『言葉にはさせない』


 

ぎしぎしと、音を立てて竜車は進み続ける。

 

御者台にもたれかかり、手綱を握って形だけの御者をやるスバルは疲弊し、意識は朦朧としていた。

疲労があり、負傷の影響があり、なにより精神的な摩耗が大きい。

 

折れた骨や切った額の治療もままならず、外れたままの左肩は断続的に痛みを訴えかけてくる。口の中は割れた歯の感触が不快の極みで、血と泥と小便で汚れ切った衣服は冷え切った感覚を地肌に直接伝えてきている。

 

――なぜ、生き延びてしまったのだろうか。

 

意識が曖昧の淵にありながら、夢に落ちるでもなくスバルは考える。

レムに守られ、彼女を失い、オットーに見捨てられ、無様に命乞いし、白鯨にすら捨て置かれて、夜霧の街道を無防備に踏破し、抜けてしまった。

その先で竜車と出くわし、主を失った地竜とともに街道を先へ先へ進んでいる。

 

いったい、この道はどこへ続いているというのだろうか。

続いていたとて、辿り着いた先で自分にいったいなにができるのだろうか。

 

守りたい、救いたい、助けたいと、その気持ちだけで動いていると自分で信じてきた。だが、実際には見たくなかったものを綺麗な言葉で誤魔化していただけだ。

自分が、自分の命をどこまでも惜しむ自分可愛さでできた肉塊だと気付いてしまった。

 

レムを白鯨の前に置き去りにし、オットーに引き返せと命じたとき、反論するオットーに心折られたふりをして、自分は安堵していたのではないのか。

剣聖のような存在ですら敵わない相手にならば、戻ったところで犬死するだけ。それはレムも望まない。――だから、自分が戻る必要はない。死ぬ必要はない、と。

 

そんな風には思っていなかったと自分を信じたい。

しかし、事実としてスバルは、憎むべき対象である白鯨を前に命乞いをした。死にたくないと泣き叫び、小便を垂らして這いずり回り、逃げ惑った。

そのときの脳裏に、レムの安否などただの一度も過らなかった。考えていたのはひたすらに、滑稽で憐れな自分の命を如何にして繋ぐかということだけ。

 

結果として命を拾い切れば、その拾った命でなにができるでもない。

呼吸し、酸素を無駄に消費しているだけだ。こんな男を守るために命を投げ出すなんて、レムもなんて馬鹿な真似をしたのだろう。

 

「それ、でも……一番馬鹿なのは……」

 

もう、彼女はどこにもいない。

同道していた商人たちも姿を消し、スバルはひとりだった。

 

地竜は乗客であるスバルの指示を待たず、意を酌んだように街道を行く。

適度に舗装された道があることだけが、この先が終わりのない旅路ではなく、どこかに辿り着くはずの道筋である証拠だった。

 

どこへでもいい。

どこへなりと連れてってくれ。

 

投げやりな気分になり、スバルはついに手綱を手放して御者台に横たわる。寝転んだ視線のわずか上、外し損ねた十字架の短剣が突き刺さっている。

霧を抜けたオットーが遭遇しただろう、魔女教の信徒たちの襲撃の名残だ。

 

いっそ、このままスバルもオットーと同じように、魔女教に襲われる運命を辿らないものだろうか。

それとも、いざやはりその場面を目の当たりにしたとしたら、自分はやはり白鯨にしたのと同じように命乞いをするのだろうか。

あの、ペテルギウスを前にしたとしても。

 

「ぺてる、ぎうす」

 

ぽつりと、その名を口にして、スバルは自分の心の空洞を思い知る。

レムを惨殺し、スバルを嘲笑し、全ての諸悪の根源であったあの狂人の名を呼んでも、心になんの波紋も生まれることがなかった。

ほんの数時間前までは、その男への尽きることのない怒りだけが、スバルに心底からの活力を与えていたというのに。

憎悪が足を前に進ませ、憤怒がその顔を上に向けさせ、殺意が生きる意志をスバルに与えていた。――その穢れた活力が、今はどこにも見当たらない。

 

殺意すらも、憎悪すらも見失い、自分はなにをしているのだろうか。

 

「俺はいったい、なに、を……」

 

竜車の車輪が軋み、ひどく甲高い音が鼓膜を掻き毟る。

痛みすら感じさせるその音に顔をしかめて、スバルはそっと体を起こした。

見れば、いつの間にか地竜はその歩みを止めていた。当然、地竜の動きに従っていた竜車もその前進を止めており、動かなくなった景色は――、

 

「森……?」

 

木々に囲まれた林道を掻き分け、竜車は剥き出しの土の地面を進んでいた。

朝日が昇ってしばらく経ったのか、ふと上を見上げれば日差しがスバルの体を浅く焼いているのがわかる。

意識すればじわりと、その熱が体にゆっくり沁み込んできて、

 

「――あれ、スバル?」

 

ふいにとぼけた高い声がして、それが自分の名を呼んだことにスバルは驚愕。

身を乗り出し、御者台から声のした地面を見下ろして、そこに小さな人影がいくつも連なっているのを確認。

 

「やっぱスバルだ」「どしたの、スバル」「小汚い、スバル」「臭い、スバル」

 

彼らもまたスバルを認識し、口々にその惨憺たる状態を指差し笑い始める。

だが、それはスバルを嘲笑するような感じの悪いものではなく、むしろ親しい間柄にだけ許される類のものであり、

 

「お前、ら……」

 

見慣れた村の子どもたちに指差され、スバルは喉を震わせた。

知っている顔だ。ここ数日間に何度か見た顔だ。いずれも苦痛と嘆きに引き歪み、もう動かなくなってしまったところしか見ることのできなかった顔だ。

 

それはロズワール邸の近くの村落で暮らす、子どもたちの笑顔だった。

 

呆然と顔を上げて、スバルは林道の先、丘を越えた場所に視線を向ける。

白い煙が、生活の証拠が立ち上るのを見取り、スバルは気付いた。

 

――あれほど望み、あれほど願った場所に、ついに辿り着いてしまった。

 

なにもかも失い、全てに絶望し、どうしようもないと諦めたときに限って、スバルは間に合ってしまったのだ。

 

「――スバル?」「あれ、どしたの?」「あ、危ないって!」

 

子どもたちの声が高くなり、こちらを案じているのがわかる。

わかったのだけれど、もう頭が重くて、体を支えていることができなくて。

 

張り詰めていたものが音を立て途切れるように、スバルの意識もまた、あらゆる懊悩から突き離されるように、静かに深く落ちていく。

 

「あ、落ち――」

 

――落ちて、いく。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――スバルが目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは見知った白い天井だった。

 

結晶灯が設置されただけの簡素な天井は、装飾過多な部屋が多いこの屋敷の中では珍しく、自室にそこを選んだ自分の小市民ぶりが実感できる。

頭の下にあるのはいつまで経っても固さと高さが肌に合わない枕で、肩までゆったりとシーツをかけられた自分が、寝台に寝かされているのだとすぐにわかった。

 

どんなひどい状態であれ、目覚めからすぐに意識が覚醒するのがスバルの体質だ。ゆっくりと部屋の中を見渡し、そこが幾日も寝泊まりして過ごした部屋なのを確認。そしてその途上で、

 

「――あ」

 

寝台の横で椅子に腰掛け、静かに本に目を落とす少女がいた。

 

黒を基調としたエプロンドレスに身を包み、肩口までの髪を飾るホワイトプリムが鮮やかな少女。可愛らしく整った横顔は真摯に感情を消していて、どこか強張った美貌がその気高さを内外に知らしめている。

 

その姿に気付いた瞬間、スバルは跳ねるように上体を起こし、こちらの起床に気付いていなかった少女の手を取り、驚かせた。

突然のスバルの行為に少女は目を見開き、凝然とスバルの顔を見ている。その顔が態度が、仕草が挙動が、欲していたものであることにスバルは安堵し、

 

「――なにを、気安く触っているの、バルス」

 

冷たくそっけなく、振りほどかれた手の感触に、その声音に、幻想が砕かれる。

失ってしまったと思っていた少女との再会は、目の前の少女の頭髪が桃色であることに気付いた瞬間に虚構であったのだと痛感させられた。

スバルが会いたかった少女と瓜二つの、髪の色だけが違う双子の姉。

 

「数日ぶりにラムに会えたのが嬉しいのはわかるけど、そうして本能のままに飛びかかるのは男らしいというよりオスっぽいわ。ケダモノ」

 

軽蔑したような眼差しを向け、ラムが寝台から遠ざかるように椅子を動かす。その視線と言葉の冷たさに、見た目だけはそっくりな妹との明確な違いが感じられた。

求めた彼女との再会ではなく、スバルは改めて自分の傲慢さを思い知る。それを望むことすら、その資格すら投げ捨ててきたのは自分ではなかったというのか。

 

押し黙り、唇を噛んで俯くスバルにラムは怪訝な様子で眉を寄せる。

彼女にしてみれば、今のは目覚めの挨拶に等しいレベルの軽口に過ぎない。いつものスバルならば声高く大仰なリアクションで応じただろうじゃれ合いの出鼻。にも関わらず、スバルはそれに乗ってこないどころか、深刻な顔で黙り込んでいるのだ。

 

「ふう。――あまり、ラムの柄じゃないことをさせないでほしいわ」

 

言いながら、身を寄せてきたラムの伸ばした手がこちらの頭を上から押さえた。そして、スバルの短い黒髪に指を滑り込ませると、ゆっくりと撫で始める。

静かで、穏やかなリズムを刻み、スバルの鼓動を和らげるそれは慈悲と労りに満ちていて、ラムという少女を知るスバルに意外な動揺を与えてきた。

 

「失礼なことを考えている顔だわ、バルス。意外?」

 

「意外、だよ。……お前は俺が弱ってりゃ、追い打ちをかけるタイプだろが」

 

「ラムほど雰囲気を読むのに長けたメイドもいないはずだけれどね。今のバルスをいたぶるのは悪質に過ぎる。この場は後回しにして、次に溜め込んだ分をぶつけるわ」

 

「訂正して、やっぱお前は最悪だ」

 

虎視眈々と次なる接触のときの悪ふざけを予告してくるラムに応じ、しかしスバルは彼女の指先の感触から慈愛が消えないのを肌で体感している。

素振りも口ぶりも、なにもかもが違うくせに、やはり彼女たちは姉妹なのだ。その思いやりの質が同質であるのが伝わるほどに、スバルの胸は締めつけられる。

 

伝えなければならないことがあり、それは避けられる話ではない。

否、避けてはならない話なのだ。せめてそれぐらい、できなければならない。

 

「あ……」

 

どう伝えればいいのか、なにから話せばいいのか、戸惑う内に指がスバルの頭を離れ、名残惜しさがつい口を出て音として漏れる。慌てて手を口に当てて塞いだが、それを聞きつけたラムの目が悪戯に光る方がずっと速い。

彼女は罰の悪い顔をするスバルを、双眸にその光を宿したまま流し見て、

 

「もっとしてほしかった?」

 

「子どもじゃねぇんだ。いらねぇよ……」

 

憎まれ口を叩くと、それを聞いたラムが「はっ」と久々に鼻で笑う。そんな彼女の仕草を見るのも、体感時間では二週間近く経ったことになるだろうか。

 

「子どもみたいな泣きそうな顔して、よく言うわ。意地の張り方も幼児そのもの」

 

感傷に浸るスバルを余所に、ラムは肩をすくめると上から目線でものを言う。そうしてひとしきりスバルの口が回るのを見たあとで、

 

「それじゃ、バルス」

 

「――ああ」

 

応じたスバルの前に椅子を動かし、正面に座るラムがこちらを見つめる。

まるで瞳の奥から心まで見透かそうとするような視線。自然、居心地の悪さに身じろぎするスバルに、ラムは一拍の時間を置いて、

 

「――話を聞かせてもらうとするわ」

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「ひどい有様だったわ。村に知らない竜車で乗り込んだと思えば、半死半生で薄汚れたバルスがいる。村の人間が屋敷までラムを呼びにきたとき、最初は冗談かなにかかと思ったものね」

 

淡々と、ラムはスバルが意識を失い、この屋敷に担ぎ込まれるまでの流れを振り返る。彼女は黙って話を聞くスバルを指差し、

 

「外れた肩と切った額。折れた肋骨は接いであるけど、無理したら開くわ。血と泥で汚れた服は処分した。――漏らしてたことは、エミリア様には黙っててあげる」

 

「……ああ、そら助かる」

 

掠れた声で応答するスバルに、ラムは肩をすくめて退屈そうな顔。

彼女としては今の内容を盾に、今後のスバルに無理難題を被せようとでもいう腹だったのだろうが、肝心のスバルがこれではそうもいかない。

 

そんな彼女の腹を余所に、スバルはラムが指摘した通りに負傷が癒えているのを確認。左肩はかすかに痛みを伴うものの問題なく動き、額と胸部も違和感のようなものは残っていなかった。治癒魔法様々だ。問題は、

 

「俺の、傷を治してくれたのって……」

 

「エミリア様よ」

 

あっさりと、スバルが懸念していた通りの内容をラムが口にする。

彼女は腰に手を当てて、「仕方ないでしょう」と前置きしてから、うなだれるスバルに憂いを込めた目を向け、

 

「最初はベアトリス様にお願いしたけど、断られてしまったのよ。あの方も気難しい方だから、その恐れがあったのはわかっていたけど」

 

「その……エミリアは、なにか言ってたか?」

 

「それは本人と話をするべきことでしょう」

 

外れていた肩に手をやって、恐る恐る尋ねるスバルにラムは冷たく答える。

その視線の温度の低さにスバルは肩を震わせ、そんな情けない反応を見せるスバルにラムはため息をこぼし、

 

「王都でエミリア様とバルスの間になにがあったのかラムは知らないわ。なにかがあった、ぐらいの見当はつくけど、詳しいところは聞いてない。興味もない。今のバルスの反応を見れば、どうせバルスが碌でもないことをしたんでしょう」

 

「辛辣だな」

 

「相応の評価だと思うけど?少なくとも、切り出しづらい話に踏み出す勇気がなくて、違う話題にこれ幸いに食いついて先延ばしするようなヘタレには」

 

こちらの心理を完膚無きまでに見抜き、ラムは小さく鼻を鳴らす。

図星を突かれて容赦なく叩かれ、スバルはぐうの音すら出ない。

 

彼女が求めている言葉はわかっている。なにしろ、スバルが戻ってきたというのにその存在が傍らにいないのだ。本来ならば一も二もなく切り出すべき話題。

それをこうして口にせず、スバルが自分から発言するのを待つのは彼女の優しさなのか、それとも厳しさなのか。――おそらく、優しく厳しい心遣いだ。

 

いつまでも、それに甘えているわけにはいかなかった。

それぐらいの分別はスバルにもある。なにより、話さなくてはならないことはいくらでもある。あるのだ。

だから、スバルは息を呑み、視線をさまよわせ、女々しく時間を稼ごうとする自分の肉体の全てをねじ伏せて、ようやっと掠れる息で、

 

「――レムが、死んだ」

 

それを口にした瞬間、スバルの胸の中からスッとなにかが抜け落ちる。

それは胸の奥底で、ずっと重い塊となってつかえていたもので、今の言葉を口にした瞬間にぐずぐずと形を失って胃の中に落ち、存在を主張し始める。

 

その塊がいったいなんだったのか、頬を伝う熱い感触があってやっと気付いた。

 

それは悲しみであるとか、後悔であるとか、失われた命への懇願だ。

今の今まで、口先だけでしか認められていなかったそれをようやく認めて、受け入れ難いそれをようやっと呑み込んで、心と体に溶け込むように理解した。

 

――俺はレムを、失わせたのだ。

 

滂沱と、涙がこぼれ落ちた。

そして気付く。ようやく気付く。スバルは何度も、レムを死なせた。スバルが彼女を死なせたのは、彼女の死を実感として得たのは、以前の屋敷でのループも含めればこれで四度目だ。四度、彼女を死なせてやっと気付いた。

スバルが彼女の死に対して、彼女のために涙を流したのはこれが初めてだった。

 

彼女のために涙を流したから、それでスバルの行いが許されるわけではない。

彼女が命を賭して作った時間を無為に使い、彼女を殺した相手にへりくだって命乞いし、その事実からすら目を背けてここまで逃げてきた。

その自分の醜さが見えてしまったから、目をそらして逃げ切ることができなくなってしまったから、せめて、そんな自分に尽くしてくれた彼女のことだけは――。

 

「俺が……なにもできなく、て。街道に霧が……白鯨が、出たんだ。それで、レムが俺を逃がそうとして……でも、他の竜車もみんなはぐれて、俺だけ霧の中に取り残されて……それでけっきょく……」

 

言いたいことがまとまらない。

嗚咽まじりの言葉は呂律が回らず、会話の前後もうまく噛み合わない。言い訳じみた内容が止まらず、それがレムの最期を穢しているような気がして、たまらずスバルは口を閉ざし、勢いのままに喋ることを諦める。

罪は認めた。罰を受けよう。そのために、しっかりとした説明を――、

 

「レムって、誰のこと?」

 

――――。

――――――――。

――――――――――――。

 

なにを、言われた、のか、わからなかった。

 

「あ、え、お……は?」

 

ラムの口にした言葉の意味が呑み下せず、スバルは間の抜けた声で聞き返す。

レムッテダレノコト、とはどういう意味なのだろうか。

 

だが、ラムはそんなスバルの顔を訝しげに、まるでおかしなことを言っているのはスバルだとでも言うかのような顔つきで再び、

 

「レムって誰のことなの、バルス」

 

双子の妹の名前に眉ひとつ動かさず、それが誰であるのかを問いかけてきた。

 

「だ、誰もなにも……バカなこと言うなよ……!おま、お前の、お前の妹の名前だろ!?レムだぞ?レムだ。レムだよ」

 

「ラムの妹……」

 

唇に指を当てて、ラムは真剣に考え込むように目をつむる。

そうして思い出そうという仕草をするだけで、今のスバルにはすでに耐え難いほどにもどかしい。なにをやっているのかと怒鳴りつけ、今すぐに霧立ち込める街道に姉を叩き込んでやりたくなるほどに。

そしてしばしの沈黙のあと、

 

「ラムの妹の、レム。ああ……」

 

「思い出したのか!?」

 

感嘆詞が出たことに飛びつき、スバルは光明を見たように目を開く。が、ラムはそんなスバルにひとつ頷き、それからひどく白けた視線を作ると、

 

「あるわけのない事実を思い出せるはずがない。ラムはずっとひとり。妹なんているはずもないわ」

 

思わせぶりな態度もなしに、はっきりとそう断言する。

その彼女の態度にスバルは首を横に振り、「そんな馬鹿な」と呟いて、

 

「なにを、言って、るん……」

 

「――ラムに妹なんていないわ」

 

その口ぶりはなにかを隠しているであるとか、感情を無理して凍らせているのだとか、そんな表現とは程遠い、ひどく冷徹で当然の言動。

 

――彼女の中には本当に、双子の妹の存在が根本からいなくなっているのだ。

 

「レムがいなけりゃ、魔獣の森の騒ぎはどういう話になるんだ!俺と、レムとお前とで、ジャガーノートを……」

 

「本当にどうかしているわよ、バルス。癪に障るけれど、ジャガーノートの群れを撲滅できたのはバルスの貢献半分、あとはラムの努力とロズワール様のお力が全て。……その、レムとかいう名前の生き別れの妹の滑り込む隙間なんてないわ」

 

スバルの抗弁に頑なに妹の存在を認めようとしないラム。

屋敷で起こったあの繰り返しの日々の顛末についても、彼女の中ではスバルとは違う帰結を迎えてしまっているらしい。

スバルが血反吐を吐くような思いで駆け回り、レムと進み、レムに守られ、先走った彼女を救うためにラムと森へ行き、そこで命懸けで魂を燃やした。そんなあったはずの出来事が、彼女の中には偽りの形で塗り潰されている。

 

意味がわからない。どうしてそんな風に答えるのかわけがわからない。

 

「冗談にも、なってない……悪夢にしたって、出来が悪すぎるだろうが……」

 

「ラムはいつだって本気だもの。夢を見ているのは、バルスの方でしょう」

 

「ふざ、けるな――!」

 

取りつく島もないラムの態度に激昂し、スバルはシーツを跳ねのけると寝台から降り立つ。まだ、体力の戻り切っていない体は下半身がふらついたが、それでも堪え切れない激情が顔を上に上げさせ、無様に転倒する未来を避けた。

 

「バルス、まだ立ち上がったら……」

 

「うるせぇ!黙って……黙って見てろ!」

 

ふらつくスバルを見て手を伸ばしかけるラム。その伸ばされる彼女の手を乱暴に振り払い、スバルは一歩一歩を確かめるように踏み出し、転ばない確信を得ると飛び出すように部屋を出た。

 

スバルが寝かされていたのは使用人が利用する階の二階で、スバルに宛がわれている私室だ。使用人用の部屋はいくつも用意されているものの、事実上、この屋敷でその役割に該当するのはたったの三名であるため、ほとんどは空室となって遊ばされている空間である。

同じ階のいずれの部屋も、そうした空室であることを知るスバルは、それらの扉の前をなにもないかのように見向きもしないで通り過ぎる。

 

向かう先にあるのは階段ホールで、上階を目指して早足に進む。途中、

 

「体力も戻っていないのに、無理を続けると倒れてラムに迷惑をかけるわ」

 

背後からついてくるラムがそんな言葉を投げかけるが、肩を怒らせて歩くスバルは聞く耳を持たない。普段よりもかなり多くの時間をかけて階段を上り、スバルは屋敷の三階を通路を真っ直ぐに抜け、幾度も通った部屋へと向かう。

使用人棟の三階、西側の階段から三つ目の部屋――そこに、スバルの抱く思いが悪夢でも妄想でもないはずの答えが残されているはず。

 

部屋の前に立ち、ドアノブを掴むと一気に押し開く。

躊躇などいらない。ここで時間をかけてしまえば、それだけスバルの心が怖気づく機会を与えることになる。――悩み、惑う時間など必要ない。

ノックもなにも一切なしに部屋に踏み込み、そこに簡素ではあるが慎ましやかに飾られた少女らしい部屋が――、

 

「……嘘、だろ」

 

なにも、なかった。

 

踏み込んだ部屋にあるのは、他の部屋同様に形だけ整えられた寝台と、部屋の奥に設置された小さな机のみ。彼女の部屋は確かにシンプルではあったものの、無個性の塊のような、こんな部屋であったという意味ではない。

 

「そんなはずが……!」

 

部屋の中を見回し、信じられない気持ちでスバルは外へ飛び出す。扉の脇に立っていたラムが無言でこちらを見るのを無視し、廊下へ顔を出すと数を数える。階段ホールから数えて三つ目、数え間違えるはずがないし、そもそも数えなくても辿り着けるだけの回数、足を運んだ場所なのだ。目をつぶってたって辿り着ける。

――なのに、どうして。

 

「バルス、気は済んだ?」

 

スバルがなにを確かめにきたのか、彼女にはわかったのだろう。

求めていたものが見つからず、愕然とするスバルの横顔にラムが静かに問いかける。その表情には哀切の情がにじんでいて、普段の彼女からは考えられないほど、スバルの身を案じてくれているのがわかった。

それが痛感できるだけに、スバルは理解せずにはいられない。

 

「レムは……ここには……」

 

「――そんな人は、この屋敷にはいなかったわ」

 

首を振り、ラムは瞳を曇らせるスバルを正面から見ると、「そして」と息を継ぎ、

 

「ラムに、妹なんて、いないわ」

 

今度こそ、トドメを刺すように、彼女は再びそれを口にしたのだった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――レムの死に対して、スバルは背負うべき責任があるのだと自分を律していた。

 

レムはスバルのために命をなげうった。その責任はスバルが負わなければならない。そして、背負うには重すぎるそれを、今までならば投げ出して逃げていただろうそれを受け止めて、ようやく、一歩を踏み出そうとしていたのに。

 

「俺、には……」

 

――許しを乞う資格すら、ないっていうのか。

 

なにもかもがスバルを突き放す。誰も彼もがスバルを置き去りにする。

エミリアのためだと思ってやった行動は彼女には受け入れられず、生まれた溝を飛び越えることはいまだ叶っていない。

スバルのために全てを投げ出すレムは、繰り返すたびに壮絶に命を散らす。その命の責任を負おうとすれば、世界はその責務すらもスバルから奪い去る。

時間が、世界が、魔女教が、白鯨が、あらゆる障害がスバルの望みの邪魔をする。

 

どうしてなのだろう。なにが悪いというのだろう。

どうしてこんなにも世界は自分に冷たく、あらゆる思いは自分を裏切るのか。

 

それは、

それは――。

 

「バルス、部屋に戻っていなさい」

 

呆然と、ただひたすらに棒立ちで思考を停滞させるスバルにラムが言う。

身を寄せてきた彼女はスバルの背を階段の方へ押し、

 

「疲れているだろうから、色々とわからないことが出てきているんでしょう。部屋に戻って、ベッドで夢の続きを見なさい。ラムは呼ばれてしまったから、やらなきゃいけないことがある。バルスにばかり構っていられない」

 

こうして衝撃に呑まれているスバルを前にしてすら、ラムの判断はスバルには厳しい。傍にいるなどと気休めは言わず、彼女は彼女の役目を果たしにゆく。

一度だけ強く背を押し、ラムはスバルと押したのとは反対の階段へ。そこから離れるより前に振り返り、「部屋に戻って、寝ていなさい」と最後に指示。今度こそその場から立ち去り、スバルは廊下に取り残される。

 

ふらふらと、揺れる足取りで進むのはラムに言われた通りの私室の方角。あるいは彼女の言う通り、寝台に横たわって意識を沈めてしまえば、今のこのなにもかもに蔑にされてしまっているような孤独感からは逃れられるかもしれない。

悪い夢なのだ、きっと。夢を見ている中で夢を見るためにベッドに入る、というのもおかしな話だが、夢に対抗するために夢を目指すとすれば悪くないよう思える。

 

なにより、少なくとも眠りに意識をシフトしてしまえば、こうして頭蓋の中を繰り返し繰り返し掻き回すようなノイズとおさらばできるではないか。

逃げてしまえばいい。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて、ここまでやってきたのだから。同じように、これまで通り、逃げ出して逃げ続けて逃げ惑えば――。

 

「逃げて……どうなる……」

 

呟き、スバルの足は階段を下る寸前で止まった。

逃げることを望み、逃げるために階下へ踏み込もうとしていた足を引き、スバルは軽く顎を持ち上げると、降りるのとは正反対の方角へ目を向ける。

 

逃げてどうにかなるものではない。またしても、スバルはレムを裏切るところだった。

彼女がスバルを守り、白鯨から逃がしてくれたのはなんのためか。

スバルに目的を遂げさせるためだ。スバルの目的はこの屋敷に住む人たちを、魔女教の魔の手から遠ざけることにある。

今、ここでその目的すら放棄して意識を逃避へ投げ込むというのならそれは、

 

「許しを乞うより、卑怯なことだよな……」

 

振り返り、降りようとしていた階段へ背を向ける。

今度こそ、進み出した足取りには迷いはない。スバルは存在の痕跡すら消えてしまった少女の部屋を通り過ぎ、ラムが消えたのと同じ方の階段へ。そちらからのみ向かうことのできる棟の上階には、スバルが帰ってきた理由が待っている。

 

辿り着いた階段をゆっくりと踏みしめ、一段一段を確かめるように上へ向かう。螺旋の階段を上り、上り切った先にあるのは一室に通じる扉だ。

扉のドアノブに手をかけたとき、スバルは心臓の鼓動がやけに静かなのに気付いた。

 

さっき、失われた少女の部屋へ踏み込んだとき、あれほど高鳴っていた心臓が今はひどく静かなリズムを刻んでいる。それが落ち着いているからなのか、鼓動が高鳴るのを通り越して、重く沈んでしまっているのか区別がつかない。

でも、

 

「勇気を、貸してくれ、レム――」

 

その名前を口にしたとき、スバルの手にほんのわずかな力が宿る。

それは重くてびくともしなかった扉のノブを動かし、固く閉ざされているように思えた扉をゆるやかに開け放つ。

そして、開かれた扉の向こう、机に向かっていた少女が首だけでこちらを振り返り、

 

「――スバル?」

 

銀鈴の声が自分の名前を呼ぶのを聞いて、スバルは目をつむる。

ひどく、言葉にし難い感慨が胸を、全身を駆け抜けるのを味わい、スバルはやっと思い出したのだ。

――自分が、彼女のその声を聞くために戻ってきたのだということを。

 

銀色の髪を揺らし、透き通る白い肌をした紫紺の瞳を持つ少女。その儚げな美貌に哀愁の色をにじませ、立ち上がる彼女は――エミリアは言った。

 

「……どうして、戻ってきたの」

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――それがどうしようもなく弱々しい声に聞こえて、スバルは言葉の内容よりも声音の方にばかり意識が奪われる。

 

唇を震わせ、瞳に力のない光を宿すエミリア。体感時間で二週間、実世界で流れた時間にして約一週間――それだけしか離れていなかったはずなのに、スバルを見る彼女の姿は少しだけ小さくなったように見えた。

最後に別れたときよりも、痩せてしまっているような気がする。声にも瞳にも疲労の色が濃く、眠れていないのではないかと思わせるほどだ。

 

そんな風に自分を追い詰め、なにより外部からの干渉で追い詰められてしまっているらしきエミリア。その理由に心当たりがスバルにはある。あるからこそ、スバルはこうしてエミリアの下へ戻ってきたのだから。

だから、

 

「行こう、ここにいちゃいけない」

 

踏み込み、エミリアの問いかけを無視してスバルは手を差し伸べる。

その強引な態度にエミリアは薄く目を見開き、わずかに身を引いてスバルと距離を取る。縮めたはずの分を広げられ、眉を寄せるスバルにエミリアは首を振り、

 

「行くって……どこに。いえ、なんのために」

 

「ここじゃないどこかならどこでもいい。なんのためかって聞かれたら、お前のためにって俺は……」

 

「また、それなの?」

 

スバルの答えにエミリアは失望したような声で言った。

彼女はその紫紺の瞳をかすかに潤ませ、口をつぐむスバルを上目で睨み、

 

「急に戻ってきて、傷だらけで心配をかけて。――王都で、フェリスの治療を受けてたはずじゃなかったの?どうして今、ここにいるの」

 

「色々あったんだよ!説明したいのは山々だけど、そんな時間も惜しいんだ。頼むから言うことを聞いてくれ。一緒に、この屋敷から……」

 

「できないって、言ったでしょ?私、そんなんじゃスバルを信じられないって、言った。……言ったよ」

 

頑なに首を横に振り、エミリアは震える声でスバルを拒絶する。それは王城の控えの間で交わされたやり取りの続きであり、なにより進展のない繰り返しだ。

スバルの決死の思いは彼女に伝わらず、スバルにはエミリアがどうして自分の思いをわかってくれないのかがわからない。

それでも、

 

「嫌がるなら無理やりにでも連れていく。何日かすれば、嫌でも俺が正しいんだってのがわかるさ。だから……!」

 

「待って、待ってよ、スバル。どうしちゃったの?そんな、そんなじゃなかったじゃない。私は……私を、スバルは……」

 

「いいから黙って俺の言うことを聞けよ!!」

 

怒鳴りつけた瞬間、エミリアが小さく肩を震わせた。

信じられない、と目を大きくするエミリアの前で、スバルは怒鳴った勢いのままに荒い息をつき、エミリアを強く睨みつける。

 

「ここにいたら駄目なんだ。お前は後悔する。絶対にする。誰のためにもならない。誰も救われない。俺はもう苦しみたくないし、泣きたくなんてないんだよ!」

 

「なんの、話をしてるの……?スバル、私にはわからないよ」

 

「うるさい!お前らは……お前は、俺の言う通りにしてればいいんだよ!そうすればうまくいくんだ。そうなんだ!なんで誰もわかってくれねぇんだよ……!」

 

髪を掻き毟り、スバルは目の前のエミリアにではなく、これまでぶつかってきた不条理全てへの恨みを吐き出すように呪詛を並べる。

癇癪を起し、声を荒げるスバルの発言はエミリアには意味の通じないものばかりだっただろう。だが、スバルにとってはこの場でしか吐き出す場面がなかった。スバルが遭遇した全ての不条理――その出発点である彼女の前でしか、これは、吐き出すことができないものだった。

 

涙声で訴えかけるスバルを見て、エミリアはかすかに目を伏せる。

それから彼女は「ごめんね」と小さく呟いてから、

 

「スバルがなにを言ってるのか私にはわからない。わかってあげられない。わかってあげたいけど、そうしてあげられる時間もない。……やらなくちゃいけないことが、色々迫ってるから。だから……」

 

「うまくいかねぇよ」

 

言葉を遮り、スバルは短い言葉でエミリアの思いを踏みにじる。

エミリアは小さく息を呑み、ただひたすらに悪意にのみ満ちたスバルの言葉を受け入れられないかのように瞬きを繰り返す。

そんな彼女の様子に、まるで鏡映しの自分を見ているかのような感覚をスバルは得た。始めようと思ったなにもかもに、その願いを挫かれることの共感。

それはひどく、酷薄で甘美な感覚をスバルにもたらし、

 

「うまくいかない。お前はダメだ。失敗する。やれるわけがない。全然ダメだ。口ばっかりだ。救えない。救われない。無茶と無謀を積み重ねて、同じ数だけ死体の山を見ることになる。――それが、お前の未来だ」

 

それはどす黒く、醜悪で、卑賎で、唾棄すべき――快楽だった。

 

自分の口にした言葉、単語ひとつひとつが彼女の鼓膜を震わせるたび、その表情に痛みが、心に亀裂が、想いに刃が差し込まれるのが実感できる。

その瞬間、彼女の全てが自分に向けられている。今のその刹那の時間だけは、エミリアの全てが自分に捧げられているという暗い悦びがそこにはあった。

 

決意を無碍にされ、覚悟を笑い飛ばされ、行いを悪辣に遮られ、過去は無為だと嘲られ、未来は真っ暗であると宣告される。

そのひとつひとつに翻弄されるエミリアを見て、スバルは――。

 

「どうして?」

 

ぽつりと、エミリアが呟いた。

 

心ないスバルの言葉で、闇だけが待つ未来を告げられる痛みで、悲痛にその表情を強張らせるエミリア。だが、彼女の紫紺の瞳はそんなときにも曇ることを知らない。

その怪しげな輝きに魅入られ、そこに映る世界――即ち、彼女の見つめるスバル自身が映り込んでいるのを見て、

 

「どうして、スバルはそんなに苦しそうに泣いてるの?」

 

――自分が涙を流しながら、歪んだ笑みを浮かべていたことに気付いた。

 

「――――」

 

全てが跳ねかえってくるのがわかった。

涙を流し、彼女の思いを踏みにじった言葉ひとつひとつを思い返せば、なんのことはない、それは全てスバル自身に圧し掛かってくる言葉の数々だ。

 

決意を、覚悟を、行動を、過去を、未来を、否定されたのはスバルも同じだ。

 

なにをしても無駄なのだと思う気持ちがある。なにかをしなくてはならないという義務感に急き立てられる自分がいるのもわかる。なんのためにそれをするのかなんてことは誰にももうわからない。わからないのだけれど、わかるとすれば、

 

「俺は……俺を、ここまで送ってくれた……違う、ここまで連れてきてくれたレムのために、レムのためにも、やらなきゃいけないことが……」

 

「レム?」

 

たどたどしいスバルの言葉。なかなか意味を為す文面にならないそれを聞き、エミリアがふと出た単語に首を傾げる。

その彼女の口から出た単語の語感が、明らかにその音の意味を知らないものが口にする類のものであったから、

 

「――お前も」

 

「え?」

 

「お前もレムを、忘れるのか――」

 

双子の姉にさえ存在を忘れ去られ、あったはずの痕跡すら消失し、命を賭して戻る理由であった人物でさえ、その子のことを覚えていない。

彼女の日々は、時間は、思いは、生き様は、願いは、それではどこに消えるのだ。

 

あの笑顔は、あの怒りは、あの涙は、あの触れ合いは、あの子を構成する全てのものは、どうあれるというのか。

 

「――いいさ、全部、話してやる」

 

口をついて出てきたのは、吹っ切れたようなそんな言葉だった。

 

え、とスバルの言葉に驚きを浮かべるエミリア。その彼女の顔を見上げ、スバルは自分をこうまで突き動かす思いの源泉を再確認する。

このまま彼女のことが、その思いが、彼方へと消え去ってしまうぐらいならば、

 

「なにもかもをさらけ出して、血反吐を吐いた方がマシだ」

 

決断する。

全てを打ち明け、真実を語り、己の心の内を露わにすることを。

 

スバルの眼差しが変わり、それを察したエミリアが息を呑む。

その彼女の前で、スバルは自分の胸に手を当てた。鼓動が速い。今から行うことの結果として、なにが起こるのかをあらかじめ理解しているが故の恐怖だ。

 

それは痛みだ。それも発狂しかねないほどの痛み。

心臓を握り潰されるように弄ばれ、声を上げることもできない苦しみを、いつ終わるともしれずに延々と与えられ続けるのだ。

 

だが思う。こうも思う。

知ったことか。かまうものか。痛みなど、この苦しみに比べればなんだというのか。

 

信じてもらえない、理解してもらえない。なにより、レムの存在を誰も覚えていないようなこんな苦しみに耐えるぐらいならば、痛みなどどれほどのものでもない。

 

――くるならくればいい。心臓ぐらい、くれてやる。

 

「エミリア。俺は、未来を見てきた。知ってるんだ。どうしてかっていうと、俺は……俺は『死に戻」

 

全てを打ち明けようと、それを口にした瞬間にやはり停滞は訪れた。

 

目論見通り、世界の動きは徐々に停滞し、やがて静止する。途端に景色は色を失い始め、それまであったはずの音の全てが消える。風の音が、息遣いが、心臓の鼓動が、遠ざかり遠ざかり、戻ってこない。

五感のなにもかもを意識が置き去りにし、スバルは世界から孤立する。

 

――そして、その孤立したスバルをひとりにはさせまいと、求めてすらいない慈愛の掌がゆっくりと姿を現した。

 

生まれた黒い靄は静かに、しかし滑るような速度で腕の形を構成する。

以前までははっきり腕の形を為していたのは右腕だけだった。だが、それを追いかけるように生まれた左腕までもが、今のスバルの前ではしっかりと肩までの形を作り出す。

両手がスバルに迫り、左手は相変わらずこちらを愛おしむように。残る右手は滑るように胸の内に入り込み、肋骨をすり抜け、心の臓へ辿り着く。

 

やわやわと、心臓が掌の中で弄ばれる感覚が全身に怖気を走らせる。

ひと思いに激痛を与える今までと違い、スバルのまさしく命を握る黒い靄は、まるでスバルの覚悟を、極限の恐怖で折ろうとでもいうかのように悪辣に扱う。

 

くるはずの痛みが訪れず、スバルの心に静かな恐怖が芽生え始める。

影のこれまでの行動と違い、スバルを弄ぶような知恵をつけ始めた挙動。それはスバルの心をこれまで以上に抉り、痛みもまた以前とは違う形でもたらすだろう。

想像していたものと違う苦痛の与えられ方に、スバルは動かない喉で悲鳴を上げそうになる。しかし、動かない歯がそれを拒む。

痛みが、恐怖が、未知がスバルを苦しめたとしても、下は絶対に向けない。

 

そうでなければ報われない。そうでなければ許されない。

誰も彼女の存在を覚えていないこの世界で、彼女の死の責任を負うスバルが許しを乞うとするならば、それは己の魂以外にはあり得ないのだから。

 

痛みも苦しみも、全て好きなようにぶつけてくればいい。

代わりにスバルは自らの体験のなにもかもを吐き出し、得ていくはずだったものを全て取り戻す。それで、黒い靄との駆け引きはおしまいだ。

 

空元気というには薄暗く、決断というには失うものが多すぎる。

だが、それはこれまでに決して固まることのなかった、スバルにとっての断固たる決意であった。

 

――この決意は、覚悟は、そう簡単には砕かれてなどやりはしない。

 

心臓を弄ぶ黒い靄を睨みつけて、スバルは迫る瞬間を息を殺して待ち構える。だが、靄は一向にスバルに悪意をぶつける素振りがない。いつでもやれるからこそ、いつまでもやらずにいることもできる。

時間の停滞した世界では、消耗戦を挑まれれば精神が摩耗するまで戦うしかない。今は血気に逸り、折れることなど考えられない状態でも、いずれは破綻し、諦念に呑まれて終わりを望むときがくる。――そんな考えは、甘すぎる。

 

何時間でも、何日でも、苦境になら耐えてやろう。

伊達に何度も死んでいるわけではないのだ。死ぬわけでないのならば、痛みぐらいどれほどでも耐え抜いてやる。

そんなスバルの覚悟は――、

 

「――あ?」

 

唐突に、停滞する世界に色が浮かび始めた。

訪れるはずだった痛みはその姿を素振りだけで終わらせ、どこへなりと消えていく。取り残されたスバルの下には音が、色が、時間が着実に返却された。

 

息遣いが、鼓動が、世界の動き出す音がスバルの周りを取り巻き、呆然となるスバルを嘲笑うように『当然』が横行し始めた。

 

黒い靄の真意がわからず、スバルは幾度も瞬きを繰り返す。

だが、なにかの間違いではないのかと疑っても、瞬きの後にはまたあの停滞の世界が待っているのではと警戒しても、世界の色はそれを変えることがない。

 

スバルの不断の覚悟の前に、黒い靄は自らの行いの稚拙さを悟ったというのだろうか。

そんなわけがない、とそう笑い飛ばしそうになる反面、己の決意が望外の結果を呼び寄せた可能性がスバルにそれをさせなかった。

 

今も胸には、黒い靄の右手が心臓を柔らかく握っていた感触が残っている。

あれが握りしめられていれば今頃は――、

 

「――――」

 

そこまで考えて、スバルはふと疑問を抱いた。

右手が心臓を握り、スバルの心を折ろうと画策していたことははっきり覚えている。しかし、その間、最初に頬に触れた左手は、意識から外れた左手はどこへ――、

 

「――ふ」

 

疑問の答えが出るより先に、目の前のエミリアがなにか呟いた。

 

その彼女の声に意識を現実に引き戻し、スバルは己が口にしなくてはならなかった言葉の続きを思い出す。

まるで夢でも見ているような、実感のない静けさが動揺を招いていたものの、スバルのやろうとしたことへの影響を考えれば好転以外のなにものでもない。

 

状況説明を禁ずる、呪いとでも言うべき制約に縛られた時間も、やっと終わる。

全てを打ち明け、得てきた未来を分かち合い、皆が望み、望まれる世界を得るための行動が今度こそ実る――。

 

「あ」

 

ふいに、エミリアの体が前のめりにスバルの方へ寄りかかってきた。

思わず手を差し伸べ、彼女の体を受け止める。掌に温かく、柔らかな感触があることにスバルはわずかに動揺し――、

 

びしゃり。

 

「――え?」

 

びしゃり、びしゃり、びしゃり。

 

「――えみりあ?」

 

びしゃりびしゃりびしゃり、びしゃ。

 

抱きとめた、エミリアの、口から、血が、大量に、溢れて。

 

――右手がスバルの心臓に触れる間、左手はどこに消えていた?

 

スバルの肩に顔を預け、エミリアの吐血は止まらない。溢れ出したおびただしい量の鮮血がスバルの体を真っ赤に染め、エミリアの体を軽くする。

 

「やめ……え?ちょ、え?」

 

吐き出される血を止めようと彼女の顔を上に向け、その力なく動く首が、だらりと垂れ下がる肩が、光を失った瞳が、全てを物語る。

 

――スバルの目の前で今、エミリアが、命を。

 

「ぉぉぉぉぉっぉぉぉあああああああああ――!!!!!」

 

絶叫が木霊する。

叫ぶことで、喉が張り裂けるほどに叫ぶことで、全てを忘れられるのならば、今すぐに喉をかっさばいて、引き裂いて、奪い取ってくれ。

 

腕の中で、エミリアの体が、力のない体が軽くなっていく。

吐き出される血は止まらない。スバルの体が赤くなる、どんどんどんどん赤くなる。

 

――右手がスバルの心臓に触れたとき、左手はエミリアの。

 

決意が、覚悟が、行動が、過去が、未来が、嘲笑に踏みにじられていく。

 

断固たる決意が、打ち砕かれまいと固めたばかりの覚悟が、粉々に打ち砕かれて、ナツキ・スバルを絶望の淵へと追いやっていく。

 

――絶叫は高く高く尾を引き、消えることがない。

 

スバルはついに、ついに。

 

――エミリアを、殺した。