛けといえるかもしれません。ロズワールとボルドー、それに妻がその立役者です」

 

「ロズワール!?」

 

予想外の名前が飛び出して、スバルは目を剥いてしまう。

そのスバルの反応にヴィルヘルムは顎を引き、少しだけ遠い目をした。

 

「先々代のロズワール卿と付き合いがありましてな。当時の私はあまり親しくしていたわけではありませんでしたが……世話になったものです」

 

「先々代って……ああ、そうか。ロズワールの名前は代々の世襲制なんだっけ」

 

「生憎、先々代は早くして亡くなられてしまいました。その後は疎遠になり、今代のメイザース卿は顔を見知っている程度。いえ、これは余計な話でした」

 

意外すぎる関係性に耳を奪われていたが、確かに本題はそこではない。

スバルが頷くと、ヴィルヘルムは「ですから」と言葉を継いだ。

 

「スピンクスではありませんが、おそらく用いられている呪術は同じ系統のものだと思われます。屍を操る術式で、当時は屍兵などと呼ばれていました」

 

「屍兵……その、弱点とかあるんですか?」

 

「私の知る限り、屍兵は死体を動かすだけの術式にすぎません。生前の技量が十全に再現できるわけでもなく、死者を辱めるだけの、術者の性根を反映したような」

 

「でも、『八つ腕』と……その」

 

言いよどむ。

屍兵となり、死を冒涜されているヴィルヘルムの妻。理屈の上ではそれを受け入れたヴィルヘルムに、それでもスバルからそう口にするのは躊躇われたのだ。

ヴィルヘルムはそんなスバルの躊躇に、苦々しく唇をゆるめる。

 

「お気遣いありがたく。ですが、必要なことです。――ええ、妻とクルガンの技量は生前に迫るものがある。ただの屍兵が引き出せる力を超えています」

 

「だったら、屍兵とは別の何かって可能性もあるんじゃないですか?それなら、奥さんが死んでないってことも……」

 

「妻は、死にました。私が力及ばず」

 

女々しく、希望に縋ろうとしたのはスバルの方だった。

そんなスバルの感情を、静かなヴィルヘルムの声が一刀で切り捨てる。

そしてその老剣士の横顔に、スバルからかけられる言葉は何もないのだ。

 

「当時にも、ただの屍兵とは断定できないものが極稀に存在しました。術式にも適性があるのか、あるいは別の要因かはわかりかねますが……二人の精強さは、そういうことだと考えるべきでしょう」

 

「倒し方は、あるんですか?」

 

「完膚無きまでに、肉体を破壊する。あるいは体のいずこかにある呪印、それを抉ることです。そうすれば屍兵は、ただの死体に戻る。そうしなければならない」

 

思い詰めたヴィルヘルムの声が、聞いていられなかった。

平静を意識し、努めて自分のやるべきことを見つめようとしている。――その声の震えも、握りしめた拳も見開いた瞳も、何もかも隠せてなどいないのに。

 

「長く、引き止めて申し訳ありません。クルシュ様をこれ以上、お待たせすることはできません。どうぞ、お進みください」

 

ヴィルヘルムが腰を折って、すぐ正面まできていた部屋の扉を示す。四階の最奥にある部屋は、崩壊したプレートに休憩室と記された一室だ。

その中に、スバルを呼んだというクルシュが待っている。

 

ヴィルヘルムの横を抜けて、スバルは靴音を立てながら扉へ向かった。

いやに、扉までの距離が遠く感じる。靴裏が床にへばりつき、スバルの前進を阻害しているかのような感覚すらあった。

それが気後れしている自分の弱さだと、スバルははっきり自覚している。

 

「――俺だ。ナツキ・スバルです。あの、クルシュさん?」

 

扉をノックして、向こう側に届くか怪しい声量で呼びかける。そのまましばしの沈黙があって、向こう側からゆっくりと扉が開かれた。

顔を見せたのはフェリスだ。ただ、すっかり様子が変わっている。

 

「スバルきゅん……」

 

泣き腫らした赤い瞳と、乱れてしまっている栗色の髪。体中は自分のものではない、誰かの血で赤黒く染まり、色白の肌に跳ねたそれを拭う余裕すらなかったのだろう。頬や首にもべったり、鮮血が付着していた。

その凄絶な様子に、思わず息が詰まる。

 

「クルシュさんが、俺を呼んでるって聞いて。それで」

 

「ん。中の、ベッドにいるよ。……絶対に、余計なことだけはしないで」

 

声は固く、後半には憎悪すら滲んでいた。

だが、その憎悪はスバルに向けたものではない。いわば、全方位に向けたものだ。この世界全てを憎む、行き場のない怒りが今のフェリスを支配しているのだ。

 

深々と深呼吸してから、スバルは中に戻るフェリスの背中に続いた。

休憩室といっても、さほど広くない部屋だ。長机と椅子が二列になり、奥に敷居で区切られた小部屋がある。ベッドは、その中にあった。

そして、粗末なベッドの上に彼女がいた。

 

「な、つき様?」

 

意識のあったクルシュが、部屋に入ったスバルに気付いて名前を呼んだ。

その彼女の声に応答しようとして、スバルの喉が引きつる。覚悟して、平静を装って、安心させるような言葉をかける――そんな簡単なことも、できないぐらいに。

 

「おみ、ぐるしい格好で、申し訳ありません……」

 

「……いや。いや、そんなこと……は。そんなことは、ない」

 

強張ったスバルを見て、クルシュが弱々しい声で謝罪する。その彼女の悲痛な態度に慌てて、スバルは取り繕うような声を上げた。

 

――カペラの血を浴びて、呪いを帯びたクルシュは酷い状態だった。

 

首や手足など、見える範囲の肌には斑に黒い血管が浮かび上がっている。タオルケットと着衣の下の肌も、同じだけの被害を受けているのは想像に難くない。血を巡らせているわけでもない黒い血管はたびたび脈動し、細いクルシュの体をまるで蛇がのたうつように締め付けているのがわかった。

色白の、シミ一つなかった彼女の肌が醜悪に蹂躙されている。

 

当然、被害は首から下だけに留まらない。

凛々しく、細身の剣を思わせたクルシュの怜悧な美貌――その左側が、斑の浸食を受けている。何の皮肉か、顔の右側は彼女の美しさを保ったままなのだ。それがかえって左右の対比を明らかにし、高潔なものが汚される理不尽を訴えかける。

左目を覆うように眼帯がかけられているが、その下は想像すらはばかられた。

 

「これが……俺と同じ、龍の血の呪いだってのか?」

 

だとしたら、これほど残酷なことはない。

クルシュ・カルステンを知るスバルだからこそ、その心痛に限りはなかった。

 

自分の右足を見下ろす。クルシュの肌と同じように、斑に黒い血管が張り巡らされた右足。だが、スバルの足はそのおぞましい見た目を除けば影響はない。痛みも疼くような感覚も、何らスバルにもたらされていなかった。

しかし、クルシュは明らかに違う。苦しげに喘ぎ、斑が脈動するたびに吐息に痛みに耐える素振りが浮かぶ。

 

「フェリス……」

 

何とかならないのかと、王国最高峰の治癒術師である彼を振り返る。だが、スバルのその短慮はただ、己の無力さを噛みしめるフェリスを傷付けただけだった。

唇を噛み、自分の腕に爪を立てて俯くフェリス。彼こそが最も、この場で自分の力の足りなさを理解し、悔やんでいるのだ。

 

二人の関係を知っていれば、スバルが思いつく以上の方法など全て試した後であることぐらい疑う余地もない。

 

「クルシュさん……俺に、何を」

 

これほど辛い状況下で、彼女は何のために自分を呼び出したのか。

何ができるとも思えない。何か、言いたいことがあるのだろうか。自分をこんな目に遭わせた『色欲』に報復してくれだとか。あるいはスバルに恨み言の一つでも。

罵られることも、呪詛を託されることも、受け止めよう。

 

スバルの問いかけに、クルシュが苦しげに口を開く。

その唇に体を寄せて、か細いその吐息を聞き逃すまいと耳を澄ませた。

そして、

 

「……ご、無事で、よかったです」

 

「――――」

 

「私と……同じ、呪いを受けたって……聞いて……」

 

安堵したように、吐息に柔らかさが宿るのをスバルは感じた。

同時に自分の心にあった本音を理解して、情けなさに憤死しそうになった。

 

責められた方が、ずっと楽だと思っていたのだ。

だからクルシュの高潔さを疑い、彼女の心根の気高さを貶めた。彼女はただ純粋にスバルの身を、同じ苦痛に苛まれているのではと心配していただけなのに。

 

「ごめん……ごめん、クルシュさん……っ」

 

心を疑ったことも、こんな風に苦しむ結果になったことも、苦しむ彼女の代わりになってもやれないことも、全部ごちゃ混ぜになった感情で声を絞り出す。

とっさに手が伸びて、力なく腹の上に置かれたクルシュの手を取った。黒い血管は触れても感触がない。これだけ歪な見た目で、肌の感触が変わらないことがいっそう不憫だった。ただ、

 

「ふ、ぅ……?」

 

「ぐっ!?」

 

抜けるようなクルシュの吐息、同時にスバルの喉を苦痛が駆け上がった。

焼けた鉄を握ったような痛みが、掌を起点に全身に突き刺さる。とっさにスバルがクルシュの手を解き、痛みの走った自分の掌を見た。

その掌に、斑の浸食が発生していた。

 

「なん、だ……!?」

 

「見せて、スバルきゅん!」

 

痛みに呻くスバルの手を取り、フェリスがその浸食を確かめる。治癒術の光がその斑を覆うが、痛みが引く気配も浸食が消える気配もない。だが、代わりに――、

 

「フェリス……クルシュさんの手が!」

 

「え……?」

 

目を見張るスバルにつられて、フェリスがクルシュの方を見た。そして、その黄色の瞳がスバルと同じものを見て見開かれる。

スバルが握ったクルシュの左手――その手の甲から、気休め程度ではあるが斑の浸食が薄まっていたのだ。

その変化と、自分の右手を見下ろしてスバルの脳裏をとある考えが過る。

 

「まさか、クルシュさんの体から俺の体に移った……のか?」

 

そうとしか考えられない。触れた手と手の変化が、そのままプラスとマイナスだ。クルシュの体に宿る呪いが、スバルの方に移ったのは疑う余地もない。

 

「で、でも、私には何の変化もないよ?クルシュ様のお体を診るのに、さっきから何回も何回も触れてるのに……わ、私には……っ」

 

スバルの仮説にフェリスが首を横に振る。

それは治癒の可能性が芽生えたことを喜ぶのではなく、仮説に間違いがあるのではと疑る動きだ。否、きっと彼の心情は違う。

 

「私にはクルシュ様を、安らかにさせてあげられない……っ」

 

「ならもう一回、確かめる」

 

狼狽えるフェリスを押しのけ、スバルはクルシュの前に再び立った。クルシュは何が起きているのかまだわかっていない顔で、歩み寄るスバルに潤んだ瞳を向けている。眼帯に塞がれた隻眼に、スバルは強張った顔が見えないよう気合いを入れて。

再び確かめるように、今度はクルシュの頬にそっと触れた。

 

「――ぐ、ぅ!」

 

直後にスバルの脳に突き刺さる、血管にマグマを流すような灼熱の痛苦。指先を通じてクルシュの身を犯す呪いが流れ込み、スバルの神経を焼いていく。

 

「が、ぁぁぁぁ!?」

 

堪え難い激痛に絶叫し、スバルは喉を震わせてのけ反る。そのまま勢いで後ろに倒れ込んで、触れていた手がクルシュを離れた。

 

「あ、はっ、はぁっ……」

 

肺が引きつり、眼球が痙攣する。

陸に上げられた魚のように口を開閉し、スバルは必死に酸素を求めた。

 

「す、スバルきゅん……平気?」

 

呼吸が落ち着き始めたのを見て、フェリスがスバルに尋ねてくる。固い床の感触を確かめる程度には余裕が戻り、スバルはどうにか体を起こした。

そして、ベッドの上のクルシュの顔を見つめて、

 

「どうだ、フェリス。少しは、効果あったか?」

 

「あ……」

 

ぺたりと、クルシュの様子を確かめたフェリスの腰が落ちる。

彼の目にも見えたはずだ。クルシュの、呪いに浸食された頬がその浸食からわずかに救われたのを。この治療が可能なら、クルシュを救い出すことも――。

 

「いけません、ナツキ様……」

 

もう一度、挑戦しようと腰を上げたスバル。だが、その行動を止めたのは他でもないクルシュ自身だった。

彼女の言葉の意味がわからず、スバルは何事かと問い質そうとする。

 

「気付いて、いないのですか?ご自身の、手が……」

 

「――手?」

 

言われてみて、自分の右手を見下ろす。そして、その変化をようやく理解した。

右足と同じように、斑に黒の血管が走る肌。そこまではいい。それだけならば、クルシュの呪いを引き取ろうと覚悟したのが揺らぐはずもない。

ただ、明らかにおかしなことがあった。

 

クルシュから引き取った斑と比べて、その浸食の範囲が大きすぎるのだ。

彼女の体から引いた浸食は、左手の甲と左頬のもの。浮かび上がっていた黒の血管が薄まる程度の変化が、スバルが触れたことで発生している。

だが、一方でそれを引き取ったはずのスバルの右腕は、肘から先の甲側の肌がびっしりと斑に覆われてしまっていた。その濃度、明らかに比較にならない。

 

引き取る呪いのレートが、一対一どころではない。十対一でも生易しい次元だ。

 

「いや、でも……」

 

それが躊躇う理由になるか、ということはまた別だ。

引き受ける瞬間は痛みがある。しかし、いざこうして体に引き取ってしまえば、呪いがスバルを苦しめる予兆は今のところは見られない。

継続的に苦しめられるクルシュと比較して、スバルが受ける苦痛など一瞬だ。それに男と女、この呪いの醜さがどちらにとって堪えるかなど考えるまでもない。

 

右足や右手が真っ黒になるぐらい、クルシュを救うためならば何だというのだ。

 

「ナツキ様、ダメです。……そのお気持ちは、受け取れません」

 

「馬鹿なこと言うなよ。俺は、ちょっと辛いぐらい大丈夫だ。調子こいてタトゥー入れて将来後悔するのに比べたら、ずっとマシな体の汚し方だと思うぜ。痛みだって引き受けられる。不思議と、俺はキツイことはないんだよ。だから」

 

「今後もそうだと、限りますか?……私と、ナツキ様の二人が、戦えなくなるかもしれません。それは、今の状況では、致命的です……」

 

我が身より、都市と他者のことを案じるクルシュの判断。それは論理的には正しい考えだが、物事は論理でばかり割り切れるものではない。

 

「フェリス、ナツキ様を止めて……」

 

「わ、私は……」

 

「お願い。ナツキ様は今、私以外の人に必要な方だから……」

 

「スバルきゅんが、頑張ってくれたら……く、クルシュ様の苦しみは」

 

戸惑うフェリスの判断は、クルシュを優先度の最上位に置いているが故のものだ。彼を誰も責められない。この場にいる誰も、間違っていないのだから。

間違っていないことが、正しいことではないことが、間違っているのだ。

 

「一時の感情に、流されてはいけません。ナツキ様、お願いします……」

 

「クルシュさん、それでも俺は」

 

「言っていたじゃ、ありませんか。――あとのことは全部、俺に任せておけって」

 

「――っ!」

 

クルシュの嘆願するような瞳が、スバルを捉えて離さない。

そんな力強い言葉を、自分が口にしていたのだろうか。それを聞いたクルシュはスバルに、その言葉を果たせと、そう言うのか。

 

「私にも、言ってください……」

 

「――――」

 

「あとのことは全部、俺に任せておけって」

 

苦しげな微笑みが、スバルの言葉を待っていた。

息を呑み、渇いた口の中で舌を動かし、スバルは静かに瞑目する。

 

先のことを考えず、目先の救いに飛びつこうとした自分を諌められて、言わせなくてもいいことまで言わせて、だからせめて――。

 

「クルシュさん、ゆっくり休んでてくれ」

 

「……ナツキ、様」

 

「あとのことは全部、俺に任せてくれていいから」

 

「――はい」

 

求められている役割と、欲された言葉をかけるぐらいはできなくてはならない。

 

スバルの答えを聞いて、クルシュが安堵したように長い息を吐いた。

そのまま力なく瞼が閉じるのは、ここまで気力でどうにか意識を保っていた証拠だ。すぐに吐息が低くなり、クルシュが再び呪いの浸食と戦う時間が始まる。

 

「悪い、フェリス。俺も、行かなくちゃならねぇ」

 

「私は……どうしたら、いいかな?」

 

クルシュにタオルケットをかけ直して、立ち上がったスバルにか細い声。弱りきったフェリスを見ることなど、スバルにとっては初めてのことだ。

本音を言えば、このままクルシュの傍にずっとつけておいてやりたい。

だが状況は、フェリスの能力はそれを許さない。

 

「お前の力は、必要だ。都市庁舎を離れろとまでは言わない。でも、何かあればケガ人はここに担ぎ込まれるよう話をつける。だから、それを頼む」

 

「……一番助けたい人は、助けられないのにね」

 

「フェリス……」

 

「ごめん。馬鹿なこと言った。……しばらく、二人にさせて」

 

顔を背けて、ベッドの傍らの椅子にフェリスが座り込む。スバルは最後にその肩を軽く叩くと、そのまま休憩室の外に出た。

廊下では入ったときと変わらず、ヴィルヘルムが直立して待っている。

 

「クルシュ様の想いを酌んでいただき、ありがとうございました」

 

戻ったスバルに、ヴィルヘルムがそう声をかける。中のことが筒抜けだったのか、あるいはスバルの顔がわかりやすかったのか。

 

「想いを酌んだなんて上等な話じゃありませんよ。俺が発破かけられたって話なんですから。……俺の体、なんなんですかね」

 

クルシュの呪いを引き受けたり、そもそも浸食自体が勢いを弱めたり。もっと前に遡れば、魔女因子なるものや『死に戻り』のことすら全てが曖昧だ。

いつかそれらのことに、理由と決着を見ることができるのだろうか。

 

「クルシュさんのことはフェリスに任せましょう。全部片付いたらもう一回、さっきのことが試せたらと思います」

 

「その右腕、大丈夫なのですか?」

 

「見た目が格好悪いですけどね。長袖着て、手袋してたら様になるかな。……美少女一人救うためなら、消えない傷ぐらいどってことないってことですよ」

 

抵抗感はあっても、それはスバルの本音でもある。

解決策が他にないのなら、クルシュの呪いを全部引き受けたっていい。それで体が黒々としても、エミリアやレム、ベアトリスには許してもらおう。

 

「けど、それも全部、この難所を乗り切ってからの話だ。ヴィルヘルムさん、下に行きましょう。たぶん、制御搭の攻略の話をしてるはずだから」

 

戦力はおそらく、こちらが用意できる中で最高クラスが揃ったはずだ。

あとは大罪司教ごとの能力と相性、そして攻略のための分担と実行のタイミング。魔女教の要求した期限まで、あと六時間ほどしかない。

 

「スバル殿、その件についてなのですがお願いが」

 

「お願い?」

 

階段に向かおうとするスバルを、ヴィルヘルムが引き止めた。老剣士は頷き、視線で背後の扉――その中にいる、主を案じる目を見せて、

 

「可能なら、私に『色欲』の討滅の役目が与えられるよう推薦していただきたい。超再生に変異、その権能の強大さは見知った上で、ぜひ」

 

「クルシュさんの仇討ち、そういうことですか?」

 

「それもあります。ですが、それ以上に『色欲』にはクルシュ様に何をしたのか、生きたまま話してもらう必要があります。そのためにならば悪鬼にもなりましょう。剣で奴を切り倒し、首を落とす前に必ずや聞き出します」

 

剣鬼の放つ鬼気が、スバルには熱波のように感じられた。

怒気、剣気、いずれ劣らぬヴィルヘルムの覇気が、主の報復に燃え上がる。

 

「その意気やよし、ですけど……屍兵は、いいんですか?」

 

「――――」

 

「奥さんと、知ってる相手なんですよね?どうするにしても、決着をつける必要があるのはヴィルヘルムさんで」

 

「スバル殿、下にラインハルトがきておりますな?」

 

懸念を口にするスバルに、ヴィルヘルムが唐突に割り込んだ。

鼻白むが、スバルは頷く。ラインハルトの戦力は攻略に欠かせない。ただ、先代剣聖のことが彼にとってもネックになるのは確かで。

 

「屍兵の素性を、ラインハルトに伝えるのはやめていただけませんか?」

 

「……え?」

 

とっさに、その頼みの意味が呑み込めずに困惑する。

 

「それは……あいつにヴィルヘルムさんの奥さんのこと話すなって、そういう意味ですか?」

 

「ええ、そうです。ラインハルトに……孫に、死者となった妻を会わせたくないのです。あれはきっと、自分を責めることでしょう。他でもない、私のせいで」

 

「ヴィルヘルムさんのせいって、そんなこと」

 

ない、と言いたかったのに、スバルは軽はずみにそれを口にできない。

今朝のことが、団欒の場を破壊したハインケルの発言が思い出されたからだ。

 

信憑性はない。だが、否定もされなかった。

ヴィルヘルムがラインハルトを、妻の死の原因になったと詰った。そんな信じ難い過去を、否定されなかった。

 

「スバル殿は、『剣聖の加護』が特別なものであるとご存知ですか?」

 

「……正直、知らないことの方が多いです。たぶん、『剣聖』って呼ばれた人がみんな持ってた加護で、それを持ってるとすごい強くなれたりとか、そういう加護だってぐらいの認識しか」

 

「おおよそ、その理解が間違っておりません。ただ唯一、『剣聖の加護』が他の加護と違う部分があるとすれば……それは、受け継がれるものということです」

 

「受け継がれる、加護……」

 

スバルの吐息に、ヴィルヘルムが頷いた。

老剣士は目を閉じたまま、何か痛ましい過去を思い出すように。

 

「その加護は代々、初代のレイド・アストレアの時代から綿々と受け継がれてきました。加護はアストレア家の血脈に宿り、必ず次代の剣聖を一族から選び出す。妻の加護もまた、ラインハルトに受け継がれたものです」

 

「そうやって、一族で受け継がれる加護……そうか、そういうことなのか。それで奥さんが亡くなって、ラインハルトに加護が」

 

理解が及び、納得に入ろうとしてスバルの頭に何かが引っかかった。

白鯨に先代剣聖が敗れて、死した結果、ラインハルトに加護が継承された。痛ましい過去だが、それはある種、正当な受け継がれ方ともいえる。

その流れが、今朝のアストレア家の言い争いに符合しない。

 

ヴィルヘルムの嘆きが、ハインケルの嘲りが、ラインハルトの沈黙が、その正当な継承をどうしてか妨げている。

そしてその答えは――、

 

「白鯨との戦いの、最中だったのですよ」

 

「ヴィルヘルム、さん……」

 

「――ラインハルトが加護を継承したのは、妻が赴いた大征伐の最中。戦いの中で妻は剣神に見放され、殿をただ一人の女として受け持たざるを得なかった」

 

――それが、アストレア家分裂の真実だ。

 

白鯨を討伐するための大遠征、その戦いの真っ最中に加護は次代に継がれた。そして戦場には、加護をなくしたかつての剣聖が取り残される結果を招いた。

そして先代は殿となり、多くの兵を守るために魔獣と戦い――消息を絶った。

 

「妻から剣を奪ったのは、他でもない私です。剣神に愛された妻に剣を捨てさせ、ただの女にしたのは私だ。そのことがあの、妻の最期を招いた」

 

「――――」

 

「剣神は自分を裏切った妻を許さなかった。戦場で加護を奪われ、捨てたはずの剣にしか頼れなかった妻がどんな思いでいたか……私はそれを受け入れられなかった。加護の宿ったラインハルトを詰ったのは事実です。祖母の死に涙し、重すぎる宿命を背負わされたばかりの孫を、愚かな私は許せなかった。後悔、しています」

 

昨夜、ヴィルヘルムがスバルに明かした後悔――それが、その過ちだ。

ラインハルトが悪いわけではないと、そうわかっていたにも拘らず、妻の死に嘆くヴィルヘルムはそれを認められなかった。結果、アストレア家は割れた。

 

「もう、繰り返すことはしたくない。妻の死に、ラインハルトの責任など何もないのだから。私の孫に責められる謂れなど、何もないのだから」

 

だからラインハルトには打ち明けずに、決着を自分でつけるというのか。

その心は今の話で痛いほどわかった。スバルだって、それが叶うならそうしてほしいと思う。しかし、あまりにもヴィルヘルムの背負うものが多すぎる。

 

「クルシュさんのことと、奥さんのことと……潰れちまいますよ、ヴィルヘルムさん。それに屍兵のことを黙ってても、奴らがどこに顔を出すかは」

 

「それこそ無用の心配ですよ、スバル殿」

 

「え……?」

 

確実性に欠けると、そう指摘しようとしたスバルにヴィルヘルムが首を振る。

そして剣鬼は、その表情を禍々しく歪めて、言った。

 

「――妻が、私に会いにこないはずがありませんからな」