『フォーチュン・フィッシュヘッドツリー』


 

毎年のことではあるが――その、毎年恒例と心で考えてしまっている自分が自分で嫌だが、毎年恒例のその日が今年も近付いてきてしまった。

 

「カレンダーの日付が迫ってくるのが、やけに憎たらしく感じるぜ……」

 

と、ため息と共にそんなアンニュイな呟きをこぼすのは、その横顔に年齢不相応な疲れと達観を滲ませた少年だった。

風に揺れる短い青の髪、世界を鋭く見通す三白眼、そしてカララギ伝統のワフク。

 

彼こそは、カララギ都市国家、第二都市バナンにその人ありと謳われた、『節分の王』ナツキ・リゲル本人であった。

 

「不名誉すぎる……!」

 

短い腕を組み、『節分の王』は嘆くように空を仰いだ。

 

数年前より都市に根付き始めた『節分』という名の行事は、毎年毎年その形を変えてリゲルに襲いかかってきた。その苦難の連続は彼を成長させ、気付けばたった一人の少年を『節分の王』へと押し上げるまでになったのである。

今ではリゲルがバナンの町を歩くだけで、節分と無関係の日にもたまに子どもに豆を浴びせられる始末だ。趣旨がわかっていないらしい。子どもだから仕方ないと微笑ましく見逃してやれば、それを見ていた父親にものすごい盛大に笑われてもにょる。

 

ともあれ、『節分』なるイベントはもはやバナンにあってはすでに欠かせないものになっており、それはリゲルにとっても――心情はともかくとして、リゲルにとっても同じことが言えた。

言い始めたのがリゲルの実の父親であるというところもそれと関連するが、最大の要因は家族の問題――『節分』とは鬼に纏わる行事である。

そして、『鬼』の血を引くリゲルと最愛の妹、それに母とは切っても切り離せない。

故に『節分』とは、リゲルを含むナツキ家には欠かせない行事なのだ。

 

だから豆を撒き散らし、リゲルが的にされる行事も、太巻きをくわえて食べ終えるまで無言で過ごす恵方巻も、鬼の格好で街中を逃げ回ることも、受け入れてきた。

しかし、しかし、だ。

 

「そろそろ、親父もネタ切れなのかな……」

 

「――おい!リゲル!お前、いつまでそんなとこでたそがれてんだ!お前の戦力かなり当てにしてきてんだぞ!こっちこい!手伝え!!」

 

力なく肩を落とし、リゲルがそんな風にぼやいた直後だった。

遠くからリゲルを呼ぶ声が、それもかなり切羽詰まったものが聞こえて、リゲルはそちらに渋々といった動きで首を向けた。

 

――モゴレード大噴口の水べりで、半裸の父親が必死に両手を振っていた。

 

その全身はずぶ濡れで、普段は上に逆立てている黒髪がぺったりと潰れ、一緒に風呂に入っているときのような状態になっている。役立たずとなった上着は捨て、そこそこに鍛えられた上半身を晒しながら、父はなおもリゲルに呼びかけ、

 

「群れがきてる!長老の言ってたことは正しかったんだ!この機会を逃したら次はないぞ!リゲル!早く!」

 

「わかった!わかったから!」

 

ここで我が身惜しさに見捨てられればいいものを、リゲルはがりがりと自分の頭を掻き毟って、結局は父親の方へ向かって走り出した。

その頭上、雲一つない晴天から降り注ぐ水しぶきを浴びながら、リゲルは轟然と水を噴き続けるモゴレード大噴口へ。

 

――今年の『節分』は、いつもとは一味違う。

 

「いや、オレが嫌な思いするのはいつも通りだけど!」

 

「リゲル!リゲルさん!?早く!角出して!網掴んで!ぎゅっと掴んで逃がさないで!」

 

「うるせぇ――!!」

 

真剣なのか悪ふざけなのか、判断に困る父親の指示に従い、リゲルは大噴口の淵に立つと、渦を巻く水面に目を凝らし、無数の魚影を確かに捉えた。

 

「――――」

 

網の端を掴み、力を込める。額に熱が生じ、一瞬の空白、そして過剰な爽快感。

漲る力は大気中のマナを取り込むことで際限なく膨れ上がり、御年十一歳になるナツキ・リゲルの矮躯には、幼さに見合わぬ鬼神の腕力が宿った。

 

「うるぁぁぁぁ――!!」

 

細腕にありえない膂力を込めて、一気に網を引き揚げる。細い鉄糸で作られた網は、鬼の力に引き千切られることなく役割を果たした。

 

「よしきたぁ!リゲルがいったぁ!俺たちも負けてらんねぇぞ!みんな、腰入れて、一気に引っ張れ――!!」

「おぉぉぉーーーーえぇぇぇーーーーっす!!」

 

反撃の先触れになったリゲルに続いて、父親――否、彼だけではない。

彼が連れてきた、バナンの有志一同が一気に網に駆け寄り、リゲルと同じように各々の全霊を以て、網を引き揚げる。魚影は逃げ出さんと網の外へ頭を向けるが、すでに奴らは悪魔じみた策謀の中にいた。逃げられない。逃がさない。

 

「お前らも……大人しく、『節分』の犠牲になれぇぇぇ!!」

 

共に、『節分』に望まぬ苦難を強いられる同志。

他の人たちの、大人たちの気持ちはわからない。だが、せめてだ。

 

――せめて、オレだけは心から、お前たちに同情しつつ、道連れにする!

 

「うおおおおお――!!」

 

奥歯を噛みしめ、ただただ全力で命に向かい合う。

網を握りしめる掌が熱い。額に流れる雫は汗なのか、大噴口の水滴か、わからない。

ただ、この手を放してやるもんか、それだけは思った。

 

――なんでまたこんなことになったのか、それは数日前に遡る。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

それは休日の昼下がり、同じコタツに入って向かい合う、父と子の微笑ましいやり取りから始まった。

学び舎も仕事もそれぞれお休み、それに珍しく何の予定もない日だ。朝からのんびりとコタツで過ごし、お決まりの「学校はどうだ?」「ふつう」といった会話をこなしていって、たまにはこんな一日も――なんて油断していたときだった。

 

「あー、リゲルくん。もうすぐ、あの日がくるね。どう思う?ん?」

 

「風邪ひいてくれ」

 

「攻撃的な意思をオブラートに包んだ言い回しだな、オイ」

 

その言葉に不満げに唇を尖らせるのは、鏡で毎朝見る、リゲル自身の目つきとそっくりな目つきをした男だ。

短い黒髪に珍しい黒瞳、リゲルの家名でもあるナツキの大黒柱を名乗る彼こそが、リゲルの父であるナツキ・スバルであった。

年齢はそろそろ三十になるはずで、リゲルの知る限り、大人として相応の落ち着きや貫禄が出てきていてもおかしくない頃だ。が、父――スバルにあってはあまりその様子が見られず、精神的な問題か日常的な振る舞いの影響なのか、それより五つか六つ、あるいはそれ以上に若く見えてもおかしくない落ち着きのなさだった。

 

ちなみに、ナツキ家では現在、末っ子であるスピカの英才教育が行われている真っ最中であり、彼女の健やかな情操教育のため、汚い言葉や攻撃的な発言は禁止されている。なので、デリケートのない父親を罵るのにも、「風邪をひいてくれ」などと柔らかかつ、でも自分の意思はちゃんと乗せた表現を選ぶ必要があった。

ただ、そんなリゲルの創意工夫した訴えに、スバルは全くめげる様子もなく、

 

「まぁ、お前の気持ちはわからないでもねぇよ。去年のことはさすがに俺も反省してる。――まさか、お前にぶつける節分の豆の数が、バナンで使われる豆の使用量の一ヶ月分を上回るなんてな」

 

「去年のオレも、豆が原因で生死をさまようなんて思っちゃいなかっただろうよ。しばらくずっと夢にも見て、今でもたまに悪夢にうなされてんだぞ」

 

「でも、安心しろ。今年は鬼の数をさらに増やすことで、お前にかかる負担を分散して軽減する方針に切り替えた。去年みたいなことはもう起きないぜ!」

 

「オレに断りもなくオレを中心に据えたユニットを組むのをやめろ!!」

 

気遣った風で全然気遣えていないスバルの発言に、リゲルはコタツを叩いて声を荒げた。が、こうして反発する一方、おそらく言うだけ無駄だろうという気持ちはわりと早々に、それこそ去年の節分数日後には芽生えつつあった。

何せ、いく先々、道行く人々、挙句は近所の幼子さえもリゲルの功績を知っているのだ。顔と名前の一致しない町の人たちに、「来年も期待してるよ!」なんて声をかけ続けられれば、押しに弱いリゲルの退路は断たれたようなものである。

 

「そもそも、前回は練り込みが甘かったんだよ。あと、飾りのこん棒だけど、棘の部分はちゃんと綿詰めて作ってくれたか?殴りかかったりするわけじゃねぇけど、何かの拍子に人にぶつけたらイベント中止とかなりかねないし……」

 

「なんだかんだ言うわりに、前向きに善処するあたり、お前の育て方は間違ってなかったんだってホッとするわ、俺」

 

「何言ってんだよ!大体、親父が言い始めて、親父が周り巻き込んで始めたことだろうが!それでオレが親父に文句言う権利があるのはともかく、ただ参加しただけの人たちが嫌な思いしたら可哀想だろうが!」

 

「お前、なんか早く老けそうだなぁ……」

 

わけのわからないスバルの感想に、リゲルはため息一つで何も言わない。

スバルの発言が理解不能なことなど珍しくもなんともない。いちいち、何もかも理解しようなどとしては疲れるだけだ。リゲルは母と違って、父の全てを理解しようと努力するのはへその緒がついていたときから諦めている。

 

「で、したかった話は『節分』のイベントのことでいいのか?言っとくけど、去年の鬼のパンツとベストはサイズが合わねぇぞ。成長期だから」

 

「まぁ、去年と比べたら五センチは伸びたもんな、お前。柱の傷もハイペースで高くなってくから、俺も見てて気持ちいいよ。つっても、俺も一時的に伸びて止まって、次の豊作がくるまで結構時間空いたからな。長い目で見とけよ」

 

笑い、スバルがコタツの対面にいるリゲルの頭に手を伸ばした。たぶん、撫でようとしたのだろうが、コタツから出ない横着をしたせいで届かない。仕方なく、リゲルは自分から頭を差し出して撫でられてやった。くすぐったい。

 

「ともあれ、鬼のパンツに関しては心配するな。そっちの方はレムがちゃんとこっそり作業を進めてくれてる。毎年、お前の成長に合わせて更新される鬼の衣装……お前が結婚するとき、式にきてくれた人たちに見えるところに飾ろうと思うんだけど、どう思う?」

 

「風邪ひいてくれ」

 

頭を撫でられながら、リゲルは父が風邪にうなされるのをわりと本気で願った。それを受け苦笑したスバルは、「それでな」と言葉を継ぐと、

 

「鬼のパンツの話も大事は大事なんだが、そっちはちゃんと『豆まきイベント』委員会の方で話進めてるから、俺たちだけでうんうん唸る必要はねぇ。それより」

 

「待て待て待て待て、聞き覚えのない委員会の名前があったぞ!」

 

「それより、大事なのは来る『節分』に向けた新たな試みだよ。豆まきに恵方巻とこなしてきたが、そろそろ飽きられないためにも未知のアレを開拓しなくちゃならない。時代は常に早歩きだ。過去に縋ってると置いてけぼりくらうぜ」

 

「ひいてくれ……!風邪、ひいてくれよ、なぁ……!」

 

切実に願いを込めた声は、目の前の父親にすら届かずに弾かれた。

その事実にがっくりとうなだれるリゲル、そんな息子の様子に頷きかけ、スバルは聞いて驚けとばかりに身を乗り出した。

 

「頭ひねって、節分行事に何が残ってたのかをひねり出した。ってなわけで、今年は豆まきに加えてそいつも実行してやろうぜ」

 

「……今度はどんな奇祭なんだよ」

 

「奇祭っていうな、奇祭って……って言いたいところなんだが、さすがの俺も今回の行事に関してはそのそしりは免れないかもって覚悟してるぜ……」

 

重苦しいスバルの物言いに、リゲルは背筋に寒気が走る。

豆をまいて鬼にぶつける祭りや、黙って恵方を向いて太巻きを食べる行事、あれらも傍目に見れば一家揃って気が狂ったと思われてもおかしくない奇祭だったはずが、スバルの言いようではそれらを上回るようではないか。

 

「い、嫌だぁ!どうせまたオレが嫌な目に遭うんだ!そうだろ、そうなんだろ!」

 

「なんでそんな人を疑うような子に……いったい、何がお前を変えたんだ」

 

「九割が親父で、一割が母ちゃんのせいだよ!」

 

「……へへ、その歳で親の影響を理解してるなんて、お前はすげぇな。俺がそのことを素直に認められたのは、ぶっちゃけ、お前が生まれてからだったぜ」

 

「なんで遠い目でいい顔してんだよ、オレ怒ってんだよ!?」

 

鼻の下を指で擦り、どこか満足げなスバルにリゲルは本気で呆れた。が、スバルは「落ち着け落ち着け」と手を振り、

 

「いい加減、話が進まねぇからな。今年の節分に何をするのか、発表しよう」

 

「鬼のパンツの次は何を……」

 

「心配しなくても、お前の心も体も傷付かないヤツだよ。――今年の節分から、新たにナツキ家の風習に加わるのはズバリ!」

 

一拍溜め、その間にスバルが指でコタツを高速でリズミカルに叩く。前置きが長いと視線で促すと、父は「じゃん!」と自分で契機を作り――、

 

「――柊鰯を、実行する!」

 

と、のたまった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「それで、『ヒイラギイワシ』というのはどういう行事なんですか、スバルくん」

 

やけに盛大な発表があって数分後、台所から居間へ戻ってきた女性――青い髪を長く伸ばし、美しく柔らかな面差しをした人物だ。キモノ姿で、胸元には黒髪の愛らしい幼児を抱き、狭いだろうにコタツではスバルの隣に潜り込んでいる。

言うまでもなく、リゲルの母であり、スバルの妻である、ナツキ・レムだ。

 

台所で昼食の片付けをしていたレムは、お腹がいっぱいになってお昼寝している娘――スピカを起こさないように撫でながら、その小首を愛らしく傾げている。

父と子の話は聞こえていたようだが、彼女もスバルの言い出した『柊鰯』なる奇祭については初耳だったようだ。基本的には何でも話し合っている、ナツキ夫婦にしては珍しいことである。

 

「よく聞いてくれたな、レム。『柊鰯』ってのは、豆まきとか恵方巻に続く、節分企画の第三弾だ。これまでのに比べると、ちょっと地味な上にマイナー感は否めないが、その分、なんかこうご利益とか本格的にありそうで信心深い人にオススメ」

 

「なるほど、さすがスバルくんです。確かに、豆まきや恵方巻は、女性やお年寄りの方が参加するのは大変なことが予想される行事でした。豆の片付けも、太巻きを食べ切るのも楽ではありませんし……慧眼です!」

 

「あ、そうだね。そう言われてみればそうだな。……ああ、そうなんだよ。まさに今回はそこが狙い目でな!」

 

「はい!それで、『ヒイラギイワシ』とは?リゲルがどんな目に遭う行事なんですか?」

 

「オレ、こんなんじゃ母ちゃんにも風邪ひいてもらいたくなっちまうよ……!」

 

『節分』と『リゲル』と『被害』がイコールで結ばれているレムの発言に、リゲルは頭を抱えて我が身を嘆いた。しかし、そのレムの言葉にスバルは「ちっちっち」と立てた指を左右に振り、

 

「レムもリゲルと同じ早とちりをするなって。今回はリゲルに被害ゼロだ。『柊鰯』は簡単あっさりな仕事だからな。心配いらねぇぜ」

 

「そう、ですか。……はい、わかりました」

 

「なんでちょっと寂しそうなの?ねえ、母ちゃん、母ちゃん?」

 

「冗談です。そんなになんでも真に受けないでください、リゲル」

 

しゅんとした顔をすぐいつものものに戻した母に、リゲルはなんとも言えない味わい深い顔をする。そんな母と子のやり取りに、スバルは「はいはい、こっち注目」と手を叩いた。

 

「話がすぐ脱線するのがナツキ家の悪いところだ。反省して直していこう。で、肝心の『柊鰯』なんだが、これは豆まきとかよりさらにシンプルでな。焼いた鰯の頭を柊の枝に刺して、玄関に飾っておくって風習だ。楽勝だろ?」

 

「イワシ?」

「ヒイラギ?」

 

得意満面に説明したスバルに、レムとリゲルはそれぞれ首を傾げた。

スバルの言った、『イワシ』も『ヒイラギ』も聞き覚えのない単語だ。そもそもの行事名が『ヒイラギイワシ』なので、シンプルだとは思ったが。

そんなリゲルの納得を余所に、スバルは「わかる」と腕を組んで頷いた。

 

「これが昔の俺だったら、『し、しまったー!柊も鰯も、こっちじゃ通じないヤツだったかー!』なんて馬鹿丸出しな発言をしたんだろうが、そうはいかねぇ。俺も学習してるからな。通じないのは予測済みだ。なんで噛み砕くとだな、柊ってのは木で、鰯ってのは魚のことだ。つまり、焼き魚に木の枝を差す風習だな!」

 

「焼き魚に、木の枝を……それは、何のために?」

 

「それは正直全くわからない……この行事が、よく俺の知識の海の端っこに残ってたもんだと、自分で自分を褒めたくなるぐらいの豆知識だからな……」

 

「なるほど、節分だけに豆知識……スバルくん、さすがです!」

 

「今、それ狙ってなかったけどね!」

 

無邪気なレムのアシストにスバルが傷付く横で、リゲルは「うーむ」と首をひねる。

焼き魚に木の枝を刺す行事――確かに、これまでの奇祭の中でも奇矯ぶりこそ秀でたものだが、これといって能動的な活動が求められる行事ではない。リゲルに被害が生まれようもない、というのも頷ける。

 

「だけど……」

 

「それが少しだけ、物足りないと感じるリゲルだった……」

 

「変なモノローグ入れんな!違ぇよ!親父にしては大人しいなとは思ったけど、それとこれとは話は別だ。魚を枝に刺す、上等じゃん。さっさと片付けようぜ」

 

「おお、前向きだな。お前もようやく、『節分』がナツキ家にとって欠かせない風習であるってことを認められるようになったわけだ。……免許皆伝だな」

 

「へいへい、ありがたやありがたや。それで?何を準備すりゃいいの?」

 

「まぁ、待てよ。俺もこう見えて、この『バナン文化振興会』の顔役だからな。去年から色々と苦心して、準備を整えてきたのさ」

 

ふっふっふ、と思わせぶりに笑ってみせるスバル。その態度にリゲルは「へえ」と感心した風な声を漏らした。

『バナン文化振興会』は、何の因果かスバルの提唱する謎の奇祭の数々を新たな文化として取り入れ、カララギ中に、ひいてはいずれ世界規模に広げるために日夜無駄な努力を重ねている人々の集まりだ。

これが何故か意外とウケがよく、リゲルの想定する以上に振興会の関係者の数は膨れ上がりつつあるのだが、そのことにリゲルが崩れ落ちるのはまた別の話だ。

 

ともあれ、『バナン文化振興会』の協力があるとなれば、なるほど確かにリゲルやレムといった家族という少数精鋭の手を借りる必要はないのかもしれない。準備だろうとイベントだろうと人手が重要なのは何事も同じだ。

去年の都市全体を使った豆まきイベントも、周りの協力があったればこそ。

 

「ってなわけで、俺は去年から虎視眈々と、鰯と柊に近似の魚と木を探すことに夢中になっていた。全く同じものを探すのは難しいとはいえ、なるべく近いものを用意するのが風習に対する誠意だからな。効果が変わって、祝いが呪いになっても困るし」

 

「ということは、話の流れからすると、お魚と木は見つかったんですね?」

 

「その通りだ。どっちも近い魚が……それも、入手しやすい場所でな」

 

そうして、コタツを出たスバルが腰の裏に手を回し、ズボンに差していたものをおもむろに引っ張り出した。それを、コタツの上に広げる。

地図だ。カララギ都市国家を描いたその地図は適度な精密さと、それなりの雑味を交えた手書きの地図で、右下に『ナツキ・スバル』のサインが入っている。

それから、スバルはその地図のほぼ真ん中、その一点に指を突き付け――、

 

「目指すはモゴレード大噴口、ここに目的の魚が群れを成して押し寄せる。さらにそのときの噴出を目当てに、クラグレル移動林もくるって寸法だ。長老を信じて、ここに根を張り、一網打尽にする。――それが、今回のナツキ家のミッションさ」

 

「当たり前のようにオレたちを巻き込むなぁ!!」

 

「あ!リゲル、いけません!スピカが起きちゃ……あ、あー」

 

「ふやぁぁぁぁ――!!」

 

誇らしげなスバルの断言にリゲルが吠え、その声にレムが慌てるのも時すでに遅く、無理やりに眠りをこじ開けられたスピカの泣き声が盛大に響き渡る。

 

――それが『フィッシュヘッドツリー作戦』の前日譚である。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――モゴレード大噴口の話をしよう。

 

星の内海、物見の台、楽園の端とは特に何の関係もないが、モゴレード大噴口とはカララギ都市国家の国土にあって、非常に稀有な環境に恵まれた場所だ。

そも、カララギ都市国家の風土として顕著なのが、国土全体に点在する砂漠地帯と、砂漠まではいかないにしても自然に乏しい乾燥地帯の多さ――言ってしまえば、自然に恵まれたルグニカ王国やヴォラキア帝国と違い、万年雪に覆われたグステコ聖王国ともまた別の意味で厳しい自然環境が広がる国なのだ。

 

故にカララギはかつて、都市国家として一つの国家に纏まる以前は、それぞれの小国が肥沃な土地を奪い合うような形で覇を競っていた。それを一人の英雄が一つの国家にまとめ上げたわけだが、それで自然環境が劇的に改善されたわけではない。

相変わらず、厳しい土地は厳しいまま、恵まれた土地も全てに恵まれたとは言えない環境のままに、何とか生活を保たせる方法を模索するしかなかった。

自然環境に頼れぬ中、結果的にカララギ都市国家が生きる道に選んだのが、国を挙げた商業的活動の推進――交易特化、カララギ都市国家の成り立ちである。

 

さて、モゴレード大噴口の話に戻ろう。

そうしたカララギ都市国家にあって、モゴレード大噴口の周辺地域が特別な環境にあることは前述したが、具体的に何が特別なのかといえば、この地域にだけは決まって、定期的な雨が降る。――それも、必ず決まった間隔でだ。

それだけのことが、カララギの国土では非常に大きい。

 

モゴレード大噴口とは、一見すれば広大な湖にも見える場所だ。しかしその実体は湖などではなく、大地に深く深く、それこそ『底』を突き抜けるまでに空いた大穴のことであり、その穴を満たす水は『大瀑布』に通じているとされている。

そして、大噴口は定期的に、湧き上がる水を空へと噴出させ、数十キロ、時には数百キロ圏内へと雨を撒き散らすのだ。その恵みのおかげで、モゴレード大噴口の付近にはカララギとは思えぬ自然が芽吹いており、重宝されている。

 

第四都市『フスミ』などが、モゴレード大噴口にほど近く、最もその恩恵を受けている都市といえるだろう。

そして今回、スバル率いる『バナン文化振興会』はそのフスミの都市長からバックアップを受け、モゴレード大噴口での『イワシ獲得ミッション』に挑んだのだ。

 

その協力の裏側には、近年、都市全体でイベント関連の業績をメキメキと上げているバナンの活動、それにフスミも一枚噛ませてもらうための暗闘があると噂されていたが、それは子どものリゲルの耳には入らない上に、大人のスバルの耳にも入っていないお偉方の駆け引きなのであった。

 

長くなったが、これが冒頭――モゴレード大噴口で奮闘していたリゲル以下、『バナン文化振興会』の戦いのあらましである。

 

――つまりは、ここから物語の再開と相成るわけである。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「うおおおおお――!!」

 

モゴレード大噴口へ投げ込まれ、大量の魚影を絡め取るのに成功した網を掴み、鬼の力を開放したリゲルは全力で吠えていた。

長い、あまりに長い戦いだ。網を掴んでから、ここにくるまでやけに時間がかかった気がしたが、必死になって身をよじるリゲルは無駄なことを考える余裕がない。

 

以前、スバルと釣りにいったことがある。

スバルもリゲルも、二人とも特に釣りが趣味だったわけではないが、なんとなく親子っぽいことがしたいと駄々をこねるスバルを連れ、仕方なくリゲルが学び舎で噂になっていた釣り堀にスバルを案内したのだ。

 

あのとき、何故か釣り堀にいた主と対決する羽目になったリゲルは、釣り餌を奪おうとする主と二時間以上も格闘した。魚は侮れない。奴らの生存本能は、時に何倍も体の大きなリゲルたちすら上回る輝きを放つのだ。

 

それは、この網の中に閉じ込められた銀色の魚も同じ――否、さすがに個体としてはあの主と比べられないが、数が違いすぎる。

無数の魚影、百どころか、その倍か、あるいはそれ以上の命の輝きは、奥歯を軋らせる鬼をして、決して一歩も引けを取らない凄まじい力だった。

 

「頑張れ!頑張れ、みんな――!!」

「おーえす!おーえす!おーえす!」

 

そうして必死に意気込むリゲルの後ろで、同じく網の端を引っ張るスバルと、同行した振興会の大人たち。彼らの真剣なのかふざけているのかわからない掛け声も、リゲルの集中力を削ぐ要因の一つだった。

 

――大体、姿勢が悪い。もっと腰を落とせ。ああ、でもリギンスさんは腰痛めてるからいきんじゃダメだ。っていうか、なんできたんだ。家で休んでろよ。

 

「お前たちばっかり、カッコ付けさせるわけにいかないからな」

 

「り、リギンスさん……!」

 

「へへ、まだまだ俺っちもこれから……ぐああああ!!腰がぁぁ!!」

 

「リギンスさーーーーーん!!」

 

いぶし銀に微笑み、姿勢を変えた瞬間にリギンスが崩れ落ちて戦線から離脱。その離脱を皮切りに、次々と大人たちが戦局からこぼれ落ちていく。

理由は基本的に寄る年波への敗北だ。

振興会のメンバーの大半は、イベントを通して若者たちと触れ合い、地域の絆を強めたいと願うお年寄りだった。

その中でもできるだけ若いメンバーを厳選しても、平均年齢は六十に迫っていた。

それは、この命が凌ぎ合いを続ける戦場において、半死人という意味だ。

 

「ダメだ!これ以上は無理させられない!長老!負傷者を連れて離脱してくれ!これ以上は死人が出る!」

 

状況の悪さを鑑みて、スバルが苦渋の決断とばかりに声を飛ばす。

傷付いたものが死ぬならまだしも、死なないのであれば救援が必要になる。負傷者を遠ざけるのに必要な人員は二名。つまり、一人倒れるたびに余計に二人の人手が抜ける負のスパイラルが発生し、ついには戦線は完全に崩壊した。

 

もはや、無事に網を掴んでいるのはリゲルとスバル、それに長老の三人だけだ。

 

「ま、まさか、こんな戦いになるなんてな……すまねぇ、リゲル。完全に俺の目測が甘かった。長老も、巻き込んじまって……」

 

「気にすることはないもよ。長い付き合い、こんなときがくるとわかっていたもよ」

 

苦いスバルの呟きに、首を横に振ったのは白い毛並みが水に濡れ、それでも愛らしさを損なわない長老――子犬人のチャモフさんだ。

世界中を旅し、七つの砂漠を制覇したこともあると豪語するチャモフ長老が、今回のモゴレード大噴口に、目的の魚が群れで通過する情報の提供者だった。

その情報に責任を取る形で、こうして漁にも参加してくれたのだが――、

 

「ただ、無念なのは……君たちに最後まで、ちゃんと付き合ってやれそうに、ないこと、もよ……」

 

「ちょ、長老?長老――!」

 

振り返り、チャモフを呼んだスバルの目が見開かれた。リゲルもつられて首だけ振り返り、その視界から消えたチャモフの存在に絶句する。

子犬人であるチャモフ、彼の身長はわずか五十センチほどしかない。それは、このモゴレード大噴口の激戦の最中、暴れる魚たちが起こした波の高さと同程度――いったい、何度流されかけて、最後まで彼が付き合ってくれていたのか。

その懸命な抗いを、この瞬間まで周りに気付かせないタフさこそが、その外見に似合わないハードボイルドな彼の生き様を象徴していた。

 

「も、もう、ダメだ……」

 

長老――幼いときから、何度も我が家を訪ねてきてくれた馴染みの人物。

チャモフが戦線から退いたのを目にして、リゲルの体から急速に力が抜けていく。額に輝く角が光を失い、少年の体はただの人、十一歳の男の子のものへと。

そしてそれは魚たちの命の煌めきに、もはや白旗を上げたも当然のことで。

 

「――リゲル、お前はいい。離脱しろ」

 

「……親父?」

 

網から手を放そうとしたとき、すぐ後ろにいるスバルがリゲルに言った。その声のトーンに意識を掴まれ、一瞬、放そうとした手を躊躇う。

振り返ると、スバルはずぶ濡れになりながら、それでも網を手首に縛り付け、決して放すまいとした状態でリゲルに頷きかけた。

 

「俺には責任がある。だから、俺は最後まで残るが、お前は戻れ。戻って、あっちの方で倒れてる長老を連れていってくれ」

 

「で、でも……もう無理だろ!諦めよう!網はあとで弁償しよう!」

 

「網代が惜しくて踏ん張ってるわけじゃねぇよ。言っただろ。俺には責任があるんだってな。『バナン文化振興会』、お前はちょっと恥ずかしいかもしれないけど、これも俺の仕事の一つなんだ。――親が、子どもの前で仕事しくじれるかよ」

 

「――――」

 

その主張にリゲルは絶句した。

意気込みは立派だ。何を言っているのかと、噛みつく気も失せるほどに。

だが、勝ち目はない。あれだけ大勢で引っ張ってもダメだったのが、どうして主力であるリゲルさえ欠いて、スバル一人で何とかできるというのか。

無理だ。この戦いは、もう――。

 

「それに、お前はちょっと甘く見てるぜ」

 

「親父……父ちゃんのことを?」

 

「俺は甘めに見てもダメな大人だからそれでいい。けど、お前が甘く見てるのは俺の方じゃねぇ。……レムの方さ」

 

「母ちゃんを?」

 

何故、この場でレムの名前が出てきたのか、リゲルは困惑する。

ここまでの攻防を追えばわかるように、モゴレード大噴口を舞台として漁にレムは参加していない。無論、家族旅行と称してフスミまでは同行してきているが、危険の伴いかねない漁ではなく、レムとスピカは観光気分で『クラグレル移動林』から、枝をもぎ取る作業の方に参加しているはずだ。

 

『レムとスピカの二人はゆっくりしているので、スバルくんとリゲルは膝をすりむかないように気を付けてくださいね』

 

互いの健闘を誓い合って、というのはいささか緊張感に欠けるやり取りであったが、そんな会話をした以上、母と妹がここにいないのは自明の理である。

故にリゲルには、スバルの言葉が荒唐無稽な世迷言としか思えなかったのだが――。

 

「――さすが、スバルくんはレムのことがよくわかっていますね。照れます」

 

「――ッ!」

 

どうにか、スバルを諦めさせようとしていたリゲルは、その声に肩を跳ねさせた。聞こえるはずのない声、いるはずのない存在、なのにそれは悠然と現れた。

青く、長い髪を簡単にまとめて、キモノの袖が邪魔にならないようにし、スバルに並んで網に繋がる糸を手繰る女性――レムだ。

その登場にリゲルは唖然としたが、スバルはすぐにニヤリと笑い、

 

「すまん、レム。ピンチだ」

 

「はい。スバルくんから目を離すといつもこうです。これはまたしても、レムがスバルくんから目を離せない理由が一つ増えてしまいました」

 

「愛が重たい!でも、助かる」

 

夫婦で揃って網を掴み、唇をきゅっと結んだレムが腕に力を込める。それだけでかなり豪快に、魚に負けかけた網の勢いがこちらに傾いた。

だが、それでもまだ、劣勢は劣勢だ。ここにリゲルが再び加わっても、その劣勢は覆せそうにない。元々、どだい無理な戦力差なのだ。ここに母が加わる奇跡が起ころうとも、この戦いは――、

 

「リゲル、この縄を持って、構えていてください」

 

「え?」

 

「それまで、スバルくんとレムが……お父さんとお母さんが、二人で網を支えていますから、リゲルは機会を見逃さないように。――スピカに、お兄ちゃんのカッコいいところを見せるチャンスですよ」

 

困惑の隠せぬまま、リゲルはレムに言われた通り、網を引っ張る作業ではなく、網に繋がる縄を持って、きょろきょろと辺りを見回す。

チャンスとは、機会とは、いったい何を示しているのか。

 

「ここが男の見せ所もよ。負けちゃおれんもよね」

 

「ちょ、長老……!」

 

「俺っちたちもいるぜ……!」

 

「リギンスさん!その他大勢!」

 

両親の限界を気にするリゲル、その不安を払拭するように、今再び、集いし仲間たちが一斉に網を掴み、力を込めた。半死人と言われようと、半分生者ならば力を束ねることに意味はある。今がそのときだ。

 

「おーえす!おーえす!」

「おーえす!おーえす!」

 

掛け声に集中力を乱されながら、リゲルは必死に目を押し開く。やかましい大人たちの声に紛れて、何か――そう、地響きのようなものを感じる。

モゴレード大噴口の大噴出、水の噴き出す予兆だろうか。――否、そうではない。地響きは大噴口の内ではなく、外からこちらへ迫りつつある。

それは――、

 

「く、クラグレル移動林……!」

 

水を求めて移動する、クラグレル移動林――地響きを立て、土煙を上げ、迫りくるそれは緑の行進だ。それが、大噴口のすぐ傍を掠めるように通過せんとやってくる。

その先頭、一番前を進軍する大樹に、リゲルは遅れて狙いを定めた。

 

「リゲル、今です!」

 

母の掛け声、それを疑いもなく、リゲルは縄の先端を輪にして投じた。

その輪っかが、大樹の太い枝に絡まり、網が引かれる。

 

――魚たちの命の煌めきは、大自然の前に敗北を喫した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――クラグレル移動林の話をしよう。

 

星の内海以下略。

クラグレル移動林とは、カララギ都市国家の過酷な環境と、モゴレード大噴口という水源とが生んだ特殊な自然――地に、根を張らない木々たちの名だ。

モゴレード大噴口から噴出する水が、このあたりの地域の水源として機能していることは説明したが、定期的に、決まったタイミングで噴出する水も、さすがに降り注ぐ土地まで常に一定とはいかない。

特に風の影響は大きく、季節の風向きによっては土地ごとの降水量も疎らになる。それはそれとしてやりくりするのが人や動物といった生き物だが、水を頼りにしている植物たちはそうはいかない。当然、水が行き届かなければ枯れるしかない彼らにとって、モゴレード大噴口の水は生命線そのものだ。

 

とはいえ、植物たちが直訴しようにも相手はなく、彼らにも口がない。故にどうしたものかと生存力を働きかけた結果、木々は進化を遂げた。

『水の足りない土地があるなら、水のあるところまで歩けばいいじゃない』だ。

 

そうして生まれた移動林――最初に発見した人間の名を取り、『クラグレル移動林』と呼ばれる活きのいい木々は、モゴレード大噴口の水が降り注ぐマゴーリア高原を中心に、とにかく年がら年中、休まず移動し続けている。

 

生命力に満ち溢れているのが理由なのか、移動林の木は木材として非常に上質なことが知られているが、一所に留まらないので採集が難しく、おまけに進路に立つと容赦なく轢かれることから、命懸けの林業として有名だった。

 

その移動林の特性が、今回ばかりはプラスに働いた。

人力で勝てないのなら、自然力で何とかする、といったところだった。

 

「移動林の進路が大噴口を目指していたので、スバルくんたちとゆっくり合流できそうだと、最初から話していたんですよ」

 

「で、離脱した人たちがベースキャンプで凹んでるのを見れば、気付いたレムが何とかしてくれるかな……ってのが、俺の作戦の真相だな」

 

「作戦?どこが作戦?母ちゃん頼りの投げっ放しジャーマンじゃん!」

 

「言い方が悪い。まぁ、最終的には愛は勝つってことかな」

 

「スバルくん……」

 

「今のそんないいセリフだったか!?母ちゃん甘やかしすぎなんだよ!」

 

大漁旗を掲げて、帰路へついた一行。

その道中、ずぶ濡れの一家が今回の勝因を語り合っているが、イマイチそれに釈然としないのは乗り切れていないリゲルだった。

 

レムの参戦、そしてクラグレル移動林に網を引かせる作戦が功を奏し、見事に大噴口にいた大量の魚(スバルはイワシモドキと呼んだ)は引き揚げられた。

実はその後、今度は疾走する移動林が網ごと魚を持ち去ってしまい、その移動林を追いかけて網を奪い返す一幕があったのだが、それは割愛する。

 

ともあれ、無事に魚は手に入り、ヒイラギとやらも代わりに移動林の一本を切り倒すことに成功したことで十分に量が確保できた。

これで、スバルの語った『ヒイラギイワシ』の準備は完了したわけだが。

 

「豆まきとか恵方巻より、よっぽど大変だったじゃんか。遠出もしたし、疲れたし」

 

「ああ、長老とか死にかけたしな。慣れないことはするもんじゃねぇや」

 

「まったく、こりごりだもよ。もう、あんなことは絶対にしないもよ」

 

嘆息するリゲルに、スバルも苦笑気味に同意する。

そんな二人の視線の先では、呑気に甘い葉っぱを噛んでいるチャモフの姿が。

 

幸い、あれだけ大掛かりな仕事だったわりに負傷者はなく、被害は皆無だ。なんとなく全員が雰囲気に酔っていたが、痛めた腰もレムの治癒魔法で快癒している。

そうして皆、意気揚々とフスミに帰還し、これから魚や木材の配分などの話し合いが行われるはずだが――、

 

「そっちは俺の管轄外。俺たちは家族で、今回の旅の苦労を分かち合おうぜ」

 

「はい、旅の醍醐味ですね」

 

「旅の醍醐味は苦労を分かち合うことだった……?」

 

微妙な常識感クライシスを味わいながら、リゲルは死地から戻ったご褒美に、最愛の妹をあやしながらむくれている。

御年一歳を数えたスピカは、最近ではちょいちょい自力で立って歩こうとするなど精力的で、ごくまれに「にーに」とリゲルを呼んでくれたりもして天使だ。

 

「最初の呼んだのがにーにだったことは、オレの一生の宝だからな」

 

「お前もシスコン極まってんな……」

 

「おっと、にーにとまーまの次だったとーとがなんか言ってるぞ、スピカ。負け犬の遠吠えは気持ちがいいもんだな。はっはっは」

 

「ぐぎぎ……っ」

 

「落ち着いてください、スバルくん。たまにはリゲルにもちゃんと優越感を味わわせてあげないといけませんよ。それに、スバルくんはレムの一番ですから」

 

「またそうやって甘やかす……」

 

落ち込むスバルをレムが優しく慰める。そのいつものやり取りに、リゲルは不満げに頬を膨らませた。と、それを見たレムが小さく吹き出して、

 

「お、どうした、レム?」

 

「いえ、やっぱり、どこにお出掛けしてもレムたちは一緒だなって……それが、少しだけ嬉しくて、おかしくなってしまいました」

 

「……そかそか。そんな風に思えたんなら、家族旅行にきて正解だ。まぁ、会社の慰安旅行に家族同伴させたみたいな感じなのはご愛嬌だけど」

 

口元に手を当て、幸せそうに微笑むレムの姿にスバルもまた微笑む。その微笑みを見ていて、リゲルはぼんやりと、父の思惑がなんとなく透けたような気がした。

 

『節分』の新たなお祝い、そのための準備にやってきた遠出。

もちろん、『ヒイラギイワシ』なる奇祭を執り行うために必要な手順だったことは間違いないだろうけれど。それこそ、魚も木の枝も、なんだって代替は利いたはずだ。

それなのに、あえてこうして遠出する予定を立てたのは――、

 

「文化振興会は新しい文化の推進に取り組めてハッピー。フスミの偉い人たちはバナンのやり方が勉強できてハッピー。で、俺たちは家族旅行できてハッピー。八方丸く収まる、いい試みだった。八方じゃなく、三方だけど」

 

あっけらかんと笑っているスバル、そのメインが一番最後の部分だったことは、日々、家族と一緒に過ごす彼の姿を知っていればお見通しだ。

たぶん、手前の二つの目的も無視できなかったのは本当で、頼まれ事を適当に断れないのはなんとも面倒で苦労人の性分だと、他人事のようにリゲルは思った。

 

「――――」

 

そんなスバルの微笑を、目を細めて笑っているレムが見ている。

父の内心はきっと、母にも見抜かれているのだろう。だから母は最初から、父の無茶な言いようにも反対せず、むしろ楽しげに付き添ってきたのだ。

 

「長老、長老、ちょっと聞いていい?」

 

両親の歓談、という名のいちゃつきから少し離れ、リゲルは日向で体の毛を乾かしているチャモフに声をかけた。チャモフは「もよ?」と振り向くと、そのつぶらな瞳でリゲルを見つめ、

 

「どうかしたもよ?もよとリゲルの仲もよ。なんでも聞くもよ」

 

「この時期、フスミって何か特別なもんとかあるの?」

 

「ふむ……」

 

その質問に、チャモフは少しだけ考え込むように片目を閉じた。それから、チャモフはちらりとスバルたちの方に目を向け、すぐに頷く。

 

「その質問、スバルにもされたもよ。血は、争えないものもよ……」

 

「いや、そういうのはいいから」

 

「ノリが悪いもよ。この時期、フスミでは有名な花が……『白雪桜』が咲くもよ」

 

それは、モゴレード大噴口の豊富な降水量に恵まれた土地、フスミだからこそ生育が可能な、非常に扱いの難しい植物なのだという。

大樹の葉々が全て、雪のように白い花びらとなる光景――リゲルは雪など見たことがないが、それがきっと絶景であることは想像がついた。

 

そしてそれをスバルが、『節分』にかこつけ、そのすぐ近くにある『誰かの誕生日』に見せにいきたいと、家族旅行を計画したことも。

 

「言ってやるのは無粋もよ。内緒にしておくもよよ」

 

「オレは言わないけど……でも、母ちゃんはたぶんわかってるよ」

 

「だから、無粋なんだもよ。お前も、嫁にするならあんな子をもらうもよ」

 

「スピカを母ちゃんそっくりに育てるのは抵抗あるな……」

 

「もよは今、当たり前のように妹を嫁にしようとしたお前の狂気に戦慄したもよ」

 

小さい体を震わせて、チャモフはどこか怯えたような目でリゲルを見た。その視線に心外だなと肩をすくめると、ちょうどスピカに頬を引っ張られる。可愛い。

 

「おい、リゲルにスピカ。ちょっとこい。話がある」

 

と、ちょうど話が終わったタイミングで、スバルがリゲルたちを呼んでいた。その声にチャモフは顎をしゃくり、

 

「ほら、いくもよ。家族の団欒、そこに割り込む無粋はしないもよよ」

 

「あ、ありがとう、長老。じゃあ、またあとで」

 

手を振り、チャモフは愛らしく微笑むと、そのお尻の短い尻尾を左右に振りながら、ただただ愛嬌だけが詰まった仕草で歩き去っていった。

それを見届け、リゲルは両親の方に戻る。すると、そこではほんのりと頬を赤くしたいつものレムと、やたらと自信ありげないつものスバルがいて。

 

「おほん。実はだな、リゲル。これから、レムとお前たちに見せたいものがある」

 

もったいぶった言い回し、その後に飛び出す文言も、想像がつく。

 

「――――」

 

一拍、スバルの発表の前に間があり、リゲルはちらっとレムを見た。

子どもたちに向き合い、目をキラキラさせているスバルは隣の妻に気付かない。薄く微笑むレムはリゲルの視線に気付くと、唇に指を当て、「し」と合図した。

 

言い出すのは無粋、指摘するのは無粋、大いに了解だ。

 

リゲルは仕方なしに肩をすくめた。その真似をして、スピカも肩をすくめた。

 

「今回の家族旅行、それは単なる魚釣りと与作が目当てじゃない。実は――」

 

そんな子どもたちと妻に囲まれて、隠し事が何もばれていないと思っているピエロな黒幕は、堂々と家族旅行の最終計画を披露するのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『白雪桜』の観賞会の詳細は語るまい。

ただ、フスミの山々を彩る花々、それは実に見事な光景だったと、それを堪能することができたことだけは明言しておく。

 

さて、そうした家族旅行の布石に使われ、それでもやり遂げる必要のあった節分の新たな風習候補『ヒイラギイワシ』であったが――、

 

「うーむ、まさかこんなことになるとは、俺の目を以てしても見抜けなんだ」

 

「節穴率すごそうだもんな!いいから、親父も手を動かせ!」

 

息を弾ませ、バナンの通りを駆け回るのは大と小、二つの人影――ぶっちゃけ、ナツキ家の男衆、スバルとリゲルの二人であった。

その格好は緑と赤のパーマのようなカツラを被り、黄色に黒い縦縞の入ったベストとパンツを着用したものだ。手には柔らかい素材で作り、綿を詰めた棘付きのこん棒を持っている。古き良き、そして新しい時代の鬼スタイルであった。

 

そんな、わかりやすく鬼の格好をした二人が、必死に何をしているのかというと――、

 

「柊鰯してみたはいいが……町中で、猫やら鼠やらの大発生を招くとはな!」

 

「考えてみれば当たり前だったけどな!こんだけ堂々と餌ぶら下げてれば、そりゃ野良が喰いついて当然ってもんだよ!」

 

怒鳴り声を上げながら、リゲルはまた新たな設置ポイントから、飾られている焼き魚を枝ごと奪い取り、回収用の袋に放り込んでいく。これで二十、まだ先は長い。

何せ、枝と魚は町中に配布され、この奇祭は町を挙げて実行されているのだから。

 

「おい、リゲル、あんまり乱暴に扱うな!これ、一応は神聖な儀式みたいなもんなんだから、柊鰯はありがたいもんなんだよ。処分するのも、なんかこう、ちゃんとした場所に埋めるとか、そんな感じにしないといけないと思う」

 

「面倒臭っ!しかも処分法雑なまんま実行するな!大体……痛っ!」

 

埒が明かないと声を荒げるリゲル、その背中に小さい衝撃が連続して当たった。何事かと振り返れば、足下に落ちるのは小粒な豆――豆だ。

そしてそれを投じたのは、笑顔を浮かべて追いかけてくる子どもたち――。

 

「は、ハンターだ!ハンターに見つかった!」

 

「ヤバい!豆だらけにされるぞ!ちょっと、そこの人!ここから裏に抜けるにはどうすれば……クソ!恵方巻くわえてやがる!」

 

通りに追い込まれまいと、逃げ道を探ろうとしたリゲルは頭を抱えた。道を尋ねようとした縁側の老人は、その口に太巻きをくわえて恵方を見ている。

あの状態になった人間は喋れない。食べ終わるまで、恵方を見続けるのだ。

 

「これ、フスミの方でも似たような被害発生してそうな気がするんだけど、責任ってどこにいくのかな?俺かな?どう思う、リゲル?」

 

「少なくとも痛っ!今、こうやって痛っ!オレが逃げ道なくして痛い!豆ぶつけられてるのはあんたのせい痛い痛い痛い!なんでオレばっかり!?」

 

ちょっとは見直したばかりなのに、スバルの仕事ぶりは碌なものではない。

豆の連発に涙目になりながら、鬼のパンツ姿の親子はバナンの町を駆け抜けていく。

 

きっと家では、恵方を向きながら太巻きを食べる母と妹が待っている。

全ての『ヒイラギイワシ』を回収し、無事に帰り着くことはできるのか――。

 

「へへ、リゲル。お前、だいぶ足速くなったんだな。俺は嬉しいぜ」

 

「うるせぇ――!!風邪ひいてくれ――!!」

 

そんな親子ゲンカが遠く、空に響き渡っていく。

これもまた、カララギ都市国家の片隅の、日常的な光景の一コマなのだった。