『ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ』


 

――意識を支配したのは、肉体の中心を発端とした激しい『熱』だった。

 

「ぐ、ぅぅぅぅ!熱ッ」

 

固い地べたの感触を顔面に味わい、スバルは自分がうつ伏せに倒れていることを自覚する。なのに、立ち上がるための手足は動かない。

まるで、自分が自分でなくなったかのように、肉体の自由は奪われてしまっていた。

 

それなのに、灼熱だけは際限なくスバルを焼くのだから冗談ではなかった。

 

――熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 

口を開ければ、悲鳴の代わりにこぼれ出たのは大量の血だ。

痛みと苦しみの挙句、溢れかえる自分の血で溺れそうになり、スバルはこの世の痛苦の極みをひたすらに味わわされる。

 

――いったい、自分が何をしたというのか。

 

苦しみから逃れるための逃避願望が、そんな泣き言を脳裏で繰り返し紡がせる。

 

いったい、自分が何をしたというのか。

決して、褒められるばかりの生き方でなかった自覚はある。だが、そんなことはスバルに限ったことではない。誰もが、日々を全ての人間に誇れるほどに潔白に生きることなどできていないはずだ。後ろめたいことも、後悔することも、目をつむったことも、妥協したこともあるはず。

 

それなのに、どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはならない。

他の全ての人間がお目こぼしされる運命を、どうして自分だけが押し付けられて。

 

「あぁ、クソ……」

 

ごぼごぼと、溢れる血の隙間から呟きが漏れた。

それは後悔であり、無力さへの憎しみであり、運命への憎悪であり――、

 

――自分への、呆れでもあった。

 

「――――」

 

これだけ傷付いても、これだけ苦しんでも、これだけ死ぬような目に遭っても。

灼熱に身を焼かれ、鋭い痛みに文字通り身を斬られ、命さえ脅かされても。

 

脳裏に焼き付く少女の姿は、微笑みと、悲しい死相ばかりが繰り返されるから。

 

「俺が」

 

今、再び、決意を口にする。覚悟を口にする。未練を、後悔を口にする。

幾度挑んでも、幾度這いずり回っても、幾度願っても、届かぬ未来を求めて。

 

『痛み』も『熱』も全ては遠く、負け犬は負け犬らしく、みっともなく吠えるのだ。

 

「必ず」

 

翻る凶刃が、命を絶たれる寸前の瀕死の灯火へ無情に迫りくる。

しかし、それすら目に入らない。すでに、覚悟は極まっているのだ。

 

――お前を、救ってみせる。

 

その願いを再び抱いた瞬間、ナツキ・スバルは命を落とした。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――見慣れた光景を再び目にしたことに、スバルは奇妙な安堵と脱力感を覚えていた。

 

「無事、戻れまして安心してございます、ってか」

 

王都の往来を眺めながら、スバルは拾った木の枝で地面に「正」の字を書き連ね、気の済むまでそれを続けたあと、足で踏み消して嘆息した。

 

ナツキ・スバルは、太陽系第三惑星地球出身の平凡な不登校高校三年生だ。

ジャージ姿にスニーカー、コンビニ帰りのビニール袋を手にしたラフな格好を見れば、誰もそのことに疑いを持ったりしないだろう。

ただし、その理屈が通用するのは、ジャージやスニーカー、コンビニといった横文字の意味がちゃんと伝わり、価値観を共有できる文化圏に限るのだ。

つまり、何が言いたいのかというと――、

 

「――異世界召喚ものって、思ったよりキツイんだよなぁ」

 

馬ほども巨大なトカゲが馬車を引き、土煙を立てながら目の前を横切っていった。

当然、そんな光景はスバルの知る地球圏ではお目にかかれない。ならば、今のは馬に特殊メイクを施した、いわゆるテーマパークのキャスト的な存在なのかと言われると、それも易々とは頷けない。

 

何故なら、トカゲはあれ一頭だけでなく、通りや街のあちこちに溢れ返っており、そのトカゲを従える人々にも特殊メイクを受けたものが多すぎるからだ。

人型の獣――獣人や亜人といった種族の装いをした人間が、少なくともスバルの視界に入る範囲で二、三十人。無論、スバルと姿形を同じくした一般入園客も多数いるのだが、それは外見という個性の暴力に埋没してあまり意識に入ってこない。

 

そもそも、こんな現実逃避にいつまでも思考を割いてはいられないのだ。

獣人もトカゲも、キャストでもなければ映画の撮影なんかでもない。ここは、これが当たり前にまかり通る文化圏で、ここでの異物は彼らではなくスバルなのだ。

 

――そんなことはもう、体感で十数日も過ごしたスバルは痛いほど痛感している。

 

「……いくか」

 

益体のない思考を打ち切り、尻を払って立ち上がる。

スバルは拾った木の枝を右手に下げたまま、ぼんやりとした足取りで通りへ――表通りの人波に紛れるのではなく、裏通りへと足を踏み入れた。

 

人がごった返した表通りと違い、背の高い建物に挟まれた裏通りの人気は少ない。まさしく路地裏に相応しい装いとなったその場所は、まるで通り一本隔てただけで外界から隔離されたような静けさが落ちている。

早い話、ここでは何が起きても、悲鳴が表通りに届くことはまずない。

 

故に、そんなところへお上りさん丸出しの顔をしたスバルが紛れ込めば、当然のようにそれを目当てにした悪党が姿を見せるわけで。

 

「よお、兄ちゃん。少し俺らと遊んでいこうや」

 

かけられた声に振り向けば、通りを塞ぐように立っていたのは三人の人影だ。

大、中、小と満遍なくニーズに合わせて取り揃えたラインナップに、スバルは彼らの本気のリサーチ力を感じ取る。何のリサーチかは知れないが。

 

「――――」

 

首を傾け、三人組とは反対の道に目を向ける。背後、この路地は行き止まりになっており、表通りへ出るには三人組に通してもらう以外にない。

そして、三人組にスバルを表通りへ出してくれる意思があるかというと――、

 

「おいおい、呆けた面してどうしたよ」

 

「状況がわかってないんだろ。教えてやったらいいんじゃないか」

 

緩慢なスバルの素振りに、三人組は下卑た笑みを浮かべながら嬲る算段を立て始める。相手から見れば、スバルは素人丸出しの状態だ。

都合のいいカモ、それを前にして舌なめずりするのは責められない。

 

ただ、それは完全に彼らの見込み違いだ。

確かにスバルはまともにケンカもしたことがなければ、格闘技を習っていたような隠された過去もない。素人、という彼らの判断は間違っていない。

 

だがしかし、この三人組に対する経験値だけならば、スバルはすでに百戦錬磨だ。

 

「――あ?」

 

油断する巨漢――三人組をトンチンカンと名付け、トンに向かって腕を突き出す。

その腕には、先ほど通りで拾った木の枝が握られており、さして鋭いわけではないその先端が、しかし喉の柔らかい部分に食い込み、わずかな抵抗のあとで突き破る。

 

「おい?」

 

その、一瞬の出来事にトンが目を見開き、左右に立つチンとカンも硬直した。

これでトンは戦闘不能だ。そして、硬直する二人のうち、中肉中背の方――チンの方に空いた手を伸ばし、スバルはその髪の毛と耳を掴んで振り回した。抵抗はさせない。勢いを付けて、一気にその頭部を横の壁に叩きつける。

固いものが潰れる音がして、チンは壁に血の跡を付けながら崩れ落ちた。

 

同時、首に木の枝を刺したままのトンが膝をついて、白目を剥きながら倒れる。倒れ方が悪い。前に倒れるから、余計に枝が深く刺さった。

 

これで、二人が戦闘不能に陥った。残すところ、あと一人――。

 

「ひ」

 

小柄な男――カンが、仲間二人を一瞬で倒されたことに顔を青ざめさせている。

そのまま、二人を見捨てて通りの外へ駆け出せば、スバルと脚力の勝負になり、生き残る目はあったかもしれない。

それなのに、カンは倒れる二人に目を向け、逃げるのを躊躇った。すでに手遅れであるとも知らず、限られたほんの一秒の猶予を無為にした。

 

馬鹿が。大馬鹿だ。そんな、馬鹿な選択をした報いを受けろ。

 

「ぐ、が、ぁぁ……」

 

細い首に手を回し、スバルは力を込めてカンを後ろの壁に押し付けた。暴れる小柄な体を、壁に押し付けたまま持ち上げる。ぐいぐいと、両手に力を込め、締め上げた。

スバルと目線の高さが同じになるまで持ち上げられ、首を絞められるカンが目を見開き、だらしなく開いた口が酸素を求めてぱくぱくと喘ぐ。だが、気道を力ずくで塞がれ、自由を奪われた彼に救いが訪れることはない。

 

「これで、俺が通算で何回、お前らと会ったかわかるか?」

 

「く、こ……」

 

「八十八回だよ。末広がりでめでたいなってか。笑えよ」

 

徐々に赤黒くなり、涙と涎を垂れ流す顔面を睨みつけ、スバルは言った。

だが、当然、カンにそんな余裕はない。じきに、余裕どころか抵抗力をなくし、ぐったりとなった体をスバルはその場へ投げ捨てた。

 

倒れる三人を見下ろし、一応、念のために全員の首を一度、強く踏んでおく。スニーカーの踵が硬いものを砕く感触があれば、ひとまず安心だ。

トンの首だけは太く、念入りに五回は踏みつけてやる必要があった。こればかりは何回やってもコツが掴めない。運よく、一回ずつで片付く場合もあるのだが。

 

「首、絞めるのはスマートじゃないな。……感触も気持ち悪いし、もうやめよう」

 

そんな反省点を踏まえて、スバルはチンの体から二本のナイフを拝借。それから三人の死体を適当に道の端に寄せ、何事もなかったかのように路地裏を出た。

 

路地に入ったのも、トンチンカンと出くわしたのも、かなり早めに事を起こした。少しだけトンチンカンの処理に時間をかけたが、ほんの十数秒のことだ。

スバルは急ぎ足に表通りを抜け、目的の場所へと足を進めた。

 

「――――」

 

通りの様子を眺め、間に合ったと安堵に胸を撫で下ろす。

商業街と呼ばれる大通り、そこも他と変わらぬ人波が左右に入り乱れ、王都ルグニカの賑わいを証明する役目を負っている。

ただ突っ立っているだけでも、十分すぎるほどに喧騒が鼓膜に飛び込む空間だ。

しかし、その賑やかさの雰囲気が、ふいに違った形に変化する。

 

「――待って!もう!待ちなさい!!」

 

一際、大通りの喧騒を高く切り裂いたのは、聞き惚れる銀鈴の声音だった。

切羽詰まった雰囲気を孕みながらも、どこか声の主の気性の穏やかさを隠し切れずにあるその声は、通りの人波をすり抜ける小柄な影に向けられている。

 

「へへっ」

 

と、猫のような笑みをこぼし、人の隙間を縫って抜けるのは金髪の少女だ。その手には輝く何かが握られており、一仕事を終えた感がありありと窺える。

そうして、その少女へ目掛け、通りを青白い輝き――氷槍が飛びかかっていった。

 

「――ッ!!」

 

思わぬ攻撃に少女が驚き、跳んだり跳ねたりを駆使してその氷槍を躱す。

その魔法攻撃は人の多い通りで放たれたものであり、突然のことに混乱が生じ、王都の人々は一斉に道を開け、関わり合いになるのは御免だと両手を上げた。

ずいぶんと統率された動きだ。王都で騒ぎに巻き込まれるのは日常茶飯事、とまで言ってはなんだが、それに近いものがあるのかもしれない。

 

ともあれ、道を開けた人垣を駆け抜け、姿を見せるのはお目当ての人物。

 

「――――」

 

『彼女』を目にした瞬間、スバルは世界の全てが凍結したような感覚を味わう。

風も、人の声も、時間すらも感じなくなり、意識の何もかもがその肢体に奪われるのだ。

 

長い銀髪を躍らせ、宝石のような紫紺の瞳を強い意識に光らせる。白く細長い手足に、まるで妖精のために誂えられたような神秘的な白い装束――。

 

時の止まった世界で、彼女だけが時の静止を免れ、スバルの前を通り過ぎてしまう。

 

彼女の目的は、直前にすり抜けた金髪の少女――フェルトだ。

フェルトに何かを奪われ、それを取り返すために彼女は王都を奔走することになる。そしてそれは彼女にとって、避け難い不幸の運命へ続く道なのだ。

 

だが、そんなことはさせない。

彼女を、『死』の運命になど、絶対に捕えさせない。

 

「俺が、必ず、お前を救ってみせる」

 

遠ざかる彼女の背中に、スバルは八十八度目の誓いを立てる。

これほど破られ続ける誓いに、いったいどれだけの説得力があるかはわからない。

わからないが、諦めなければ、抗い続ければ、救いたいと願い続ければ――、

 

「待っていてくれよ。――サテラ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

死して時間を巻き戻す力、『死に戻り』。

スバルがこの『死に戻り』の力で、世界をやり直すのはこれが八十八回目だ。

 

すでに百回の大台を目前にした挑戦だが、その全ては銀髪の少女――サテラを、運命に袋小路から救い出すために、そのために費やされてきた。

 

「あれこれと、試行錯誤を重ねてみたもんだが……トンチンカンみたいにはいかねぇ」

 

と、それがこの運命最大の難敵――エルザ・グランヒルテに対するスバルの結論だ。

 

サテラが盗まれた物品、徽章をフェルトに盗むように依頼したのが、そのエルザという名前の漆黒の女なのだ。この女が、サテラを何度も死に追いやる危険人物である。

これまで、八十七回に及ぶ挑戦の中、スバルは幾度となく、このエルザを排除し、サテラの安全を確保しようと奔走したのだが、もはや人外の領域にあるエルザの戦闘力を前に敗北を喫し、五十回以上も腹を開かれて落命している。

 

腹を開くのを好むサディスト、エルザは戦って勝てる相手ではない。

これがまだトンチンカンのような輩であれば、ある程度の行動をパターン化し、必勝の方策を練ることもできる。しかし、エルザほどの強さになると、スバルが何か行動を起こそうとした途端、瞬きの早さで首を刎ねられておかしくない。

実際、首ではなく、瞬きの早さで腹を裂かれたことは何度もあるのだ。

 

スバルが戦って勝つことはできない。フェルトも、ロム爺も、サテラも同じだ。

その結論を受けた上で、スバルが選んだ戦法は――、

 

「素敵!素敵よ!もっと、私を楽しませてくれると嬉しいのだけれど!」

 

「ぐあああ――!!」

 

黒刃が次々に翻り、風が巻き起こるたびに血が噴出する。

通りへ倒れる人の数はすでに両手の指では足りぬほどになり、返り血を浴びるエルザの表情は恍惚を通り越し、断続的に絶頂感すら味わっているように見えた。

 

これほど凄惨な状況にありながら、血を浴びるほどに色香を増していくエルザ。

過去、処女の生き血を浴びることで若さを保とうとした女性が、吸血鬼などと呼ばれた逸話があったはずだが、今のエルザはまさにその『吸血鬼』然とした姿に見えた。

 

「……これも失敗、か」

 

嘆息し、屋根の上に潜むスバルは惨状を俯瞰しながら目を細めていた。

 

場所は貧民街の一角、周囲を廃墟に囲まれた特に寂れた区画で、ある種の広場のような空間を舞台に、血の惨状は拡大の一途を辿っていた。

エルザと剣を交え、そのことごとく凶刃に倒れていくのは王都の衛兵だ。

善意の一市民から通報を受け、危険人物であるエルザ・グランヒルテを発見し、その捕縛のために挑んで命を散らした人々――善意の一市民として胸が痛む光景だった。

 

「まさか、ここまで普通の衛兵とエルザとの間に実力差があるとはな……」

 

これでは、エルザを喜ばせるために生贄を差し出しているようなものだ。

スバルの期待は、王都を守る衛兵のような立場の人間であれば、何らかの魔法的な力によって肉体を強化し、エルザと互角に渡り合えるのではとしたものだったのだが、それはどうやら高望みでしかなかったらしい。

 

やはり、エルザの実力はこの世界においても図抜けた域にあるわけだ。

ますます、エルザに対する憤りが強くなる。だが、どれだけ強く怒りを持っても、スバルの力であの凶悪な女を止めることは叶わない。

衛兵たちのラッキーパンチで、エルザが倒されるともとても思えなかった。

 

「これ以上は見てるだけ無駄か」

 

犠牲になった衛兵たちには悪いが、この試みはここで終わりとさせてもらおう。

まだ手を緩めるつもりはないが、ここで死んだ彼らも、スバルが最終的に失敗して命を落とせば、やり直した世界では息を吹き返すのだ。

そのための犠牲として、今はひとまず涙を呑んで死んでいてもらおう。次の機会があれば、彼らには何も期待などしないから、安心して王都の平和を守っていてほしい。

 

そう、スバルが結論し、その場を離れようとしたときだった。

 

「――あら」

 

足を止め、エルザが凶刃を振り上げたまま、血に濡れた唇を舌でなぞった。

溢れる狂喜と殺意は、衛兵を虐殺する遊びに飽きたエルザが新たな獲物を見出した何よりの証だ。そして、そのエルザの哀れな生贄に選ばれたのは――、

 

「――そこまでだ」

 

赤い、炎がそこに立っているのかとスバルは幻視した。

 

「――――」

 

息を呑み、目を擦り、改めて見直してようやく、それが炎ではなく人だったことを認めることができた。

 

それは赤い炎の髪に、澄み渡る空を閉じ込めた青い瞳を持った青年だ。

細く見えるが、しなやかに鍛え上げられた長身を白い装いに包み、腰には恐ろしく大仰な拵えをした剣を一本携えている。

その顔立ちは百人いれば百人が振り返り、見惚れるほどに整った神の造形。性別を超越した美の暴力、それを感じさせないのは青年の穏やかな佇まいが原因か。

 

一目で、有象無象とは異なる存在なのだと、魂で知らしめる存在感――。

 

「騎士ラインハルト……!」

 

「君たちは下がっていてくれ。彼女は……『腸狩り』だ。すでに犠牲者が多すぎる。これ以上は出したくない」

 

生き残った衛兵の震える声に、青年――ラインハルトが微かに目を伏せて言った。

それは、まるで塵芥の如く屠られた命への憐憫であり、それを為したエルザという戮殺者への義憤でもあった。

 

遠目にそれを見るスバルにも、ラインハルトという青年の心根が見える。

なんと、真っ当な理由で、真っ当な考えの下、真っ当な精神性を以て、怒る男なのか。

 

死を悲しみ、殺戮を憎み、及ばずを悔やみ、後悔を信念で塗り替える。

それが、あのラインハルトと呼ばれた青年――騎士の、在り方であるのだと。

 

「ラインハルト・ヴァン・アストレア。『剣聖』の家系ね。素敵、素敵だわ!」

 

「過分な評価の重みに潰れそうな日々だよ。君は、『腸狩り』で間違いないね」

 

「ええ、その通りよ。いけないわ。どうしましょう。本命のお仕事があるのに、こんなところであなたと顔を合わせてしまうだなんて」

 

恍惚に熱い吐息を漏らし、エルザは熱に潤んだ瞳をラインハルトへ向ける。

一方、ラインハルトの表情は真剣そのもので、青い双眸には使命感があるばかりで遊び心は全くない。

 

対極的な思想で向かい合った両者だが、その心の導き出した結論は同一だ。

 

互いが互いを討ち果たし、目的を達する以外にないと。

 

「本来であれば、僕は投降することをお勧めするんですが……」

 

「この惨状を前にして、あなたは私にそう言ってくれるの?優しいのね。私にとっても、彼らにとっても残酷なぐらいに」

 

「――いえ、僕も同意見です。ここで君に手心を加えることは、彼らの死に対して誠実とは言えない。だから、投降してほしいとは言いません」

 

倒れ伏す衛兵たちの亡骸、それを愉しげに足蹴にしたエルザの言葉に、ラインハルトはゆるゆると首を横に振った。

そして、傍らに控える衛兵に手を伸ばし、「剣を」と短く告げる。

 

「どうか、お願いします」

 

指示された衛兵が剣を差し出すと、ラインハルトはそれを握り、感触を確かめた。その様子にエルザは胡乱げに眉を寄せ、

 

「腰の剣は使わないの?噂に聞く、龍剣の切れ味を肌で感じてみたいのに」

 

「生憎、この剣は抜くべき相手を見極める性質があるんだ。少し厄介な性質ではあるが、剣は君をお気に召さないらしい。代わりに、こちらでお相手しよう」

 

「ふうん」

 

腰の剣ではなく、受け取った剣を構えたラインハルトにエルザが吐息する。

しかし、どこか不満げに思えた態度も一瞬のこと。即座に切り替え、目の前に立っている青年との戦いと血の予感に、女は舌なめずりした。

そして――、

 

「『腸狩り』、エルザ・グランヒルテ」

 

「『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

互いに名乗り合い、広場の中心で風になる両者が激突する。

勝負は一合、たったそれだけで決着した。

 

何の変哲もない斬撃、それは光の渦を生み、衝撃波が貧民街の一角を崩壊させる。

『剣聖』と呼ばれた男の剣撃は、まさしく『力』そのものであった。

 

その光景を、ナツキ・スバルは目を見開いて、見ていた。

頬を伝った涙と、震える膝の原因も、わからぬままに――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

スバルが仕組み、期待したものとは異なる展開ではあったが、エルザの打倒という最大の目的は果たされたと言っていい。

 

ラインハルトの参戦は予想外だったが、願いが叶ったならば万々歳だ。

おかげで、サテラの徽章を取り巻く事象は無事に解決する。フェルトとロム爺も、取引き相手であるエルザが合流しなければ、サテラの徽章を確保しておこうと無理をすることもないだろう。サテラが、怒りに任せて二人を殺すことも考えにくい。

盗品蔵を中心とした物語は、必要最低限の登場人物で完結してくれる。

それは、スバルにとっても望ましい結果だった。

だから――、

 

「――あなたは、どうして私を手助けしてくれるのかしら?」

 

「別に信用してくれなくてもいいけどな。衛兵に囲まれて、リベンジできなくなってもいいって言うんなら、俺を斬り捨てて好きに逃げろよ」

 

「――――」

 

吐き捨てるように、スバルは背後、壁に寄りかかって蹲るエルザに言った。

その全身が血塗れで、黒い装束もあちこちが破れ、白い肌が露出している。もっとも、肌には痛々しい傷跡が目立つため、そのことに羞恥を感じる余地は微塵もない。

そもそも、スバルはエルザに女としての興味など全くないのだ。

ただ、使えると思ったから、機会を利用しているに過ぎない。

 

「衛兵は血眼になってお前を探してる。俺が見当違いの方向に誘導してやったから、こっちに気付くのにもうしばらくはかかるだろうよ。傷は?」

 

「すごく痛いわ。痛くて痛くて、死んじゃいそう。ふふ、素敵ね」

 

「俺にはわからねぇ感性だよ。死なれちゃ困るから、なんとかしてぇけどな」

 

せっかく、危険を冒してまでエルザを生き延びらせる方向へ誘導しているのだ。

ここで倒れられ、ましてやスバルまで衛兵の捜索の巻き添えになっては、偶発的に発生したサテラ生存ルートが水の泡になってしまう。

その場合はその場合で、また今回の目が出るまでサイコロを振り続けるだけだが。

 

「貧民街の、南東まで道を作っていただける?そうすれば、私は妹と合流できる。傷の手当ても、逃走経路も用意してくれるはずだから」

 

「妹!はっ、姉妹でとは抜け目ねぇし、救えねぇ話だ」

 

信用されたわけではあるまいし、信用されても虫唾が走るが、エルザの言葉にスバルはこの難局を乗り切る算段を付けた。

逃げる過程ですでにかなり南へ流れてきているのだ。ここから、エルザの指示した場所へ移動するのにそうはかからない。

エルザの所持していた聖金貨とやらで、スバルが買収した貧民街の人間が衛兵たちの捜索を邪魔し、間違った方へ誘導してくれている。問題は、ない。

 

「わからないのは、あなたの目的ね」

 

「お前に貸しを作っておきたいんだよ。いつか、役立つときがくるかもしれねぇ」

 

「貸し、ね。それが不思議だわ。――あなた、そんなに私を殺したがっているのに」

 

エルザに肩を貸し、逃げる手伝いをしてやりながらそう言われた。すぐ間近でエルザの黒瞳がスバルを見上げ、その奥にある感情を覗き込もうとしてくる。

だが、勘ぐって奥を覗くまでもない。スバルの黒瞳の答えはエルザが拾った通りだ。

スバルは、エルザを可能なら今すぐ殺してやりたい。しかし、後先考えずに挑めば、死にかけのエルザにすらスバルは勝てないし、そもそもそれは短絡的だ。

 

スバルは今、自分の置かれている状況がひどく偏ったゲーム盤だと想定している。

あらゆる手を考え、試行錯誤し、最善手を打つことを前提とした戦い。

これを将棋のようなものだと思えば、盤上に存在する駒を手当たり次第に追い払っていけば勝利を得られるなどと生易しいものではない。

可能ならば、敵と味方を入れ替える。隙あらば、立つ瀬を変えるのを厭わない。

 

そのためには、殺したいと心底憎しみを抱いた相手すら、利用すべきだ。

 

「俺は、お前を殺したい。きっと、いつか殺すよ。だけど、今じゃない」

 

「そう」

 

隠すまでもないと、スバルは自分の腹の底をエルザに打ち明けた。

これでエルザが慎重な人間であれば、後顧の憂いを断つために彼女はこの場でスバルを殺していたはずだ。だが、そうはならない確信がスバルにはあった。

 

それはこれまで、八十八回――その、八十回以上をエルザに殺されたスバルだけが抱ける、殺意の確信だった。

 

「素敵ね。あなたと、私とを憎しみで結び付ける。いずれ、必ず。きっと、あなたの言葉は私に証明されるわ。それはとてもとても、素敵なことね」

 

「――――」

 

血に濡れて赤く染まった唇を緩め、エルザがまるで恋する乙女のように微笑んだ。

その笑みを間近にして、スバルは心底、この女をおぞましいと思った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「また必ず会いましょう?」

 

「じゃあね、お兄さん。エルザのことは感謝してあげるわあ」

 

合流した濃い青髪の少女にエルザを引き渡し、スバルは安堵に息を吐いた。

エルザの指示した廃屋に待っていたのは、まだ幼い十代前半の少女だった。最初はその幼さにスバルは驚いたが、少女は場慣れした態度でエルザの傷を手当てし、さっさと王都から逃走する準備を終えると、早々に廃屋を引き上げた。

 

かろうじて、エルザとの連絡手段を確保したことが、スバルの得た報酬だ。

冒した危険に見合った報酬であるのか、それは定かではないが。

 

「それは、これからの俺の行動次第、か」

 

血の汚れが渇いたジャージの上着を脱ぐと、スバルはそれを腰に巻いて歩き出す。

足の向く先は貧民街の反対、盗品蔵の方角だ。エルザが出向くことができなかったあの場所で、サテラが無事に徽章を取り返せたのか、それだけが気にかかった。

 

「――――」

 

時間をかけ、盗品蔵に辿り着いたスバルはその光景に目を丸くする。

 

「これは、予想外だった」

 

そうこぼしたスバルの正面に広がるのは、氷漬けになった盗品蔵の光景だ。

氷漬けというより、氷の中に盗品蔵が閉じ込められているという表現の方が正しい。いったい何があったのか、近くの住人に軽く聞き込みしてみると、

 

「盗品蔵の顔役だった爺さんと、その孫娘が衛兵にしょっ引かれたんだよ。なんでも、おっかねえ魔法使いを敵に回したとかなんとか……関わりたくねえな」

 

「その、孫と爺さんは無事なのか?魔法使いは?」

 

「ケガはねえって話だが、どっちもよく見たわけじゃねえよ。もういいだろ」

 

鬼気迫るスバルの勢いを不気味に思ったのか、男はスバルの腕を振り払うと、急ぎ足に裏路地の闇に紛れて遠ざかっていった。

その背中を見送り、男の言葉を反芻して、スバルは安堵に胸を撫で下ろす。

 

男の言葉がどこまで事実かはわからないが、少なくとも死人が出た話を今のものと聞き間違えることはないはずだ。

フェルトとロム爺が衛兵に捕まったのは、やっていた生業が生業なので仕方ない。しばらく臭い飯を食って、自分の所業を反省すべきだ。

 

そして、サテラは無事、スバルの望み通りに助かってくれたとわかって――。

 

「――さて。あとはこっから、俺がどうするかだな」

 

頭を掻いて、スバルは自分の目的が空っぽになったことを自覚する。

異世界に召喚され、『死に戻り』なんて力を付与されて、それを駆使して、あのお人好しで可愛らしい銀髪のハーフエルフを助ける。

それを成し遂げるために、八十七回も死んで、ここへ辿り着いたけれど。

 

「しまったな。死んでやり直して、エルザがなんでサテラから徽章を盗もうとしてたのか聞き出してきた方がいいか……?」

 

負傷したエルザを運ぶ間に聞き出すべきだったが、失念してしまっていた。

とはいえ、あそこでエルザの事情に突っ込んだことを聞いて、スバルが心情的にサテラ寄りだということがばれれば、エルザがどう行動したかはわからない。

結果的に今、スバルもサテラも命がある。それが、正解なのだとしたら。

 

「できれば、サテラのことをもっと詳しく知っておきたいけど……」

 

サテラがどこからきたのか、どこへ向かったのか、また会えるのか、わからない。

それがわかるまで、繰り返す手段もあるにはあるが。

それ以外の手立てが、あるとしたら――、

 

「――それは、お前らが教えてくれるのかな?」

 

氷漬けになった盗品蔵の前で、スバルはポケットに両手を入れながら振り返る。

人の気配は、ない。なのに、スバルの視界には無数の人影が立っているのが見えた。

 

凡庸な顔ぶれ、老若男女が適度に入り乱れ、統一感のない集団。

ただ一つだけ、その集団の中に統一されたものがあるとすれば、その双眸だ。

 

いずれも、目が死んでいる。狂気に染まり、狂喜を求め、そのために。

きっと、鏡を見れば、スバルも同じ目をしているはずだ。

 

「――――」

 

その感傷に頬を緩め、スバルは頭上を仰いだ。

怖いぐらいに冴えた月が、凍れる盗品蔵と、狂人たちを無言で見下ろしていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

サテラの素性が詳しく判明したのは、それから二ヶ月近く経過してからだった。

 

「王選!銀髪のハーフエルフ!ロズワール・L・メイザース辺境伯の推薦!サテラじゃなく、エミリア――!」

 

何の進展もなく、続報の途絶えていたところに飛び込んだ詳細情報に飛びつき、スバルは歓喜の表情で両手を叩いた。

 

思いがけず情報が流れ込んできたのは、王城からの発令を受け、王都のみならず国中に掲示された『王位選抜戦』の報せでのことだ。

原始的に、立て看板などを街中に立てて表明されたその情報に、最初はたかだか一個の国の選挙などと小馬鹿にしたスバルは目を剥いた。

 

候補者として立てられた五人の女性――その中に、探し求めた少女がいたのだから。

 

「王選、王選か……王様候補ってことは、やんごとなき身份。道理で、ただ歩いてるだけでも気品とかに溢れてたわけだよ。エミリア、エミリアかぁ」

 

本名がわかったことで、スバルの心は羽が生えたように軽くなっていく。

当初、サテラと嘘の名を名乗られたことはとっくにわかっていた。彼女――エミリアが何のために、スバルにサテラなどと偽りの名を告げたのか、その理由も。

だって、サテラなんて名前を名乗る銀髪のハーフエルフがいれば――、

 

「当然、こいつらとの関与を疑って人は近付かない。俺を危険から遠ざけるための、苦肉の手立てだったわけだ。可愛い顔して、可愛いこと考えるなぁ」

 

ハーフエルフであることを寂しげに語り、遠ざけられることを恐れるような顔をしておきながら、相手のことを慮ってそれを利用し、危険から距離を置かせようとする。

なんていじましく、健気な子なのだろうか。胸が締め付けられる思いだ。

そこへ――、

 

「――ナツキ・スバル!寵愛の信徒よ!ここにいるのデスか!?」

 

「――――」

 

けたたましい、鳥を絞めるような耳障りな声が反響し、スバルの名を呼ぶ。

その声に顔をしかめ、スバルは王都から引き剥がしてきた立て看板をベッドに置くと、嫌々ながら扉を開け、私室の外に出た。

部屋の外は冷たい空気と、暗い空間が広がっている。その空間に反響するのは耳障りな声だけでなく、異様にせかせかとした靴音もそうだ。

 

そして、閉めた扉に背を預けて待っていると、薄明かりだけが頼りの通路を抜け、青白い不健康そうな顔をした男がぼんやりと姿を見せる。

その男はスバルを目にすると、目が飛び出さんばかりに双眸を見開いて、

 

「探したのデス!何故に、何故に、何故にこんなところで怠惰を貪っているのデスか!?我々は!勤勉に!魔女の導きのままに、愛に応えねばならぬ身だというのにぃぃぃぃ!」

 

「言い掛かりはやめてくれよ、ペテさん。俺は『福音』の指示に従ってるだけさ。『福音』が俺にここで過ごせって命じたんだ」

 

「なんと!『福音』がアナタにそのようなことを!?この時期に、この機会に、こんな状況で、アナタほどの敬虔な信徒を何故に遊ばせておくのか、いったい魔女は何をお考えなのか、ワタシ如きでは推し量ることさえ!さえ!できぬのデスか」

 

やかましく怒鳴り散らし、それだけでなく体の動きもうるさい。

まさしく狂人――ペテルギウス・ロマネコンティを前に、スバルはため息をつくのを堪えるのに苦心していた。

 

好感など持ちようのない狂人だが、スバルにとっては有用な相手に違いない。

何せ、スバルが身を寄せた集団はどいつもこいつも自分本位なエゴの塊で、一般教徒に至っては自意識が備わっているのかすら疑わしい。

 

一般教徒の感情の希薄さは、日常生活の中で自分の所属がばれないよう、何らかの干渉が意識に行われているのでは、とスバルは勝手に推測していた。

ともあれ、そんな考察はどうでもいい。重要なのは、一般教徒とはかけ離れた権限を持たされた立場にある、このペテルギウスの来訪の目的だ。

 

この二ヶ月、スバルはペテルギウスを含んだとある集団に迎えられ、一応は何不自由しない生活を送らせてもらっている。

もっとも、生活に不自由はしないが、行動と精神的には不自由なことばかりだ。

特に狂人、狂信者の類と接する機会が多いことは、あくまで常識的な人間性しか持ち得ないスバルにとって苦痛以外の何物でもなかった。

 

住まいは、山中に存在する入口を隠された洞窟。

意外と居住性に優れ、自室を宛がわれるほどに厚遇されているのだが、人里から遠いことや、床の硬さと壁の温かみのなさが現代っ子のスバルには堪える。

とはいえ、外の環境で彼らとの関わりを隠せるほどに演技がうまくはない。妥協案としてここで暮らし、この世界の知識を蓄えることは有用だった。

 

「で、この隠者生活してる俺に何の用事だって?」

 

「ご存知ないのデスか?この国で、今まさに行われんとしている愚かな行事を!」

 

「国で、これからってことは……王選のことか?」

 

「そうデス!王選!デスが、問題はそこではないのデス!重要なのは王選そのものではなく、王選に参加する存在!すなわち、銀髪の半魔!」

 

「――――」

 

物知らずなスバルにご教授するためか、ペテルギウスは王選のお触れ――スバルが部屋に飾っているものと、同じものを持参し、それを突き付けた。

そこには当然、穴が開くほどに見つめた愛しい少女の顔がある。ペテルギウスの骨と皮だけの指も、やはりその少女の顔を指差した。

 

「見るのデス!風体も!出自も!まさしく、魔女への冒涜!ワタシたちにとって見過ごすことなどあってはならない存在!これは、試練の時なのデス!」

 

「試練」

 

「そうデス!!」

 

声高に叫び、ペテルギウスがお触れの張り紙を洞窟の岩壁に押し付ける。そして、エミリアの人相書きに拳を叩きつけ、血が飛び散った。

好んで自傷する狂人が、痛みと血に酔いながら、紙に描かれるエミリアを冒涜する。

 

「合えば擁し!合わねば排し!魔女に相応しき器であるか確かめ、それに適うのであれば我らの下へ受け入れるのデス!そのための試練を、行わねば!」

 

「それを、俺に手伝えって?」

 

「ええ、その通りデス!他のものにも声をかけましたが、不信心なあのものたちが応じるとはとても思えないのデス!唯一、『憤怒』だけは可能性がありましたが、今は王国から遠く……故に!我々だけでも赴かねば!」

 

使命感を胸に、ペテルギウスは滂沱と涙を流しながら、血に染まった拳をぐいぐいと自分の口の中に押し込み、傷口を啜る。口の端が裂け、前歯が手の甲に突き刺さり、薄皮と筋肉を傷付ける光景は目を背けたくなるほど凄惨だ。

ただ、鋼の精神力で耐えるよう言いつけ、スバルは平然とした顔を装いながら、

 

「で、同行したらいいのかな?勝手がわからないんですが、司教様」

 

「同行してくださるのデスか!あぁ!嗚呼!それはなんとなんとなんとなんとなんとんとんとんとんとんととととと……喜ばしいことなのデスか!」

 

「一緒にいくって言っただけではしゃぎすぎでしょ」

 

こぼれた苦笑は本心からのものだ。

しかし、スバルの前向きな返答を受け、ペテルギウスは首がもげそうなほどに何度も何度も頷くと、スパッと切り替えた様子で足を揃え、背を向けて、

 

「すぐにでも、発つのデス!道中、すでにワタシの『指先』には指示したあと……それぞれと合流し、メイザース領へ。そこで、『福音』の導に従うのデス!」

 

「了解。……ところで、試練って何をするんだ?」

 

「当然の疑問デス。魔女の器に相応しきものか試す……すなわち、入れ物が魔女の魂を収める強度が、質が、何よりも資格があるか、試す行いデス!」

 

具体性に欠ける説明に、スバルはわかった風な顔をして頷く。

詳細はわからない。だが、それはサテラ=エミリアのことがわからなかった間の、あの煩悶とした時間と比べればはるかにマシだ。

それに今回のことで、どうやらまたエミリアと関わることができるのだし。

 

ただ、そのためにも――、

 

「――さあ、さあさあ!さあさあさあ!行くのデス!試すのデス!此度の器が相応しからんば、魔女は再びこの世に再臨せりデス!この、我々が数百年ぶりに、全ての席を埋めたこの機会に!」

 

「魔女サテラが下りてくるとなると、器の子は……」

 

「尊い犠牲となるのデス!デスが、それは光栄なことなのデス!代われるものならワタシが代わりたいほどに!この身を差し出せばサテラの御心に適うならば、ワタシは何度でも、どれほどの苦痛にも耐え、再会のときを望むのデスから!」

 

「そうか、消えるのか」

 

狂乱と共に歩き出したペテルギウスの背後に続き、スバルは小さく呟いた。

それは自分の世界に閉じこもり、ケタケタと笑い続けるペテルギウスには届かなかった、ほんの微かな囁きで――。

 

「へえ、そうか」

 

――ナツキ・スバルが、ひどく陰惨に笑ったことにも狂人は気付かなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

剣を、細い体の中央へ突き立て、ねじる。

剣先から伝わってくる手応えが、命の大事なものを引き千切る感覚を教えてきた。

その空しさに、震える吐息が漏れて――、

 

「こんなこと言っても信じちゃもらえないだろうけどさ」

 

「な、ぜ……」

 

「俺は、ペテさんのこと、嫌いな奴の中じゃマシな方だったよ」

 

驚愕に押し開かれた瞳が、すぐ間近で交錯する黒瞳を絶望的に見下ろしていた。

消えない驚きを抱いたまま、ゆっくりと後ろへ倒れる体から剣が抜ける。その勢いにスバルは踏鞴を踏んで下がり、深呼吸をした。

 

その足下に、血溜まりに倒れるペテルギウス・ロマネコンティがいる。

スバルの手で直接、心臓を破壊され、今にも息絶えるペテルギウスが。

 

「ここまで、状況を作るのに苦労したぜ。頭がおかしいふりして、あんたはちょっと周到すぎた。正直、本当に何度も頭を抱えたよ」

 

「何を、言って……るの、デス、か……?」

 

「俺が、ここまでくるのにどれだけ試行錯誤したかって話。いや、作戦もそうだけど切り札とかも本当にヤバかった。マジで、ホッとしてる」

 

力の入らない手足に、無理やり力を込めてペテルギウスが這いずる。しかし、立ち上がって反撃する余力はない。あくまで死から遠ざかるように、後ろへ這いずるだけ。

そして何もしなくても、ペテルギウスの命は長くない。

 

「最初は『見えざる手』も見えなかったし、どうしたもんかって焦ったさ。『指先』の対処にも困らされて……今は、なんとかできた達成感に満たされてる」

 

「ぐ、うう、うぅぅ……」

 

流れる血が、そのままペテルギウスの命の残量だ。

止血するどころか、勢いをなくさず流れ出る血を眺め、スバルは黒幕気分で種明かしをしていく。

 

不可視の黒い掌を操る『見えざる手』。

ペテルギウスの腹心、それどころか予備の肉体のストックである『指先』。

そして、その予備の肉体へ乗り移り、命を長らえる『憑依』。

 

これらを駆使し、彼の口癖である『勤勉』そのものの行動でエミリアを追い詰めようとするペテルギウス、それを下すのには本当に骨を折らされた。

ここまで辿り着くのに、実に四百を超える試行錯誤を要することになるとは。

 

「だから間違いなく、あんたは俺にとって、この世界で一番言葉を交わした間柄だ。すげぇ勝手な話だけど、友情みたいなもんも感じてる。目標に向かってひたむきで、持ってるカード全部使って戦い抜こうとする姿勢とか、感銘とか受けなくもない」

 

「なに、を……何を、何を、何を何を何を何を何をおぉぉぉぉ!!」

 

死に向かって落ちるだけの肉体に、最後の最後で怒りに似た力が宿った。その全てを自身の存在に注ぎ込み、死に体のペテルギウスが上体を起こす。

血を吐く――文字通り、その口から溢れる血をこぼし、血走った目を見開いたペテルギウスがスバルへ向け、

 

「背信者!魔女の寵愛に背く裏切者!許すわけに、許すわけには、いかないの、デス!!」

 

声を荒らげ、ペテルギウスが血塗れの腕を伸ばした。

それは『見えざる手』を発動するための行動ではない。見切られる不可視の腕など何の意味もない。ここで、ペテルギウスが縋る手段はただ一つ――。

 

邪精霊ペテルギウス・ロマネコンティが、肉体を奪い取るための条件。

精霊術師としての素養のある人間、その肉体へ『憑依』するためのプロセス。

そして、この場にその資格を持つ人間はたった一人だけで――、

 

「アナタの、体を――!!」

 

奪う、その意思を込めたペテルギウスに、スバルは小さく吐息した。

それから、ゆるりと正面へ踏み込み、ペテルギウスの決死の形相を足蹴にする。全力で叩き込まれた前蹴りに前歯が吹き飛び、のけ反るペテルギウスは驚愕した。

 

奪えるはずの肉体に、乗り移れなかった。

その答えを言葉ではなく、スバルは掲げた左手――その指先に浮かび上がった、ほのかな赤い輝きで証明する。

 

それは、微精霊と呼ばれる存在だ。

精霊術師の素養のあるナツキ・スバルと契約を結び、仄暗い道を照らすだけの役割を持った可愛い道具。

 

邪精霊ペテルギウスの『憑依』は、未契約の精霊術師の肉体にしか乗り移れない。

この条件を見極めるのに、いったいどれだけ死を重ねたことだったか。

 

「人生で一番長い三日間だった。あんたにとっちゃ、ほんの短い付き合いだっただろうけど……」

 

「ナツキ・スバルぅぅぅぅ――!!」

 

「エミリアを狙ったんだ。――後悔は長くしろよ」

 

憎悪の絶叫を吐くペテルギウス、その胸を蹴倒し、仰向けにした顔面に剣を振り下ろす。容赦なく、剣撃はペテルギウスの頭蓋に突き立ち、その命を脳ごと破壊した。

耳障りな断末魔が途切れ、スバルはペテルギウスを貫通して地面に突き刺さった剣に体重を預けながら、長く息を吐く。

 

実時間では短く、体感時間ではあまりに長かった、ペテルギウスとの激闘が終わった。

達成感と、虚脱感の両方が押し寄せてくる。

 

「あらあ?こっちももう終わってたみたいねえ」

 

そうして、しばしの沈黙に浸っていたスバルへ声がかかった。

振り向けば、生い茂る木々を掻き分けて巨大な影――黒い体毛、獅子の頭部に凶暴な四肢を備えた凶獣がのしのしとこちらへやってくるところだった。

無論、気だるい口調で声をかけてきたのはその凶獣ではない。その背に跨り、年齢に見合わぬ流し目をスバルへ送りつける少女だ。

 

「ああ、片付いた。助かったよ、メィリィ」

 

「いいのよお。報酬はもらってるし、エルザもお兄さんにはお世話になったものお。でもよかったのお?この人たち、お兄さんの仲間だったんじゃなかったあ?」

 

「どうだろ。最後に殺そうとしてこなければ歳の離れた友達って言えたかもだけど、俺のこと殺そうとしたからなぁ。惜しくも友達落第じゃね?」

 

頬に跳ねた血を袖で拭い、スバルは少女――メィリィに肩をすくめる。すると、その言葉にメィリィは自分の顎に指を当てて、

 

「ふーん。それなら、わたしはお兄さんのこと殺そうとしないからあ、お兄さんのお友達ってことお?」

 

「その理屈だとそうだな。俺とお前は友達だよ、メィリィ」

 

「わあい、やったわあ。これで、ペトラちゃんたちと合わせてお友達たくさあん」

 

両手を合わせ、メィリィは凶獣の背中で嬉しそうに肩を揺する。その子どもらしい態度に眉を上げ、スバルは彼女の口から友達がいると出たことに驚いた。

 

「へえ、意外だ。こんなこと言ったらあれだけど、ちゃんと友達いるんだな」

 

「そうよお。もう、みいんなわたしが殺しちゃったんだけどねえ」

 

「――――」

 

薄く微笑み、メィリィはそのことへの罪悪感などはない顔で言った。

殺した、ということは仕事する上で関わった相手だったのだろうか。一時はメィリィにも子どもらしいところがなどと思ったが、やはり倫理はねじ曲がっている。

あの、エルザと姉妹なのだからさもありなんではあったが。

 

「なんにせよ、足りない手数をメィリィが補ってくれたおかげで助かった。でなきゃ、あちこちに潜伏してる『指先』を皆殺しにするなんて俺一人じゃ無理だったし」

 

「別にいいけどねえ。だけど、わざわざわたしたちじゃなきゃダメだったのお?もっとちゃあんとした国の騎士さんとかに頼めばよかったのにい」

 

「それだと、俺の目的の一部が果たせなくてさ」

 

「目的?」

 

メィリィが首を傾げ、スバルの考えを探ろうとする。が、スバルはそれ以上を説明するつもりはなく、適当な笑みを作ると、

 

「こっから先は大人の話だ。メィリィみたいなお子様は知らなくてよろしい」

 

「あ!もう、そんな風に子ども扱いするんだからあ!お兄さんなんてもう、知らない知らない、知らないんだからあ!」

 

ぷんすかとメィリィが怒ると、その怒りに触発されたように凶獣が唸る。

うっかり、ここで凶獣をけしかけられては事だ。せっかく、苦労してペテルギウスを殺したのだから、この周回を失敗で終えたくはない。

 

何とか、メィリィの斜めになったご機嫌を立て直そうと、スバルはあれこれ苦心して、少女のご機嫌取りに勤しむのであった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

王選開始からの数日で、ルグニカ王国の版図はかなり大きく変化した。

 

まずもって最大の変化は、王選最有力候補と目されていたクルシュ・カルステン公爵の脱落――もっとも、これに関しては事実関係を理解しているのはスバルだけだ。

何故なら、このクルシュという人物の存在はこの世界から跡形もなく消失し、『存在した』という事実ごと掻き消え、いないものとして世界に記録されたためだ。

 

そのため、王選は元々四人で始まったものとなり、カルステン公爵を支持していたはずのものたちの記憶もねじ曲がり、異なる勢力に組する形になる。

 

「白鯨の霧ってのはおっかねぇもんだ。他人の記録を消しちまうなんて」

 

それが、どうしてスバルにだけ効果を発揮しないのかは謎だ。ただ、スバル自身に特別なことをした覚えがないため、他人の会話で変な齟齬が生じるのが面倒だった。

いなくなったクルシュ・カルステンのことなど忘れてしまえばいい。

無謀にも、力の及ばぬ強敵に挑んだ結果死んだ人間に、挽回の機会など訪れない。

 

その機会を得られるのは、この世界ではナツキ・スバルだけなのだ。

故に敗残者のことは、真似してはいけない愚行として記憶に留めておくだけ。

 

そうした、スバル以外には何の意味もない変化とは別の変化もある。

それが――、

 

「王選候補者の一人である、エミリア。長年、世界を苦しめてきた邪悪の徒、魔女教の大罪司教『怠惰』を討伐……!」

 

その報せに王国は沸き、功績は遠く他国まで知れ渡ったと聞いている。

スバルとしても意外なほど宣伝効果のあったそれは、ナツキ・スバルが四百もの死を積み上げた挙句に得た勝利を、丸ごとエミリアへ――彼女を支援する、怪しげな道化姿の男に譲渡した結果だった。

 

正直、エミリアへ功績を譲るための交渉、それに対して辺境伯とされる男がどのような態度で応じるかは、ペテルギウス討伐に匹敵する賭けだったが――、

 

「気持ち悪いぐらい話のわかる奴だったからな」

 

辺境伯、ロズワール・L・メイザースはスバルの申し出を受け、これをあっさりと快諾すると、すぐにペテルギウス討伐の功績をエミリアのものとして発表した。

その態度に胡散臭いものを覚えながら、スバルはロズワールの行動を見咎めない。

 

元々、この世界ではくだらない理由で蔑まれる立場にあったエミリアだ。そんな彼女の支援者として名乗りを上げ、後ろ盾となって王選の参加を推進する。

そこには単なる物好きか、あるいは万一の可能性でエミリアが王座につけば、甘い汁を啜ることができるといった下卑た期待があるのだろう。

ペテルギウス討伐の報告に、涎を垂らして飛びついたのがいい証拠だ。

 

「いいさ。好きにしろよ、辺境伯さん。あんたがエミリアの味方をする限りは、俺もあんたの味方をしてやる。あんたの期待通り、王になるのはエミリアだ」

 

そのためにできる限りを、ナツキ・スバルはこの『死』を覆す力で果たしてみせる。

だがもしも、ロズワールがエミリアに対して不埒な望みや、不相応な考えを持つというのなら、そのときは――、

 

「エミリアのために並ぶ墓標が、一個増えるだけの話だ」

 

それまではせいぜい、エミリアに知られぬ立場で暗躍し続けるために、ロズワールには表立っての行動を預けるしかない。

その代わりに、水面下でスバルはあらゆる策謀を巡らせる。

そのためにも――、

 

「せっかく拾ったんだ。役立ってもらわなきゃ困るぜ、『青』さん」

 

「――――」

 

洞窟の奥、そこには申し訳程度の鉄柵を嵌められた牢獄がある。

その冷たい空間で鎖に繋がれるのは、薄汚れた格好をした人物だ。その頭部に亜麻色の猫耳を生やし、華奢な体を近衛騎士の白い制服に包んだ少女――風の、男らしい。

 

ペテルギウスの死と、白鯨が暴れ回ったごたごたの後片付けに奔走している中でスバルが見つけ、戦利品として持ち帰った道具だった。

ただ、噂に聞く『青』と呼ばれるほどの治癒術の才気を見せてくれる機会には今のところ恵まれていない。それどころか、彼は自分の傷を治すこともせずに、ひたすらに牢獄の床を見つめ、すすり泣くように呟き続けている。

 

「……誰か、教えて。教えてよ。私は、何のために……殿下は?私は、何のために。誰かがいたの。いたはずなの。そうじゃなきゃおかしい。なのに……」

 

「しかし、参ったな。これはちょっと時間がかかりそうだ」

 

頭を掻き、スバルは懐に入れていた書状を取り出す。それは、王選が開始したことを報せるお触れの張り紙であり、スバルが後生大事に肌身離さず持ち歩くものだ。

その、張り紙の内容が、スバルの知るそれとは変化している。五人の候補者が並べられていたはずが、人相書きが四人になり、記述も減っているのだ。

 

クルシュ・カルステンの存在消滅に伴い、こちらにも変化が適用されたのか。

だが、スバルの記憶は覚えている。眼中になかったとはいえ、穴が開くほどにこの記事は読み返したのだ。クルシュ・カルステンの騎士の名は、フェリックス・アーガイル。

この、目の前にいる『青』の治癒術師であったはず。

 

「白鯨の霧に消されると、記憶が違和感を持たない程度に変化に対応するってのが俺の見立てだったんだが、この調子を見るとな」

 

「誰か、誰か教えてよ……殿下、殿下は?殿下、誰と一緒に……?」

 

「欠けた記憶を補い切れないぐらい大きいと、こんな風になっちまうのか」

 

その人間の人格形成に大きな影響を与えた存在、それが世界から欠け落ちれば、当然のようにその人間自体が成立しなくなる。

故に、壊れた人形のように繰り返す『青』はこんなことになってしまったのだ。

 

壊れた心の癒し方は、残念ながらスバルにもわからない。

彼の心の無事を守れる唯一の存在と、スバルとは接点がなかった。仮にやり直したとしても、遡れる時間はスバルが定めるのではない。

そのため、彼と彼女との間にどんな物語があったのか、スバルにはわからない。

 

「それでも、せっかく見つけた駒なんだ。大丈夫だ。俺はきっと、お前の心のひび割れを埋めてみせる」

 

「誰か、お願い……教えて。私は、私はどうして……」

 

スバルの言葉に、『青』は一切の反応を見せない。

埒が明かないように思えるが、スバルは焦らず、時間をかけて向き合う覚悟がある。

傷を癒す力、寄りかかる縁を失った騎士、これほど扱いやすい駒はそうはない。

だから、スバルは真摯に、心を込めて、

 

「今度は、お前が自殺しない方法をちゃんと見つけてやるからな」

 

何度でも、死のうとする意思と向き合ってやると、そう言い切った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

屋敷の出入り口は全て封鎖した。

扉を内側から打ち付け、窓にも全て板を張らせて。カーテンを閉め切った暗い邸内の状況を、おかしいと訝しむ注意力があれば気付けたかもしれない。

無論、そんなことがないことは確信した上で、今回のことを仕掛けたが。

 

「――ッ!」

 

凄まじい業火が巨大な屋敷を余すところなく包み込み、焼き焦がしていく。

屋敷のあちこちを火元とした炎の延焼は留まることを知らず、建物は上も下も鎮火しようのない勢いで燃え上がり、全てを灰燼に帰さんと猛り狂っていた。

 

炎に包まれる豪邸、そこで黒焦げになるのは家財道具や装飾品ばかりではない。

この屋敷で長く、苦痛の時間を過ごしてきた多くの女性たちもまた、炎と煙に巻かれて命を落とし、人であったかもわからぬ消し炭へと姿を変えていくのだ。

 

あまりにも惨い所業、そう思われても仕方のない蛮行。

だが、これが他でもない、今まさに焼け死んでいく女性たちが望んだことだったと、いったい誰が信じるだろうか。

 

「ふざ、ふざけ、ふざけるなぁ!!」

 

火の手の勢いが強く、風を浴びてさらに火勢の増す邸内に男の罵声が響き渡る。

それは焼かれて倒壊する建物の中、哀れなほどにみっともなく引きつった声だ。

声は、この状況を信じられないと、何が起きたのかと狂乱しながら、

 

「九十二番!百十四番!百二十三番でもいい!どこだ!?どこにいった!?僕を誰だと思ってる!?僕を残して、この状況で勝手に逝くなんて、いったいどこまでお前たちって女は無責任で身勝手なんだ!?」

 

癇癪を起した子どものように、裏返った声で叫ぶのは白髪の青年だった。白い衣に身を包み、平凡な顔立ちをまるで鬼のような形相にして、喚き散らしている。

それは、今にも崩れかねない豪邸火災の中にあって異常すぎる存在だ。

 

正常な人間であれば、この火勢から逃れるためにあらゆる手を講じるはずだ。

しかし、この男にはその行動の様子が見られない。それどころか、自分が死ぬなどと一切考えていない、どこか生死を超越した倫理に基づいて行動している。

 

男の頭がおかしい、わけではない。

――否、それを否定するのも正確ではないが、男には相応の確信があるのだ。

 

この火災で、自分が死ぬことなどありえないと。

故に、男が怒鳴り散らしている理由は、自分の死への恐怖とは全く無関係で。

しいて言えば、この不審火を起こしただろう自分の妻への、度し難い怒りだ。

あまりにも状況が、足下が、見えていない怒りで――、

 

「どいつもこいつも、この僕の限られた資産ってものを蔑ろに――」

 

「――その、聞くに堪えない口を閉じてくれると嬉しいのだけれど」

 

「な」

 

その、怒り狂った男の顔面が、炎の壁を突き破って飛び出した靴裏に直撃される。

予想外の角度からの一撃と、そもそも予想外の衝撃に目を回し、男の体が軽々と廊下の反対側へ。そこにあった壁も炎で脆くなっており、男の激突に耐えかね、崩れる。

激しくもんどりうって大の字に転がり、男は唖然と燃える天井を見上げていた。

 

「な、にが……」

 

「この炎は、あなたのたくさんの奥さんからの絶縁状へのサイン。有体にいえば、恐怖で縛れる愛情はおしまいってことのようね」

 

呆然とした男の声に応じたのは、先ほどの蹴りと同時に聞こえた声だ。

弾かれたように男が上体を起こすと、男が砕いた壁を乗り越え、燃え盛る室内に漆黒の衣装を纏った女が入ってくるところだった。

 

嫣然とした微笑みと、長い黒髪の三つ編みが特徴的だ。

だが、何より女の立場を克明に語るのは、その右手に握った曲刃――。

 

「賊が!この僕を誰だと思ってる!?馬鹿な真似をしたことを後悔……」

 

しろ、と口走り、両腕を振り上げることで男は女へ攻撃を仕掛けようとした。

しかし、その目論見は軽い衝撃と、肘で切断された両腕が吹っ飛ぶのが視界の端に見えたことで頓挫する。視線を下げ、自分の腕がなくなった光景が目に入る。

理解、不能。これはいったい、何が起きているのかと。

 

「不死身?無敵?どちらだか忘れたけれど、その種明かしは済んでるそうよ。今のあなたはなんというか、ただ不愉快なだけの虫みたいな人ね」

 

「――ッ!お前みたいな、娼婦が――」

 

「――――」

 

両腕の喪失も忘れ、プライドを傷付けられた男が汚い言葉で女を罵ろうとする。だが、女はその全てなど言わせない。

長い足を振り上げ、地べたに尻餅をつく姿勢の男の股間を蹴り上げた。その威力に男の体が浮かび上がり、いつの間にか両腕に握られる女の刃が死を描く。

 

両腕が肘より上、肩でさらに切断され、足が爪先から徐々に腿の上へ向かって輪切りにされる。爪先、足首、脛、膝、腿と斬撃が入り、血をぶちまけながら男の体は見るも無残な状態へ早変わりした。

 

「――僕を」

 

「その状態でも、まだ何か言おうとするのは立派なものね」

 

はるかに的が小さくなった胴体へ、女の直蹴りが突き刺さり、それは板で閉じられたはずの窓を粉砕し、男の体を燃え盛る豪邸の外へ吹き飛ばした。

砕けた窓ガラスの破片と共に、手足をなくした男は受け身も取れずに地面に落ちる。部屋が二階だったのが幸いし、落下によって致命的な損傷は免れた。

 

もっとも、手足をなくし、大量に出血した現状がすでに十分、致命的だが。

 

「こんな、馬鹿なことがあってたまるかよ。……僕は、僕はこの世界で最も、完成された存在だ。多くを求めず、足りることを知って、無欲で清貧に、生きて……その、僕が、なんでこんな、お前たちみたいな、欠陥人間共にいいように……」

 

「そんだけ普段から悪し様に罵ってりゃ、離婚調停に持ち込まれて当然だろ」

 

「なぁ!?」

 

もはや自力で寝返りを打つことすら困難な男、その視界にまたも別人が映り込む。

誰であろう、黒髪黒瞳に黒のローブを羽織った少年――ナツキ・スバルだ。

 

スバルは、その哀れなほどに状況の見えていない男にため息をつくと、

 

「まさか、ここまで周囲が協力的に運ぶとは思わなかったぜ、レグルスさん」

 

「お前、なんでここに……いや、お前が、仕組んだのか……?」

 

「他に何がある?」

 

肩をすくめ、ようやく理解が状況に追いついた男――レグルスにスバルは頬を歪めた。その笑みに見下され、レグルスはその瞳に赫怒を宿し、

 

「のろ、われろ、このゲス野郎!お前、自分が何をしたかわかってるのか!?愛する妻を、妻たちを!僕の前で、屋敷ごと焼き殺したんだ!それがどれだけ非道で、悪魔じみた行いかわかるのかよ!?この妻殺し野郎!」

 

「予想外の切り口すぎて、俺も開いた口が塞がらねぇや。……言っとくけど、お前の心臓対策に命を差し出してくれたのは、他でもない奥さんたちだからな?」

 

「――馬鹿、な」

 

耳をほじり、呆れた顔で伝えたスバルにレグルスが絶句する。

その、心底意外でたまらないというような反応の方がスバルには理解し難い。

 

レグルスは、妻という名目で多くの女性を屋敷に囲い、逆らえば殺すと暴力で脅して身勝手な結婚生活を謳歌していた。

それだけならば、ひどく悪辣なハーレム願望とも思えるが、彼の大罪司教の醜悪さはそこにとどまらない。彼は、自身の『心臓』を妻たちに預け、自らの肉体の時間を止めた不老不死と『無敵』を実現した凶人だったのだ。

 

大罪司教『強欲』、レグルス・コルニアスを殺すには、心臓を奴に戻すしかない。

そのための手段は、奴が心臓を預ける対象とした妻たちを全員殺し、奴が心臓を隠すための場所を失わせる以外になかった。

 

この事実に行き合ったとき、さすがにスバルも決断に苦心した。

しかし、このスバルの迷いを解いてくれたのが、他でもないレグルスに囚われの身となった妻――否、女性たちだったのだ。

 

「みんな、お前に一矢報いれるなら死んでも惜しくないってよ。あそこまでひでぇ言われよう、俺もなかなか聞いた覚えがねぇや」

 

「そんな、誰が信じるか……。僕は、僕は妻たちを愛してた!だから、あいつらだって僕を愛するべきだ!そうだろう!?でなきゃ、おかしいだろうが!なのに!あいつらが妻失格なだけで、どうして僕がこんな目に!」

 

「……本気で、言ってんだろうな。ホントにそれが怖いよ、お前らは」

 

スバルは辟易とした顔で呟いて、いまだに罵詈雑言と責任転嫁を続けるレグルスから視線を逸らした。

その視線の先、燃え盛る屋敷から飛び降り、庭に着地した黒影――エルザが映る。彼女は軽く体についた煤を払い、スバルの視線に気付くと、

 

「あら、心配してくれているの?安心して。どこもケガなんてしていないから」

 

「心配なんてしてねぇよ。それより、これはなんなんだ。こんな悪趣味な状況にしろなんて言ってねぇぞ」

 

呑気なエルザの言葉に、スバルは唇を曲げ、手足のないレグルスを指差した。

少なくとも、スバルの見かけたことがあるレグルスには手足があったので、この状態にしたのはエルザに相違ない。その指摘に彼女は肩をすくめ、

 

「手足があるとうるさそうだったし……それに、あの人たちからの言葉は伝えてあげた方がよかったでしょう?」

 

「……それは、そうだな」

 

意外にも、エルザに人を思いやる心があったらしい。

レグルスの犠牲になった女性たち、彼女たちが如何なる覚悟を以てレグルスをこうして罠にかけたのか、その事実を伝えず、死なせるのは間違っていると。

そして、それを伝えた以上は――、

 

「ぎ、ぁっぁぁ!」

 

レグルスの胸に、エルザがククリナイフを突き刺し、ずいぶんと軽くなってしまった体をゆっくりと持ち上げる。まるで串焼きの具材のような状態で、レグルスは血を流しながらもがき、ひたすらに生を渇望していた。

 

「一思いに?」

 

「いや……」

 

エルザの問いかけに、スバルは顎に手を当てて考え込む。

エルザではないが、スバルにも人並みに同情心や義憤を覚える心はあるのだ。そしてその心が、あの涙ながらに死を望んだ女性たちの覚悟に報いろと訴える。

なので、スバルはエルザに命じた。

 

「そこの、弱火のところに放り込め。焼け死ぬのを見届ける」

 

「ええ、わかった」

 

スバルの残酷な指示に、エルザは何の呵責もない顔で頷いた。

そうして、燃え盛る屋敷の端、わずかに火が燃え移っただけの廃材の山に、いつまでも恨み言をやめないレグルスの体を投げ込む。

 

「――――」

 

身を焼かれ、死ぬまで炎に炙られ続ける男の絶叫が夜空に木霊する。

それを顔色も変えずに、スバルはエルザは並んで見守り続けた。

 

「虫の方が、鳴き声が心地良い分、あれよりマシね」

 

長い長い断末魔がやむ頃に、ぽつりとエルザがそうこぼした。

それは、スバルも同感だった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――割れたグラスの音が、スバルには信頼の砕け散る音に聞こえた。

 

「こ、れは……っ」

 

「ごめんネ。ホントにごめんネ。こんなこと、したくなかった。ホント、ホントだよ」

 

驚愕に声を震わせ、男はカウンターに肘を強くついた。しかし、崩れる体を支えられずに上体が滑り、座っていた椅子を倒して店の床に倒れ込む。

その横転に巻き込まれ、カウンターに置かれていたグラスとボトルが床に落ちて割れると、飛び散った中身が男の白い制服を酒臭く汚していった。

 

手足の自由は利かず、血の気は徐々に引いていく。唇が青紫色になり、視界が濁っていく感覚に男は何度も瞬きを繰り返し、間近に迫る終焉を遠ざけようと試みていた。

その男の懸命な足掻きを、スバルはテーブル席に座ったまま見下ろしている。

 

優美な顔つきをした男だ。すらりとした長身で、店に入ってきたときの佇まいや、友人へかける言葉遣いにも気品が満ちていた。まさに騎士らしい騎士。

 

「『最優』なんて呼ばれてるのも納得だよ、ユリウス・ユークリウスさん」

 

「き、さまは……」

 

「けど、自分の立場を弁えるんなら、もう少し周りに気を遣った方がよかったな。今をときめく王選候補者、その一の騎士って立場なんだ。当然、主人だけじゃなく自分が狙われることも計算に入れとかなきゃ。もっとも……」

 

苦しげに喘ぐ男――ユリウスに高説を述べ、立ち上がったスバルは腕を伸ばした。その腕が向かったのは、倒れるユリウスの隣の椅子に座っていた人物だ。

亜麻色の猫耳に愛らしい顔立ち、華奢な肩をそっと引き寄せ、頭を撫でてやる。それだけで、『青』は陶然とした様子で眦を下げた。

 

「ふぇ、りす……君は……」

 

「傷心につけ込むのもなかなか苦労したんだぜ?まさか、あの子以外の誰かの命のためにこんだけ腐心する羽目になると思わなかった。その甲斐はあったけどさ」

 

「貴様、は、何を企んで……」

 

「お前にはもう関係ない。安心しろよ。俺の見立てじゃ、お前が脱落すればお前の主人には危害を加えなくて良くなるはずなんだ。奮起した場合はわからねぇけど」

 

ユリウスの黄色い双眸に、戸惑いと怒り、悲しみと混乱、嘆きと疑念が入り乱れる。

だが、その高速で入れ替わる感情の全てが無意味だ。

 

「昔の友達に呼び出されて、酒場で一杯飲んだ途端にこれだ。信頼ってのは甘い毒だね、『最優』さん。それに溺れて、見誤ったんだ」

 

「……ぉ、く」

 

「誰にも誇れることをするのは楽だよな。生きやすくて羨ましいよ。死ぬけど」

 

しゃがみ込み、朦朧とする意識にあるユリウスの顔を覗き込む。すでに、ユリウスの視線はスバルを見ていない。自分を、殺す指示を下した男に拘泥していない。

ただ、彼の双眸に宿るのは、望まぬ凶行に利用された友人の安否と、おそらくはこの場にいない主への無念であり――、

 

「――――」

 

「どこまでも騎士だな。憎たらしいったらねぇ」

 

永遠の沈黙に沈んだ死に顔を見下ろし、スバルはそう吐き捨てた。

いやに胸がムカムカするのは、おそらくこの『最優』の騎士に命を奪われなければならない理由が全くなかったからだ。

 

死なせる名分のない殺しを、スバルは初めてに近いほど命じた。

魔女教や大罪司教絡みの連中を死なせるのに、心が痛むことなどない。ただ、今回の殺しはスバルが単純に、どちらを責めるのが易いかだけで選んだ。

 

常に護衛に囲まれる、候補者のアナスタシア・ホーシンよりも、警戒度が低く、何より言葉で籠絡し、依存させた『青』が使えると。

 

「スバル様、私はうまくやれましたか?」

 

「上出来だ。辛いことやらせて悪かったな」

 

ユリウスの死を見届け、立ち上がったスバルの傍らで『青』がか細い声で問う。その態度にスバルは肩をすくめ、不安げな頭をまた撫でてやった。

それだけで、情緒不安定な心が落ち着くなら、いくらでも撫でてやる。

 

「いいんです、スバル様のお役に立てれば。だって、これが殿下や、スバル様が望んだ未来を形作るために必要なこと、なんですよネ?」

 

「ああ、そうだ。そのために、お前の友達には生きててもらっちゃダメだったんだ」

 

「はい……」

 

感情の希薄になった表情で、それでも友の死には心がひび割れる感覚を味わうのか、『青』は心の空白を埋めるように、スバルの裾をそっと摘んだ。

そうして、店内に死の香りが濃密に漂い続けると、

 

「――おや、お取込み中でしたか?」

 

誰も入ってこれないはずの入口を開け、一人の優男が店内に入ってくる。

マズい状況を見られた、と部外者であれば口封じを考えるところだが、幸い、その優男に口封じは必要ない。関係者だからだ。

 

「時間通りだな」

 

「ええ。時間は有限、『金銭と時は等価値』ってのが商人の考えですから」

 

「まだ商人を名乗れるなんて、ずいぶん厚顔だな。『死の商人』だろ」

 

「それを言われると何とも」

 

と、スバルの言葉に頭を掻いたのは、灰色の髪をした細身の男だった。

すらっとした体を黒いスーツに包み、黒いネクタイまで締めた姿は一見すれば平凡な男の葬式帰りか何かだが、よくよく見れば彼の全身に誤魔化し切れない死臭が漂う。

顔立ちも優しげで目つきも穏やかだが、視線の巡らせ方には明らかにこちらを警戒したものがあり、修羅場を潜ってきたことが窺える。

何より、その濁った瞳が気に入った。あれは生き甲斐をなくし、生きる意味を見失って、それでも生きることを選んだ生ける屍の目だ。隣にいる、『青』に近い性質の、瞳だ。

 

「名前は……聞いたことなかったかな」

 

「名乗ったことはありませんし、名乗るつもりもありませんよ。もちろん、こちらもお客様の名前を聞こうとは思いません。その方がお互い、安心できる」

 

「ま、お前の言う通りだな。友達になれるわけじゃねぇんだし」

 

「ええ。何かあればすぐ敵に回る。そんな相手を友達と呼んだ結果がこれでしょ?」

 

地に伏したユリウスの亡骸と、スバルに寄り添った『青』を眺めて男が揶揄する。その皮肉には何も言い返さず、スバルは店の出口へ足を向けた。

毒の手配も後片付けも、秘密裏にこの男と協同して用意したことだ。魔女教を動かせば面倒なことになる。スバルは今、危うい綱渡りを繰り返しているのだから。

 

「ラッセルによろしく伝えておいてくれ。また頼むってな。右腕なんだろ?」

 

「あの人の右腕は右肩についてますよ。僕は、ただの奴隷です」

 

割り切った考え方をするものだ、とスバルは良くも悪くも現実的な男の答えに好感を抱いた。それと同時に残念にも思った。

 

友達になれたら、きっと気が合っただろうに。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

候補者を削り、立ち塞がろうとする大罪司教を削り、そのための暗躍を繰り返す。

 

謎の集団、危険人物の巣窟、その上で内部では互いのことに過剰な干渉はしない。

この魔女教という集団は、スバルにとって実に都合のいい隠れ蓑だった。

 

いずれ、必ずや根絶しなくてはならない隠れ蓑であるが、そうした前提条件の下で利用していると、清々しいぐらいに使い捨てることに罪悪感を覚えずに済む。

 

大罪司教にも、仲間意識など微塵もない。

常に虎視眈々と、殺す方法を思索し、試し、実行可能そうなら根回しをする。失敗してもその都度、スバルには世界をやり直す力があった。

 

何となく、この状況のスバルにも、仲間と呼べるような関係もできてきた。

魔女教など一人も当てにならず、関係者など増やすべきではないとわかっているが。

 

「お兄さんとは、ずうっと最初からやってきたじゃない?この調子で、お兄さんが楽しいことをどんどん手伝わせてくれると嬉しいわあ」

 

「別に私はあなたに肩入ればかりするつもりはないけれど、あなたは今も、機会があれば私を殺そうと思ってる。それが、なんだかとても心地良いのよ」

 

「スバル様がいてくれれば、殿下の夢が叶います。だから、私はずっとついていきます。……でも、あれ?殿下と、スバル様は、いつ、どこでお知り合いに……」

 

「汚れ仕事を頼む間柄でしょう?仲間だなんて馬鹿馬鹿しい。僕もあなたも、家族にも顔見せできない親不孝者ですよ。いっそ、死ねたら死んだ方が楽なんですがね」

 

「あと一歩、あと一歩で宿願が叶うかもしれないところへきているのさ。そーぉのためなら、私は悪魔に魂を売り渡していい。君という、悪魔にねーぇ」

 

――スバル自身、自分が決して褒められた行動をしているとは思っていない。

 

それでも、その行いにいつしか、賛同者のようなものが現れたことは。

ひょっとしたら、救いになっていたのかもしれない。

 

『死に戻り』の力で、ナツキ・スバルはエミリアを救おうと望み、足掻き続ける。

たった独りで、戦い続けるしかないと、そう思っていた孤独の戦い。

 

それがひょっとしたら、いつの間にか、独りのものでなくなったのかも、と。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

王都が火の手に包まれ、スバルは全身の軋む痛みに喘ぎ、空を仰いでいた。

 

意識ははっきりとしている。

鋭い痛みが、かえってスバルの意識を喪失ではなく覚醒の方へ突き動かした。

何があったのか、どうしてここにいるのか、全ては鮮明だ。

 

「――――」

 

腕の中に、スバルは動かなくなったメィリィの体を抱えていた。

少女はすでに光の消えた目を開け、この世ではないどこかの景色を見つめている。あの生意気な態度も、年齢に不相応な甘ったるい声も、子どものように扱われて癇癪を起こすような姿も、もう、二度と見られない。

 

――だって、スバルは『死に戻り』して、この瞬間に舞い戻ってきたのだ。

 

『死に戻り』の地点が変わっても、以前よりも過去に戻れたことは一度もない。

『死に戻り』の起点がここへ変わり、戻ったスバルの腕に亡骸となったメィリィが抱かれている以上、もはや彼女の命は取り戻せないのだ。

 

「――――」

 

それが自分の心を慰めるだけとわかっていて、スバルはメィリィの瞼をそっと閉じた。死者の冥福を祈る資格など自分にはない。この手は、血に汚れすぎた。

それはメィリィも同じだ。死後の安寧など、得られるはずのない悪行を重ねた。罪業は積み重なり、スバルたちを地獄へ引きずり込む鎖となって離さない。

 

「それ、でも……」

 

『死』を迎えたことを理由に、諦めることだけは許されない。

幾度、ここへ至るために死を重ねてきたことだろうか。すでに千を超え、万に至り、あらゆる命を冒涜し、踏み躙り、己の願いを叶えんと欲し、ここへきた。

『死』の苦痛に折れかけたことは何度もある。だがそのたび、心を炎が燃やした。

 

あの、一番最初の灼熱が、微かに届いた指先の感触が、スバルをここへ辿り着かせた。

あと一歩で、その本懐が届くところへきたのだ。

 

多くの、犠牲を払って、ようやくここへ。

それなのに――、

 

「――そこまでだ」

 

声は凄絶に、頭上からスバルへ降ってきた。

王都が炎に包まれるのは比喩的な表現ではない。そして、その猛り狂う炎を己に取り込んだかのように、坂上に現れた姿は煌々と輝いて見えた。

 

「ラインハルト、ヴァン、アストレアぁぁぁ……」

 

「自己紹介の必要はなさそうだ。僕も、君と交わす言葉を多くは持たない」

 

ラインハルトの青い双眸が、眼下に蹲るスバルを真っ直ぐに射抜く。

その双眸に宿った光は、ずいぶん前に見かけたときと違い、激情に揺れていた。

 

相手が戮殺者であろうと、心を乱すことのなかった男が、スバルに対しては。

言葉にすることすら難しいほど、色濃い激情――憎悪を宿し、睨みつけてくる。

 

「人を憎む機能が、お前にもあったんだな、『剣聖』!」

 

「僕も、驚いているよ。自分の中に、こんな感情があるとは思わなかった」

 

「新しい自分を発見したか。ハッピーバースデー。誕生日おめでとう、ラインハルト」

 

「悪いが、今日は僕の誕生日じゃない。だが、君の命日にはなる」

 

気取った言い回しも、ラインハルトほどの色男がすれば様になったものだ。

彼なりの言葉に死刑宣告を突き付けられ、スバルは笑みを浮かべた。

 

すました顔を崩し、奥底にあった感情を引きずり出してやったのだと、そのことに何の意味もないとわかっていても、それぐらいしか勝ち誇れることがなくて。

 

「笑わせてくれるな、ラインハルト!『剣聖』!王国の剣!お前は、このルグニカ王国を守る騎士なんだろ!?お前の、どこが国を守った!?言ってみろよ!」

 

「――――」

 

両手を広げ、唾を飛ばして叫ぶスバル。

二人が向かい合った王城の正門前、そこから一望できる王都の全景は、その全てが火の手に包まれて――否、王都だけではない。

 

今や業火は、ルグニカ王国の全土を滅ぼさんと猛り狂っている。

ラインハルトがどれほど強く、優秀な騎士であったとしても、ラインハルト一人に何ができるというのか。何もできはしない。それが結論だ。

 

「それが、俺からお前への贈り物だよ!お前を殺すために、俺が仕掛けた罠だ!」

 

「僕を、殺すために……?」

 

「俺が!いったい、どれだけお前を殺そうとしたと思ってる!?俺がいったい、何度何回何千回!お前に挑んだと思ってるんだ!?」

 

「――――」

 

意味のわからないスバルの叫びに、ラインハルトは困惑で頬を硬くした。

彼にはわかるまい。スバル以外の誰にも、絶対にわからない。

 

スバルはすでに、ラインハルトを殺すためにあらゆる試行錯誤を重ねたのだ。

 

ラインハルト・ヴァン・アストレアという男を研究し、研究し尽くし、思いつく限りの手段を試し、策を弄し、あらゆる手立てを以て殺そうと試みた。

だが、どんな手段を取ろうと、ラインハルトはその全てを打倒した。ナツキ・スバルの浅知恵など、彼という存在には何ら影響を与えられないのだとばかりに。

 

エルザを犠牲にし、メィリィを犠牲にし、『青』を犠牲にし、友達になれたかもしれない男を犠牲にし、共犯者を自称する道化を犠牲にし、魔女教を犠牲にし、大罪司教を犠牲にし、ありとあらゆる非合法を、非道を、外道を、重ねても殺せなかった。

だから、ラインハルトの命脈を断つ手段をなくし、スバルは決めたのだ。

 

「俺は、騎士としてのお前を殺してやる。『剣聖』なんて大仰な名前を地に落として、この足で踏み躙って、汚ぇ痰を吐きかけてやる!」

 

「そんなことの、ために」

 

「そんなこと!ああ、そうだよ、そんなことだ!俺はそんなことのために、周りにいた奴らの命を全部使って、お前を地に落としたんだ」

 

抱いていたメィリィの体を地面に横たえ、スバルはラインハルトに指を突き付ける。

動揺を隠せずにいるラインハルト、それが小気味いい。

 

「お前は英雄だよ、ラインハルト。俺にラインハルトは殺せない。だが、俺でも英雄を殺すことはできる。――これが、お前の殺し方だ、ラインハルト」

 

「――――」

 

押し黙るラインハルトに、スバルは汚くひび割れた声で勝ち誇って聞かせた。

手を尽くし、策を巡らせ、犠牲を生み、血を流し、『死』を重ね、そうしてようやく。

メィリィに庇われて命を永らえて、ようやく、この状況で、対峙することができて。

 

これだけ犠牲を積んで、やっと、同じ舞台に立つことが、できた。

 

「……なぁ、なんでなんだ?」

 

ふと、直前の勢いが熱い風に吹き消され、弱々しい声が漏れていた。

 

「なんで、お前はそんな強いんだ?お前は、なんで、俺があいつらを、死なせなきゃ届かないぐらい、強いんだよ?」

 

震える声に、嗚咽が混じった。そのことに、ラインハルトの表情が強張る。

彼にはもはや、スバルがいったい何を考えているのかわからなくなったはずだ。当然だろう。スバルにだって、もう自分が自分でわからない。

 

溢れ出る涙の理由もわからない。涙なんて、最後に流したのはいつだったか。

きっと、この世界に連れてこられた、あの日が最後だ。

 

ナツキ・スバルを、この炎の情景へ連れてきた、あの日の涙が最後だった。

 

「お前みたいだったら、よかった。お前みたいに、真っ直ぐに、何もかも救える力があれば、よかった。俺は、お前が羨ましい。俺は、お前が憎たらしい」

 

「君は……」

 

涙と共に溢れ出るそれは、きっとナツキ・スバルが抱いた本当の想いだった。

あの、王都で幾度も重ねた最初のループで、ナツキ・スバルを終わらない円環から解き放った男、ラインハルト・ヴァン・アストレアを見たときだ。

 

――あのとき、スバルはラインハルトが、羨ましかった。

 

何度も何度も腹を裂かれ、文字通り死ぬような思いをして、それでも何も変えられなくて、心はどんどん荒んで、剥がれ落ちていって、それで、何かの偶然みたいに、まるで道途に落ちている小石をよけるみたいに、あっさりと運命を塗り替えて。

 

それができた強さに、憧れ、羨み、妬んで、憎しみを抱いた。

 

「――俺は、お前になりたかったよ、ラインハルト」

 

「――僕は、君の気持ちはわからない」

 

無常に、スバルの本心からの言葉をラインハルトは戯れ言だと切り捨てた。

それが正しい。ラインハルト、英雄よ、お前は本当に、いつだって正しい。

 

――どこで掛け違えた?どこで、ナツキ・スバルは過った?

 

わからない。いや、わかっている。だけれど、誰にもそれは理解できない。

だからこそ、だからこそなのだ。

 

ナツキ・スバルはとっくのとうに、他人に理解できない狂人なのだ。

 

「――――」

 

ラインハルトが目を細め、軽く腰を屈めた。剣に手を伸ばす様子はない。彼の目から見ても、スバルを倒すのに武器はいらないというわけだ。

正解、それで間違いない。スバルの脆弱な体など、彼の一撃で木端微塵だ。

ならばせめて、ならばせめて――、

 

「――諦めるには、まだ早いんじゃないかしら?」

 

「君は――!」

 

ラインハルトが飛び出した瞬間、横合いから黒影が飛びかかっていた。激しく軋る音を立てて、黒影が叩きつけた斬撃をラインハルトの手刀が迎え撃つ。

馬鹿か。どうして、あれだけ勢いの乗った刃を手刀で迎え撃てる。そら見ろ、甲高い音を立てて刃が砕けた。馬鹿か。なんで、刃の方が砕け散る。

 

「本当に規格外なのね、あなた」

 

くるくると中空で身を回し、四肢をついて着地したのは血塗れのエルザだ。

死んだと、そう思っていた。この状況を生み出すための布石として使われ、彼女もそこで命を燃やし切る覚悟でいたと思ったのに。

 

「死に損ねたみたい。この状況だと、改めて死ににきたみたいにも思えるけれど」

 

「エルザ……」

 

「メィリィは、そう、死んだの。姉不幸な妹ね」

 

地面に寝かせたメィリィを視界の端に入れ、エルザが少しだけ寂しげに呟く。

しかし、彼女は瞬き一つでそれを切り替えると、正面のラインハルトに向き直り、

 

「妹の仇でもあるようだし、踊っていただけるかしら?」

 

「すでに武器はない。それに、君は自分が誰を庇っているのかわかっているのか?」

 

「難しい話は好きじゃないの。私は、私のやりたいようにする。後ろの彼は、そんな私をやりたいようにさせてくれる。だから、上客なの」

 

唇を舐め、エルザは戮殺者にしか通じぬ道理でラインハルトに答えた。

ラインハルトが息を呑み、エルザ相手に身構える。

 

「これが、きっと最後の機会になるわね。楽しかったわ。すごく、素敵だった」

 

「エルザ!俺は……!」

 

「さよなら」

 

彼女らしい、こちらの思惑など何も考えてくれないあっさりとした別れだった。

次の瞬間、野生動物のような俊敏さで跳ねたエルザがラインハルトへ踊りかかり、英雄と戮殺者の激しい戦いが始まる。

 

短い時間で片付いてしまう、エルザ・グランヒルテ最後の血の饗宴が。

 

「――クソ!」

 

この場で、死ぬわけにはいかない。

スバルはエルザの戦いと、メィリィの亡骸から目を背け、坂下へ向かって走り出した。

 

遠く、背後で激戦の余波が響き渡る。

燃え盛る王都は次々に建物が倒壊し、あちこちで悲鳴が木霊する地獄と化した。聞こえる断末魔、子が親を、親が子を、男が女を、女が男を呼ぶ地獄だ。

 

そうだ、これはスバルの作り出した地獄だ。

この地獄を作り出し、ラインハルトの虚像を打ち砕き、目的を果たさんとした。

あとは――、

 

「お、前は……」

 

「――――ッッ」

 

足がもつれ、転んで倒れかけたスバルの体を、すぐ横合いに並んだ巨大な生き物がその口にくわえ、背に投げ飛ばした。なんとか必死にしがみつけば、スバルの目に飛び込んできたのは漆黒の体毛と、猛然と正面へ駆け抜ける獅子の顔貌。

 

「お前……メィリィは、もう死んだのに……」

 

スバルを乗せ、炎の王都を駆け抜けるのは、メィリィの操る魔獣の一体だった。

凶獣ギルティラウが、ナツキ・スバルを乗せてひた走る。すでに主人はなく、従う義理もないにも拘らず、魔獣はナツキ・スバルを乗せ、一直線に――。

 

「頼む、見つけてくれ。どこかに、いる、はずなんだ……」

 

祈るような気持ちで、スバルはギルティラウが奇跡を起こしてくれることを望む。

心に生まれたこれが何なのか、安堵なのか、諦念なのか、区別のつかない感情に押し包まれ、ナツキ・スバルの意識は今にも途切れかけていた。

だが、それが本当の限界を迎える直前だった。

 

「――そこまでよ」

 

放たれる氷杭が、次々に駆け抜けるギルティラウの横腹に突き刺さった。

絶叫が上がり、魔獣が足をもつれさせてその場に激しく転倒する。その転倒に巻き込まれ、スバルもまた石畳の路面に全身を打ち付けた。

 

「ぐ、ぁ……な、にが……」

 

痛みにかすむ目を押し開いて、スバルは何が起きたのかと周囲を確かめる。

すると、その左半身に無数の氷を突き立てたギルティラウが体を起こし、淡く青白い輝きに包まれる人影に向かい、突進を仕掛けるところだった。

 

獣爪を振り上げ、ギルティラウは雄叫びを上げる。魔獣としての矜持、あるいはメィリィという少女に最後まで仕えた一体の獣としての誇りだったのかもしれない。

振り下ろされる一撃は、直撃すれば人体など軽々と引き裂くだけの威力があった。

 

しかし、それが届くより早く、一際大きく鋭い氷槍が、放たれる。

 

「――――」

 

それは、大口を開けて飛び込んだギルティラウの口内へ侵入し、喉を貫通して胸から再び体内へ侵入、臀部を突き抜け、魔獣の全身を串刺しにした。

絶命を免れる破滅的な一撃、直後、空気のひび割れる音が響き渡り、ギルティラウの全身に白い霜が降り、氷漬けの氷像へと変わる。

 

ギルティラウの最期、それを見届け、スバルはゆっくりと立ち上がった。

左腕が上がらないのは、転倒した際に折れたか外れたかしたからか。きっと、泣き出しそうなぐらい激しい痛みがあるはずなのに、脳がそれを感知しなかった。

 

だって、今ここで、スバルが泣き喚いていたりしたら、全てが台無しだろう。

 

「――そこまでよ、悪党」

 

左右には燃え盛る王都の街並み、二人の間には氷漬けとなった魔獣の氷像。

激しい義憤と使命感に燃える紫紺の瞳と、耐え難い歓喜に揺れる黒瞳が絡み合った。

 

月光を色付いた銀色の髪、至高の宝石を嵌め込んだアメジストの双眸。スバルの心を掻き乱してやまない天上の美貌に、妖精の歌声を錯覚する銀鈴の声音。

追い求め、追い求め、欲して、愛してやまずにいた、少女の姿が、そこにある。

 

「――エミリア」

 

「私のことを、知っているの?」

 

名前を呼ばれ、意外とばかりに眉を上げたエミリアの反応にスバルは吹き出した。

想像通り――否、初めて、一緒に王都を巡ったときの印象通りの少女だ。

 

今、自分が王選候補者として、この国でどれだけの注目を集めているのか、全くちゃんとわかっていない。自覚が足りないのではなく、きっと自己評価が低いのだ。

 

世間的には彼女は、魔女教の『怠惰』『強欲』『暴食』『憤怒』『色欲』を下し、長きに亘って人々を苦しめ続けた邪悪を根絶せんとする勇者だというのに。

そしてその肩書きは、今日、この瞬間を以て完成するのだ。

 

「何がおかしいの?」

 

「いや、ごめん。なんていうか、嬉しくて、かな。君がその、なんだ。全然変わってなかったのが、報われたような気分になって」

 

「どういう、意味?あなた、私とどこかで……?」

 

スバルの言葉に、エミリアは必死に記憶を探ろうとしている。

しかし、彼女の記憶のどこにも、ナツキ・スバルの姿は存在していない。

当然だ。あの、束の間の逢瀬はスバルの中にしか残っていない。そして、その束の間の逢瀬だけが、最後の無念の誓いだけが、ナツキ・スバルをここへ誘った。

 

「あなたは……」

 

「リア、ダメだよ、相手の話をまともに聞いちゃ」

 

「――パックか」

 

何か、記憶の手掛かりを求めようとしたエミリア。それを遮ったのは、彼女の肩にふいに出現した灰色の小猫――その精霊の姿に、スバルはちゃんと覚えがある。

すでにあの日の記憶は遠いが、それこそ、繰り返した回数よりもなお多く、あの日のことは延々と思い続けてきたのだ。

その記憶の一部を担っている存在を、忘れるはずもない。

 

「気安く呼んでくれるもんだね。これだけ派手にやらかしてくれて、いったい、どんな風に落とし前を付けるつもりなのかな?」

 

「落とし前は付けるさ。お望み通りな。――逃げる方法なんて、どこにもないし」

 

「――?潔いんだね?怪しいなぁ」

 

スバルはジャージの前を開いて、両手を広げて無抵抗を示した。

ジャージ、そうジャージ姿だ。これまでずっと、封印してきたジャージを、今ここでは着ている。エミリアと再会するなら、これが一番だと勝手に思ってきた。

これを着て、また彼女の前に立てる日を、待ち望んで。

 

「今から、俺が話すことは、全部頭のおかしい奴の妄言だ。忘れてくれ」

 

「――え?」

 

「今、王都を燃やしてる炎は俺が起こした。王都だけじゃなく、この炎は国中を焼き尽くそうとしてる。誰にも防げなかった。これは国や、国を守る騎士の失態さ」

 

訥々と、語り始めたスバルにエミリアが大いに戸惑った。パックは、スバルの語る言葉を止めるか迷った顔だが、エミリアの様子を見て攻撃を中断する。

その計らいに感謝しつつ、スバルは続ける。

 

「ラインハルトの、『剣聖』って名誉も地に落ちる。親竜王国ルグニカを守るはずの盟約ってのも、どこが起点になったかわからない以上、龍も救いようがない。これは、何度もやって試したから間違いない。結局、ラインハルトも龍も、体は一個なのさ」

 

「国中を燃やした?あなたが?それは、国を滅ぼそうとして?」

 

「いいや、違うよ。これが、君を王様にする、たった一個のやり方だからさ」

 

「――――」

 

笑みを浮かべたスバルの言葉に、エミリアがその瞳を大きく見開いて動揺した。

彼女の中で、今のスバルの発言は全く意味が通じなかったはずだ。

 

妄言と、そう銘打った以上、それが伝わらなくても構わない。

結果が伴えば、スバルは本望なのだから。

 

「国を滅亡へ追いやる終の炎――この厄災をばらまいた張本人を、ラインハルトでもなく、神龍でもなく、君が討ち果たすんだ。残った王選候補者の誰にも、これ以上の功績を作ることはできない。君は、四百年の停滞を壊し、世界を救った英雄だ!」

 

「そんな、わけない……あなた、何を言ってるの!?やめて、全然わからない!何を言ってるのか、わからない!!」

 

エミリアは自分の頭を抱え、耳を塞ぎ、スバルの言葉を聞くまいとする。その瞳に涙が溜まり、白い頬を伝い落ちるのを見て、スバルの胸が甘い衝撃を受けた。

それは泣かせたことへの罪悪であり、スバルの行いに彼女の心が揺れたことを見た、薄暗い快感が原因でもあった。

 

「わからなくていい。わからなくていいんだ。あとのことは全部、君の周りの奴らが勝手に祭り上げてくれる。君は、君の望みをそこで叶えればいい。そのためだけに、俺はこうやって国を焼いたんだ。何もかも、君のために」

 

「嘘よ、嘘、嘘!だって、私は……あなたは、どうして、私を……」

 

身に覚えのない献身に、望んだ覚えのない捧げものに、エミリアは慟哭する。

彼女の悲しみは仕方ない。彼女が理解できないのも仕方ない。

 

スバルは、自分が過ったことを知っている。

スバルは、自分が正しくないことを知っている。

スバルは、これがエミリアを喜ばせる方法でないことを知っている。

 

でも、これしか方法がなかったのだ。

エミリアの望みを叶え、エミリアを王にし、エミリアへの想いを形にする。

 

それがわかっていて、最初から間違っていると知っていて、スバルはここへきた。

だから、ナツキ・スバルは笑った。嗤った。哂った。

 

「――俺を見ろ、エミリア。俺を見て、俺を憎んで、俺を刻み込め」

 

「あなたは、誰、なの?あなたは、どこの、誰なの……?」

 

両手を広げ、ゆっくりと歩み寄るスバルに、エミリアは震える声で言った。

その問いかけを受け、スバルは目をつむった。

 

それを、ずっと待ち望んでいた気がする。

エミリアの前で、その問いかけに答えることを、ずっと――。

 

「――俺の名前はナツキ・スバル」

 

「すば、る……」

 

掠れた声がスバルを呼んで、それだけで万感の想いが込み上げた。

きっと、これだけで、スバルはここへきたことに満足してしまったほどに。

だからその想いを胸に、続く言葉が震えずに済むことを祈りながら――、

 

「――魔女教大罪司教、『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ!」

 

「大罪司教……!」

 

渾身の名乗りを上げ、スバルは全身の力を足に込めて地を蹴った。

体中に散らばった力を掻き集め、ナツキ・スバルの人生最後の疾走がそこにある。

 

多くを犠牲にし、仲間と呼べたかもしれない奴らを足蹴にし、絆であったかもしれないものに救われ、ここで最後に愛しい少女の前に辿り着いて――。

 

「世界を焼き焦がし、国を揺るがし、英雄を殺し、そして――」

 

「――――」

 

「――君に、殺される男だ」

 

衝撃が、胸の中心を穿ったのを感じて、スバルは薄く微笑んだ。

 

膝からその場に崩れ落ち、スバルは支えもなく倒れ込み、転がった。

エミリアに届くこともなく、その横を無様に、石畳を受け身も取れずに転がっていく。

 

やがて、大の字になって空を仰げば、赤々とした王都を見下ろす蒼穹がある。

赤と青に挟まれた世界で、ナツキ・スバルは終わりを迎える。

 

「どうして?」

 

目をつむり、終わりを受け入れようとしたスバルは、何かに気付いて瞼を開けた。

倒れるスバルのすぐ近くで、見下ろすエミリアが立っている。彼女の瞳から流れ落ちた涙が、スバルの頬に当たり、目を開けさせた。

 

「どうして?」

 

繰り返し、重ねられた問いかけ。

その『どうして』が、いったい何を意味しているのか、スバルは考えた。

 

『どうして』、こんなことをしたのか。

『どうして』、こうなるしかなかったのか。

『どうして』、自分に殺されるためにここへきたのか。

 

きっと、色んな『どうして』がそこにあって。

その、全部の『どうして』に答えを返してあげたいけれど、スバルに残された時間はあとほんのわずかしかなくて。

 

だからスバルは、息を抜くように、最後の一息に答えを乗せた。

 

「――愛してる」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『死』が、近付いてくる。慣れ親しんだ、『死』が。

 

『死』を迎えるたびに、スバルはどこだかわからない、暗く寂しい場所へ連れていかれる。

それは本当に、本当に寂しい、一人ぼっちでは耐えられないような場所で。

 

『死』を迎えるたびに、ここからスバルは送り出されてきた。

あの、血と苦痛と、涙と慟哭と、ほんのわずかに愛するものがある世界に。

 

だけれど、もう、いいのだ。

もう、満足した。

 

「――――」

 

スバルを、このほの暗い世界で迎える誰かが、何か囁いていた気がした。

 

それは慰めであり、それは励ましであり、それは確認であり、それは告白だった。

 

何故だろうか。これは、スバルの求めた想い人ではないのに。

想い人は、ここではない場所で、自分のいない場所で、望みを叶えて報われる。

 

そのための犠牲に、多くを払い、最後には自分を捧げたのだから。

だから、いいのだ。救ってくれなくても。救いは、一番最初に、もらったのだ。

 

「――――」

 

それはきっと、呼びかけだった。

優しく、慈しむように、愛おしむように、名前を呼ばれて。

 

だから、スバルは自分の存在が『死』の螺旋を外れ、遠のくのを受け入れながら。

受け入れながら、その『――――』の言葉に応えた。

 

「――――」

 

――たとえ、君が拒んでも、俺は君を忘れない。

 

『ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ』~fin~