『ゼロカラカサネルイセカイセイカツ』


夢、夢を見ていた。

 

薄らがない夢を、繰り返される夢を、終わらない夢を、終わらせない夢を――。

 

幾度も重ねて、幾度もやり直して、幾度も誤って、幾度も正して。

千回、紡いで。万回、繋いで。億回、超えて。いつしか、数えること忘れて。

 

苦痛があり、驚愕があり、混濁があり、破滅があり、憎悪があり、狂乱がある。

摩耗し、揺すぶられ、ねじ曲げられ、退廃し、慟哭させられ、心を砕かれる。

 

それでもなお、届きたい場所があって。

それでもなお、守りたい願いがあって。

 

繰り返し、重ねられる悲劇の形を誰が知らなくても、忘れないために。

たとえ誰も気付くことがなくても、自分だけは忘れ得ないように。

 

――たとえ、救いたい相手が泣いたとしても、救いたい。

 

だから、その手を取ったことに、今も悔いはない。

悔やむことがあるとすれば、その手を取ることに躊躇いと迷いを抱く、自分の弱くて脆くて、鋼に届かない心が、悔しかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――虚ろな夢から目覚めたとき、最初に感じるのはいつも鈍い頭痛だ。

 

「――――」

 

睡魔の指先に抗いながら目を開き、何度か瞬きして意識を浮上させる。

ぼんやりと、意識には曖昧な霧がかかったままだが、血の巡りが悪いのはほんの数秒のことだ。すぐに意識は眠りから剥離し、覚醒が肉体に活動力をもたらす。

 

「ぁ、あー」

 

そうした肉体の目覚めと裏腹に、その口から漏れ出すのは間延びした声だ。

一見、寝惚けているようにも思える行いだが、これも朝の大事な儀式の一つである。仰向けに転がったまま、こうして声を出すことでいくつもの情報が流れ込んでくる。

 

声の調子、自意識の確立、手足の無事、記憶の整理、日課の運行、命の有無――。

決まった行いを毎朝、必ず行うことでそれらが確かめられる。

 

それこそが、ナツキ・スバルが大過なく朝を迎えられたことの証明になるのだ。

 

「ふぁ」

 

欠伸とともに掛布団をどかして、上げた足を振り下ろす動作で上体を起こす。

乱暴に頭を掻きながら周りを見れば、それは見慣れた一室――それなりに豪華な調度品と、天蓋付きのベッドが置かれた自室の内装が飛び込んでくる。

ただし、スバルが目覚めたのは天蓋付きのベッドではなく、部屋の奥に置かれたソファの上だった。そこで布団にくるまり、丸まって夜を明かすのがこのところの――否、この数年のナツキ・スバルの就寝習慣である。

 

とはいえ、寝台で眠らないことにはそれほど大きな理由はありはしない。

ただ単に少しでも、寝心地のいい環境を用意しようと苦心しているだけだ。そんな試行錯誤の結果、寝台で眠るより、ソファで寝ることに安堵感を覚えることを学んだ。

以来、そうしている。それだけの話である。

 

「――――」

 

目を擦りながら、その寝床にしているソファから降りると、スバルは身支度を整えるために洗面所へ向かう。寝室と隣り合わせの洗面所で顔を洗い、濡れた顔を鏡に映してじっくりと自分の顔を観察する。

疲労感の残る顔つきと、どこか虚脱感を思わせる眼差し。だらしなく気抜けした頬も相まって、三拍子欠けて腑抜けていた。

その面構えを引き締めるために、スバルは自分の頬を両手で思いっきり叩く。

乾いた音と痺れる痛みに涙が浮かび、それを押し流すように冷水を顔に浴びせる。そして再び濡れた顔を鏡に映し、顔つきと眼差しと頬を入念にこねながら、念じる。

 

「笑え、俺。できなきゃ、死ね」

 

魔法の呪文を唱えて、それからスバルは口元を歪めた人相の悪い笑みを作る。

白い歯を見せ、三白眼を細めた笑顔は、十八年以上も付き合いのある自分の悪人面だ。目も表情も顔色も、問題なく『擬態』できている。

 

「よーし、よし、キープだ」

 

その笑顔を確認して、スバルはタオルで顔を拭くとさっさと服を着替えにかかる。

屋敷で過ごすとき、スバルの格好は使用人の制服――ではなく、それなりに格調高い貴人の礼服だ。とはいえ、堅苦しい上着は脱ぎ、白いシャツの袖をまくったラフなものに着崩している。だが、そうした対外的に相応の格好が今は当然のように求められる。

それらはどうにも息苦しいが、仕方のないことでもあった。立場に相応しい格好をすることは義務であり、それはスバル自身が望んで得た立場であるのだから。

 

「そろそろ、いつもの時間になっちまうな」

 

着替えが終わり、部屋の扉の上に備え付けられた魔刻結晶を見上げ、そう呟く。

濃い緑色に発色するそれは朝の到来、そして予定起床時間を間近にしたことを示していた。どうやら、今朝は少しばかり、笑顔の形成に時間をかけすぎたようだ。

あと数分もすれば、時間に几帳面な少女が定刻通りに部屋の扉をノックするだろう。

その前に、済ませるべきことを済ませなくてはならない。

 

「――――」

 

意識を切り替えると、スバルは自分のシャツの胸元をはだける。そこには就寝中も外されずにあった、『黒い結晶』を細いチェーンで繋いだペンダントが下がっている。

妖しくきらめく黒いクリスタル、それを掌に握り込み、スバルは目を閉じた。

冷たく硬い結晶石の感触――それはスバルの掌に包まれると、途端に熱を持ったかのように存在感を増し、まるで生物であるかのように脈打ち始める。

 

自然、掌中で発生した奇妙な鼓動、そのリズムと回数を無意識が数え始める。

全力で走ったあとの脈拍よりも早く、高く鼓動を打ち続ける結晶石。その脈動はいつしかスバル自身の心音と重なり、心臓の鼓動と結晶石の脈動が等しくなった。

それを脳が理解したとき、スバルの意識は肉体の頸木から解放されて、現実ではありえない別の空間へと誘われている。

 

瞬間、世界から音も気配もなくなり、代わりに眩い光が意識を包み込んでいた。

 

「――――」

 

光に塗り潰された意識、それがゆっくりと覚醒に導かれる。

閉じていた瞼を開けば、降り注ぐのは目に沁みるような陽光だ。そして、瞬きする眼前に広がっていたのは、風の吹き抜ける壮大な草原だった。

 

広い、どこまでも続く緑色の草原だ。

見渡す限りに草の海が続いており、背の低い草の群れは穏やかな風に柔らかになびく。頭上、空には雲一つない晴天があり、注ぐ陽光は宝石のようにきらめいていた。

空の青と大地の緑が延々と続き、それらははるか遠くの地平線で薄く交わる。現実感の欠けた夢幻の世界に相応しい、悠久と思える静寂がそこにあった。

 

壮大で、澄み渡り、何もない空間。――そんな世界に一つだけ、異質な部分がある。

 

「――――」

 

草原の中心、そこに立つスバルが振り返れば、そのすぐ背後にはなだらかな坂があり、それは小高い丘へと続いている。

丘の上にはささやかな花園があり、その可憐な花々のすぐ傍には日の光を受けるパラソルと、白いテーブルが存在していた。

 

「――――」

 

無言のまま、スバルはその丘を上がり、パラソルの下に入り込む。

白いテーブルには湯気の立つカップが置かれていて、陶器の中は琥珀色の液体が温かに満たされていた。

配膳された二つのカップと、テーブルを挟むように置かれた白い椅子。

片方は自分に用意されたものと、スバルは確認も取らずに椅子に座り、まだ淹れたばかりと思しきカップに口を付け、お茶で喉を潤した。

 

――相変わらず、おいしくもマズくも感じない、妙なお茶だ。

 

ただ、このお茶に最初に必ず口を付けること。

それがこの場所の主と交わした約束であり、奇妙な関係の挨拶代わりでもあった。

ただし――、

 

「あー、飲んだ飲んだ、ごっそさん。じゃ、さっさと本題に入ろうぜ」

 

「――確かに、最初の一口は挨拶代わりも同然とボクが言ったのは事実だよ。だけど、それは決して挨拶しなくても構わない、という意味ではないと思うんだけどね」

 

お茶を飲み干し、テーブルにカップを投げ出したスバルの一言。その内容に、テーブルを挟んで向かい合う人物が薄く微笑みながら苦情を申し立てた。

その苦言に、スバルは鼻の頭を指で掻きながら、

 

「……挨拶なんて別に必要なくね?四六時中、俺の頭の中を観察してるお前にしてみたら、出会ったも別れたも意味なんてねぇだろうし」

 

「それとこれとは話が別だよ。第一、四六時中、君のことを覗いているだなんて人聞きの悪い言い方はよしてもらいたいな。仮にそれが事実であったとしても、ボクだって花も恥じらう乙女な年頃なんだ。意中の男の子をずっと見つめているなんて知れたら、外聞が悪いにも程があるじゃないか」

 

「花も恥じらう乙女って、俺の知らない間に言葉の使い方の概念が変わったの?」

 

「辛辣だね。まぁ、乙女と言い張るには年齢的に無理があるかもしれないけど」

 

そう言って、相手は苦情の内容と裏腹に口元を楽しげに緩めていく。

すっかり慣れた軽口の交換、相手はスバルの不躾な態度にもかなり寛容だ。――というより、そんな言葉の応酬さえも楽しんでいる、そんな様子だった。

 

そうして微笑まれることに、スバルの心には歪な罪悪感が募らずにはおれない。

かといって、どんな風に接することが正解なのか、それさえもわからない。目の前にいる相手にだけは、その最適解を突き止める手段が全く通用しないのだから。

 

「やっぱり、お前は嫌な女だな」

 

「それは嬉しいな。優しくて欲深い君にとって、凡百の好ましい誰かになるよりも、君が救いの手を差し伸べる価値を見出さない無関心な誰かになるよりも、君の心を残酷に傷付けて、抜けない楔を突き刺す憎らしい誰かになる方が、ずっとボクには喜ばしい」

 

すっかりこなれた相手には、皮肉も嫌味も通用しない。

その返答にスバルは嫌そうな顔で鼻を鳴らしたが、それはますます相手を喜ばせる結果になっただけだった。

 

「さて、これ以上、君の反感を買って嫌われるのも心が痛む。そろそろ、今朝の逢瀬の目的を果たそうじゃないか」

 

「嫌われるのは本望じゃなかったのか?」

 

「女の子の可愛い強がりってやつだよ。そのぐらい、見抜いて受け入れてほしいな」

 

「可愛い……?」

 

心底、疑わしげに首を傾げるスバルに、相手は微苦笑した。

そして――、

 

「本当に、君はどこまでも物怖じしない人間だ。『強欲の魔女』として、そんなところが気に入っているよ。――ナツキ・スバル」

 

契約者が自らに相応しいことに、『強欲の魔女』は。

エキドナは嫣然と目を細めて、心から嬉しそうに微笑んだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「今日はキスダムの月、十四日。……それは間違いないよな?」

 

「安心してくれていい。君は昨夜、何事もなく眠りにつき、今朝も何事もなく目覚めた。一晩の間に最悪の事態は発生していない。そう心配しなくても大丈夫だよ」

 

「馬鹿言えよ。そうやって何もないと思って眠って、朝起きたら死んでたことだってあるんだよ。いつどこで死ぬのかなんて、どれだけ気張っても足りるもんかよ」

 

魔女の楽観に舌打ちして、スバルは絶望的な喪失感を味わった『死』を思い出す。

ただ漫然と、必ず訪れると疑いもしなかった明日――それが何の前触れもなく奪われ、唐突に『死に戻り』した事実と、親しく過ごした人々に忘れられた現実、それがどれだけの恐怖と失望をもたらしたことか、忘れられるはずがない。

 

「そうだね。今のはボクが軽はずみだった。謝るよ」

 

「……いやに素直だな?」

 

「悪いと思えば謝りもする。ボクはそれほど物分かりの悪い女じゃないって、それは君にもきちんと見せてきたつもりでいるんだけどね」

 

過敏に反応してバツの悪いスバルに、そう言ってウィンクするのは黒い服の少女だ。

その少女のことを語ろうとするとき、最初に目につくのは目を奪われ、心を絡め取るような魔性の美貌と、その美しさをたったの二色が表現する驚愕の事実だ。

 

長く、雪のように美しい白髪は腰ほどまでに伸び、細くしなやかな肢体は黒い喪服のようなドレスに包まれている。椅子に腰掛け、長い足を組んだ姿にはどこか退廃的な色気が漂っており、薄い唇がカップの液体を嚥下する姿には異常にそそる艶があった。

それは、無理やりに触れれば滅びを免れないと直感できる倒錯的な魔貌――それにも拘らず、触れようと挑む者が絶えなかった逸話の残る、終焉をもたらす災厄の魔女。

 

それがスバルと契約を交わした、黒ずくめの白い少女、エキドナの正体である。

 

「――じー」

 

「――?どうしたんだい。じっとボクの顔を見つめて。何かついているかな?」

 

「ああ、目と鼻と口と耳と毛が」

 

「……何故だろう。当たり前のことを言われているのに、変に侮辱された気分になる」

 

スバルの受け答えに眉をしかめて、不満げな顔をするエキドナ。その彼女にスバルは「待て待て」と手を上げ、

 

「別に侮辱とかそんなつもりはねぇよ。ただなんとなく、魔女って前評判のわりにはそこまでビックリ人間でもねぇよなって、そう思ってただけ」

 

先ほどは退廃的だの倒錯的だの色々と表現したものの、こうして実際に話してみれば、少しばかり癖の強いところはあるが、気さくと言えなくもない普通の少女だ。

無論、魔女らしく歪んだ部分があることは否定しないが。

 

「ほほう、それはなかなか珍しい意見だね」

 

と、そんなスバルの感想に、エキドナはどこか楽しげに唇を緩めた。

彼女はカップをテーブルに置くと、長い足を組み直して自分の白髪をかき上げる。

 

「これでも、ボクは四百年前には色々と各地に逸話を残した魔女の一人だよ。そのボクを捕まえて、普通とは聞き捨てならないね」

 

「特別扱いに憧れる中学生みたいなこと言い出したな」

 

「君に、と付け加えるとボクの心情にだいぶ近付くけどね。でも、それだけじゃない。そのことも、君と初めて会ったときに話したはずだよ」

 

「あー、なんだっけ。確か、耐性がない人だと初見で吐かれる見た目なんだっけ」

 

「そこだけ切り取られると、ボクの人物像が激しく誤解されている気がするな」

 

威厳ある魔女の風格が一転、スバルの受け答えにエキドナが拗ねる。

その反応にスバルは「まあまあ」と適当に応じて、ずれた話題の修正にかかった。とはいえ、話す内容は朝の日課としては十分だ。

 

「与太話に終始してる場合でもない。俺はとっとと現実に戻らせてもらうぞ」

 

「もういくのかい?もう少しぐらい、ここで時間を潰しても誰も文句は言わないよ。知っての通り、ここで過ごした時間は現実に影響しない。気休めになるならいくらでも……ボクも、それに期待している」

 

椅子から立ち上がって背伸びするスバルを、エキドナがそう言って引き止める。

その魔女の甘言にスバルは首の骨を鳴らして、

 

「そうだな。正直、俺もここに長居する選択肢で救われるのはわかってるけど……」

 

そこで言葉を切り、振り返りざまにスバルはエキドナを見下ろした。

魔女の黒い瞳と、スバルの黒瞳とが真っ直ぐに視線を結び、絡み合う。

だが――、

 

「俺はそんな風にお前に甘えるつもりはない。そんなつもりの契約じゃないのはわかってるはずだぞ」

 

「まったく、素直じゃないな。ボクはこの世界でただ一人、君の苦しみも悲しみも共有できる共犯者のつもりでいるっていうのに」

 

「――俺は苦しみも悲しみも、誰かに預けるつもりなんてない。これは俺だけのもんで、俺だけのもので済ませるのが、俺とお前の契約した理由だ。そうだろ」

 

拗ねた顔のまま肩をすくめるエキドナに、スバルは低い声でそう断言した。その返答にエキドナは目を伏せ、無言で自分のカップに口を付ける。

それは反論する言葉をなくし、会話を続ける理由もなくしたことの意思表示だ。

それを見届けると、スバルは彼女に背を向け、丘の下へ向かおうと踏み出す。が、その前に立ち止まり、魔女に振り返った。

 

「ところで、お前、さっき四六時中、俺のこと覗いてるのを否定しなかったよな?」

 

「……仮に、と言ったと思ったけど?」

 

「仮にそれが事実だったとしても、って言い方は言外にそれが事実だって認めてる文脈だと俺の国語力は思うんだが」

 

「――――」

 

「――――」

 

スバルの追及に、エキドナは小さく吐息した。そして再びカップに口を付ける。それは会話を続ける理由をなくした意思表示であり――、

 

「お前、それやれば俺が引き下がると思ってんじゃねぇだろうな。ちゃんと倫理的に問題がある場合、覗き見はストップしてんだろ?な、してるよな?」

 

「当然じゃないか。ボクだって、君の入浴や用を足す場面まで覗き見るほど下品じゃない。ただ、そうした無防備な場面で何事も起こらない確信がない限り、君の契約者として目を背けるわけにはいかないとも思う。これはあくまで、約定を順守する『強欲の魔女』としての義務感からの行いで……」

 

「今度から、風呂とトイレに入るときはペンダント外すからな」

 

早口で言い訳する魔女にそう言って、スバルは羞恥心を噛み殺しながら丘を下った。

丘の下、スバルが最初に草原に出現した地点には、いつの間にか扉が生じている。独立した一枚の扉、それは外の世界への出入りを可能とする唯一の扉だ。

 

「――――」

 

扉の前に到着し、ドアノブに手をかけたスバルはなんとなしに振り返る。

すると、丘の上では風になびく髪を押さえ、所在なさそうに立つエキドナがこちらの背中を見下ろしていた。

それを見上げるスバルの視線に気付くと、彼女は少しだけ逡巡し、やがてスバルに小さく手を振る。それに何の返礼もせず、ため息だけ残してスバルはドアを潜った。

 

――直後、夢の世界に囚われていた意識が解き放たれ、現実へと回帰する。

 

「――――」

 

意識が現実に舞い戻ると、スバルは黒い結晶石を握り込んだ姿勢のまま、自室の真ん中で棒立ちになっていた。

長く息を吐いて、扉の上の魔刻結晶に目を向ける。色は緑、輝きに変化はない。

夢の世界で過ごした時間は、現実時間にしてほんの数秒、それが証拠だ。

 

「しかし、慣れねぇな……」

 

夢の世界に足を運び、エキドナとの茶会を過ごすのは毎朝の日課だ。

だが、そこから現実に舞い戻り、体感時間と実時間のズレが生み出す違和感は、なかなか容易に脳に馴染まない。『死に戻り』、それともまた異なる感覚だ。

そのことにスバルが嘆息する。と、

 

『ここは発想を逆転して、慣れないことに慣れるというのはどうだろう。気休めに過ぎないけど、少しは楽になるかもしれないよ?』

 

まるで耳元で囁かれるように、今しがた別れを告げたばかりの魔女の声がした。

それは実際に耳元で囁かれたわけではない。その声は契約により、首から下げた結晶石を通じて流れ込んでくる魔女の思念波だ。夢の世界へ赴かなくても、スバルとエキドナとは契約によってパスが繋がっている。

そのため、こうして夢の世界から、魔女はスバルに直接語りかけることが可能なのだ。

ただし――、

 

「用事のないときは軽はずみに話しかけてくるなって言ってあるだろ」

 

『周りに誰もいないんだ。別に部屋で一人のときぐらい、ボクに構ってくれても罰は当たらないと思うんだけどね』

 

「うっかり人前で同じことして、見えない誰かと会話してるような痛い奴だと思われたらどうするんだよ」

 

『その評価は今さらな気がするけどね。それに、精霊使いなんかは契約精霊と思念波で会話することも珍しくない。独り言も、それほど目立たないよ』

 

「精霊使いの場合はお互い思念波。俺の場合はお前が思念波、俺は独り言。傍から見たら俺の方が痛い」

 

『はいはい、わかったよ。君のお望み通り、必要なとき以外は黙っていることにする。魔女を言いなりにしようなんて、君はずいぶんと亭主関白なんだな』

 

「い・い・か・げ・ん・に・だ・ま・れ」

 

『やれやれ。御用があれば遠慮なくお声がけください、契約者殿』

 

声色に怒りを交えてやると、エキドナは芝居がかった言葉を残して引っ込んだ。

それでも、魔女はペンダント越しに世界を覗き見ているはずだが、ひとまずそのことは頭から追い払い、スバルはすっかり癖になっているため息をついた。

今後、ペンダントは風呂とトイレのタイミングに必ず、尻ポケットにでも突っ込んでおくことにしよう。――などと、そう思ったときだ。

 

「――スバル様、起きていらっしゃいますか?」

 

部屋の扉が外からノックされて、いつもの起床時間の到来が知らされる。

投げかけられた柔らかな声に、スバルは小さく咳払い。それから頬に手を当て、鏡で確認した笑顔を作れるように意識してから、「おいよー」と気抜けする返事をした。

それを受け、扉がゆっくりと開け放たれると、一人の少女が部屋に入ってくる。

 

「おはようございます、スバル様。今朝も、気持ちのいい朝ですよ」

 

そう、微笑みながら言ったのはメイド服姿の少女――スバル付きのメイドである、ペトラ・レイテであった。

 

出会った頃はまだ幼い蕾だった彼女も成長期に入り、今まさに美しく咲き誇る過程にある。昔と比べて背丈と手足が伸び、可憐なメイド服もますます板についてきた。

その所作や振る舞いも、愛らしい衣装に決して負けていない。元々、彼女は物覚えも要領も良い少女だった。今のペトラはメイドとしても、一流の域に達している。

 

華の十四歳――すっかり大人びたペトラの微笑みに、スバルも笑顔で応じた。

 

「ペトラもおはようさん。気持ちのいい朝……そりゃ同感だ。今日も朝からペトラの可愛い顔が見れて、俺も大満足ってもんだもんな」

 

「また、スバル様ったらそんなこと。……でも、森の向こうの空には雲がかかっていて、午後から天気が崩れるかもしれないみたいです。今日は町にお買い物にいく予定があるので、晴れたままでいてくれるといいなぁ」

 

スバルの挨拶に小首を傾け、そっと窓の方へ目を向けたペトラがそう呟く。その言葉尻にかすかな幼さの片鱗が残っていて、スバルは小さく噴き出した。

 

「あ、やだ、スバル様」

 

「いやいや、今、ちょっとだけ立派なメイドさんの殻が破れてたな。ペトラらしい」

 

「もう、そんな風に子ども扱いするのはやめてください。わたしも、すっかり大人になりました。メイドの仕事だってもう二年……一人前なんですから」

 

赤みがかった茶髪を揺らして、ペトラは恥ずかしげに頬を赤らめて唇を尖らせる。そんな可愛らしい妹分の姿に、スバルは笑ったまま少女の頭をぽんぽんと撫でた。

その感触にペトラは幸せそうに目を細め、それから名残惜しげに吐息をつく。

 

「それで、今朝はどうされますか?まだ朝食には早い時間ですけど……」

 

「あー、とりあえずいつもの日課だけ済ませて、大丈夫そうならみんなで朝ご飯かな。きつそうなら……とりあえず、いつもの通りで」

 

「……はい」

 

スバルの答えに微かに目を伏せ、ペトラは難しい顔をする。可愛らしい少女にそんな顔をさせておくのがしのびなくて、スバルは頭を掻きながら、

 

「ともあれ、今日もありがとな。わざわざ、起こしにきてもらってさ」

 

「――――」

 

「ペトラ?」

 

「スバル様の、そういうところ、本当に不器用」

 

話題の転換が下手くそなスバルをそう評して、ペトラは呆れた風に嘆息。それから少女は首を横に振ると、花の咲いたような笑顔を作って、

 

「いーえ、これもわたしのお仕事ですから。それに、スバル様は寝坊されることがないのでとても楽ちんです。……それはもうちょっと、だらしなくてもいいのに」

 

「ん?」

 

「なんでもありません。では、また後ほど。失礼します」

 

毎朝のお勤め、スバルの目覚まし係を終えて、ペトラはお行儀よくスカートを摘まんでカーテシー。そして、スバルに見送られながら部屋を出ていった。

扉が閉まり、スバルはペトラの成長ぶりに満足げに頷く。

 

「ペトラも立派になったもんだ。兄貴分として鼻が高いぜ」

 

『彼女の方は、君のことを兄貴分だなんて思っていないようだけどね』

 

「……必要なとき以外は黙ってるって言ったばっかりでこれか。魔女様ってのはずいぶんと簡単に約束を破るもんなんだな」

 

独り言に相槌を打たれて、スバルは沈黙に耐え切れない魔女の辛抱弱さに呆れる。が、すぐに諦めの嘆息を残すと、ペトラの消えた扉に目を向けて、

 

「俺はあの子の兄貴分だよ。で、ペトラは俺の可愛い可愛い妹分だ。だから、あの子には幸せになってもらうさ。――それは絶対だ」

 

『絶対、幸せになってもらう、か。……存外、それは恐ろしい言葉かもしれないね』

 

スバルの硬い声音に、エキドナは茶化すでもなくそう言った。

その魔女の言葉を聞き流して、スバルは軽く伸びをしてから部屋を出る。

屋敷の廊下は早朝の気配に冷え切っており、スバルは身震いしながら、その冷たい空気を肩で切りながら歩き出した。

 

――毎日の『日課』、それに取りかからなければならないからだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

この数ヶ月、朝のロズワール邸では壮絶な『殺し合い』が繰り広げられている。

 

もっとも、それを『殺し合い』と呼ぶのは当事者たちにとっては心外かもしれない。

ただ、その攻防を傍から眺めるスバルにとって、それは『殺し合い』と呼ぶ他にないほど苛烈なやり取りが交わされているのだ。

事実、少なくともぶつかり合う二者の片方は殺すつもりで挑みかかっていることは間違いない。だが悲しいかな、それを相手取るもう一方はその獰猛な戦意を軽々といなす。

その二者の間に存在する実力差は、誰の目にも絶望的なほど明らかだった。

無論、だからこそ、こんな危険な日課が毎朝続けられているのに違いなかったが。

 

「る、ァァァ――ッ!!」

 

吠え猛り、中庭の芝生を吹き飛ばす勢いで蹴り足が爆発する。

踏み込み、激しい推進力を得た金色の影が真っ直ぐ猛進、敵影へ獣爪を叩きつけた。

それは分厚い鉄板を引き裂き、人体であれば易々と挽肉に変える非情な一撃――獣爪は無数の連撃となって荒れ狂い、獲物の逃げ場を封じるように襲いかかる。

しかし――、

 

「残念だけど、隙が大きいな」

 

「が、ァ――ッ!?」

 

降り注ぐ致命的な獣爪の乱舞を、影は最小限の身躱しで避け切る。直後、一声とともに長い足が跳ね上がり、獣の胴体が真下から穿たれた。

その一撃に苦悶の声が上がり、仕掛けた側の体が真上へ打ち上げられる――、

 

「が、づォ――!?」

 

――はずだったが、そうはならない。

真上へ突き上げられる体が、それを迎え撃つように振り下ろされる踵に迎撃されて地面に激突する。その衝撃は芝生の地面に円状のクレーターを生み、獣は大の字になって完全に沈黙し、身動きが取れなくなった。

 

「続けるかい?」

 

「――ぁ、ぉ」

 

呻き声を上げる敗者に、勝者が続行の意思を問いかける。

それは嫌味でも皮肉でもなく、純粋に闘争心へ投げかけた言葉だ。だからこそ、それは深々と敗者の魂を傷付ける。

だから――、

 

「無自覚だろうけど、皮肉にしかなってねぇよ。武士の情けでやめてやれって」

 

すでに勝敗の決した場面に割り込み、スバルは頭を掻きながらそう声をかけた。その言葉に、大の字に倒れる相手を見下ろしていた青年が振り返り、笑みを浮かべる。

燃えるような赤毛の青年はスバルに手を上げ、

 

「やあ、おはよう、スバル。今朝も早いね」

 

「お前らほどじゃねぇよ。それにしても毎日、飽きないっつーか懲りないっつーか……別にお前も律儀に付き合う必要ないんだぞ、ラインハルト」

 

「強くなりたいっていう彼の志は間違ってない。それに日に日に彼が強くなっているのも事実だよ。そう遠くないうちに、僕に追いつくときもくるんじゃないかな」

 

「そうか?……ちょっと俺には想像つかないけどな」

 

赤毛の青年――ラインハルトの言葉は、冗談でも謙遜でもない雰囲気だ。

その彼の自他評価にスバルは片目をつむり、地面に寝転がったままの人物を見た。

 

そこに転がっているのは、短い金色の髪をした少年だ。

苦しげに喘ぎ、いまだ戦闘不能状態にあるが、その緑色の瞳に宿る戦意は全く薄れていない。が、体は意思に従わず、ただ悔しげに歯軋りしている。

その悔しがる気持ちに理解があり、スバルは少年に手を差し伸べた。

 

「ほれ、立てるか、ガーフィール。あんまり凹むな。お前が……」

 

「……気安く、触ろうとしてんじゃァねェよ。別にてめェの手なんざ借りなくッても立てるってんだよォ」

 

差し伸べたスバルの手を振り払い、金髪の少年――ガーフィールが牙を剥く。

だが、それが強がりなのは誰の目にも明らかだ。顔には苦痛が色濃く、呼吸も荒い。ただ、その虚勢を馬鹿にするほどスバルも大人げなくなれなかった。

振り払われた腕を軽く振って、体を起こすガーフィールにスバルは嘆息し、

 

「まぁ、お前がそう言うなら好きにしろよ。でも、朝飯の前に水浴びして、汗と泥は落としとけ。さもないと、ラムに嫌われるぞ」

 

「……ッせんだよ。言われなくッたってわかってらァ」

 

スバルの苦言に頭を振り、ガーフィールは顔をしかめながら立ち上がる。その膝はまだ震えていたが、それでも歩けないほどではない。

驚異的な回復力で立ち直り、ガーフィールは涼しげに立つラインハルトを睨んだ。

 

「次ァ、負けッねェ」

 

「期待しているよ」

 

嘘の響きが欠片もないラインハルトの答えに、ガーフィールは鼻を鳴らした。それから足を引きずる少年は、スバルの横を通りすぎるときにちらりとこちらを見て、

 

「――けっ」

 

と、忌々しげに舌打ちすると、そのまま中庭から屋敷へ引き上げていった。

その様子を苦笑で見送り、スバルはやれやれと首を横に振る。

プライドは傷付き、バツの悪さもあるはずだ。それでも、悪感情は朝食までに汗と一緒に水に流してくれればいい。まったく、難しい年頃なのだ。

 

「あいつのこと、お前に任せきりで悪いな。お前も疲れてるようならひとっ風呂……って、それで風呂場で鉢合わせしても困るか」

 

「そうだね、彼に悪い。幸い、僕は汗を掻くほど動いていないから遠慮しておくよ。ガーフィールを泥だらけのまま、ラムさんの前に連れ出すのも可哀想だ」

 

ガーフィールを見送って、そう投げかけたスバルにラインハルトは微笑む。

言葉通り、『剣聖』には今の朝稽古の影響はまるで見られない。殺しかねない剣幕で挑みかかるガーフィールを、完全に子ども扱いしていた。

おまけに彼は涼しい顔つきのまま、ガーフィールが叩きつけられて陥没した芝生を足でならす。すると、どういう原理なのか芝生は綺麗に元通りの状態に。

これも彼が所有する、無数の加護の力なのか。――ますますを以て、敵対したときのことを考えるとゾッとする人物だ。

 

それだけに、彼を自陣営に引き込めたことは、スバル最大の戦果といえるだろう。

 

『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア。

彼の現在の所属は、ロズワールを後ろ盾とした王候補であるエミリアの陣営にある。

王選開始直後、フェルトの騎士として彼女に与していた『剣聖』は、王国でも突出した知名度の下、最大の敵対者として君臨していたわけだが――、

 

「――こんなこと言ったらなんだけど、これでフェルトが戻ってきたら、またお前と敵味方になると思うとゾッとするぜ」

 

「――――」

 

「どうした?」

 

「……いや、気遣ってくれるのはありがたいけど、僕はおそらくフェルト様の騎士に戻ることはできない。どうやら、僕はあの方には不相応だと判断されたようだ。そうでなかったら、僕を置いてどこかへいなくなったりしなかったはずだからね」

 

スバルの発言に寂しげに視線を逸らして、ラインハルトは首を横に振った。

彼のその答えに瞑目して、スバルは内心を押し隠しながら吐息する。

 

――王選候補者の一人であり、ラインハルトの主君でもあった少女、フェルトが彼の騎士の前から姿を消して、すでに一年近くが経過している。

 

あの猫のような少女はアストレア家を離反し、唯一、気を許せる家族同然の老人を連れて、彼女に忠誠を誓った『剣聖』を置き去りに王選から逃げ出した。

それが世間的な彼女への風評であり、それはほとんど事実と等しい。

 

実際、ラインハルトはフェルトに何も聞かされないまま、王選から唐突に弾かれた。

忠誠を捧げた主人が行方をくらまし、その事実に『剣聖』がどれほどの無力感を覚えたかは計り知れない。

 

そんな彼に手を差し伸べ、新たな陣営に味方として引き入れたのがスバルだ。

自責の念と責任感に頑なだったラインハルトも、スバルの必死の説得に胸を打たれ、新たな主としてエミリアに剣を捧げることを了承した。

以来、『剣聖』はエミリア陣営の剣となり、王選においても非常に大きな役割を果たしてくれている。かつて『嫉妬の魔女』を封じた『剣聖』の末裔が、半魔と蔑まされるエミリアを支援する立場に加わったのだ。その意味は想像以上に大きかった。

 

それに、王選関係以外でも、ラインハルトの存在には助けられている。

同陣営に所属していながら、反発的なガーフィールへの対処などもその一つだ。

 

「お前とラムには頭が上がらねぇよ。でなきゃ今頃、俺はガーフィールに何回ぶちのめされてるか想像もつかないからな」

 

「そこまで無分別なことはしないはずだよ。確かに表面上、ガーフィールはスバルに厳しく当たっているけど、それは実力を認めていることの裏返しだ。ただ、君の強さは一目でわかりにくいところがある。それがなかなか、彼には受け入れられないだけだろう」

 

「まぁ、あれだけ小細工の連発で煙に巻かれたら誰でもムカつくだろうからな。あれ以外の手はなかったから、後悔も反省もしてねぇけど」

 

ラインハルトの擁護に肩をすくめて、スバルは『聖域』での出来事を回想する。

墓所と連結した結界により、村人の脱出が不可能とされた『聖域』。そこへ雪崩れ込んでくる魔獣『大兎』の脅威――その難題の突破に、スバルはいくつもの手を打った。

『聖域』の解放を恐れ、スバルやエミリアたちをなんとしても阻止しようとするガーフィール、彼への対処などは『死に戻り』の恩恵を全霊で注いだといえる。

 

それはまさしく、スバルとエキドナの契約の始まりだ。

魔女の手を取ることを選択したスバルは、あの『聖域』で想像を絶するほど『死に戻り』を繰り返し、ありとあらゆる試行錯誤を重ねた。

その結果、スバルは『聖域』に滞在する全ての人員の行動を把握し、ガーフィールを完全に蚊帳の外に置くことで、彼の妨害を根本から無効化した。

 

墓所の『試練』を秘密裏に突破して結界を解き、ロズワールはリューズへの根回しを済ませて避難を誘導、大兎の脅威が『聖域』を襲う前に住民を逃がした。

その間、目前に迫る解放の時をなんとか遠ざけようと奮闘するガーフィール、その抵抗の全てを封殺して。

 

結局、ガーフィールが全てを理解したのは、何もかも終わったあとのことだった。

『聖域』の住民の避難が終わり、手遅れだったと知ったガーフィールはそれでも『聖域』に残ろうと抗った。だが、『聖域』は大兎の襲来を受け、単独で抗うこともできずに少年は瀕死に追いやられる。そこを、スバルとロズワールの手で救われた。

 

力不足と判断ミス、十年以上も少年の心を頑なにしてきた事情を部外者になし崩しに、それも蚊帳の外で解決され、ガーフィールの志は傷だらけになった。

 

その後の彼が、鬱屈とした感情を怒りに変え、スバルを憎むのも当然のことだ。

ラムと、彼の姉であるフレデリカの説得がなければ、ガーフィールは形だけでもエミリア陣営に加わるような選択をしなかったかもしれない。

そんなガーフィールの憤怒の捌け口になったが、新たに参入したラインハルトだ。

 

つまるところ、ガーフィールが最も許せないのは己の力不足だったのだろう。

がむしゃらに強くなろうと足掻くガーフィールは、確かな目標として『剣聖』の強さを知ったことで、少しずつ変化の兆しが生まれている。

そうすればやがて、『聖域』では得られなかった答えに至る日がくるかもしれない。

 

「それで、少しは俺とも打ち解けてくれれば満足ってとこだな」

 

「君の気持ちは遠からず通じるさ。焦る必要はないよ」

 

スバルの消極的な結論に、ラインハルトは慰めるように首を横に振った。それから、赤毛の騎士は屋敷の方へ目を向け、

 

「ガーフィールのことは、今しばらく僕に任せてほしい。……フェルト様の信頼も得られなかった僕に、君がまだ期待してくれるなら」

 

「卑屈になるなよ。お前が信じられなきゃ誰を信じられるってんだ。期待してるぜ」

 

「わかった。では、君は君のやるべきことを。――それが、一の騎士としての務めだ」

 

最後の一文にだけ、ラインハルトは特別な感情を込めていた。

『一の騎士』、それは主従の関係において、最も強い絆で結ばれた間柄にだけ許される立場だ。ラインハルトは、フェルトのそれになることはできなかった。

スバルにはそうなってほしくない、そんな気持ちが込められていた気がして。

 

「それじゃ、またあとで」

 

そんな感傷は欠片も表情に出さず、ラインハルトはスバルの肩を叩いて庭を去る。その立ち去る彼の足下、凹んでいたはずの芝生に先ほどまでの戦いの痕跡は微塵もない。

元通りになった芝生の上に立ちながら、スバルはラインハルトが庭から完全にいなくなったのを確認して、ため息をこぼす。

 

「ガーフィールのことは、お前に任せた……か」

 

『なかなか堂に入った演技だったね。君もふてぶてしくなったものだ』

 

「――――」

 

またしても、協定破りの魔女の声が聞こえた。が、もはやスバルは何も言わない。

その無言を許可と受け取ったのか、エキドナは結晶石越しの思念波を飛ばしながら、

 

『ガーフィールを憐れむのは君の自由だ。けど、『聖域』の問題解決についてはしっかりと話し合ったはずだよ。あれだけ試行回数を重ねて、最善を選んだはずだ。誰も傷付けず、誰も死なせず……ついには全員の命を救った。そうだろう?』

 

「わかってる。だから、別に何も言ってねぇだろうが」

 

『ラインハルトのことも、罪悪感を覚える必要はないよ。そもそも、あの少女――フェルトは王選に対して乗り気じゃなかったはずだ。だから、後腐れのない逃げ道を提示してあげた。今頃、あの巨人族の老人と一緒にカララギで穏やかに暮らしているさ』

 

「――――」

 

ナツキ・スバルの選択を、エキドナが丁寧に丁寧に瘡蓋をめくるように慰める。

 

ガーフィールの停滞、ラインハルトの苦悩――それは全て、スバルの選択の結果だ。

ガーフィールのことはまだいい。あれは『聖域』の問題を犠牲なしで解決するために必要なプロセスだった。だが、ラインハルトのことは別だ。

彼と彼の主君とを切り離したのは、完全にナツキ・スバルの策謀だった。事実を知られれば糾弾と軽蔑は避けられない。そんな企てだ。

だがしかし――、

 

『エミリアを狙う魔女教の悪意を退けるのに、君には力が必要だった。綺麗事では誰も救えない。君はあくまで、正しい選択をしただけだよ』

 

「うるさい」

 

『穏便にプリステラを救えたことも、あの選択があればこそだ。あの水門都市を襲った災厄に対して、ラインハルト抜きでどれだけ対抗し得た?』

 

「――――」

 

『無論、あの場に集った戦力なら違う手段でも撃退はできたかもしれない。でも、あれだけの大事件でたった一人の犠牲者も出さずに、複数の大罪司教を撃退できたのは紛れもなく、事件の前にラインハルトを擁していたことが理由だ』

 

重ねられるエキドナの言葉は、スバルを慰めるようで逆の結果を生み続ける。

それは行いを正当化するために、幾度も幾度も降りかかる言葉の刃だ。

そうやってスバルの心をズタズタに引き裂くことが真の狙いなのではないか、そう思わせるほど的確に、言葉の刃はナツキ・スバルの行いを、欺瞞を、切り刻んでいく。

 

何回、何十回、何百回、繰り返しても、足りなかった。

 

圧倒的に力が足りなかった。そしてその力は、『死に戻り』を繰り返し続けるナツキ・スバルの経験だけでは決して補えなかった。

未来の記憶と経験、それだけでは覆せない絶望がこの世には存在した。だとしても、妥協することができれば、苦難を乗り越えることはできたかもしれない。

しかし、我が身惜しさで犠牲を許容できるほど、スバルは強く弱くはなれなかった。

 

諦めを受け入れ、妥協することを許容し、犠牲に目をつむれば、意味がない。

自分自身の命を天秤に乗せることをやめて、魔女の手を取った意味がなくなる。

 

だから、必要な力を得るために、必要な戦力を掻き集めるために、奔走した。

その結果として最強の剣を、ラインハルト・ヴァン・アストレアを陥れ、味方にした。

 

そのために必要な、フェルトの王選からの離脱――その事象を実現するために、どれだけの試行錯誤を重ねたか、その全てを語る気力はない。

ラインハルトとの敵対、その剣の前に散ったことも十や二十では利かなかった。

それでも最終的に、穏便に、誰一人犠牲にならずに、それは達成された。

その結果だけが、ナツキ・スバルにとっての救いだ。

 

たとえどれだけ、心が傷付いたとしても、命さえ救われれば――。

 

「命が、ある。命があれば、未来がある。未来があれば、希望がある。希望があれば、可能性がある。可能性があれば――」

 

『――人は救われる。君は正しい。間違っていない。ボクが保証する』

 

「お前の保証なんて別にいらねぇよ……」

 

己を戒め、己を奮い立たせ、己の根底にある考えをスバルは口にする。

魔女はそれを肯定し、理解し、共有し、称賛した。

 

その言葉に悪態で応じながら、魔女の言葉に救われているのも事実だ。

 

命、命だ。

命さえあれば、またやり直せる。可能性がある。希望を繋げる。

 

犠牲とは、スバル以外の命のことだ。全ての勘定に含むことをやめた、スバルの命以外が守られれば、絶えず『死に戻り』に挑み続ける価値は必ずある。

 

――たとえ、救いたいものが泣いたとしても、俺は救いたい。

 

それこそが、魔女の手を掴んででも成し遂げると決めた、スバルの救いなのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

魔女の残酷な慰めを受け、スバルは中庭をあとにする。

ラインハルトとガーフィールの朝稽古、それを見届けるのは実はスバルの日課とは無関係の出来事だった。

あの現場にはたまたま通りがかり、結果的に声をかけざるを得なかっただけのこと。

スバルにとっての本当の日課は、これから屋敷の書庫で行われる。

 

「――よ、ベアトリス。邪魔するぜ」

 

屋敷の東棟の最奥に、その書庫は整然と存在している。

両開きの重たい扉を押し開けば、最初に中から溢れ出すのは圧倒的な紙の香りだ。ぼんやりとした魔法灯の光に照らされる室内には、所狭しとばかりに書棚が押し込まれ、いずれも分厚い本でぎっしりと埋め尽くされている。

それはかつて存在した『禁書庫』にも劣らぬ蔵書量、そういえた。

 

だから、なのだろう。

この場所が、自分の守るべき『禁書庫』ではないとわかっていながら、それでも少女がここへ居座り続けるのは、そこにかつての居場所の片鱗を見るからだ。

 

「――――」

 

薄暗い部屋の奥、書庫の片隅に膝を抱える少女の姿がある。

部屋に入ってすぐ、木製の脚立に座っているのが彼女の定位置だった。その記憶が今も鮮明なせいで、もう蹲っている姿の方が長くなったぐらいなのに、違和感はいつまでも消えないしこりとなってスバルの中に燻り続けている。

 

変わらぬドレスの装いのまま、ベアトリスは膝に額を押し付けて蹲っている。その姿勢のまま、少女は部屋に入ったスバルの存在にも声にも、身じろぎ一つ反応しない。

ただ、眠っているわけではないことは、その小さな体をきつく抱きしめる指、それが白くなるほど力が込められていることから明らかだった。

 

以前は不機嫌そうに、それでも堂々と司書を名乗ってスバルを出迎えたベアトリス。

その凛とした、自負と責任に裏打ちされた姿勢は見る影もない。

 

そんな少女の様子に目を細めて、一瞬だけ胸を過る感情をスバルは瞬きで捨て去る。それから馬鹿に明るい笑顔を作り、書庫のカーテンを開け放った。

ここは禁書庫と違い、物理的に存在する空間だ。当然、窓もあれば、扉は侵入を拒む結界にもなりえない。だから――、

 

「なぁ、ベア子。今日もいい朝だ。気持ちのいい風が吹いてる。そろそろ、カビ臭い部屋に引きこもるのもやめて、外で元気よく遊ぶ気にならないか?」

 

「――――」

 

「外で遊んでドレスを泥んこ塗れにしたくないってんなら、せめてみんなと一緒に飯でも食おうぜ。前みたいに食堂に出てきてさ。そのぐらい、大変でもないだろ?」

 

「――――」

 

カーテンが開かれ、窓から日の光が書庫の中に降り注ぐ。

その日差しと、あけすけに笑いかけるスバルの呼びかけに、ベアトリスは顔を伏せたまま沈黙を守った。膝を抱える腕は少女を縛り付けたままで、それがまるでスバルには自分を罰しているかのように思えた。

 

「なぁ、ベア子……」

 

「……いい加減、黙るのよ」

 

「――――」

 

その姿を見ていられず、歩み寄ろうとしたスバルにベアトリスが突然に言った。

彼女の声は重く沈んで、その上、掠れてさえいた。しかし、そんな声音にスバルは安堵を得てしまう。声を聞くことさえ、最近では滅多にないことだったからだ。

沈みきり、一言も言葉を交わせない日々がずっと続けば、拒絶や否定の言葉さえも喜びに直結してしまう。

そんなスバルの内心を余所に、ベアトリスは顔を上げないまま続ける。

 

「ベティーは、疲れた。もう、諦めたかしら。お母様の、言いつけにも背いて……契約も破って……それなのに、まだ生き残って……なんで」

 

「ベアトリス……」

 

「あのとき、お前が、見捨ててくれれば……なんで、助けにきたのよ。……誰も、お前になんか、お前なんか、『その人』じゃ、ないくせに……っ!」

 

それは消えない恨み言、それは薄れ得ない怨嗟、それは許されない悔悟――。

 

ベアトリスが四百年間、ずっと独りきりで抱え込んできた想いと、その想いを手放すことへの壮絶な覚悟、それを踏み躙ったこと、踏み躙られたことへの憎悪だ。

 

禁書庫の中、己の使命の放棄を覚悟した精霊は、しかし覚悟と裏腹に生かされた。

望みと違えて長らえたことで、彼女に与えられたのは理由をなくした生の時間だ。

禁書庫は、燃え盛る屋敷とともに失われ、彼女の居場所は永遠に失われた。

 

それでも、ベアトリスは使命を諦め、投げ出した事実を忘れない。

そのことは強い責任感を抱く彼女の心に、消えない傷となって無残に残り続ける。

それこそ、あの禁書庫の焼け落ちた夜以来、延々と書庫の片隅に蹲り、ずっとずっと泣いて過ごすことを余儀なくされるほどに。

 

それでも――、

 

「――っ!離せ!離すかしら!ベティーに、触るなぁ……っ!」

 

その小さくなる姿が見ていられなくて、スバルは蹲る体を包むように抱きしめる。

その抱擁に声を裏返らせ、ベアトリスは嫌悪と怒りを剥き出しにしてスバルの首筋に爪を立てた。手加減抜きに引っかかれ、傷口に血の雫が浮かぶ。それでも、離さない。

 

震える小さな体を、慰めるように抱きしめた。

だが、そうすることで本当に慰められたかったのは、スバルなのかもしれない。

 

「なんで、会いにくるのかしら……!お前なんか、お前なんか……!」

 

「お前がそうやって、俺に八つ当たりしてくれてるうちは何度でも通うよ。今は消えないように思える後悔の火も、ずっと吐き出し続けてればいつか消えるかもしれない」

 

「消えるはず、ないのよ……!ベティーは!」

 

「俺は、お前が生きててくれて嬉しい。だから、またお前がいつか、俺の前に膨れて立ってくれるのを待ってる。――その期待も、生きててくれたからだ」

 

「――っ」

 

穏やかに、できるだけ真摯に言葉を尽くすと、ベアトリスの抵抗がなくなった。

そのまま、ベアトリスは呆然とした顔になり、心ここにあらずな様子で泣きじゃくる。それはこれ以上、会話を続けることができなくなった証だった。

 

――二週間に一度は、スバルとベアトリスの間で交わされる癇癪と放心の交換。

 

抱きしめる腕をほどくと、ベアトリスは再び、抱えた膝に自分の額を押し付ける。そうして俯いて己の殻に閉じこもる少女に、スバルはもう何も言えない。

スバルの言葉は、ベアトリスの硬い心の門を開けることができないままでいる。

 

それでも、こうして何度も門を叩くことを続けていれば、やがて開かれることがあるかもしれない。――そう信じられる可能性、それが希望というものだ。

 

「……あのとき、嘘でも俺が『その人』だって言えればよかったのかな」

 

ベアトリスを残して書庫を出て、扉に背を預けながらスバルはそう述懐する。

 

屋敷への襲撃と、スバルの存在に『その人』への希望を抱き、砕かれたベアトリス。彼女は自分の長い使命の終わりを覚悟し、その脆い期待と悲しい諦念の両方を砕かれた。

四百年、禁書庫を明け渡すことのできる『その人』の来訪を待ち焦がれた少女に、スバルは嘘でもいいから『その人』を騙るべきだったのだろうか。

そうすれば、彼女の心は、あの焼け落ちた禁書庫とともに焦がされることなく、守り抜くことができたのだろうか。

 

『禁書庫が失われたことは取り返しのつかないことだよ。あれらの知識が受け継がれずに消えたことはボクにとっても痛恨だが、仕方ない。君にとっては知識より、ベアトリスの命が救われたことの方が重要なはずだ』

 

「お前がそれを言うのは筋違いだ。お前だけは、それを言えないはずだぞ」

 

過ぎた時間に未練を残すスバルに、夢の世界に留まるエキドナが抗弁する。

だが、そのエキドナこそがベアトリスに禁書庫を託し、四百年もの不毛な時間を過ごさせた張本人ではないか。

エキドナの命じた役割の結果、ベアトリスの心は儚くも砕け散った。

それなのに――、

 

「お前が、『その人』を待てなんてあいつに言わなかったら……!」

 

『待ってほしいな。それはいくらなんでも、論理のすり替えってものじゃないか。ボクにはボクなりの理由があって、そうする必要があったんだ。もちろん、ベアトリスがそのために長い孤独を過ごしたことはボクにも責任がある。だけど、決してそれはボクがあの子に不幸を強いようとしたわけじゃない。それはわかってほしいな』

 

「ぐ……」

 

エキドナの反論を受け、スバルは己の八つ当たりを自覚して口ごもる。

魔女の言葉は正しい。結局、スバルがここでエキドナのことを責めるのは、自分にできなかったことの責任転嫁を押し付けているだけなのだ。

 

「……『その人』ってのは結局、誰だったんだ」

 

『それは残念ながら、ボクの口からは明かせない。禁書庫が失われてしまった以上、それについて論じることも意味はない。仮にその人物を見つけ出したとしても、彼にはそのことはもうわからないはずだ』

 

「彼……ってことは、男か」

 

『――これは口が滑ったかな?でも、見つける方法は皆無だよ。そもそも、見つけたとして、どうしたいんだい?ベアトリスに会わせる?それとも、君が何らかの形で制裁を加えたい?だとしたら何の罪で。当人はすでに自覚する機会もないのに、存在しない罪で誰かを裁くことなどできない。それに、そんな暇も君にはない』

 

失言、それをそうと思わせないエキドナの弁術にスバルは舌打ちする。

事実として、魔女の言葉は何もかも正しい。見つけられない。裁けない。スバルにはそんなことにかまけている時間はありはしない。

 

『ベアトリスは確かに不憫な時間を過ごした。でも、それは未来もそうなることを約束される理由にはならない。図らずも、君が言った通りだ』

 

「――――」

 

『今は後悔に打ちのめされていたとしても、いずれあの子も解放されるときがくる。そうなったとき、誰かがあの子を受け入れてやらなくちゃならない。その誰かに、君か、あるいは君でなくとも誰かがなれる。それが、生きていることの可能性だ』

 

それは詭弁だった。

それは体のいい取り繕いだった。

だが、それは疑いようなく、希望でもあるのだ。

 

エキドナの甘言に思えるそれは、しかしスバルが信じざるを得ない可能性なのだ。

 

だからスバルは、契約で繋がる魔女がどれだけ言葉を弄しているだけだと透けて見えても、彼女の言い分を否定することができない。縋り、寄りかかってしまう。

唯一の共犯者であり、スバルの罪を常に意識させ、忘れさせない彼女の存在に。

 

「平行線だな」

 

『ああ、平行線だね』

 

結局、そうして話を終えるのが、スバルとエキドナの罪への向き合い方だ。

未来に希望を託し、可能性に道があることを信じて、理想に届く日の訪れを待つ。

 

たとえ何度機会があろうと、スバルはやはりこの場所へ辿り着くのだ。

焼ける屋敷から、残ろうと必死になるベアトリスを連れ出し、少女に禁書庫を失わせながらも、泣き崩れる日々が続くことを知りながらも、彼女に生きていてほしい。

試行錯誤を重ねて、何千と繰り返した世界の中で、誰も死なせずにベアトリスを救い出す方法は、スバルには見つからなかった。

 

そうやって、希望を自給自足しながら、どこまでもどこまでも歩き続ける。

救われる、救われた。

 

その言葉を未来の糧にして、可能性が芽吹くことを祈って、今日も。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「おーぉや、そこにいるのはスバル様じゃーぁありませんか。ベアトリスのところからのお帰りですか?」

 

「――――」

 

ふと、廊下を歩く背中に声がかけられて、スバルは反射的に立ち止まった。

その声の調子と声音から、相手が誰なのかすぐに思い当たる。それだけに、立ち止まったことを後悔したが、足を止めたからには無視することもできない。

嫌々ながらも振り向くと、相手はスバルの真後ろに悠然と佇んでいた。

 

「ロズワール、か」

 

「ええ、そうですとも。おはようございます。今朝はベアトリスとは?」

 

「……久々に口利いてくれたかな。まぁ、進展は今後に乞うご期待だ」

 

「なるほど。……どうやら、こっぴどくやられたようですねーぇ」

 

憮然としたスバルの受け答えに、左右色違いの目を細めたのはロズワールだ。

その視線はスバルの首と、頬に向かっている。そこには先ほど、ベアトリスに爪を立てられた引っ掻き傷が痛々しく残っていた。

 

「生憎、傷の治療にはとんと不向きでして。その傷を癒すことはできそうもありません。治癒術を使えるのは……ベアトリスとガーフィール、それにエミリア様だけですが」

 

「前者二人はちょっと厳しいな。エミリアに頼むのも……まぁ、考えとく」

 

「あなたが言えば喜んで治してくださるでしょうに。それとも、傷口が痛む方が今のあなたにとっては慰めになるのかもしれませんね」

 

「――――」

 

口の重いスバルに代わり、饒舌に喋るロズワールの舌鋒はいちいち鋭い。特に最後の一言、その内容にスバルが目を細めれば、ロズワールは道化た仕草で肩をすくめた。

道化の化粧に奇抜な衣装、姿形や振る舞いはこれまでと変わらないロズワールだが、それでも以前とは決定的に異なる部分がある。

 

スバルへの接し方、態度、それらの裏にある確かな敬意。

それはロズワールが、図らずもナツキ・スバルの存在を有用と認めた証であった。

 

「ですが、心配はいりませんよ。時間をかければ、あなたなら必ず突破口を見つける。如何なる方法であれ、最善を掴み取ることにご執心のあなただ。ベアトリスの心を救いたいと願うなら、きっとその方法も手中にできるはず。焦ることはありませんとーぉも」

 

「ずいぶん簡単に言ってくれるもんだ。そんな便利な話じゃねぇってのに」

 

「ご謙遜を。――それに、簡単であるなどと私も思っていませんよ。ただ、その事実はあなたのこれまでの功績を曇らせるものではない、それだけの話」

 

恭しく一礼して、ロズワールはスバルの功績を真っ向から称賛する。

 

事実として、スバルの異能を『死に戻り』であると把握しているのは、スバルと契約関係にあるエキドナだけだ。が、それに類する『やり直し』の異能を把握し、その事実とともに功績を評価しているのはロズワールだ。

エキドナが現実的な力を持たない以上、正しい意味でスバルを最も評価しているのはロズワールである、そう断言しても過言ではない。

 

「王都、我が屋敷、再びの王都。そして『聖域』、プリステラ。――あなたはこれまで何一つ取りこぼさず、今日まで在り続けてきた。それは紛れもない成果であり、あなたが成し遂げてきた快挙に相違ない。いずれ、あなたは必ず私の悲願も叶えてくれる。私は、そのために協力を惜しまない。存分に利用されてください」

 

「楽観的だな。……俺がお前の掌で踊ってやる確信なんかないはずだ」

 

「ですが、あなたは龍の血を欲している。でなければ、あの少女――レムは目覚めない。その結論がある限り、あなたはエミリア様を王にする。でしょう?」

 

低く、探るようなロズワールの目つきに、スバルもまた冷酷な目つきで睨み返す。

 

それは互いに、互いの急所を掴み合う同士、危うい足場の上で成立する協力関係だ。

ロズワールはスバルの『死に戻り』を利用して成し遂げたい目的があり、それをなし崩しに果たさなければならない状況へスバルを誘導するつもりでいる。

そしてスバルはその思惑がわかっていながら、今も眠り続けるレムを救い出すために、彼の思惑に従って事を進めなければならない。

 

「なに、悪い取引きには絶対になりませんよ。あなたはあなたの、私は私の、なんとしても叶えたい願いを叶える。そのためにお互いを利用する。それだけのことです」

 

「――――」

 

「私の力は有用なはずだ。このときのために、四百年もの時を費やしたのです。私にとって、あなたの力がそうであるのと同じように、ね」

 

そのロズワールの確信に、スバルは反論することができない。

それはずっと前から、『聖域』でロズワールの裏切りを知ったときから出ている答えだ。王選のためにも、その歩みを阻もうとする障害への対抗手段としても、ロズワールの存在を欠くことはスバルたちにはできない。

仮に彼がスバルを利用し、己の願いを叶えようと企てているとしても。

 

「お前がもっと素直に本音で、何がしたいって言ってくれれば、俺だってこんな頑なにならないで協力できるかもしれないってのに」

 

「残念ですが、それはおそらくなりませんよ。あなたは、それを選ばない」

 

少しでも緊迫感を和らげるために、歩み寄ろうとしたスバルをロズワールが切り捨てる。その内容にスバルが目を丸くすれば、ロズワールは妖しげに笑ったまま、

 

「自覚がないならなおさらです。あなたは、あなたの最優先すべき事情を必ず全力で推し進める。そのための障害、あるいは足を引く原因になりえると判断すれば、どんな事情があろうと願いなど簡単に切り捨てます。それができる、できてしまう。そうすでに決めつけてしまった。だから、あなたは私の切り札になったのですから」

 

「――――」

 

「いいじゃありませんか。私は私の、あなたはあなたの、好き勝手に願いを叶える。それで届かないとすれば、それは叶わなかった方の想いが足りないだけのこと」

 

「……ああ、そうかよ」

 

狂気的な執着心、それがロズワールを支えていることはすでにわかっている。そしてその根源的なものがどこから発生しているのか、彼が明かすつもりがないことも。

それだけ理解して、スバルはロズワールとの会話を打ち切り、とっとと歩き出した。その心の断絶を示す姿勢に、ロズワールは歩みを止めたまま、

 

「ああ、そうそう。今、レムの部屋にはラムがいます。一応、伝えておきますよ」

 

「――――」

 

それには何も答えず、スバルは角を曲がり、彼の視線から逃れた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「不肖の妹のために、わざわざ足を運んでくださってありがとうございます、ナツキ・スバル様」

 

『聖域』での契約以来、あるいはナツキ・スバルの在り方が定まって以来、といった方が的確かもしれない。

屋敷においても外部においても、無数の変化が訪れることが避けられなかったが、その中でも彼女の変化は最も大きな一つと言えるかもしれない。

 

部屋に入ったスバルに向かって、深々と腰を折ったのは桃色の髪をしたメイド。

冒頭の発言は紛れもなく、あのラムが口にしたものである。

 

傲岸不遜を絵に描いたような性格であった彼女だが、『聖域』の出来事を経て、あれ以降の様々な出来事を乗り越えた今、スバルへの態度は激変してしまった。

 

「いつまで経っても、お前のその態度には慣れねぇな」

 

「……重ね重ね、以前の無礼は申し訳ありません。ラムの無知と無自覚で、ナツキ・スバル様には大変なご迷惑をおかけしました。ですが、ロズワール様とエミリア様より、ナツキ・スバル様へは最大限の敬意を払うようにと申し付けられておりますので、今後はそのようなことは決してありません。ご安心ください」

 

表情を変えないまま、完璧な侍女の所作でラムはスバルにそう答える。

その態度には以前までの馴れ馴れしさや、親しみと言い換えてもいい距離感の近さは微塵も残っていない。それは壁――否、壁であれば乗り越えることもできる。だが、乗り越える方法の存在しないそれは、壁ではなく世界の隔たりといった方が正確だ。

 

ロズワールに心酔し、その在り方を尊重するラム。ロズワールがスバルへの接し方を改めたように、ラムの中でもスバルの存在の価値は大きく変化した。

その結果が、スバルを敬う対象としてみなした彼女の態度だ。

 

そんなラムから視線を逸らして、スバルは部屋の中央――この部屋へ足を運んだ理由、寝台に寝かされている青い髪の少女を見やる。

仰向けに横たわり、もう二年以上も変わらない姿でいる彼女――レムだ。

目覚めさせると誓い、そしてその誓いを果たす確信に届かないまま、時間だけが無情に彼女を置き去りにしていく。

 

「レムに変わりは?」

 

「ありません。依然、眠り続けるままで……。頭を悩ませる問題が多くある中、ラムの愚妹に気を揉ませて言葉もありません」

 

「そんな言い方するな。レムは……レムのことを考えるのが、無駄なんてことは絶対にない。二度と、するな」

 

「――はい」

 

きつく、そう言いつけるスバルにラムは短く応じた。

そこに不満も不服も、安堵も感謝もない。妹、とそう呼ぶレムに対して、ラムは実感もなければ理解もない。彼女は形式上、レムを妹として認めているが、その内心にはおそらくすでに、レムの居場所はないのだ。

 

彼女の心は完全に、ロズワールへの忠誠心だけを拠り所にしてしまっている。

それはロズワールの思惑に乗り、ラムの抱いた願いを断つことになる選択をした、スバルの行いの影響が強い。

 

レムが目覚めたとしても、彼女の心に妹の居場所は戻るのだろうか。

あれほど敬愛した姉に、あれほど溺愛した妹に、姉妹は戻れるのだろうか。

 

「――っ。ラム、悪いがレムと二人にしてくれ」

 

「……かしこまりました。御用の際にはお声かけください」

 

ゾッとなる想像に歯噛みして、スバルはラムと同室にいることに恐怖を覚えた。その震えが奇跡的に声に出ないうちに、彼女の存在をこの場所から追い払う。

幸い、ラムはスバルの言葉に反論せず、優雅にカーテシーだけ残すと、静々と部屋を出ていった。それで、部屋に残るのはスバルとレムの二人きりだ。

 

「……レム」

 

「――――」

 

寝台に横たわり、寝息ともつかない呼吸を繰り返す少女は返事しない。ただ、微かにその胸が上下することと、触れれば温かな血の通う体だけが生きている証だ。

この場所へ足を運んで、必ずその手を握って、弱々しい脈拍を確かめることが、スバルがレムにできる全てであり、スバルが自分に許した慰めのときの全てだ。

 

「……エキドナ」

 

『――君の方から呼ぶのは珍しいね』

 

ベッド脇に座り、レムの手を握るスバルの呼びかけにエキドナが反応する。呼ばれないことと、呼ばれなくても話し始めることに自覚があったらしい魔女は、感情のぬるま湯に浸かるスバルの言葉を静かに待った。

やがて、沈黙が十数秒、あるいは数分続いただろうか。

 

「レムを目覚めさせる方法は、前に言った通りだな?」

 

『ああ。彼女の眠りの原因になった、『暴食』の大罪司教に問い質すこと。ただし、これは可能性が低いと言わざるを得ない。奴らを見つけ出すことが至難の業だし、捕まえたとしても口を割らせる方法が……接触だけできれば、口を割らせる方法なんて、君の力があれば見つけることは容易いかもしれないけどね』

 

「ああ、そうだ。そうだとも。あいつらを見つけて、捕まえて、口を割らせればレムを起こせるってんなら、何万回だろうと、挑んでやれる。なのに……」

 

見つからない。『暴食』の大罪司教は、憎たらしい冒涜者は姿を現さない。

水門都市プリステラに、『憤怒』、『色欲』、『強欲』の大罪司教が揃ったときでさえ、肝心の『暴食』の大罪司教は姿を見せなかった。

何故、何故、何故、何故、何故――。

 

「『暴食』がダメなら、賢者の塔は?何もかも知ってる、『賢者』シャウラなら……」

 

『魔女として断言するよ。プレアデス監視塔へ向かったとしても、君は無駄足を踏むことになるだけだ。『賢者』は君の期待には応えない。それどころか、『賢者』は君の存在を許さない可能性さえある。無駄死に寄り道は、君も望まないはずだね』

 

否定される。否定される。ナツキ・スバルの願いは、『強欲の魔女』の丁寧に。

『暴食』の大罪司教は見つからず、『賢者』の存在は助けにならず、手詰まりになる。ならば、いったい、どうすれば――。

 

『――だから、君は龍の血を得るしかないのさ』

 

「龍の血があれば、レムを目覚めさせることができる」

 

『あれで神龍だ。その血に秘められた万能の力を以てすれば、眠りに囚われた少女の魂を解放するぐらいのことはできるだろうね』

 

エキドナの言葉は推測に過ぎない。だが、それは確信めいた推測であった。

明言こそ避ける姿勢にあるが、魔女の言葉にはかなり力強い響きがある。だから、スバルはそれこそがレムを救う方法だと信じられる。

 

龍の血、それはルグニカ王国に『神龍』ボルカニカが授けたとされる秘宝の一つ。

大地に豊穣をもたらし、あらゆる病理を遠ざけ、奇跡をもたらす可能性。

 

それを利用することができるのは、王国で最も尊い地位にある存在だけ。

つまりは、その存在は――、

 

「王位を手に入れれば、届く」

 

『そうとも。だからこそ、君は彼女を――エミリアを、王にしなくちゃいけない』

 

「――――」

 

『エミリアを支援し、彼女を支え、救いたい人々を救いながら、彼女を王にする。そして龍の血を手に入れることで、初めて、君はレムを救うことができる』

 

エキドナの言葉が、毒のようにスバルの脳に沁み込んでくる。

レムを救うために、エミリアが王になる必要がある。エミリアを王にすることは、エミリアの願いを叶えることは、スバルが自らを捧げて叶えたい目的の一つだ。

万々歳だ。エミリアを支えることが、レムを救うことに繋がる。

 

エミリアを王にするのは、レムを救うため。

結果的にレムが救われるのは、エミリアを王にしたいと願ったスバルの志のおかげ。

だから――、

 

『だから……』

 

「やめろ、馬鹿野郎。……そうやって、事あるごとに俺の決心を揺らがせるな。なんでお前はそうやって、エミリアのことを俺の中で下げようとすんだよ」

 

『そんなつもりは、ないけど?』

 

「説得力がねぇよ。何度も、何十回も、何百回も、このやり取りを繰り返してんだ」

 

それこそ、スバルの心を洗脳でもするかのように、魔女は度々、毒を流し込む。

スバルの目的をすげ替え、エミリアの価値を蔑ろにさせようとするように。だが、それはスバルにとって譲れない一線だ。そこを違えてしまえば、ナツキ・スバルはこれまで犠牲にしてきた、自分の屍を踏みつけにする資格を失う。

 

「私心は挟まないはずだぞ。お前がエミリアに何の含むところがあっても」

 

『誤解だよ。まぁ、いくら言っても君は信じないから、これも平行線だけどね』

 

「平行線になるぐらい、繰り返したやり取りだってのに、よく言うぜ」

 

エキドナとの協力関係は、こうやって気が抜けないところがある。

魔女はスバルの共犯者を名乗り、事実として知恵を貸す形でスバルに貢献する一方、スバルの『死に戻り』だけでなく、スバルの在り方さえも利用しようと画策する。

もっとも、詰めの甘いところがあるおかげで、その毒牙も届かずにこれているが。

 

「龍の血は手に入れる。エミリアを王様にすることで。――でも、それはレムを助けるついでにすることじゃない。エミリアを王様にすることが、レムを救うことに繋がる、俺の初志貫徹は変わらない。そこは、間違えない」

 

『やれやれ。たまにはボクの都合のいいように踊ってくれても文句はないのに。少しは隙を見せてくれないと、魔女の面目が立たないな』

 

「詰めが甘い。……ってより、お前はたぶん、根っこが甘いんだよ。悪党になりきるには向いてないんだろ。それで助かってるけどな」

 

『なるほど。肝に銘じておくとするよ』

 

敗因を述べられて、エキドナはやけにすんなりとそれを受け入れる。そのことを教訓に次に活かそうとしても、おそらく彼女にそれはできない。

何故なら、性質はそう簡単には変わらない。変えられるものではないからだ。

 

ナツキ・スバルが、どこまでいってもナツキ・スバルであるように。

『強欲の魔女』エキドナも、『強欲の魔女』エキドナでしかありえない。

 

どうあっても変えられないものを武器に、生きるしかない。

人生は、配れたカードで勝負するしかないのだから。

 

「――レム、待ってろ。必ず、起こしてやる。そのために」

 

――何度、死んだとしても。

 

それは誇張ない覚悟であり、差し出すには軽すぎる賭け金だ。

どれだけ投げ捨てても、尽きることのない命を払い続ける。それがやがて目覚めに繋がるのであれば、何の後悔もない。

 

それだけ、それだけ、それだけで、いいから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――ベアトリスの書庫、レムの寝室を巡り、そこで日課の最後に到達する。

 

閉め切られた部屋の扉に、スバルは気楽な調子でノックを送った。すると、すぐ返礼に内側からノックがある。返事ではなく、ノック。

それに応えるように、スバルは重ねてノック。すると、相手もすぐにノック。こっちも負けじとノック。相手も負けじとノック。ノック、ノック、ノック――。

 

「――もう、いつまでやってるの!すごーく、やきもきしちゃうじゃない」

 

と、先に忍耐力が尽きたのは、部屋の主の方だった。

扉が内側から開かれて、顔を見せたのは銀髪の紫紺の瞳の美少女――それは絶世、あらゆるものを魅了してやまない、至高の美貌の体現だ。

そんなエミリアが、赤らめた頬を膨れさせながら顔を見せれば、美しさよりも可憐さの方が際立って感じられ、スバルは思わず噴き出した。

 

「あ、なんで笑ったの?もう、スバルのオタンコナス」

 

「オタンコナスってきょうび聞かねぇな。っつか、先にノック返し始めたのってエミリアたんの方じゃん。俺、それに乗っかっただけだし」

 

「そんな風に言うんだ。ふーん、別にいいけど。それなら、スバルのこと、部屋に入れてあげないだけだから」

 

へらへらと笑ったスバルの言葉に、エミリアは拗ねた顔で扉を閉めようとする。その様子にスバルは慌ててドアの隙間に手を入れて――、

 

「あだーっ!」

 

「あ!スバル、大丈夫!?」

 

指を挟まれて、大げさに悲鳴を上げるスバルにエミリアが飛び上がる。慌てて部屋を飛び出した彼女は、鋭い痛みを訴えるスバルの右手を急いで掴むと、

 

「はむ」

 

「え、エミリアたん!?ちょっと大胆じゃね!?」

 

「ひひはら、ふほひおとなひくひてて」

 

何を言っているのやらだが、紫紺の瞳を鋭くするエミリアの剣幕に気圧される。

そのエミリアの薄い唇は、赤くなったスバルの右手の指をくわえている。柔らかな唇の内側では、エミリアの熱を持った桃色の舌が、スバルの指の痺れるような痛みを優しくなぞっているのがわかった。

その感触にぞわぞわと、スバルの背筋に艶っぽい身震いが走る。

 

「ん……大丈夫、かな。スバル、痛くない……って、なんで顔が真っ赤なの?」

 

「男の子的にどうしようもない理由というか、思わぬ展開に大混乱というか……いえ、大丈夫です。ありがとうございました。これで俺、やっていけるよ」

 

「――?よくわからないけど、治癒魔法かけるからね?」

 

舐めてもらった指を掲げ、頭を下げるスバルにエミリアは困惑顔。だが、彼女はすぐに意識を切り替えると、スバルのその指に淡い青の波動で治癒をかけた。

エミリアの舌で和らいでいた痛みが、その治癒魔法によって完全に快癒する。あとは彼女の唾液に濡れた指を、スバルがどう処理するか、それだけだ。

 

「服で拭う……いや、それはもったいない気がする。かといって、これを堂々と舐めるのはさすがに上級者すぎないか……!?だけど、この機会を逃したら……」

 

「あ、ごめんね。唾で汚いわよね。きゅっきゅっと、はい、綺麗」

 

「しまった――!?時間制限付きの選択肢だった――!?」

 

愕然となるスバルに気付かず、ハンカチで指を拭いたエミリアはご満悦だ。それから彼女はふと、スバルの首筋に視線を送って、目を瞬かせる。

そこには治療の済んでいない、ベアトリスの引っ掻き傷が残されている。そのことに目敏く気付いたエミリアは、そっと白い指でその傷に触れて、

 

「スバル、痛そう。この傷、どうしたの?」

 

「あ、ああ、これ?これはちょっと、途中で引っかけて……」

 

「嘘」

 

とっさに取り繕おうとしたスバルの言葉を遮り、エミリアが短くそう口にする。

彼女は大きく丸い瞳を見開いたまま、スバルの傷口を何度もその指で撫で、やがてぽつりと呟いた。

 

「――ベアトリスでしょう」

 

そう口にした瞬間、エミリアの声は無感情に凍えていた。

 

直後、エミリアの体から迸ったのは、膨大な量の真白の力だ。それは一挙に屋敷の廊下を席巻し、スバルの肌が焼かれるような冷気に撫ぜられる。

空気が凍りつき、軋む音を立てるのを感じて、スバルは大慌てで、

 

「エミリア!エミリア、落ち着け!大丈夫、大丈夫だから!」

 

「――――」

 

「エミリア!俺を見ろ、ここだ!」

 

「――ぁ」

 

強引に腕を伸ばし、乱暴に彼女の細い体を掻き抱いて、声をかける。

耳元で何度もエミリアの名前を呼び、スバルは息がかかるほど近くで、その紫紺の瞳に自分を映しながら叫んだ。

その声に、エミリアのぼやけた瞳の焦点が遭い、声が漏れる。

 

刹那、屋敷の最上階を覆い尽くさんばかりに広がった冷気が霧散し、全身を取り巻く圧倒的なプレッシャーも消失、元通りに戻る。

 

「あ、危うかった。もうちょいで、ラインハルトが駆け付けるところだ……」

 

「わ、私、今、え……?」

 

「大丈夫、大丈夫だ。エミリアたんはいい子、いい子、なんともないよ」

 

目を白黒させ、その場にぺたりとへたり込むエミリアに合わせ、スバルも座り込む。状況が呑み込めていない頭を抱いて、スバルは落ち着くようにその背中を何度も叩く。

次第にエミリアの呼吸が落ち着き、彼女はおずおずとスバルの顔を見ると、

 

「ご、ごめんね?私、また変な風に……」

 

「いいから。エミリアたんにかけられる迷惑は迷惑じゃねぇから。これは、俺が望んで引き受けてる役割なの。安心してって」

 

「……ん、うん」

 

語りかけるスバルの言葉に、エミリアは思わしげに眉を寄せながらも頷く。

その心が本当の意味で安寧を得るまで、スバルはその体を離さない。

 

――エミリアの情緒不安定は、『聖域』での『試練』を越えることができなかった事実が影響している。

 

第一の『試練』、己の過去を垣間見る試練で彼女が何を見たのかは結局わからない。

ただ、その過酷な思い出はエミリアの心を折り砕き、立ち上がる気力を挫いた。そしてそれを乗り越えることができないまま、『試練』はスバルの手によって終わらされる。

 

故にエミリアの歩みは、今もあの墓所の中に囚われたままなのかもしれない。

 

しかし、彼女がどれだけ拒み、嘆いたとしても、時間は止まることなく進み続ける。そして彼女が停滞することを、世界も、周囲も、誰も許さない。

だから、立ち止まりかけるエミリアの手を、スバルが引き続けるのだ。

 

「ごめんね、スバル。私、またスバルに迷惑かけちゃって……」

 

「大丈夫、ノープロ、無問題。むしろ、大歓迎ってな感じで」

 

「……ふふっ、スバルってば。ん、ありがとう。大丈夫、落ち着きました」

 

しばしの抱擁があって、エミリアがスバルの胸の中から顔を上げる。すっと立ち上がる彼女の温もりが離れて、スバルは名残惜しげに唇を尖らせた。

 

「残念。もうちょっと、エミリアたんの柔らかさを堪能してたかったのに」

 

「えと、そうした方がいい?スバルがそうしろっていうなら、私はそうするけど」

 

「いえいえいえ、大丈夫。こういうのはね、ちょっと物足りないぐらいで我慢するのが長続きするコツなの。満腹になるまで餌を与え続ければ、それはただの家畜。俺は飼われるままの豚になるより、己で獲物を狙う狼になろうと思うね」

 

「そうかも。私も、スバルは豚より犬の方が近いと思うわ」

 

「豚と犬ってなるとまた話違ってくるけどね!?」

 

とんちきなやり取りを交わしながら、スバルは笑みを取り戻したエミリアに安堵する。

幸い、先ほどの傷の動揺は忘れてくれたようで、一安心だ。

 

『見るに堪えないな』

 

「黙れ」

 

「――え?」

 

「あ、エミリアたんに言ったんじゃないんだ。ごめん、独り言」

 

ふいに差し込まれた思念波に、反射的に言い返してエミリアを驚かせてしまう。

結晶石越しの思念波は当然、スバルにしか届かない。目の前のエミリアの状態に、嫌悪感も露わに吐き捨てたエキドナ、その侮蔑と嘲弄も、スバルにしか届かない。

 

「だ、黙ってた方がいい?スバルがその方がいいなら、頑張って静かにするから……」

 

「違うって!平気だから、いっぱい話そう?話してくれていいんだよ」

 

「……ホントに?」

 

不安げに、エミリアの紫紺の瞳が潤み始める。それにスバルが頷くと、エミリアはホッと安堵した顔で、スバルの手に自分の手を重ねて、

 

「それじゃ、教えて、スバル。――私、今日は何をしたらいい?」

 

「――――」

 

「昨日は、ちゃんと言いつけ通りにずっと部屋で勉強してました。スバルの言うことなら間違いないもの。だから、何をしたらいいのか、教えて?」

 

――スバルの言う通りにする、スバルなら間違わない、スバルを信じてる。

 

そのエミリアの言葉に、スバルは笑顔の仮面が剥がれないようにするのに苦心した。

鏡の前で練習した笑顔、その集大成がここで発揮される。おかげで、エミリアは不信感を抱くことなく、スバルの言葉を期待に目を輝かせながら待っている。

 

墓所の『試練』を越えることに挫折したエミリアは、その心をスバルへ完全に依存することで守ろうとしている。

 

当然といえば当然の話だ。

 

『死に戻り』の力を利用することで、スバルはエミリアの前に立ち塞がる障害を、何もかも完璧に排除してきた。エミリアがスバルの言葉に逆らわないのをいいことに、信頼を得られたのだと勘違いして、これまでずっとやってきた。

エミリアの心がスバルの存在に固執し、ひどく不安定な状態になっていることに気付けたのは、もうどれだけ『死に戻り』したとしても『聖域』へ戻れなくなってからだ。

 

それでも、スバルはこの状況を、最悪だとは思っていない。

 

「じゃあ、エミリアたんにお願いだ。今日のところは、昨日と同じで勉強の続き!また何か大きなことをやるときは、ちゃんと前もって知らせておくから」

 

「プリステラとかみたいに?」

 

「そう、プリステラとかみたいに。それまでは英気を養っておくこと。有事に備えて、自分を高めることこそ、今のエミリアたんに最も大切なことなのだ」

 

「むむ、はい、わかりました、スバル先生!ちゃんと言いつけ通りにします。だから――」

 

どこか茶化した芝居を入れるスバルに、エミリアもノリノリで同調する。敬礼のような仕草で命令を受領したエミリアは、最後に少しだけ言葉を躊躇い、

 

「――だから、ちゃんとできたら、頭、撫でてくれる?」

 

「――――」

 

上目遣いにスバルを窺い、不安げに、恥ずかしげに口にするエミリア。

その姿にスバルは息を呑み、一瞬だけ停滞が生まれた。その一瞬が、あとほんの数瞬続けば、エミリアの瞳に絶望が過ったことは想像に難くない。

だが、幸いにも、スバルはそうなる前に笑顔を作り、

 

「当たり前だろ?むしろ、俺の方こそお願いしてエミリアたんの髪の毛に合法的に触りたいぐらいだけど?」

 

「――?スバルが触りたいなら、いつでも触らせてあげるけど……」

 

「だーかーら!それもご褒美だからダメ。いいことがあったとき、それがお約束。エミリアたんのなでなでと一緒。OK?」

 

「ん、おーけー」

 

親指を立て、歯を光らせるスバルの確認にエミリアもたどたどしく頷いた。それから彼女は名残惜しく、スバルの手と自分の手を重ねたままでいたが――、

 

「それじゃ、部屋に戻ってるね」

 

「ああ、ご飯はペトラに運ばせるから、一緒に食べよう」

 

「うん、待ってる。それじゃ、またあとで、ね」

 

手を振り、エミリアが部屋の中に戻っていく。――短くなった銀髪が寂しげに揺れるのを見て、スバルは最後までなんとかため息をつくことを堪えた。

やがて音を立てて扉が閉まり、スバルとエミリアとの繋がりが物理的に断たれる。

 

『まったく、醜悪にも限度がある』

 

「――――」

 

エミリアの姿が見えなくなった途端、悪態をつき始めるエキドナ。その彼女の嫌悪に塗れた言葉に、スバルは何も答えない。

何も言葉を交わさないこと、それがエキドナとの付き合いで学んだ、エミリアに対する辛辣な彼女への対処法だ。

 

語らない、語らせない。

その頑なな姿勢を貫くスバルに、魔女も無駄を悟って口を開かなくなる。

 

エミリアのことに関してだけは、エキドナは絶対に当てにならない。

そしてエミリアとスバルとの関係は、以前と変わっていないようで、それでもやはり別物になってしまっていて、それを修正する時間は今はなくて。

 

『言いなりの人形になっている方が、君の目的にとっては好都合だしね』

 

「――っ」

 

その残酷な指摘に喉が詰まり、スバルは反応したことを後悔した。

それは肯定されるべきではない一言、だが、否定することのできない一言。

 

命を守ることで、未来を守り、希望を守り、可能性を守ること。

 

そのために、エミリアの心の『今』を犠牲にしている。

そしてそれがエミリアだけに留まらないことを、スバルは自覚しているのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

食堂で、陣営揃っての朝食の参加を辞退すると、食事係を拝命しているペトラは残念そうな顔をしたが、スバルとエミリアのための食事を部屋へ運び込んでくれた。

 

食事中、何度か精神的に揺らぐエミリアをフォローしつつ、朝食が終われば、エミリアはスバルに指示された通り、素直に己の執務机に向かう姿勢だ。

 

「ちゃんとスバルの言う通りにして、立派な王様にならなくちゃだもの」

 

と、気合いを入れるエミリアを応援して、スバルは彼女の部屋を出る。

ロズワールの領主業務の一部を代行し、王選におけるエミリアの知識は出会った当初とは比べ物にならない。努力の成果は日増しに証明されている。

だが――、

 

『何をするにも、最後には必ず君の裁可を求める。とても面白い王に育つね』

 

「黙れ」

 

『そのことへの不安は君も抱いている。このまま、あれを王座に据えていいものか、常に揺らいでいるのは知っているよ。でも、そうせざるを得ない』

 

エミリアの部屋を出て、屋敷の廊下を歩くスバルにエキドナが毒を垂れ流す。

エミリアの精神が不安定になり、王選当初の志が大きく揺らいでいるのは事実。それでも、彼女は必ずルグニカ王国の王座につく。

他でもない、ナツキ・スバルがそうさせるのだ。

 

『死に戻り』を繰り返し、あらゆる艱難を彼女の前から排除し、どんな障害が立ち塞がろうと退け、エミリアの大望は必ず果たされる。

 

そしてそうすることは、エミリアだけでなく、レムを救うことにも繋がるのだ。

エミリアを支え、レムを救い、近しい人々を苦しみから遠ざける。――まさに、ナツキ・スバルが魔女と契約して望んだ未来そのものではないか。

 

――残念ですが、ナツキさん。ここでお別れです。

 

「――――」

 

ふいに、鼓膜ではなく、記憶を震わせる声がして、スバルの足が止まった。

振り返り、周りを見ても誰もいない。ならば魔女の悪趣味かと思えば、それは彼女の思念波でもありえない。もっと別の、記憶からの呼びかけだ。

 

声は続ける。

 

――僕はね、ナツキさん。これでも、あなたのことを恩人だと思ってました。大恩がある人で、できるだけそれに報いたいと、そう思っていました。

 

声は続ける。

 

――けど、あなたの決断を見て、わかったんです。あなたは誰の助けも求めてないし、それどころか、あなたは何もかも、一人でどうにかしようとして、できてしまう。

 

声は続ける。

 

――だから、これが僕の恩の返し方ですよ。たぶん、あなたは近くにいる人、みんなまとめて守ろうと必死になるでしょうから、僕は降りることにします。

 

声は続ける。

 

――では、さようなら、ナツキさん。お体に気を付けて。

 

声は続ける。

 

――僕は、あなたのことを友達だと思ってましたよ。

 

声は続ける。

 

――あなたは、そうじゃなかったでしょうけど。

 

「――ッ!」

 

最後の言葉が脳裏に響いた瞬間、スバルは力任せに拳を壁に叩きつけた。硬い音が廊下に鳴り響き、スバルの拳が痛々しく割れる。

拳骨に血を滲ませながら、スバルは荒い息を吐き、反対の手で頭を掴んだ。

 

今のは、忘れもしない、オットー・スーウェンの残した言葉だ。

『聖域』を経て、魔獣『大兎』を退け、ベアトリスを燃え盛る屋敷から連れ出して、その全てを己の経験だけで切り抜けたスバルに、オットーはそう言って屋敷を去った。

 

去り際の彼の背中は、あれから一年以上も経つのに、消えてくれない。

それはまるで、全てを救うことを選んだスバルを責めているかのようで。

 

『でも、彼を止めることもしなかった。実際、守る人間が減ってくれることは、君にとっても幸いだったはずだ』

 

「違う。そんな打算的な理由で止めなかったわけじゃねぇ。ただ、あいつの意思を尊重しただけだ。そもそも、あいつはここに残る理由がなかった奴なんだからな」

 

積み荷の買い取りと、魔女教から救出されたことの恩返し。

だが、恩返しについては竜車を飛ばして、時限装置で吹き飛ぶはずだったエミリアを救う手助けをしてくれた時点で貸し借りはなくなっている。

積み荷の方は、相応の金額を渡した時点で、やはりこれも貸し借りなしだ。

 

オットー・スーウェンに、エミリア陣営に協力する理由は何もない。

彼がそうした理由もなしにここに残るとすれば、それは彼自身にとって、行商人を続けるために出ていく以上の理由が、この場所になければ成立しない。

 

だから、出ていくと決めた彼を止めることはしなかった。それに、オットーの『言霊の加護』は有用ではあったが、王選を勝ち抜くのに必須ともいえなかった。

そもそも、エミリア陣営に関わり続けることは、『王選』と『魔女教』の二つの点から危険性が拭えない。ここを離れた方が、オットーにとっていい。

その後の噂は聞かないが、ほんの二週間ほどの付き合いだ。大した縁でもない。

 

ナツキ・スバルが命を投げ出して、守らなければならない人たちは他にいる。

 

「――――」

 

滴る血を靴裏で踏み躙って、スバルは頭を振ってから歩き出した。

最近はこうして、どうにもならないことに思考を強姦されることが多すぎる。苛立たしい。腹立たしい。何より、エキドナはそれを楽しんでいる節がある。

 

考えることが無数にあるのだ。自分の、頭の中にかかずらっている暇などない。

 

最適を、最善を、最良を、最高を、最大を、選択しなければならない。

それなのに――、

 

「――――」

 

早歩きに廊下を抜けて、スバルは自室に舞い戻る。今の自分の顔を、うっかりにでも誰かに見られるわけにはいかなかった。

ナツキ・スバルは平静で、理性的で、楽観的で、普段と何も変わらない。

そう在るように、屋敷にいる全ての人たちに信じてもらわなければならない。

そうでなければ、守りたいものも守れない――。

 

「――あら、ずいぶんと焦った様子で戻ってきたようだけれど」

 

部屋に入り、後ろ手に鍵をかけた瞬間、部屋の中からの声にスバルは顔を上げる。

そのスバルの過剰な反応を見やり、ベッドに腰を下ろしていた『黒い女』が嫣然と微笑み、その三つ編みにした長い黒髪をそっと手でかき上げていた。

 

「時間通りに戻ったはずなのに、そう睨まれては困ってしまうわね」

 

「――エルザか」

 

「ええ、その通り。『腸狩り』エルザ・グランヒルテ、ご主人様の命令に従って、こうして馳せ参じた次第。――ご迷惑だったかしら?」

 

そう言って艶めいた仕草で小首を傾げるのは、女性的な体を惜しげもなく晒した黒い衣装を纏う美女――妖艶だが、毒蛇めいた美貌を放つ殺し屋、エルザだ。

音も気配もなく、寝室に先回りしていた女を、スバルは最初に驚きを通り越したあとはすんなりと受け入れる。

当然だ。彼女は敵ではない。心を許せる味方ではないが、それでも味方ではある。

なにせ――、

 

「わざわざ、焼ける屋敷から引っ張り出してまで助けたんだ。その分、働いてもらう」

 

「わかってる。別に今の雇い主であるあなたに不満はないもの。私は、私の趣味に反さない範囲で依頼を選ばせてもらうけれど……今のところ、文句はないわ」

 

腰に備え付けたククリナイフを引き抜き、鈍い輝きを見せつけながらエルザは笑う。

彼女には現在、陣営の裏方としての協力を申し出ている。

 

陣営のトップであり、穢れることのできない象徴であるエミリア。

『剣聖』として、表立っては揺るぎない評価を得ているラインハルト。

そして、数々の難局を被害ゼロで食い止め、乗り越えてきたナツキ・スバル。

 

そうした、明るい評価の下、自由に動けないスバルたちに代わり、エルザには汚れ仕事に手を染めてもらう機会が多い。無論、汚れ仕事といっても、その内容は決して卑劣なものとは限らないが――。

 

「それで、首尾はどうだった?」

 

「残念だけれど、教わった拠点には『暴食』の姿はなかったようね。いたのは有象無象の魔女教徒ばかり……一人残らず、自由にさせてもらったけれど」

 

「ああ。それはお前の好きにしていい。……けど、外れか」

 

朱に濡れる唇を舐めるエルザの報告に、スバルは顔をしかめて息を吐く。

外れ、またしても届かない。『暴食』の大罪司教を捕えるための手は何度も打っているのに、どう足掻いても奴に届かない。

 

「結局、『強欲』が殺せただけか」

 

「それに『憤怒』は捕えてある。上首尾だと思うけど、あなたにとってはそうじゃないのかもしれないわね」

 

「……とにかく、報告はわかった。ひとまず、また適当に待機しててくれ。頼みたいことがあるときは、またこっちから連絡する」

 

「そう。――じゃあ、待っているとするわね」

 

エルザの言葉には取り合わず、スバルは早々にそれだけ言いつけた。それを受け、彼女は特に気にした風もなく立ち上がり、窓際へ向かう。

スバルの部屋は屋敷の三階にあるのだが、窓から入ってきたのだろうか。別にそのぐらいの軽業、こなしたところで何の驚きもないが――。

 

「あ、待て、エルザ。聞きたいことがある」

 

「――?何かしら、難しいことはわからないのだけれど」

 

「そんな大したことじゃない。お前、外からこっちにきたんなら……森の向こうの天気はどうだった?雨とか大丈夫だったか?」

 

「天気?ええ、別に何の問題もなかったわ。少しだけ雲が厚いのだけれど、崩れる心配はたぶんないでしょうね。それが?」

 

「いや……」

 

首をひねり、スバルは自室の魔刻結晶を眺めた。時刻はすでに火の刻――陽日の七時を回っていて、すでに昼時を過ぎた頃だ。

それだけ確かめると、スバルは窓枠に足をかけたエルザの傍へ歩み寄り、

 

「頼みたいことができた。――そのナイフで、俺の首を刎ねてくれ」

 

「――頭、おかしくなったわけではないのかしら」

 

「いたって正気で言ってるぜ?必要なことだから頼んでるだけだ」

 

スバルの発言に珍しく目を丸くして、エルザはそれから獰猛な気配を噴出する。しかし、それを浴びてもスバルの姿勢は一向に変わらない。

その堂々とした様子に、エルザは肩をすくめた。

 

「普通に考えると、首を刎ねられた人間は大抵は死ぬのだけれど」

 

「俺も、それに該当する方だと思うぜ。お前はどうか知らないけど」

 

「私も、首を落とされたら死ぬと思うわ。……本当にいいの?」

 

「最初、お前を助けたときに言ったはずだ。――依頼とは無関係に一個だけ、俺の言うことを聞いてもらう。今がそのときだ」

 

重ねて願い出るスバルの態度に、エルザはすっと目を細めた。そして、彼女は自らの得物であるククリナイフを手にすると、その鋭利な刃を掌の中で旋回させ、

 

「言い残すことは?」

 

「痛くしないでね」

 

「――――」

 

「あ、あと、死んだあとの俺の腸は好きにしていいから、屋敷の人間には手を出すな。まぁ、そのためにラインハルトを置いて――」

 

その言葉を言い切るより前に、エルザの腕が風を切っていた。

一瞬だけ、スバルの視界が綺麗にひっくり返る。そのままくるくると部屋の中を見回しながら、見慣れた自室に血がぶちまけられるのを見届けて、

 

――ああ、部屋の掃除、ペトラに悪いことしたな。

 

と、思いながら、スバルの命はぷつりと消えた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――虚ろな夢から目覚めるとき、スバルはいつも息苦しい感覚を味わう。

 

だが、そこからの解放は今回は早い。

おそらく、眠りの目覚めとは異なる形で、ナツキ・スバルが再構成されたためだ。

 

「――――」

 

上体を乱暴に跳ね起こして、スバルは汗の滲んだ額に手を当てる。冷たいそれは寝汗というよりは、落命の衝撃を引きずって流れた脂汗に近い。

ともあれ、スバルの体は自室のソファの上にあり、陽光が窓から差し込んできていた。

 

「朝、か」

 

刎ねられたはずの首に触れて、スバルはゆっくりと立ち上がる。首をひねり、うっかりと頭が床に落ちないことを確認しつつ、扉の上の魔刻結晶で時間を確かめた。

薄く緑色に光る結晶は、時間が早朝であることを示している。

問題は、それが『いつ』の朝であるかなのだが――。

 

「――――」

 

それを確かめるために、スバルは自分のペンダントに触れた。黒い結晶石がチェーンで繋がれたそれは、スバルの現実と夢の城とを繋ぐ通行手形のようなものだ。

掌に握り込んだ結晶石から、熱い感覚と脈動が流れ込んでくる。それとスバルの鼓動が一致すれば、訪れるのは白い光と、世界が切り替わる証明だ。

 

「――――」

 

目を開ければ、スバルはまたしても、あの広大な草原の真ん中に立っている。

振り返れば丘があり、花園のすぐ傍らにあるパラソルの下では、白いテーブルに向かう黒服の魔女が優雅にカップを傾けているのが見えた。

丘を上がって、魔女の下へ向かう。

 

「おい、今日は……」

 

「――――」

 

テーブルに手をついて、優雅なティータイムを続ける魔女に噛みついた。だが、彼女はそれには何も答えず、ただ静かに正面の席を指差してみせる。

そこにあるのは空席と、来客のために淹れられたお茶のカップだ。そしてそれは彼女がスバルに提示した、茶会に参加する最低限の条件――。

 

「クソ、飲めばいいんだろうが、飲めば!」

 

舌打ちしながらカップを掴んで、スバルは一気にその中身を喉に流し込む。途端、淹れたての茶の熱さに目を剥き、

 

「ごぶぁ――!?」

 

「わぁー!?ちょっとちょっと!君、いくらなんでもそれはないんじゃないか?」

 

「うるせぇ!お前が気難しい魔女なんか演じて、面倒な手順踏ませようとするからこんなことになって……げほっ、がほっ、ぶほっ!」

 

茶を逆流してむせるスバルに、さしものエキドナも大慌てで席を立つ。それから彼女はスバルの背中に手を当て、咳が落ち着くまで背中をさすり続けた。

そうして、しばらくスバルがげほげほとやってから、

 

「あー、お茶は?」

 

「はぁ、今回はいいよ。また、せっかく淹れたお茶を吐き出されても敵わない。それにテーブルも、汚したままにしておくのは不憫だからね」

 

口元を拭いながら、仕切り直そうとするスバルにエキドナは首を横に振る。

魔女はスバルの吐き出したお茶で汚れたテーブルを眺めると、軽く指を鳴らしてみせた。すると、テーブルは溶けるようにほどけ、塵になって消えてしまう。

 

「やれやれ、椅子にも少しかかっているな。ボクに立ち話をさせるような人間、そうそういなかったっていうのに……君も罪作りな男だね」

 

「むせて吐いただけの話だぞ。――それより、大事な話だ」

 

からかうようなエキドナの言葉を切り捨て、スバルは指を立てる。

確認しなければならないこと、それはたった一つだ。

 

「今日は、いつだ?キスダムの月、十四日……で、間違いないか?」

 

「――――」

 

「エキドナ?」

 

「少し焦らしてみただけだよ。せっかちすぎると、事は逃げてしまうよ」

 

「――エキドナ」

 

魔女の遊戯に付き合う暇はない。スバルの言葉にエキドナは肩をすくめると、

 

「正しいよ。安心していい。君の『死』は、君を当日の朝に引き戻した。今回の起点はこの日の朝に固定されたようだ。確信があったのかい?」

 

スバルの質問に答えて、エキドナは逆にそう切り返す。

一方、スバルは『死に戻り』したのが同じ日の朝だと確認できて一安心した。そして、その心地のままで、エキドナの質問に首を横に振る。

 

「いや、特に確信とかはなかった。最悪、前のセーブポイントに戻るかと思ったけど」

 

「前の、となると二ヶ月前のことだ。ずいぶんと思い切りのいいことをしたものだね」

 

「かもしれないな。毎回、エルザでも驚くんだなって不思議な気分になるけど」

 

とはいえ、雇い主が唐突に自分を殺せと言い出せば、あの快楽殺人者であるエルザでさえも正気を疑って当然だろう。

それでもわりと毎回、すぐに逡巡を切り捨てて従ってくれるあたり、『死に戻り』装置として非常に彼女は優秀だ。

 

「ただ、今回の『死に戻り』が今日の朝ってのは、あれだな」

 

「そうだね。そうなると……また直近で、何か問題が発生するらしい」

 

顔をしかめたスバルの発言に、瞑目するエキドナが同意する。

『死に戻り』の始まり、セーブポイントの移行、それはナツキ・スバルにとって、『死に戻り』がなければ越えられない艱難が降りかかる、その予兆だ。

そして、それはつまり――、

 

「またお前の力を借りることになるな」

 

「なに、それが契約だからね。それに、ボクから力を貸せるようなことはこれまで通りに特にはない。――せいぜい、ここで君に口出しするのが精いっぱいだ」

 

「その精いっぱいに、救われることも結構あるからな」

 

「……あまり、魔女を掌で転がそうとするべきじゃないよ。そんな簡単に君の思い通りになると思われては、他の魔女たちに示しがつかない」

 

視線を逸らし、エキドナは自身の長い髪に指を通しながら、どこか照れ臭そうにそんな風にこぼす。その姿にスバルは胸の高鳴りのようなものは覚えないが、それでも、戦いを前にして、微笑ましいものを見たような気持ちにはなった。

 

「ともあれ、頼りにしてるぜ、『強欲の魔女』」

 

「いいとも。こちらこそ、君の奮闘に大いに期待させてもらう。できれば、もっとボクの好奇心を満たすために協力的になってくれれば幸いだが……」

 

「それは断る。お前の無限の好奇心に付き合ってたら、俺の人間性が枯れ果てるのは時間の問題だからな。誰が、そんな無限の選択肢を試すような真似ができるかよ」

 

「それは残念」

 

と、おどけた仕草でエキドナが言えば、新たな戦いの前のティーブレイクは終了だ。

思わぬ形で『死に戻り』の地点が変わったが、ある意味、これは先制攻撃の機会を得たと割り切ってもいい。

 

「先制攻撃されてばっかの『死に戻り』が、まさかの先制攻撃に役立つか」

 

そう述懐して、スバルは丘を下って、現実へ戻るための扉へ向かう。

その背中に、エキドナが微かに声を高くして、

 

「そういえば」

 

「うん?」

 

「『死に戻り』地点の変更を理解したわけでなかったんなら、君は何のためにわざわざ『死に戻り』をしたんだい?」

 

「ああ。それは――」

 

それは――、

 

※※※※※※※※※※※※※

 

夢の世界の扉を潜り、ナツキ・スバルの意識が現実へと回帰する。

 

「――――」

 

扉の上を見上げれば、魔刻結晶の示す時間は先ほどから変化していない。相変わらず、現実時間と実時間の違いに慣れないまま、スバルは洗面所に向かった。

顔を洗い、歯を磨き、笑顔の形成に苦労して、それから手早く服を着替える。

そして、それがちょうど済んだ頃に、

 

「――スバル様、起きていらっしゃいますか?」

 

部屋の外からノックの音が届いて、スバルは時間通りだなとソファから腰を上げる。そして部屋の扉に手をかけ、こちらから開け放ってみせた。

 

「わ」

 

「よ、おはよう、ペトラ。今朝も可愛いな」

 

突然にドアが開いて、向こうに立っていたペトラが目を丸くしている。だが、彼女はすぐにそれがスバルの悪戯だと気付き、はにかむように笑った。

 

「もう、びっくりさせないでください」

 

「すまねすまね。で、ペトラ。挨拶はしてくんないの?」

 

「ホントに反省してくださいよ?まったく……はい、おはようございます、スバル様。今朝も、気持ちのいい朝ですよ」

 

軽薄なスバルの態度に言及せず、ペトラは愛らしく微笑んだままそう続ける。その言葉はまさしく、『死に戻り』する前の朝とまったく同じ流れだ。

そうなれば、彼女の次の発言も同じになる。

 

「気持ちのいい朝、同感だ。今日もペトラが可愛くて、言うことなしだな」

 

「また、スバル様ったらそんなこと。……でも、森の向こうの空には雲がかかっていて、昼過ぎから天気が崩れるかもしれないみたいです。今日は町にお買い物にいく予定があるので、晴れたままでいてくれるといいなぁ」

 

そんな願望を口にする少女、その言葉尻に歳相応の顔が覗くのを聞いて、スバルは思わず噴き出しそうになった。それを見て、ペトラが頬を膨らませるが、スバルは「悪い悪い」と前置きしながら、

 

「でも、安心しろよ、ペトラ。今日も、一日ちゃーんと晴れたまんまだ。雲は見かけ倒しで問題なし。俺が断言するぜ」

 

「え?ホントですか?それはすごい助かります。……でも、なんでわかるの?」

 

「そりゃ、もちろん……」

 

スバルの断言に目を丸くして、ペトラは首を傾げる。

そんな少女の疑問に、スバルは歯を見せて笑いながら、言った。

 

「――そのために、命懸けで戻ったぐらいだからだよ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

緑の草原、花園の香る小高い丘、白いパラソルと白いテーブルが存在する定位置で、喪服のような黒い衣装を纏った、どこまでも白い少女が優雅にカップを傾ける。

温かな茶の味を舌で楽しみながら、魔女は陶然とした息を漏らし、

 

「自身の命を、誰かを救うために、守るために、傷付けないために、差し出す。それはとても高潔で、気高く、誰からも称賛されて然るべき偉業だ。それも、一度では済まない繰り返しの苦行に挑むなんて、ますますを以て、そう思わざるを得ない」

 

己の胸に手を当てて、魔女は自身と契約した少年の姿を思い浮かべる。

必死で理想を求め、現実に打たれながらも抗うことをやめず、『死に戻り』という最悪の異能を我が物として、懸命に戦い続ける、愛すべきニンゲンを。

 

「――だが、『死に戻り』で自らの命を差し出すことで周囲を守ることは諸刃だ。自分の命を軽視するあまり、君は自分以外の命の価値に固執しすぎた。自分の命に価値が見出せなくなったから、大切な人たちの命を守ることに必死になりすぎて……今度は、大切な人たちの命『以外』に目がいかない。それは、どこまでも」

 

どこまでも、どこまでも、たった一つに縋りつく姿勢は、あまりにも愚かで。

そして愚かということは、無知ということは、知れるということは。

 

「――君は本当に、ボクにとって好ましい人だ」

 

まるで恋する乙女のように頬を染め、魔女はこの場にいない少年を想う。

結晶石越しに、彼のゲートを通じて、世界が手に取るように伝わってくる。そして降りかかる苦難は彼を砕き、そのたびに、無意識に彼は魔女に依存していく。

 

その精神を強く保ち、魔女の誘惑に耐えているつもりで、傀儡と化しても。

たかだか天気の一つを確認するために、『死に戻り』することをいとわない精神性になっているとしても、そんなことにも気付かず。

 

「でも、安心してほしい。君の大切な人たちの命は、ボクも全霊を賭して守るために知恵を吐き出そう。だから、そのために君も――」

 

――魔女の尽き得ぬ好奇心を満たすための、共犯者で在り続けてほしい。

 

苦難のときが、理不尽な運命が、これからも何度となく少年に降りかかる。

それがどれだけ辛いものであろうと、高い壁であろうと、しかし、少年と魔女は手を取り合って、互いに力と知恵を貸し合って、乗り越えていくのだ。

 

それが『強欲の魔女』が差し出した、焼けつくようなアイなのだ。

 

「ああ、それにしても――」

 

少年のゲートを通じて、少年が守るために奔走し、少年に守られた結果、その心の多くに傷を負った人々を感じながら、魔女は嘆息する。

 

それは永遠に解けぬ命題、死してなお、彼女を虜にして離さない謎。

ああ、それにしても――、

 

「――愛は何故、減るのだろうか」