『ナツキ・リゲル』


 

「今年もレムの誕生日と節分がやってきた!さあ、力一杯に協力して、この良き日を乗り切っていこうぜ!」

 

と、二月二日(意訳)を迎えたナツキ家では、騒動の兆しが芽吹こうとしていた。

こういうとき、往々にして言い出しっぺの切っ掛けは一家の大黒柱であるナツキ・スバルであり、それは今回も例外ではない。

 

「家族同士、力を合わせて素晴らしい日にしたい。もちろん、お前は手を貸してくれるよな、リゲル!」

 

そう言って、親指を立てて歯を光らせながら提案したのはスバルだ。

ポーズを決めるスバルの提案、それを向けられる側の少年は実年齢に見合わない老成した顔つきで、「はぁ……」とため息をこぼした。

 

深々と嘆息したのは、母親譲りの美しい青い髪を短く揃え、父親譲りの三白眼をした御年十歳になる少年、ナツキ・リゲルだ。

テーブルに向かい、算術の宿題をこなしていたリゲルは、返答を待つように左右にステップを踏んでいるスバルをちらりと見上げ、

 

「また親父が狂った……」

 

「それはいきなり言いすぎだろ!おかしなこと言い出したとか飛び越えて即座に狂った判定はやりすぎだよ!それに今回、俺の提案は別に頭おかしくも突飛でもなんでもなくね?むしろ愛に溢れてんだろ!?」

 

「溢れた愛で盲目になってて、何しでかすかわかんないのが怖いんだよ。この家で生まれ育って十年、そろそろオレだって学習したし」

 

冷めた目と声で言って、リゲルは詰め寄るスバルの額を押し返す。それから少年は「そもそも」と言葉を継ぎ、

 

「母ちゃんの誕生日はまだしも、節分の響きに強烈なトラウマしかねぇ。豆投げたり、のり巻き食べたりする奇祭の風習に何を期待しろってんだよ……」

 

「奇祭って言うな奇祭って。いや、確かにやってる内容だけさらっと見ると変な行事なのは事実だけど、なんかそれなりに根拠とご利益あるのは説明しただろうが。実際、あれのおかげで我が家じゃ不幸に見舞われることもなくて万々歳だぞ」

 

「オレは日頃、結構な目に遭ってるけどその不幸は?」

 

「それは不幸じゃなく日常。あと、一つの物事を受け止めるときに、物事の良い面と悪い面で悪いところばっかり気にする奴は出世もしないし、ストレス溜まるぞ」

 

「オレが悪いみたいに言うな!大体、親父関係の被害だよ!」

 

怒鳴りつけ、リゲルはテーブルに両手を突いて立ち上がる。それから窓の外を指差すと、そこから覗ける外の通りを示した。

家の前の通り、魔法灯などの支柱にはいくつものチラシが貼られており、そこには『節分、来る!』という見出しと共に、イベントのお知らせが記載されている。

日時とイベントの内容が記されたそれには、こっそりと責任者の名前もあり――、

 

「あの奇祭、町を挙げてのわけわかんない規模に拡大したのは親父だろ?責任者のところに名前があるし……オレ、学び舎で死ぬほど言われて恥ずかしいんだけど」

 

「まぁ、プランナーとしての俺の腕の見せ所ってやつだったからな。なに、遠慮なく自慢していいんだぜ。『ボクのお父さんは我が家のヒーローです』ってな!」

 

「イベント内容のところに、鬼の格好したオレに豆をぶつけるって説明がなければそうしたかもしれねぇな!」

 

家の壁にも貼られている一枚を剥ぎ取り、リゲルが記載事項を指差す。

節分の風習・目的・内容などが記された部分の下に、二月三日(意訳)に行われる節分イベントの内容があり、そこには鬼の格好をして町内を逃げ回る立場として、代表者である『ナツキ・リゲル』の名前が記されている。

 

「了解も得ずに息子を売るな!鬼か!」

 

「鬼はお前で、俺の嫁だよ。まぁ、レムにそんなひどい真似はさせられないからな。ここは一つ、涙を呑んで息子を差し出した所存……」

 

「鬼か、あんた!いや、鬼だ、あんた!」

 

「そんなカッカすんなよ。そんな本気で豆ぶつけてくる相手ばっかりじゃないし、代表者がお前ってだけで鬼担当は他にもいるよ。俺もちゃんと手伝うし」

 

悪びれない顔で唇を尖らせるスバルに、リゲルは言っても無駄だと脱力する。

そもそも、このイベントの内容が知れ渡る直前にもこうした話し合いは何度もしたのだ。その上で、リゲルは毎回のように言い負かされ、ズルズルと本番の日を目前に迎えてしまった。

今さら変更や中止はできない。押し付けられた役割だろうと、任された役目は果たさなくてはならないのだ。――そんな程度に常識と苦労人体質であることが、ナツキ・リゲルという少年の生き方を非常に難儀にしているのだが。

ともあれ、

 

「イベントはイベント、お前も潔く受け入れろ。で、今、お前と話し合っておきたいのはそれとは別の話だ」

 

「……母ちゃんの誕生日、だろ」

 

「その通り」

 

指を鳴らしたスバルの言葉に、リゲルは鼻を鳴らして顔を背ける。

何の因果か、気が重たい節分イベントと、母であるナツキ・レムの誕生日とは一日違い――盛大に母を祝い、翌日に地獄を見るのが確定しているスケジュールだ。

 

「こんな気分じゃ、母ちゃんの誕生日も晴れ晴れと祝えねぇよ……」

 

「確かに過密スケジュールなのは否めないが、楽しいことが二日連続でくるってのは幸せなことだ。もっとプラスに考えろよ。ポジティブシンキングだ」

 

「……こんな気分じゃ、母ちゃんの誕生日も晴れ晴れと祝えねぇよ」

 

「あれ?デジャブ!?」

 

デジャブもクソもない。

今の会話で心が欠片も動かなかったのだから、結果に変化が生じないのも当然だ。

 

「お前が節分を前に緊張してる気持ちはわかる。けど、それを理由に年に一度しかないレムの誕生日を蔑ろにするのはダメだ。レムが寂しがるだろ?だから切り替えていこうぜ。お前ならできる」

 

「――。――――。――――――――。――――――――――――――――ああ」

 

釈然としなすぎて切り替えるのに時間がかかった。

ただ、このまま言い合っていても話が進まないし、どうあってもスバルの心を挫くことは無理そうなので、リゲルは素直に従っておくことにする。

 

「それで、母ちゃんの誕生日プレゼントの話だっけ?」

 

「そうだ。実は今年で節目というか、結婚して十年目ってことになるからな。特にこれって結婚の記念日はないんだが、せっかくだから誕生日と重ねて祝いたい。んで、いつもより特別な感じにしたいわけよ」

 

「まぁ、それはいいんじゃね?正直、母ちゃんなら親父が何しても喜ぶと思うけど、珍しくそれは素直に賛成する」

 

「だろ?で、ここからが本番だ」

 

悪ガキのような笑みを浮かべて、スバルが悪巧みに誘うようにリゲルを手招きする。その姿勢にリゲルは唇を曲げ、嫌な予感を存分に味わった。

だが、そうして躊躇するリゲルに、スバルは何度も何度も手を招いてみせる。

結局、リゲルは仕方なく嘆息して、そのスバルに顔を寄せた。

 

「今回の結婚十年お祝いプロジェクトのために、実は特別なプレゼントを用意した。これはすでに発注済み、手抜かりないぜ」

 

「……うん、まぁ、OK」

 

「今日のために、コツコツと貯めたへそくりって名前の軍資金を使った。これが結構な代物でな。聞いて驚け――宝石を、ご用意したんだ」

 

「――へえ、宝石」

 

驚け、とばかりにスバルが言うので身構えたのだが、その内容が真っ当に驚くべき内容だったため、リゲルは二重に驚く。

基本、何か実行するときに余計な企てをして、結果的に不必要な混乱を招くのがスバルのやり口なのだが、今回の目論見にはそんな様子は皆無だった。

 

「宝石か……」

 

思い返せば、リゲルの母であるナツキ・レムは、あまり着飾らない女性だ。

それは家計のやりくりへの配慮といったことが理由ではなく、純粋にレム本人の気質の問題だろう。家族の贔屓目抜きに、リゲルは母であるレムが女性として非常に美しい容姿の持ち主であることを密かに自慢に思っている。

ただ、普段から着飾ることを好まず、宝飾品や華美な衣装とも無縁であることを良しとする母の在り方に、ちょっとした不満があったのも事実だ。

 

清貧とまでは言わないが、自分を飾ることにあまり頓着しない母。

だが、そんな母が恥も外聞もなしに執着するのが父であるスバルであり、業腹だがスバルからの贈り物であれば、絶対に断るまいという確信も持てる。

ので、父が母に宝飾品を贈るという案には、リゲルは躊躇なく賛成だった。

 

「それ、すげぇいいと思う。なんだ、たまにはやればできるじゃんか、親父!」

 

「おお、そうだぜ。俺はやればできるタイプの……あれ?おかしくない?なんかお前の方が親みたいな目線のやり取りじゃない?」

 

「そんなの気にすんなよ、大事なのは母ちゃんへの贈り物だろ?」

 

「あ、ああ、そうだな。うん、そうだ!大事なのはレムへの贈り物だ。まぁ、間違いないとは思ったけど、お前の大賛成で正解って確信が持てたぜ」

 

グッと互いに拳をぶつけ合って、スバルとリゲルは頷き合う。

それからリゲルは、母に贈られるという宝石の現物が気になった。というのも、父親のセンスは息子の目から見ても、あまり保証できるものではないからだ。

 

「それで、宝石は?親父のことだから、変な細工師とかに頼んで悪趣味なやつに仕上がってないか心配なんだけど」

 

「上がった株が一瞬で下がるのを目の当たりにして動揺するな!……けど、このお話の肝心なところはここからなんだよ。心して聞け、息子よ」

 

「ええええ……」

 

再び声を潜めて、真剣な顔つきになったスバルにリゲルは呻き声を上げる。

スバルが真面目腐った顔で、声から遊びの雰囲気を掻き消したときは要注意だ。絶対に碌でもない言葉が飛び出す――それはリゲルが十年、この父親と共に過ごすことで培ってきた信頼感であり、それは今回も裏切られなかった。

 

嫌な予感に顔をしかめるリゲルに、スバルはこう耳打ちした。

 

「――レムに贈る宝石を積んだ商人の竜車がトラブルで町に到着してない。なんか引き返すみたいな話もあるんで、仕方ないから現物を取りにいってくる」

 

「……それ、今日中に間に合うの?」

 

「もちろん、全力でぶっ飛ばす気ではいるぜ。――ただ、正直、ちょっと不安」

 

指を突き合わせ、スバルは目線を下げながら声の調子を落とす。

その様子にリゲルは額に手を当てて、

 

「そんな不安なら、宝石は後回しにした方がいいんじゃね?誕生日当日にプレゼントがないより、親父がいない方が母ちゃんは悲しむって」

 

「それはわかる。それはわかるんだが……このプレゼントも、誕生日に間に合わせなきゃ意味がないと、俺は思うんだよなぁ」

 

「そんなの……」

 

親父の勝手だ、と言おうとしたリゲルはそこで言葉に詰まった。

情けない顔で頭を掻くスバルの微苦笑、その奥に詰まっているのは言葉にし難い感情の渦で、目にしただけでリゲルは押し流されそうになる。

それは心の奥深く、大事なものを仕舞い込む場所からほんのりと存在を感じさせる、特別で大切な感情――そしてそれは、両親にとって掛け替えのない絆だ。

 

「――――」

 

口を挟めば無粋、リゲルはそれを感じ取った。

そしてすぐに嘆息して、微苦笑するスバルと同じように頭を掻くと、

 

「それで、親父は裏事情を打ち明けて、オレにどうしてほしいんだよ」

 

「聞いてくれるか、リゲル」

 

「聞かないわけにいかない流れにしといてよく言うな!これ以上、オレが空気読めない奴に成り下がる前に話せよ!」

 

「助かる!」

 

仕方なく受け入れる姿勢に入ると、スバルがこれ幸いにとリゲルの手を掴んで上下に乱暴に振り回される。

それを受け、リゲルが顔をしかめると、スバルは笑みのまま、

 

「俺は目的の宝石を回収してくる。なんとか誕生日の間に戻ってくるつもりだが、お前は俺が不在の理由をレムに誤魔化しておいてくれ。間違っても、誕生日プレゼントの話はするなよ。サプライズが消えるから」

 

「……誕生日に親父がいなかったら、それだけで十分、サプライズだと思うぞ」

 

「それでも、だ。俺はすぐに出る。あとは任せた!」

 

と、言うが早いか、スバルはリゲルに全幅の信頼を勝手に預けると、飛ぶようにして荷物を掴んで玄関に飛び出していってしまう。

そのまま風のように外に転がり出ると、大慌てで町の入口――おそらく、用意した地竜に跨って、その宝石商人とやらの下へ向かうのだろう。

 

「ホントに帰ってこれんのかよ」

 

ギリギリ、と言っていたスバルの様子からして、たぶん目算は間に合うより間に合わない可能性の方が高いのだろうとリゲルは当たりを付けた。

任されたのは、誕生日に愛する夫が不在となってしまうナツキ家の防衛。常日頃の夫への愛情を思えば、母の動揺ぶりは想像するに難くない。

 

「これ、血の雨とか降るんじゃねぇの……?」

 

と、戦々恐々しながら、リゲルは外出する母の帰りと、飛び出していった父の一刻も早い帰宅を祈るのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

幸いというべきかなんというべきか、スバルの外出を聞いたレムの反応は、リゲルが想像していた最悪のものと比較すれば全く落ち着いたものだった。

 

「そんなわけで、なんか仕事のトラブルがあったとかなんとか。ほら、やっぱり父ちゃんだけが頼りって人たちもいるみたいで……いるの?いるよな?まぁ、いると仮定して、いるらしいから飛び出していったって感じだと思うんだよ」

 

「なんで言伝されてるはずのリゲルがそんなに不安なんですか?もう、十歳になるんですから、留守番の伝言役くらいできなくちゃいけませんよ。まったく」

 

買い物とご近所との会合を終えて、帰宅したレムを出迎えたリゲルは、宝石回収の旅に飛び出したスバルのことを前述のように説明した。

打ち合わせ不足が否めない説明だったが、その話を聞かされたレムは内容を訝しんだり、極端に不機嫌になったりといった様子は見られない。

それどころか、微妙に細部の詰めが甘いリゲルの説明の方に不満げなくらいだ。これで母は意外とスパルタな方針なので、実は家族に甘いのはスバルだったりするのが外からはわからないナツキ家の内情である。

ともあれ、

 

「それにしても、スバルくんはお出かけしてしまいましたか……残念です。今日のお昼はスバルくんの好物を揃えるつもりだったんですけど」

 

と、買い物袋を持ち上げ、レムが少しだけ寂しげに眉尻を下げる。途端、リゲルの内側に母を悲しませてはいけないという使命感が燃え上がった。

押し付けられた役割でもやる気になってしまう男、リゲルの悲しき習性だ。

 

「父ちゃんの好物か。それは残念だった……あれ、確か昨日もおんなじこと言ってなかったっけ?なんか、昨日も父ちゃんの好物ばっかりだったような……」

 

「はい。明日も明後日も、一昨日もその前もスバルくんの好きなご飯でしたよ」

 

「家庭内とはいえ身贔屓清々しいな!」

 

毎日、毎晩、スバルの好物しか作っていない発言に思わず声の調子が高くなる。が、それを聞いたレムは「いえいえ」と首を横に振って、

 

「安心してください。スバルくんの好きなものは、リゲルとスピカもちゃんと好きなご飯ですよ。レムが二人の嫌がるご飯を作ったことがありますか?」

 

「そりゃ……言われてみたらないけど、家族の好物が全部揃うってそんな奇跡があんの?さすがに食べ物の好みは人それぞれなんじゃ?」

 

「それはリゲルがまだ赤ん坊のときから、レムが寝ているリゲルの耳元でスバルくんの好物を延々と言って聞かせて、好きになるように洗脳しましたから」

 

「嘘だと言ってくれる!?」

 

「はい、嘘で冗談です。こんなこと、信じたらいけませんよ」

 

衝撃的な事実にリゲルが目を剥くと、小さく舌を出すレムはそんな風に笑う。

それから母はリゲルと同じ色の長い髪を手で撫で付け、

 

「スバルくんの好きなものばっかりって言いましたけど、スバルくんはレムが何を作っても美味しいって言ってくれるので、変な心配しなくて大丈夫ですよ」

 

「それは、うん、良かったけど。それはそれで作り甲斐なくないか……」

 

「そんなことありませんよ。スバルくんはなんでも美味しいって言ってくれますけど、本当に好きなものを食べたときは声の調子とほっぺたの動きがちょっと違うんです。いつもより可愛いんですよ。ふふっ」

 

細部まで観察していることを微笑ましく思うべきなのか、それともちょっと怖いと思うべきなのかわからないまま、リゲルは幸せそうに微笑むレムに曖昧に苦笑。

それからレムは背負っていたスピカをリゲルに預け、買い物袋を持ったまま台所の方へと向かっていく。

 

「まったく、兄貴がこんなに気苦労してるってのに、お前は気楽なもんだよなー」

 

「ぁー?」

 

「あー、じゃないぞ、ホントに。……可愛いなぁ、スピカは!」

 

抱っこしながら兄馬鹿を発揮して、リゲルは目を丸くするスピカに頬擦りする。兄に溺愛されるスピカは、まだ何もわからない顔でも愛情には敏感だ。

くすぐったそうな顔をするスピカを存分に愛で、兄妹は一緒に台所へ。そこでは先に入ったレムが買い物袋を広げ、食料品を棚に移している最中だった。

 

「それで、リゲル。お父さんはいつに帰るか言ってましたか?」

 

「あー、えーっと……その、ちょっとかかるかもしんないみたいなことを?大急ぎで帰るとは言ってたけど、さ。ほら、急ぐ理由もあるしって」

 

背中を向けているレムの質問に、余計なことを言ったとリゲルは後悔する。

スバルのことと、レムの誕生日の件から気を逸らせたいにも拘らず、墓穴を掘ってしまった事実に唖然となる。

これはリゲルに自覚のない、『嘘を全くつけない正直な性格』の弊害なのだが、悪巧みに向かないそんな自分の資質に気付かず、リゲルはとっさに口を塞ぐ。

その兄の姿を真似して、スピカも小さい掌で自分の口を塞ぐ。可愛い。でも、それに見惚れている場合ではない。

 

「そうですか。ちょっとかかるかもしれない……」

 

「――――」

 

「困りました。急ぐ理由は、レムにもわかりますけど」

 

振り返らないまま、棚の整理を続けるレムの発言にリゲルは緊張を強いられる。

声の調子こそ普段の通りだが、実際には頬は涙で濡れ、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどショックを受けていないとも限らない。

リゲルの知るレムは強い女性だが、致命的に弱い部分もあって、その致命的に弱い部分が紛れもなくナツキ・スバルと関わる部分なのだ。

 

そもそも、今の言い方からすると、レムは誕生日の一件でスバルが飛び回っていることも察しているのではなかろうか。元々、レムはスバルと違って気遣いもできるし空気も読める、化かし合い騙し合い隠し事がそもそも無意味な気がしてきた。

 

「あー、母ちゃん、そのぉ……」

 

そう考えれば考えるほど、神経をすり減らして隠し事をしようとする気持ちが萎えてくる。正直者であるのが転じて、隠し事を断行するには意思が弱いのだ。

 

「実は父ちゃんなんだけど、その、遠出なんだけどさ、悪く思わないでやってよ」

 

「――?当たり前ですよ。お仕事なのに、それで出かけるスバルくんを悪く思うようなことしません。家族のために働いてくれているんですから」

 

「でもほら、今回は事情がちょっと違うっていうか、あるじゃん?」

 

「……ああ、やっぱり。リゲルも、それが心配だったんですね」

 

振り返り、気まずい顔をするリゲルを見たレムが納得がいったとばかりに目を細める。その反応に隠し事を見抜かれた気がして、リゲルは内心でスバルに詫びる。

まさかの、隠し事をするぞと決めてから三十分ほどでの敗北。

 

その事実を情けなく受け止めながらも、もう秘密にしないでいいんだと思うと、家族に隠し事をする罪悪感がなくなって心が軽くなる。

やはり、ありのままでいなくてはならない。少しも寒くないわ。

 

「大丈夫、わかっていますよ。レムも少しだけ不安な気持ちはあります。でも、スバルくんのすることですから、心配しなくてもへっちゃらですよ」

 

「その信頼度に関しては、オレと母ちゃんの間でちょっと温度差あるから素直に頷けないんだけど……それなら、うん、良かった」

 

「はい。レムも正しい作法はわかりませんが、スバルくんの指示通りに仕立てたつもりでいます。むしろ、この場を任されたということはスバルくんからの信頼の証だと思って、かえって発奮しなくちゃいけませんね」

 

「……んん?」

 

ぐっと両手を固めてガッツポーズするレム。

その仕草は母の癖のようなもので、どことなく幼さを感じさせる素振りで密かに好きなのだが、今はなんとなく不安を掻き立てるものでしかなかった。

今の会話、繋がっているようで繋がっていない。

リゲルは首をひねりながら、「ちょっといい?」とレムに向かって手を上げ、

 

「何の話してんの?」

 

「――?それはもちろん、明日の節分イベントの準備です。リゲルは町中を逃げる鬼の代表者としての役目がありますから。それに相応しい衣装をと……スバルくんに言われてレムが準備してました。その確認をしてもらいたかったんですけどね」

 

「――チクショウ、碌なことしてなかったやっぱり!!」

 

噛み合わない会話が噛み合った段階で、リゲルは抱えていた罪悪感の理由も解除されていないし、それ以前に何も伝わってない事実を悟って声を上げた。

その兄にしっかりと抱かれるスピカが、顔をくしゃくしゃにして苦悩するリゲルの顔を真似して、「あぅ~」と楽しそうに笑うのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――数分後、鏡の前に立っていたのは生まれ変わった姿のナツキ・リゲルだった。

 

「やはり、スバルくんの目には狂いがありませんでした。レムは感服です」

「うぱぁ~♪」

 

と、感慨深げに頷くレムの胸の中で、母に抱かれるスピカが目を輝かせている。

それほどまでに、彼女たちの前に立つ存在の再現度は完璧だった。

 

「――――」

 

黄色の生地に、黒い稲妻模様の縦縞が入ったパンツ。上半身には同じ色のベストを羽織り、足下にはカララギの一部で製造されているゲタを履いている。

手には金属製に見えるハリボテで作った棍棒を握りしめ、口には貸衣装屋から借りてきた付け牙を装着、普段より少し荒めに髪の毛を逆立てれば、どこからどう見てもそれは完璧な鬼の姿であった。

 

クラシックな鬼のスタイルを体現したリゲルの姿に、レムは感服、ご満悦だ。スピカも兄の堂々たる姿に心から称賛の目をしている始末。

その家族二人に見守られ、鬼として爆誕したリゲルは鏡に映る自分を確認して、

 

「ひでぇな、これは!」

 

「まぁ、なんてこと言うんですか。スバルくんが描いてくれた想像図そのままの仕上がりじゃありませんか。レムも、ついつい自画自賛してしまう出来です」

 

「これが鬼?鬼じゃなくて蛮族の間違いだろ?母ちゃんこそ、鬼族の数少ない生き残りとして、こんな認識されて腹立たないのかよ」

 

「鬼がどんな形で周知されたとしても、それでレムやリゲルの存在が左右されることはありませんよ。大丈夫です。それにしても惚れ惚れする仕上がり……特に、その目がとても鬼っぽくていいと思います」

 

「この部分だけは自前だよ!!」

 

親から貰った体を、そのくれた親から褒められてリゲルは逆ギレする。

その反応にレムは心外そうだが、心底、心外なのはリゲルの方だ。スピカは興奮する兄の様子に顔を赤くして笑い転げていて、鈴の音のような笑声が家に響く。

 

鬼のベストに鬼のパンツ、鬼の金棒に鬼の目つき、まさに完璧な仕上がりだ。

 

「いいえ、まだですよ。最後に角を出してみてください。それで、きっと完璧です」

 

「ひ、他人事だと思って……」

 

「そんなことありません。我が子のことです。本気で、真摯に、考えています」

 

疑るような目をするリゲルに、レムはあくまで真剣な目でそう言った。その態度に気圧されて、リゲルは軽くのけ反ると、仕方なく額に意識を集中する。

 

鬼としての血筋を受け継ぎ、リゲルには鬼族の角がきちんと存在する。ただし、本来は二本であるはずの角は一本、これはレムの話では、血が薄まったことが原因であるらしい。正直、そのことはピンときていない。

ただ――、

 

『角が一本だけにしか生んであげられなくて、ごめんなさいね』

 

と、ずいぶん前に母に謝られたことが、リゲルの記憶に鮮明に残っている。

あのときの、申し訳なさそうな母の顔と声は忘れられない。

リゲルにとって、角の本数は大した問題ではない。一本だろうと二本だろうと角は角。角を出すことで体を動きやすくなる恩恵、その分だけお得だと思っている。

 

『はい、ありがとうございます』

 

そんな風にリゲルが答えたとき、寂しげに母は微苦笑するばかりで。

そのときのことを無力に思ったはずだった。でも、それ以来、母の前で角のことを話題にする勇気がなくて、一度も触れたことがない。

母の角も一本のはずだ。そのことで、何か辛い思いをしたのだろうか。

 

「――――」

 

そんな感傷を余所に、リゲルの意識の集中は鬼の血を呼び覚まし、その額に白い角の先端をゆっくりと伸ばし始める。

額に稲妻の走るような鋭い感覚があり、そこから注ぎ込まれる力が全身に沁み渡り、手足に力が漲るのを感じる。それと同時に胸の一番深い部分に疼く衝動があり、母曰く闘争本能が強く強くリゲルの脳に本能を訴えかけてきた。

 

奇妙な高揚感と、それに匹敵する闘争本能を振り払い、リゲルはそこに立つ。

鏡には先ほどまでと同じ格好の自分と、明らかに変化の生まれた額の角があった。姿見に映るその容姿、それを認めて、リゲルは背後の二人に振り返り――、

 

「どう……」

 

「ぷっ……と、とっても、立派……立派、ですよ、リゲル……ぷふっ」

 

「さっきまでの葛藤返してくれる!?」

 

振り返った途端、堪え切れない笑いの衝動に呑まれる母に迎えられる。

レムは頬を赤くして、完全にクラシック鬼スタイルを確立したリゲルの姿に耐えかねて、その場に膝を突いて噴き出していた。

 

数秒前までの、角の本数云々の物思いはなんだったのか。

角を生やしただけでこれだけ笑い者にされると、葛藤の時間がただ徒労に化けた。

そのまま肩を落としてリゲルが脱力すると、なんとか立ち上がったレムが気を取り直すように、目元の涙を拭いながら、

 

「と、とにかく、とても良い出来だと思います。スバルくんも納得してくれるでしょうし、イベントに参加する皆さんも大喜びだと思いますよ。――くすっ」

 

「いいよ、オレを鬼役に選んだことをみんなに後悔させてやるよ。生まれて初めて、オレの中に眠る野蛮な闘争本能を解放してやる――」

 

「もちろん、リゲルの方からケガさせるような危ないことをしてはいけませんよ。暴力を振るった場合、レムが責任を持って鎮圧します。いいですね」

 

「生まれて初めて、オレの中に眠る野蛮な逃走本能を解放してやる――」

 

言い回しはともかく、ニュアンスを多少変えてリゲルは志を表明する。

レムがその発言に満足げに頷くのを見て、リゲルは嘆息。

 

「実際、鏡見てハマってるのはわかるけど……これ、本当にいいの?鬼のイメージダウンになる気がしない?」

 

「種族としての鬼は、もうほとんど滅んだも同然ですから。今さら誰に悪く言われても気にする必要はありませんよ。ちなみにイベントの最中、リゲルは血に飢えた獰猛な鬼族の首領という設定です。節分イベントの間に撃退できない場合、町中で虐殺が発生して一面が地獄絵図に変わる……という展開ですね」

 

「やっぱり見たまま蛮族じゃん!鬼である必要なくない!?」

 

「概念上の敵役として有効なんです。スバルくんの受け売りですけど」

 

鬼としての尊厳の話は別にしても、レムはあまりこの話を続けたがっていない。

鬼族はほとんど根絶状態、というのは一般常識として知ったことであり、リゲルはレムの口からそれを詳しく聞いたことはない。

思い返せば、両親の馴れ初めや過去のことも、あまり。

 

「……まぁ、聞いてもげんなりするだけか」

 

時折、両親――スバルとレムの二人に、奇妙な違和感を覚えることがある。

それは宿題を見てもらうときであったり、奇祭に限らず、出所のわからない知識を知っているときであったり、様々な場面の端々だ。

そうした二人の過去の片鱗が覗かれるたびに、リゲルは不思議な歯痒さを味わうことになる。なにせ、それは両親の中に、隠し切れない教育の痕跡が見え隠れしているのと同義だったからだ。

 

二人はたぶん、どこかで真っ当な教育を受けている。

その事実を自慢したい息子としての気持ちと、そのことをひた隠しにするように無為にする両親の姿勢への反感、両方があって。

いつか、その話も聞き出すことができるだろうか。

 

「でも、それは今じゃなさそうだよな……」

 

なんとなしにそう結論して、リゲルは自分の中に生じた疑念を後回しにする。

と、その内心には気付かず、レムは「さあ」と両手を叩いて、

 

「明日に備えて、衣装は片付けてしまいましょう。スバルくんに確認してもらえてないのは残念ですけど、当日のお楽しみということで」

 

「ホントにこれ着て逃げ回るのか……」

 

「リゲル以外の鬼役の人も、おんなじ格好だから恥ずかしくありませんよ。もちろん、本物の鬼はリゲルだけですけどね」

 

ベストから腕を抜き、パンツを履き替えながらリゲルは明日のことに不安が募る。

そんなリゲルを励ますように、レムは自慢の愛息子の肩を優しく撫でると、

 

「大丈夫です。リゲルはレムとスバルくんの、自慢の息子なんですから」

 

「でも、母ちゃんだけならまだしも、父ちゃんの子でもあるからさぁ……」

 

「それはむしろ、安心する要素だと思います。かえって、リゲルの中に流れているレムの血の方が足を引っ張らないか心配で心配で……」

 

「これはこれで不当評価だよね?」

 

スバルを好きで尊敬しすぎるレムの悪癖だ。

自分を卑下するわけではないのだが、少なくとも過小評価は否めない。

 

「オレの口から言って説得力あるかわからないけど、オレは母ちゃんの血が流れてて問題になることなんて何もないと思ってるよ。むしろ、さっきも言ったけど親父の血の方が心配だね。目つき以外にも、悪いとこが遺伝してそうで」

 

「目つきは素敵です」

 

「でも、たまに目が合っただけで女子泣くんだぜ……」

 

「まだ男の子の良さがわかってない年頃なだけです」

 

その頑なな信じる姿勢が、どうして自分のことになると極端に弱るのか。

実はその姿勢、スバルにも共通した感覚だったりするのだが、リゲルは父親の弱い部分はあまり見たことがなかったため、言及できなかった。

ともあれ、そんなリゲルの感慨はともかく、

 

「どうしてそんな風に母ちゃんが不安がるのか、正直、息子としてさっぱりわからないんだけど……オレが、証明すりゃいいのかな?」

 

「え?」

 

「オレが明日のイベントで、きっちり、何の問題もなく、完璧にやることこなして完勝すれば……オレが、父ちゃんと母ちゃんの子で、何の心配もないってわかる?」

 

「――――」

 

「前から気になってたんだよ。で、オレはそれを証明してやりたかった」

 

目を見開く母を見返して、リゲルは堂々と断言する。

 

ナツキ・スバルを夫として愛して、ナツキ・リゲルとナツキ・スピカの母として愛情を注いでくれる、ナツキ・レムという自信のない女性のことを。

彼女が、この世で最も、リゲルにとって尊敬に値する女性なのだと。

 

「親父に釣り合ってないなんて心配する必要、これっぽっちの欠片も微塵もする必要なんてねぇんだって」

 

「リゲル……」

 

「オレの、オレの母ちゃんは世界一なんだって、信じてもらいたかった」

 

自信がなく、幸せそうに振る舞うのに、小さくなってばかりの母を見てきた。

だからリゲルはそんな母に、もっと堂々と過ごしてほしかった。

 

父を愛し、息子と娘を愛するのと同じように、自分を愛してほしかった。

 

だって、スバルもリゲルも、そしてスピカも、レムを愛している。

レムが愛してくれるように、自分たちもレムを愛しているのだから、

 

「母ちゃん自身にだって、オレの母ちゃんのことは馬鹿にさせねぇ」

 

熱くなったように、熱に浮かされたような勢いのままに言い切って、リゲルはすぐにバツの悪い思いを味わう羽目になった。

締まりのない格好で、こんな場面でいきなり何を言っているのだか。

 

鬼のパンツとベストも脱いで、今は下着を履いただけの半裸状態だ。

この状態で真剣に何か訴えても、もはや喜劇にしかならない。長年、言いたいことをぶちまけたとはいえ、もっとタイミングがあっただろうに。

 

「あー、えっと、今のは、その――」

 

違うのだ、と訂正しようとして、それはできなかった。

 

「――――」

 

ふいに、リゲルの頭は伸ばされた両手に絡められ、唐突に抱き寄せられる。

柔らかい感触に頭が埋まって、リゲルはとっさのことに目を白黒させた。そしてすぐに自分が、母の胸の中に抱きしめられていることに気付く。

 

熱く、脈動する母の鼓動を間近に聞いて、リゲルは理解した途端に顔を赤くした。

母にべたべたに甘えるのが恥ずかしい年頃だ。こんな風に触れられることなど、もう何年も遠ざかっていて、すぐに恥辱の拒絶反応が出る。

しかし――、

 

「……母ちゃん?」

 

「――――」

 

抱きしめられる腕の震えと、無言の母の様子にリゲルは離れる動きを止めた。

そして抱かれたまま母を呼んで、返答のないレムの様子に、気付く。

 

「……う、ふ、ぇっ」

 

聞こえてきたのは、嗚咽だった。

それはリゲルにとって聞き慣れた、可愛い可愛い妹の泣き声ではない。それにとてもよく似ていたけれど、リゲルの聞いたことのない、別の人の嗚咽だ。

 

それが誰のものなのかすぐにわかって、リゲルはさっと血の気が引いた。

何かとんでもなく、傷付けることを言ってしまったのかもしれない。勢いのまま、感情のままに吐き出した言葉で傷付けたのだとしたら、それは取り返しのつかない過ちになる。

 

だからリゲルは何を言えばいいのか、混乱する頭で必死に絞り出そうとした。

だがすぐに、その葛藤と焦燥が、無用なものだと理解する。

 

「――――」

 

首を嫌々と横に振り、小柄なレムは自分より小柄な息子をしっかり抱きしめる。

震える腕に込められた感情は、拒絶でも傷心でもなく、ただただ深い愛情だ。それは触れられているリゲルが、誰より最初に如実に理解した。

 

だから、泣きじゃくる母を抱き返して、リゲルは優しくその背中を撫でた。

 

「泣かないでくれよ、母ちゃん。――親父に見られたら殺される」

 

「……そんなの、無理です」

 

「なんで?」

 

「こんなに嬉しいのに、涙が止まらないんですから」

 

案外、泣き虫なのだなと、十年付き合ってきたはずの母の姿に、リゲルは吐息した。

母に背負われたまま、スピカが抱き合う母と兄を見つめ、首を傾げる。そしてスピカは小さい紅葉のような手で、兄の真似をするように、母の背を撫で始めた。

 

泣きじゃくる誰かを優しく宥めるように、ゆっくりゆっくりと。

 

――兄妹は、嬉し泣きする母の背中をずっと撫で続けていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――結局、宝石を回収にいったスバルは、リゲルとスピカの二人が起きている間に帰宅することはなかった。

 

「明日のこともあるんですから、リゲルは早く休んでください。明日は早起きですから夜更かししてはダメですよ」

 

とは、泣きじゃくったことも忘れたように、普段の調子に戻った母の言葉だ。

ただ、そう言って布団に向かうリゲルの額に口付けしたレムの表情は、どこか昨日までとは違ったものになっていたように思えた。

結局、誕生日云々のことには触れられなかったが、それはスバルとの約束もある。掘り起こさず、あとのことは父に任せることにした。

 

そもそもこれ以上、今日は恥ずかしい言葉を口にする勇気が残っていない。

もう十分、十年溜め込んだものを吐き出したのだから。

 

「――――」

 

魔刻結晶を眺め、日付が変わるまでの残り時間を指折り数える。

レムの誕生日の間に、スバルの帰還は叶うだろうか。正直、妻への愛を証明するためなら多少の無茶をこなすのがリゲルの知る父の姿だ。

だからだろうか。残り時間がほんの十分を切ったとしても、リゲルは間に合わないのではないかと心配する心はなかった。

そして実際――、

 

「――レム、遅くなった!帰ってきたぞ!」

 

と、スバルが転がり込むように家に飛び込んできたのは、日付が変わる五分前――正しく祝えるのが五分とはいえ、約束はしっかり守ったわけだった。

 

「スバルくん、おかえりなさい。でも、そんなに騒がしくしたらダメですよ。リゲルとスピカはもうお休み中なんですから、起こしてしまうと可哀想です」

 

「あー、ごめんごめん。俺も逸る気持ちがあって……」

 

労いながら咎めるレムの言葉に、スバルが慌てながら謝る声が聞こえた。靴を脱いで家に上がる足音がして、リゲルは布団の中で寝返りを打つ。

すでに布団に入って数時間、何度も寝入りと目覚めを繰り返したが、心配事も片付いてようやく眠りにつけそうだ。

 

明日のことを考えれば、母の言う通り早く寝なければならない。今朝まで憂鬱で仕方なかったはずの明日のイベントが、今は少しだけ待ち遠しい気がした。

それはきっと、明日のイベントのことで、母に約束したから――。

 

「レム、遅くなってごめんだったんだけど、実はそれだけじゃないんだ。今日は仕事っていうか、私用で出てた。大事な用事で」

 

「私用、ですか?何か特別なことでもありましたか?」

 

「あったよ。お前はあんまり特別って思ってないかもしれないけど」

 

首を傾げ、本気で心当たりがなさそうに振る舞う母の姿が目に浮かぶ。

自分を過小評価するだけでなく、自分のことを軽視してしまう悪癖もあるのだ。それだけに正直、プレゼントのことは隠す必要もなかったのかもしれない。

それぐらい、レムは自分のことに無頓着だったのだから。

 

「あと二分しかねぇけど、受け取ってくれ。――誕生日プレゼントだ」

 

「誕生日……って、ぁ」

 

スバルのかしこまった物言いに、微笑むレムの声音がふいに途切れた。

それは思い当たる節があった理解と、同時にやってきたのはプラスとマイナス、どちらに感情が振れていいのかわからない戸惑いのようなものだ。

 

「――――」

 

おそらく、母が父から何かを渡され、困惑したまま視線をさまよわせている。もどかしく、レムの掌に乗ったままの箱を開けたのはスバルだろうか。

箱の開く音がして、中身を見たレムが小さく息を呑むのがわかった。

 

「これって……」

 

「ガーネット……って呼んでいいのかわからないけど、それだ。コツコツとこの日のためにへそくりを貯めて用意してた。いや、実際、焦ったぜ。当日に届かなきゃ意味がないってのに、途中で竜車が引き返しやがってさぁ」

 

「――――」

 

苦労話を語る姿勢のスバルの前で、レムは無言のままでいる。

そんなレムの反応に気付くと、スバルは微苦笑しながら頭を乱暴に掻いた。

 

「なんか、形に残るものを渡したいと思ってさ。十年、一緒に過ごしてもらった。誕生日だし、節分もあるし、改めてよろしくってことには相応しいだろ?」

 

「……いいんでしょうか、レムは」

 

「うん?」

 

「レムはこんなに幸せで、いいんでしょうか」

 

聞こえてきた声の震えに、リゲルは寝返りを打ち、二人の方に薄目を向ける。

隣の部屋だが、半分開けられた障子越しに向こうの部屋の様子は見える。スバルとレムは互いに向かい合い、レムは手の中の赤い宝石に目を奪われていた。

 

「誕生日……すっかり忘れていました。だって、そんなの……祝う資格なんて、ないってずっと思ってましたから」

 

「――――」

 

「レムは、同じ日に生まれた姉様を置いて、こうして……それは、とてもひどいことだったんだってわかっていて、だけど」

 

「うん、なんでも言えよ。ちゃんと聞いてるから」

 

「――っ。こんなに幸せでいいのかなって、ずっと、思ってました」

 

涙声、それは数時間前にも聞いたそれと同じだが、それよりも罪悪感の色が濃い。

母の口から放たれた、聞き慣れない単語、そのことに少しだけ驚かされる。姉様、と過去を匂わせる発言、だが、リゲルが驚かされたのは、息子の想像を超えて根深く横たわる、父と母の重苦しい過去のことだ。

 

「罪悪感を覚えるなって、それは無理な話なのはわかってる。俺も、同じだ」

 

「……はい」

 

「でも、それで何もかも悪かったんだって思いたくない。開き直りってわかってても、逃げてきたって知ってても、逃げた先で手に入ったものまで悪くしたくないよ」

 

「……はい」

 

常からは想像できない、本当に真剣なスバルの声に驚かされた。

それに何度も頷くレムの声にも、いつもの頼りになる母とも、父にぞっこんで身贔屓の激しい母とも違うものを感じる。

 

そこにいたのは、大切な思い出と絆を共有する、たった二人の男女で。

 

「この町の暮らしも、リゲルとスピカも、色んなことがあって、今の俺とお前がある。それが幸せに繋がってるって、その証拠を形にしたい。それがその宝石だ」

 

「――――」

 

「もしも、お前がそれを受け止めるのがまだ辛いっていうなら、その宝石をすぐにどうこうしてほしいとは言わない。仕舞ってくれても構わない。でも、捨てるのだけは勘弁してくれ。それは、やっちゃダメだと思うんだ」

 

訴えかけ、一歩、歩み寄るスバルにレムは何も言わない。

おずおずとスバルが手を伸ばすと、レムはその腕に抱かれるままに引き寄せられる。そうしてレムを抱きしめながら、スバルはその頭を優しく撫でる。

そして撫でられながら、顔をスバルの胸に埋めるレムは小さな声で、

 

「今日、リゲルに言われました」

 

「うん」

 

「レムは……世界一の母親だって」

 

「ああ。知らなかったのか?」

 

「……はい、知りませんでした」

 

リゲルからの言葉を打ち明けるレムに、スバルは何でもないことのように答える。

そのあっけない返答に、レムは顔をくしゃくしゃにして、微笑んだ。

 

細められた眦から涙が溢れて、白い頬を伝って流れ落ちる。

涙と共に、彼女の胸の中にわだかまっていた、罪悪感と幸福感のせめぎ合いによって生まれた、何か言葉にできない感情を洗い流すように。

 

「前に一度、言いましたよね。レムは、リゲルが生まれたときにホッとしたって」

 

「――――」

 

「スバルくんとの間に、決して消えない繋がりができて、安心したって。家族になれたんだって思って、ホッとしたんです。嫌な子です」

 

「嫌なもんかよ、普通だ。俺の嫁の悪口は、俺の嫁にも言わせねぇぞ」

 

「……ふふっ。それ、本当にリゲルにも同じこと言われましたよ」

 

「え?あいつ、レムのこと自分の嫁とか言ってんの?それはマザコン拗らせすぎだし、ちょっとキモイだろ……」

 

「違いますよ。リゲルはスピカは自分のお嫁さんって言ってますけど」

 

「あいつはシスコンの鑑だな」

 

不名誉なやり取りをされているが、リゲルは黙ってその流れに身を任せた。

そうして、思い出したような笑みをひとしきり交換して、それから長く息を吐いたレムは、スバルの胸の内からその顔を見上げて、

 

「レムは勝手に、一方的に愛しているんだと思っていたんです。自信がないままで、だから一生懸命、好きだってずっと示そうと思っていました」

 

「すげぇ馬鹿だな」

 

「はい、すげえバカなんです。――それを、リゲルに言われてしまいました」

 

くすぐったげにレムは笑って、息を止める。

そしてレムはスバルの胸に手を当てて、その体を軽く押し退けると、一歩、二人の間に距離を作って、

 

「スバルくん、誕生日プレゼントありがとうございます。――付けてくれますか?」

 

「……いいのか?急ぐ必要ないんだぞ?」

 

「違いますよ。逆です。レムはとっくに、ゴールについていたんです。だから、そのご褒美をもらって、証明したいだけなんです」

 

「証明?」

 

「――レムが、世界一の夫と、世界一の息子と、世界一の娘に囲まれた、世界一幸せな女であるということをです」

 

堂々と、自信のないばかりだったレムが、自信に満ち溢れた顔と声で言った。

その内容にスバルは鼻白むと、すぐに破顔する。

 

えへん、とばかりに胸を張るレム。そんな妻の態度にスバルは満足げに頷くと、彼女が差し出す掌に乗っている宝石、それが嵌め込まれたペンダントを手にした。

そして、

 

「愛してるぜ、レム」

 

「はい、レムも愛しています。スバルくん」

 

ペンダントを首に回して、赤い宝石がレムの胸元で優しく煌めく。

それを見届けると、二人は笑い合い、それからそっと顔が近付いて――、

 

「――やれやれ」

 

そこまで見たところで、リゲルは寝返りを打って、隣室に背中を向けた。

この先、親のいちゃつきを目にするのは神経を削がれるし、無粋だ。

 

父と母は今日も仲睦まじく、幸せに過ごしている。それでいいではないか。

そしてそれはこれまでもこれからも変わらない、ナツキ家の日常なのだ。

 

「――――」

 

寝ころんだまま、リゲルは同室で寝ているはずのスピカのベッドを見る。

寝返りなどの対策をされた、スバル曰くベビーベッドに眠るスピカは、まるで空気を読んだみたいに夜泣きせず、両親の逢瀬を邪魔せず眠り続けていた。

 

今日は母の誕生日、あるいはもう日付は変わってしまっただろうか。

それでも、明日か今日だかは節分――少しだけ形式は違うものの、鬼が主役の日。

 

母にとっては昨日だろうと今日だろうと明日だろうと、主役の一日だ。

だからめいいっぱい、幸せなのだと、愛を感じてもらおうじゃないか。

 

差し当たっては――、

 

「節分イベントで、オレは世界一の息子ってことを証明しなきゃいけないのか」

 

証明することのハードルが上がって、リゲルは布団の中で嘆息した。

けれどそれは、普段の気が重かったり滅入ったり、テンションが上がらなかったりやる気が削がれたり、そうしたときに出てくるため息とは違うもので。

 

――明日は晴れやかな空の下、最高の鬼を演じてやろうではないかと、健やかな心地で眠りにつくのだった。