『待ち望んだ朝』


 

ベアトリスとの契約が結ばれ、ほんの少しだけの安らぎを得たスバル。

だが、本質的に彼が追い詰められている点に関しては、状況は何ひとつ改善されていないし、解決策は未だ微塵も見えていない。

 

相変わらず、スバルは客間の外へは出られないひきこもり生活を送ったままでいたし、ベアトリスも四六時中スバルに張り付いていてくれるわけではない。

むしろ、四日目の夜から五日目の一日――その問題の時間に護衛の割合を割いてもらう交渉をしたため、できるならスバルの側にいたくもないというベアトリスはアレから部屋には一度もきていない。

 

代わりに何度となくスバルの下を訪れているのは、

 

「そう、よかった。ちゃんとベアトリス、謝りにきたんだ。感心、感心」

 

と、寝台の横で微笑を浮かべて頷いているエミリアだった。

彼女のたびたびの来訪はスバルの良心を呵責するとともに、暗闇でしかないこの世界に一筋の光明をもたらす、誇張なしでの女神に思える。

 

アレだけ辛辣に遠ざけられてなお、スバルの方へ歩み寄るエミリア。それこそ、申し訳なさから言葉少なな謝罪を口にしたときも、

 

「きっと気が立ってたんでしょう?誰にだってそういうときはあるから仕方ないわよ。ラムとレムにも、そう言ってくれると嬉しいけどね」

 

やんわりと、スバルの無礼な発言を聞き流してくれた。

その後の彼女のささやかなお願いに関しては、スバルは明確な答えを返せていない。

純粋に、事情を知る信用ならないものと判断すれば、スバルの口は彼女らによって封じられる。一方で、その行き過ぎた忠誠心を味わってなお、そんな二人を憎み切れないのも正直な話だった。

もっとも、関与が確実なのは片方だけで、ひょっとするともう片方は何も知らないのではないか、なんて楽観的な考えがあるからこそのハリボテの希望なのかもしれないが。

 

日に日に、希望とそれを上回る失望の狭間で精神をすり減らすスバル。

エミリアはそうしてやつれていくようなスバルをジッと見つめ、それから寝台の横に置かれた食事を横目にすると、

 

「やっぱり、ご飯、食べてないのね」

 

「…………悪い」

 

手のかかるばかりの客分であるスバル。顔を見せることも許さず、それどころか初対面を罵倒で迎えられたにも関わらず、屋敷の使用人は当然のように食事に手を抜くような不義理は犯さない。

 

出された食事が毎回のようにほぼ手つかずで、明らかに歓迎されていないとわかっていても、顔色ひとつ変えず、文句ひとつ言わず、職務を全うする。

片方は無遠慮で、片方は慇懃無礼で、にも関わらず仕事に手を抜くような性格でないのは知っている。スバルはそれを知っている。なのに、

 

――毒が入っているんじゃないだろうか。

 

食事を見るたびに頭をそんな不安が過る。

そんな手段を取るような相手ではないと思う。それをするというのなら、これまでの周回でチャンスは何度でもあったはずなのだ。

だが、彼女らの行動は常に直接的にスバルへと訪れた。故に、今回も自分を殺しにくるときは、凶器を握り締めてくるはずだと半ば確信している。

 

良いところをいくつも知っている相手が、自分を確実に殺そうとしているという現実。それを認めたところから、スバルの絶望は始まっている。

 

そんな精神状態でいるから、食事を受け付けないのは純粋に緊張と不安で内臓が震えを殺し切れないのが理由だ。

食事はきっとおいしいと思う。何度も何度も、うまいと実感した味だ。いずれは自分も同じくらいできるように、そんな風にも思ったかもしれない。

 

「ちょっとでも食べないと、体に毒よ?辛いかもしれないけど」

 

「胃が受け付けねぇんだ。……エミリアたんが、『あーん』って食べさせてくれるんなら、食べれるかも」

 

憂い顔にしょうもない軽口を向けて、スバルは己の救えなさを呪う。

こちらの身を本心から案じてくれているだろう相手に対し、もはや普段の軽薄さを装うことすらできない不出来な自分を。

しかし、

 

「じゃ、はい、あーん」

 

「――へ?」

 

「だから、あーん」

 

食事の載った盆を膝に乗せ、匙を手にしたエミリアがスバルを見ている。

匙にはスープがすくい取られ、まだかろうじて温かみの残るそれはスバルの口元を目指し、ゆっくりとこちらに近づいていた。

 

エミリアの意図がわからず、スバルはたまらずに手を振って、

 

「いや、いやいやいや、ちょっと待てよ、エミリアたん。何してんだ?」

 

「なにって、スバルがこうしたら食べるって言ったんでしょ?だから、食べて。あーんってしてあげるから」

 

「えーっと、こういうのはなんだかんだでけっきょくできないみたいなところが様式美というか、あるいはやるにしても女の子が顔を真っ赤にして一回が限界みたいなところにグッとくるところがあるというか?」

 

「こんな子どもみたいなこと言ってる子に、ちょっとご飯食べさせてあげるくらいで恥ずかしいことあるわけないでしょ。ほら、バカ言ってないの」

 

しどろもどろのスバルに対し、エミリアは強引に『あーん』を強制。けっきょくその威勢に押されて、スバルは恥辱に耳が熱くなるのを感じながら、

 

「あ、あーん」

 

「はい、ごくん。次々いくわね。はい、はい、はい、はい、はい」

 

「早いよ!?初あーんなのに余韻もクソもないな!?」

 

早食わせ選手権でもやっているかのように、機械的で無駄のない動き。次々と差し出される匙を思わず口に入れ、結果的にエミリアの術中にはまったスバルは、彼女の手で食事を完食するところまで到達。

見事にお膳を空にして、満足そうなエミリアは「うん」と笑みを深め、

 

「ほら、食べ終わったらなんて言うの?」

 

「ごっつぁんでした」

 

「お行儀が悪い。正しく、もう一度」

 

「ごちそうさまでした」

 

「はい、お粗末さまでした」

 

深々と頭を下げるスバルに、丁寧にお辞儀し返すエミリア。

スバルの方はといえば、これまで二日以上も我慢してきた空きっ腹に、急に食事を詰め込んだせいで妙な満腹感が内臓を圧迫していた。

大した量を食べた覚えはないのに、と首を傾げるスバルに、

 

「しばらくちゃんとしたもの食べてないから、胃がびっくりしないようにって。ラムが言い出して、レムが作ったの。良い子たちなんだから」

 

まるで姉妹を自慢するようなエミリアの言葉が、スバルの胸に鋭く突き刺さる。

本当ならきっと涙が出るほど嬉しかったはずの心遣いが、今のスバルにはそれこそ涙が出るほど痛々しい気の迷いにしかならない。

 

優しくするのにも、親しく振舞うのにも、そのままでない裏がある。

そう、一度思い知らされてしまえば。

 

「さて、それじゃスバルにご飯も食べさせたし、あんまり長居しても疲れさせちゃうだろうから、戻るわね」

 

「なんなら隣で一緒に寝てくれてもいいよ?」

 

「元気になってきたみたいでなにより。でも、私も色々とやらなきゃなことがあるのです。抜け出してきてるから、あんまりね」

 

片目をつむって茶目っ気を詫びるエミリア。

ふと、この時間帯の彼女のこれまでのスケジュールを思い出し、スバルは自分がどれほど恵まれているのかに思い至る。

 

この時間、彼女はずっと自室で勉強に追われているはずなのだ。

国を背負い、未来を目指すために、懸命に努力を積み重ねているはずなのだ。

 

体以外はなにも持たず、未来へ進むこともできずに現在を繰り返し続ける、運命の負け犬に構っている暇など一秒だって惜しいだろうに。

 

ふいにスバルの心を、運命に負けっ放しでいいのかと誰かがさえずる。

自分の声にそっくりな、そんな負けん気に背を押されるように顔を上げ、

 

「おい、パック」

 

「……雰囲気にボクのラブリーさが合わないと思って黙ってたのに、どーしたのさ?」

 

盆を抱えて部屋を出ようとする銀髪。その背中に別の名で呼びかけ、長い銀色をかき分けて小猫が姿を現すのを見届ける。

その黒い眼をしっかり見据え、スバルは彼を指差して、

 

「たぶん、エミリアたんには何事もないと思うけど……ちゃんときっちりかっちり守ってくれよ。その小さな体を盾にしてでも」

 

「ボクのサイズで守り切れるってことは、ずいぶんと小さい危機だね」

 

「やかまし。とにかく頼む。今回は、俺は俺のことだけで精いっぱいだ」

 

エミリアにはおそらく、危機は及ばないとは思う。

少なくともロズワールに彼女を害する理由はないし、ロズワールになければあの双子にもその理由は生まれまい。

この屋敷で命の危険があるのは、もはや素直にスバルだけだ。

 

「自分の命の心配だけ、か。シンプルだな。……いや、待てよ。よくよく考えると前回も、俺ってそんな大したことしてねぇ気がしてきた」

 

勢いに任せてその場をしのいでる間に、イケメンが全部かっさらっていったというのが前回の総まとめな予感。

前回も今回も、ただスバルは振り回されているだけではあるまいか。

 

「いい感じに混乱してるところ悪いけど、忠告はしっかり受け止めさせてもらうよ。――うん、嘘や悪意ではないみたいだからね」

 

そっと、わずかに声の調子を落としてパックは頷いてみせる。

その光の差し込まない真っ黒な瞳になにを思っているのか、感情のうかがえないそれが不気味さにも、頼りになるようにも思えてスバルは顎を引く。

二人のやり取りに、当事者でありながら置いていかれた形のエミリアは不満そうに唇を尖らせると、

 

「二人で納得しちゃって、なんなの?なにか悪いこと考えてる?」

 

「まさかまさか、女の子なんだから色んなことに気を付けようぜって話。車に気をつけて、男に気をつけて!」

 

「車って……馬車とか竜車のこと?男に気をつけるってなに?」

 

「俺みたいに一途で誠実な男ばっかりじゃないんだから、エミリアたんはお父さんの話をよく聞いて、信用できる相手か見極めてねってお話」

 

スバルの普段の調子が出てきた言葉に、パックがうんうんと頷き、

 

「そうだよ、リア。これからはボクの意見をうるさい小言だなんて思わないで真剣に聞くこと。まず、黒髪で目つきの悪い男はダメだよ。そんな相手を連れてきたら、もう家に上げてあげないからね」

 

「ブルータス、またお前かぁぁぁ!」

 

当たり前のように任せた背中を斬りつけてきたパックに怒声。知らない名前に首を傾げるひとりと一匹。スバルは気を取り直すように咳払いすると、

 

「ともかく、そんだけ。特に夜注意。エミリアたんはカワユイから、いつも夜這いされるかもしれない恐怖と戦ってるとは思うけど」

 

「私の部屋のある階って、無断で踏み込むと恐い守護者に伝わるようになってるらしいけど」

 

「危ねぇ。体力なくて仕事終わり爆睡してて正解。夜這いもおちおちできねぇよ、俺」

 

「鍵は開けておくから、勇気があるなら試してみてもいいかもね」

 

小さく手を上げ、それだけ言い残してエミリアが部屋を出る。去り際、彼女の肩の上の小猫も同様に手振りで挨拶。

少なくとも、彼女と保護者に警告を呼びかけることはできた。

この分なら二人はおそらく大丈夫だろうと思う。

 

「ああ、やべぇ……」

 

ふと、安堵が心に差し込んだ瞬間、ドッとスバルの意識を眠気が蹂躙する。

痛みでそらしてきた睡魔はここぞとばかりに意識を支配し、スバルから根こそぎ抵抗の気力を奪っていく。

空腹が図らずも満たされていたことも、それに抗う気力を持たせなかった遠因のひとつであったかもしれない。

 

眠るわけにはいかない、と唇を噛むように思いながら、スバルの意識はまどろみの中へと沈むように落ちていった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

夢と現の狭間にあって、スバルの意識は雲のように漂う。

 

就寝中、夢を見るという行為は脳が情報を整理している結果として起こる副産物なのだと、以前にどこかで聞いたことがあった。

 

ならばこうして眠っていながらも、スバルの安眠を妨げるような光景が続くのは、なるほど鮮明な記憶を整理するという理に適っていた。

 

半身を引き千切られた感覚が、頭蓋を打ち砕かれた瞬間が、足を吹き飛ばされた痛みが、喉を穿たれた喪失感が、腹をかっさばかれた絶望感が、夢の淵に立つスバルを現実から逃れてもなお苦しめる。

 

呻き、うなされ、全身を汗に濡らしながら身をよじり、眦から涙をこぼしながら、スバルは己の内からわき上がる感情と戦い続ける。

 

苦しい。辛い。悲しい。痛い。もう嫌だ。終わりにしたい。

 

泣き言が、弱音が、とめどなく溢れ、そのたびに魂が削れていく。削れて削れて最後には、摩耗し切ってしまってなにもきっと残らない。

そんな風に思えてしまうほど、心も体も憔悴し切っている。

 

ふと、そんなスバルの体の強張りが消える。

体を芯から震えさせるような寒気が、怖気が、突然に払われたかのように。

 

理由は、手だ。

誰かがスバルの手を握っている。

寝台の中、無意識の狭間を漂うスバルの存在を、誰かが現実側から触れて留めようとしていた。

 

温かい感触だった。優しい感覚だった。慈しまれているのが伝わってきた。

救われたような気持ちになった。荒れ果てた心に穏やかな風が吹き込んだ。

 

苦しげだった寝顔が安らかになり、寝息が辛苦を忘れ静かなものへ戻る。

 

誰だったのだろう。なんだったのだろう。

現実だったのだろうか、これも都合のいい夢だったのだろうか。

 

右手と左手、両方の掌にかすかに残る温もりを感じながら――。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「――いつまでもグースカと寝てるんじゃないかしら」

 

「ぶんですりぃがっ」

 

寝台から乱暴に蹴り落とされて、強制的に目覚めさせられたスバルの苦鳴。

床の固い感触に揺り起こされ、ベッドを掴んで体を持ち上げるスバルの眼前、寝台を挟んで反対側にベアトリスが立っていた。

 

彼女は不機嫌を一切隠さない態度で腕を組み、尊大に鼻を鳴らすと、

 

「約束の時間になったから、嫌々ながらもきてやったのよ」

 

「叩かなくてもいい憎まれ口ってあるよな。今まさにそんな感じ」

 

寝台の上に上半身を投げ出し、スバルは疲れた口調でそう告げる。

ふと、それから自分が眠っていたことに気付いて少しばかり肝が冷えた。あれほど意識を覚醒に持ち込み、警戒を欠かしていなかったというのに。

 

「肝心の四日目に居眠りとか、マジで命知らずのアホか俺」

 

「ぶつぶつとうるさいかしら。さ、とっとと行くのよ」

 

顔を掌で覆って嘆くスバルに取り合わず、ベアトリスは手招きでこちらの意識を誘導すると扉へ向かう。その背にスバルは慌て、

 

「行くって……どこに行くんだよ」

 

「こんなお前の臭いがこもった部屋で一晩過ごせって言うのかしら?願い下げなのよ。ベティーのいる場所は禁書庫の中、それは譲れないのよ」

 

ベアトリスは指を軽やかに鳴らすと扉に触れる。

なんら変調は見当たらないが、おそらくはそれだけで『扉渡り』の準備は完了しているのだろう。

 

思わぬベアトリスの申し出だったが、スバルはこれは拾い物だと偶然に感謝していた。ベアトリスの『扉渡り』は襲撃者にとって、奇襲の場所を特定させない厄介な代物であるといえる。なぜかスバルには通用しないものの、レムに『扉破り』の有効的な手段がないのは確認済みだ。

 

「お前、意外と色々考えてくれてんのな」

 

「早くしないとお茶が冷めてしまうから、とっとと戻るのよ」

 

感心したスバルの声に、ベアトリスはすげない返答。どうも慮ってくれたというのは思い過ごしだったらしい。

言い損だったと顔をしかめ、ふとスバルは自分の両手を見た。

 

特に変わったところはないのだが、何故だろうか、やけに気になる。

そういえば、眠っている間に、誰かが、手を。

 

「ベアトリス。まさかとは思うけど、寝てる俺の手とか握ってなかったよな」

 

「ホントにまさかの話なのよ。仮ににーちゃにお願いされても、丁重にお断りさせてもらうかしら」

 

「そこまで言うかよ。……でも、そんな俺と死ぬときは一緒だぜ!」

 

「絶対にノゥ、なのよ」

 

親指を立て、弱々しく歯を光らせるスバル。

いつものポーズだが、まだ調子は戻ってこない。

 

そんなスバルに呆れの吐息を残し、ベアトリスが扉を抜ける。慌ててあちこち身だしなみを直し、スバルもまた扉を渡って禁書庫へ。

 

相変わらず、静謐さと雑多な印象を拭えない部屋だとスバルは思う。

本が詰めに詰め込まれた書架が無尽に立ち並ぶこの部屋は、何周して訪れてもその装いを変えることがない。

 

先に部屋に入ったベアトリスは、いつものように定位置である脚立の側へ。扉の正面、脚立の癖に椅子扱いで役割を放棄しているそこに腰掛け、

 

「適当に時間を潰しているといいのよ。ここでならなにが起きても……なにも起きないと思うけど、契約は守ってやるのよ」

 

「時間潰しって言われてもな……」

 

緊張とそれに伴う不安。さっきからどうにか調子を立て直そうとしているが、それでも問題の時間が迫ってくれば平常心ではいられない。

スバルはざっと部屋を見回し、書架に並ぶいくつもの本を見比べながら、

 

「そうだ。『イ文字』だけで書かれてる本とか、あるか?」

 

「……あるにはあるのよ。まさかお前、他の字が読めないのかしら?」

 

「恥ずかしながら、な。でもこれでも努力したんだぜ」

 

一生懸命に、双子に見守られながら――。

自分で自分の傷口を盛大に抉り、大ダメージを受けた。

 

「メイザース家の禁書庫に足を踏み入れて、それは宝の持ち腐れなのよ。ベティーが誰かをここに招くなんて、数年に一度あるかないかかしら」

 

「そう言われても、読めない本は紙の束だし、禁書庫に入れるチャンスが貴重って言われても……」

 

残念ながらスバルにとって、この部屋は珍しくもなんともない。

そのことを今のベアトリスに言ってもこじれるだけだろうし、別段誇れることでもないと判断しているスバルは口をつぐんだが。

 

半端なところで言葉を切るスバルに、ベアトリスが訝しげに眉を寄せる。そんな彼女にスバルは話題を変えようと指を立て、

 

「そういえば、お前ってずっとこの部屋にいるのか?」

 

「そういう契約なのよ」

 

「また契約か。若い内からそんな契約契約って……よっぽどやり手のセールスレディに捕まったとみえる。保険屋さんも声がでかい人ほどやり手だよな」

 

「全部、自分で望んだ契約かしら」

 

ばっさりと、それ以上の言及を拒むような口調だった。

表情を消したベアトリスの物言い、それにスバルは静かに頷いて、

 

「などと関係者は供述しており――」

 

「いい加減に静かにしないと、契約を反故しそうになるのよ!」

 

立ち上がったベアトリスが書架から本を抜き出し、次々とスバルに向かって放り投げる。

いつもなら魔法力を遠慮なくぶつけてくるベアトリスだけに、こうした物理攻撃に頼ることは非常に珍しい。

 

非力な少女の投擲をひょいひょいと受け取って、近くの台の上に重ねて置く。ふいに攻撃が途切れ、眉を寄せたスバルは遅れて気付く。

 

投げつけられた七冊ほどの本――それ全てが、『イ文字』だけで書かれた本であったことに。

 

顔を上げ、スバルはベアトリスの方に目を向ける。

意図に遅れて気付いたスバルを嘲るように、彼女は手をひらひらと振り、

 

「それでいいでちゅかちらー。ちょっと難しすぎまちゅなのよ?」

 

「ちょっちゅねー。ちょっちょボクにはむじゅかししゅぎて、わかんにゃいかもしれないでちゅー」

 

「二人して赤ちゃん言葉になってたら気持ち悪いのよ!」

 

「やれやれ。俺はお前に合わせただけだぜ、レベルをな」

 

スバルがネタ振りするなら、赤ん坊じゃなく胎児までさかのぼる。

へその緒を引いたり、胎盤を叩いてコミュニケーションだ。

 

そのスバルの姿勢に今度こそ両肩をすくめて、ベアトリスは完全に会話を諦めたように本を開き始める。

すげない彼女の態度を見届け、スバルもまた手近な椅子に座ると、ベアトリスが投げ選んでくれた本の一冊を手に取った。

照れ臭くて感謝の言葉など出るはずもないが、その気遣いは正しく嬉しかったのだから。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

そうして、禁書庫での静寂は緩やかに過ぎていく。

 

互いに言葉を発せず、ただゆっくりとした間隔でページをめくる音だけが交互に書庫の中を流れていた。

 

ベアトリスが選んでくれた本は、やはり前回までと同様に童話のような子ども向けの作品が多い。『イ文字』だけということは、つまり平仮名だけの内容と似たような要求なのだから、子ども向けに偏ってしまうのも仕方ない話だが。

 

そのせっかくの読書の時間も、スバルの目は同じページを行ったり来たりを繰り返すだけのものとなり果てていた。

 

最初の内は本を読み進める余裕もあったが、刻一刻と時間が過ぎる内、そんな精神的な猶予は少しずつ引き剥がされてしまう。

 

――閉め切られた禁書庫から、外の様子をうかがうことはできない。

 

部屋の性質上、窓なども備えていない禁書庫は、かつてベアトリスが語ったように『時間の凍結した』場所だった。

文字通りの意味ではなく、少なくともそう感じるという意味において。

 

表は今、何時なのだろうか。

スバルが禁書庫に招き入れられた時点で、すでに日没は間近だった。

単純に考えれば、スバルが五日目の朝を迎えるまでにはほんの半日ほどをここで過ごすことができればいい計算になる。

 

だが、この停滞した場所に身を置いていると、そのたった半日の感覚を己で計ることがまったくできない。

この部屋を訪れて、まだほんの小一時間ほどしか経っていないような気もするし、あるいは十時間近くもいるような気もする。

 

不安と緊張からくる息苦しさも、スバルの現状認識能力を著しく低下させるのに一役買っており、自分の判断を信じることはもはやできない。

 

かといって、ベアトリスにそれを尋ねることも気が咎めた。

彼女の読書を邪魔してはいけないなどといったフェミニズムではなく、そうしたアクションを起こすことで、変化が起きてしまうのが恐ろしかった。

 

こうして停滞した時間を過ごすのも息苦しい。だが、なにかの拍子に状況が大きく変動してしまったら――とそれも恐ろしい。

 

行くも戻るもできず、ただただ時間という圧倒的な事象を前に竦み続ける。

本をめくろうとする指が痺れ、舌先が渇きを訴える。心臓の高鳴りはお馴染の高速を刻み、耳鳴りは甲高く、血の巡る音が全身から聞こえる。

 

そんな緊張感を、どれだけの時間強いられたのだろう。

始まりが理不尽だったとすれば、その終わりもまた前触れはなかった。

 

「――呼んでる」

 

ふいに、そんな呟きが書庫内に静かに響いた。

 

弾かれたように顔を上げるスバルの眼前、本を畳んで脇に置くベアトリスがいる。彼女は脚立から軽やかに下りると、

 

「呼ばれているかしら」

 

驚くスバルの存在を忘れたかのように、彼女はひとりごちて指を振る。

瞬間、空間が歪むような違和感をスバルの全身は得た。

浮遊感に近い感覚が全方位から体に襲いかかり、刹那にも関わらず、振り回されたような疲労感と吐き気が全身に気だるく蔓延する。

 

椅子からずり落ちかける体を引きとめ、スバルは恨めしげに元凶であるベアトリスを睨んだ。そして、彼女はその視線にようやく気付くと、

 

「ああ、そういえばいたのよ。忘れてたかしら」

 

「目の前にいるのに忘れるとか、冗談にしても低級だな」

 

「優先事項の問題かしら。――にーちゃが呼んでるのよ」

 

それだけ告げると、ベアトリスはスバルの隣を抜けて扉の方へ。

当たり前のように外へ出ようとする彼女の背に手を伸ばし、スバルは焦燥感を隠せないままに、

 

「お、おい、待てよ!今、外に出たら……」

 

「引っ込んでいても構わないのよ。ここにいれば安全かしら」

 

侮蔑を隠さない言い方に血が上り、スバルは椅子を蹴るように立つとその背中を追う。扉の取っ手に手をかけ、ほんの数秒の躊躇。

だが、

 

「ああ、クソ。なんだってんだよ、こんぐらい!」

 

口汚い発言で自らを鼓舞し、扉を乱暴に開け放つ。

直後――、

 

「あ――」

 

思わず、スバルの口から間抜けた声がこぼれていた。

 

瞼を突き刺す、眩い光を手で遮り、朝日の歓迎に動揺で応じる。

確かめるように宙を手で掻き、スバルの体はよたよたと前へ。通路の正面、庭を覗ける窓――その高い空に、昇り始めたばかりの太陽があった。

 

あれほど渇望し、何度挑んでも届かなかった、五日目の朝日だ。

 

「まさ、か……越えた、のか?四日目の夜を……!?」

 

目の前の結果が信じられず、窓を割りかねない勢いで手をぶつけて押し開く。涼風が流れ込み、前髪を風に撫ぜられながら、スバルは朝の匂いを鮮烈に感じ取った。冷たい生まれたばかりの風が、屋敷の空気を吹き散らす。

 

足が下がり、そのまま力なく後ろへ。背中が壁にぶつかって、ずるずると立っている気力を失ってへたり込んだ。

 

呆然、とそう表現するしかない。

夢か現実かの区別すらつかないほど、想像できなかった今の状況だ。

 

諦めきっていた。絶望しきっていた。擦り切れていた。

だというのに、スバルは四日目の夜を越えて、五日目に辿り着いてしまった。

 

「は、はは……」

 

知らず、乾いた笑いが口から漏れた。

それは一度こぼれ出してしまえば、もう止める方法が見当たらない。

 

「ひひ、ははは。なん、だよ。おい、なんだよ。こんな、おい、はは……」

 

今の気持ちをまともに言葉にする方法が思いつかない。

膝を抱えて、スバルは通路に蹲ったまま、正気を失ったような笑いを吐き出し続ける。

言葉にできない。言葉にならない。ようやくスバルは――、

 

「――スバル?」

 

そのスバルの空虚な歓喜に割り込んだのは、銀鈴のような声だった。

 

億劫に視線を上げた先、通路の奥に銀髪の少女が立っている。

エミリアだ。五日目の朝、無事にそれを迎えた彼女を見つけることができた。

二人揃って、四日目の夜を越えている。そんな事実がまた、スバルの心にわけのわからない感情を湧き立たせる。

しかし、

 

「エミリア……?」

 

内心に歓喜が広がるスバルと対照的に、愕然とスバルを見つめるエミリア。そして彼女はふいに走り出すと、座り込むスバルの側へ駆け寄り、

 

「スバル……どこに、行ってたの?」

 

「いや、俺は……」

 

「だって……ううん、それはいい。いいから……一緒にきて」

 

手を引かれ、スバルはその強引さに驚かされながらも立ち上がる。

そのままエミリアはスバルの返事も聞かず、強引にこちらを引きずりながら廊下を走り出した。

 

急な彼女の行動に面喰らいながら、しかし言及しようとしたスバルの喉はエミリアの横顔を見て止まる。

端正な彼女の横顔に、隠し切れない動揺と焦燥感が浮かんでいるのだ。

 

まるで、盗品蔵での戦いのときを彷彿させる表情。

 

「なあ、いったいなにが――」

 

あったのか、と問いかけることはできなかった。

その言葉を口にするよりも早く、スバルの鼓膜を別の音が打ったからだ。

 

――それは、絶叫であったと思う。あるいは、悲鳴なのかもしれない。

 

高く、尾を引くそれは悲しみで満ちていて、聞く者の心に悲痛な爪痕を残さずにはいられない魂の叫びだ。

半身を引き裂かれたような叫びは延々と続き、状況のわからないスバルにもその切迫感を痛々しいほどに伝えてきていた。

 

通路を抜け、上階へ向かう。東側の二階は使用人それぞれの個室がある階層だ。数日前までスバルが寝泊まりしていた一室を通り過ぎ、エミリアが手を引きながら目指すのはそのさらに奥――そこに、

 

「ロズワールと……」

 

藍色の長髪が通路に立ち、駆け寄るエミリアとスバルに目を細める。彼のすぐ傍らにはいなくなったベアトリスが壁に背を預けていて、彼女の手の中には灰色の体毛の猫が身を丸くしているのがわかった。

 

「中を」

 

三人のところへ辿り着き、事情を問い質そうとするスバルに、ロズワールはただ一言だけ短くそう応じた。

彼が示したのはすぐ隣、扉の開かれた個室の一部屋だ。

 

エミリアを振り向くと、彼女もスバルに対して頷きかける。その紫紺の瞳は潤んでいて、否応なしにスバルに決断を迫っていた。

 

息を呑み、スバルは部屋の中へ足を向ける。

踏み込む最中にも、さっきからの絶叫は途切れることなく続いている。そしてそれが今や、目の前の部屋から聞こえるのは明らかだ。

 

中に入り、緊張から閉じていた瞼――それをそっと開き、スバルは見た。

 

綺麗に整えられた部屋だった。使用者の几帳面な性格が反映され、少ない調度品がセンス良く配置された個室は、その限られたスペースを無駄なく機能的に利用されているのがわかる。

間取り自体はスバルが利用していた部屋とほぼ同一なのに、利用者が違うだけでこれほど個性が出るものか、とそう思う。

 

そう思うことで、スバルは目の前の光景を一瞬だけ忘れた。

だが、そんな現実逃避もむなしく、世界はスバルに結論を押し付ける。

 

個室の中央、そこに丁寧に整えられた寝台がある。

その寝台の上で、

 

「ぁぁああぁああああぁぁぁぁあああぁぁあ――ッ!」

 

深い深い悲しみに喉を引き裂かんばかりに絶叫し、滂沱と涙を流すラムがいて――。

 

――彼女に縋りつかれながら、レムが息を引き取って横たわっていた。