『ゼロカラオボレルイセカイセイカツ』


 

――憎悪に満ちた声を聞いた。

――それが、耳から離れないのです。

 

――憤怒に染まった声が追いかけてきた。

――それが、怖くて怖くてたまらないのです。

 

――殺意を剥き出しにした声に圧し掛かられていた。

――それが、魂を鷲掴みにして離してくれないのです。

 

――生に縋れば縋るほどに、誰かを傷付ける自分がいた。

――それが何より一番、申し訳なくて申し訳なくて、今も溺れ続けているのです。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――首を、ギリギリと絞められていた。

 

馬乗りになられ、軽い体に圧し掛かられて、身動きを封じられていた。

両足、細い膝に肩を押さえられ、もがく体の自由が奪われる。眼前、首を絞める白い腕には赤い擦過傷がいくつもあって、花が咲いたようだと、場違いな感慨を抱いた。

 

――ギリギリ、ギリギリ、ギリギリと、首が絞められていた。

 

「――――」

 

すぐ目の前に、激情を湛えた瞳がある。

大きく、丸い瞳にはとめどない怒りと、空っぽの絶望感が深く深く広がっていた。

その空虚な瞳の奥に、まるで吸い込まれてしまいそうだとぼんやり思う。

 

「ぁ、か……ぅ」

 

――ジタバタ、ジタバタ、ジタバタと、みっともなく足をばたつかせる。

 

逃れようと、そうもがいているわけではなかった。

逃れるつもりなど、とっくにない。それでも足がばたつくのは、生きたいという意思の表れではなく、純粋に苦しいと、肉体が訴えかけているだけ。

 

酸素の不足した頭、生きる気力に欠けた精神、それに反して足掻こうとする肉体。

全てが乖離していて、バランスの悪い自分の在り方が醜く思える。

 

静かに死ねない。静かに死にたい。

できるだけ穏便に、穏当に、眠るように死ねたら一番よかった。

だが、そんな願いは叶わない。叶わないどころか、晩節は全く逆の結末だ。

 

「ぶ、く、く」

 

口の端から泡を吹いて、眼球が飛び出しそうなぐらいに目を見開いて、たったの数日で痩せ衰えた棒切れみたいな体をよじって、獣のような呻き声を上げている。

 

似合いの最後と、言うべきだろうか。

似合いの末路と、言うべきだろうか。

 

いったい、何がどうしてどうなって、こんな場所に辿り着くことになるのか。

 

「――何が、おかしいの」

 

ふと、声が降ってきた。

獣のような呻き声とは別の、冷たく、しかし、よく通る澄んだ声色だ。

 

首を絞めながら、憤怒に染まる瞳の持ち主が、薄い唇で言葉を紡いでいた。

 

「――――」

 

何がおかしいと、そう問われても、答える言葉が見つからない。

そもそも、何もおかしいことなどない。ないのに、何を問われているのか。

 

問いかけが理不尽だった。謎かけめいていて、不親切で不条理で。

押し付けられても答えようがない。それなのに、無言の時間の居心地が悪い。

 

理不尽と不条理に、摂理に振り回され、取り残されるのはこれでいったい何度目だ。

 

「――何が、おかしいの」

 

おかしいことなどない。

 

「ふ、へ、へへ」

 

ならば、問いかける相手の方が誤っているのか。

それとも、自分で気付けていないだけで、自分はこの瞬間を楽しんでいるのか。

 

女に馬乗りになられて、首を絞められている状況を、楽しんでいるのか。

だとしたら、嫌だなと、理性的な感想がこぼれる。

 

「――何が、おかしいの」

 

おかしいことなど何もない。何もないのに、問いは重ねて投げかけられる。

投げる、ですらない。この距離だ。投げるですらない。

互いに触れ合い、息が届くほどの距離で、相手の女の美しい顔を見上げながら、声を塗り付けられている。塗りたくられている。

 

詰る言葉ですらなく、貶める悪罵ですらなく、澄んだ憎悪の中に声はいて――。

 

「何が、おかしい――」

 

の、と。

 

重ねて、答えを求めるはずの問いかけが、ふいに途中で霞のように消えた。

 

「――づ」

 

ふらりと、目の前にあった女の顔が左に揺れた。

そのまま、傾く体を立て直せない。崩れた姿勢のまま、女の体は白い雪の上に倒れ込んだ。当然、首にかかった腕は外れ、窒息への道筋は中途で絶たれる。

 

「――ぜ、ぁ」

 

咳き込む喉から、苦い血の味が込み上げる。

萎んだ肺を膨らませ、また萎ませて、不足していた酸素が体内に次々と送り込まれる。それも、反射的な生存本能だ。呼吸を拒んで死ぬことなど、まともな人間にはできない。

自分がまともかどうかなど、今この場で議論することもしたくないが。

 

「――――」

 

直前までの、どこか泰然と死を受け入れていた心境は掻き消え、今は酸素という名の生への執着が手放せない。必死に、懸命に、みっともないほど貪欲に貪る。

 

そうして、幾度も幾度も、冷たい空気で肺を満たしたあと、気付く。

 

「――――」

 

津々と、白い雪が降り積もる中、薄雪に女が横倒しになっている。

血色の悪い顔と唇が、女の非常識な美貌を、より美しいものに昇華していた。掠れた吐息が白く曇り、衰える生命の兆しが、やけに煌めいて瞳に焼き付く。

 

見れば、ひどく雪景色に不釣り合いな格好だ。

肩や腿が露出した制服は、寒気に対して布の厚みも全く足りない。首元や耳など、冷えやすい部位は風に晒され、見ている側が身を切られるような痛みを覚える。

 

着の身着のまま――もっとも、それは女だけでなく、こちらも同じ条件だった。

 

「――――」

 

――カチカチ、カチカチ、カチカチと、噛み合わない歯の根が震えている。

 

それが寒さが原因なのか、胸にわだかまる鬱屈としたものが原因なのか、定かではない。

ただ、この瞬間は自分の体の変調より、目の前の女から目を離せない。

 

「――ぇむ」

 

雪上に倒れ、顔の半分を雪に埋もらせ、それでも女は美しかった。

尽きぬ憎悪と赫怒が、その華奢な体に火を灯し、生かしているとしか思えない。それほどに女は傷だらけで、生きているのが不思議な状態だった。

 

「――――」

 

白い、雪景色の中、自分と女の周りには、無数の屍が転がっている。

命を喰らい、貪り、魂を凌辱せんと集まった卑しい獣たちは、いずれも女の風の前に屍を晒した。故に、この場に生者は二人だけ。自分と女の、二人だけ。

それも、あるいはすぐに一人か、ゼロになるものか。

 

「――――」

 

何事か、か細く呟く女の傍に、ゆっくりと立った。

かじかむ両手の指は、赤黒く変色している。体温の低下が著しく、冷たい指には感覚がない。微かな痒みだけが、体に指がついているせめてもの証だ。

 

その、頼りない指を震わせて、人の頭ほどもある石を、何とか持ち上げる。

 

何の変哲も曰くもない、ただ落ちていただけの手頃な石だ。

それが、持ち上がったことに人知れず安堵する。

 

手にした石と、倒れている女とを見比べる。

 

一瞬、自分が手にしたその石が、倒れる女とよく似た女の顔に思えた。

微笑んでいたこともあったかもしれない。しかし、この心に最後に焼き付く形相は、悪鬼の如く苛烈に、殺意と敵意を叩きつけるそれでしかなく。

 

それを振り払うように、両手に抱えた石を振り上げた。

その動作を見上げる薄紅の瞳が、微かな声で、しかし確かに聞こえる声で、言った。

 

「――絶対に、殺してやる」

 

――石が、固いものに叩きつけられる音が、雪の森に鈍く鈍く、響き渡った。

 

響き渡った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――その日、ロズワール・L・メイザース辺境伯の邸宅は、静かに崩壊した。

 

皮肉にも、その崩壊を最初に兆しで捉えたのは、屋敷のことを維持せんと、誰よりも必死に足掻いていた女性であり、故にこそ、その行いは悪辣であった。

 

「――――」

 

元々、屋敷の主であるロズワールに、彼女は返し難い大恩を抱いていた。

だから、屋敷を維持していたメイドの姉妹が不在となり、主を世話するものが誰もいなくなったと知って、すぐに主の下へ馳せ参じた。

 

変わり果てた主の様子は、彼女の胸にひどくひどく痛ましいものを差し込んだ。

 

妖しげに輝き、常に自信満々に思えた左右色違いの双眸も、奇抜といえば聞こえがいいが、端的に言って奇妙と悪趣味の極みであった道化の薄化粧も、それこそ他者の美意識を爪で掻き毟るような衣装選びも、何もかもから光を失ったロズワール。

 

そんな彼との再会を受けて、彼女は――フレデリカは、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

「このままで、終わるわけにはいきませんわ。あの子たちのためにも、わたくしが」

 

居場所を守らなければ、と懸命になるつもりだった。

何ができるわけでもないが、何かしたいとは願っていて、そのために行動を起こした。

 

屋敷を立て直すために精力的に動いて、わからないなりに協力してくれる少女の手を取って、無気力で倦怠の中に沈んだ主の腕を引き、毎日を忙しく駆け回る。

 

足を止める暇など、フレデリカにはなかった。

時折、辛い心境に足が挫けそうになっても、彼女は懸命に顔を上げた。

 

こんなところで挫けていては、大切な人たちに顔向けができない。

いつしか、笑うことを忘れて。いつしか、豊かに夜を迎えることも忘れて。

それでも懸命に、フレデリカは愛したものを、水面で散り散りになる泡を逃さないように、必死で手で囲って守ろうとして。

 

それなのに――、

 

「――ぁ」

 

フレデリカが気付いたときには、屋敷は何もかもが、手遅れになっていた。

 

白く、凍り付く廊下に靴裏が囚われ、自分がどこにいるのか彼女は見失う。

見慣れたはずの屋敷の光景が、見知ったそれとは明らかに違ったものと化す。

 

丹念に掃除した廊下が、日々の食事に迷った厨房が、手のかかる人たちの世話に奔走した日常が、フレデリカの目の前で、白く曇る世界に囚われていく。

そして、それをしたのは――、

 

「大精霊、様……」

 

「ごめんね、フレデリカ。君は何も悪くないよ。――ただ、ボクがボクの一番大事なものを守ろうとするなら、この決断をするのが一番正解なんだ」

 

言って、空中で顔を洗ったのは、灰色の体毛をした小猫だ。

掌に乗るぐらいの大きさしかなく、しかし、その小さな体に絶大な力を秘めた超常の存在――大精霊、パックであった。

 

信じたくはない。だが、もはや疑う余地はない。

彼こそが、屋敷を白い終焉に包み、一変させた張本人であるのだと。

 

「何故、このようなことを……」

 

「言ったでしょ?ボクの行動は全部、リアのためだよ。――リアが森を出るのに賛成したのは、それがあの子のやりたいことで、あの子の安全のためだと思ったから。だけど、ここにはもう、その価値はない。どこで、落っことしちゃったんだろうね」

 

「――――」

 

「ロズワールは、ボクの見込み違いだった。あれは可哀想な、ただの人だよ」

 

首を横に振り、パックが無感情な声音で言い放った。

その言葉に、フレデリカは息を詰める。そしてすぐに、自身の鋭い牙を噛み鳴らし、

 

「――当家の主を、旦那様を侮辱されることは、メイドとして許しませんわ」

 

「君も、可哀想な子だね。君だけが、終わってるこの場所を守ろうと必死だった」

 

「過去形にするのはやめてくださいまし。まだ、終わっていませんのよ」

 

啖呵を切る。勝ち目のない、大精霊に対して。

そのフレデリカの抗いを前に、小猫は丸い瞳を細めて、憐れみを浮かべた。仕草から表情から、どこまでも人間臭い存在だと、フレデリカは前のめりになり、

 

「エミリア様が、嘆かれますわよ」

 

その一言が、大精霊にわずかな躊躇いと、フレデリカの勝機を生むことを願って。

だが、しかし――、

 

「残念だけど、ボクはリアに甘々なんだ。子離れできてない、親猫だからね」

 

欠片の躊躇いも、微塵の勝機も、その大精霊の前には現れなかった。

自分と、彼らの見ている世界の違いに、フレデリカは奥歯を噛む。

 

それが後悔か、悲嘆か、如何なる感情へ変化するのも間に合わない。

ただ、白い風が吹いて、それだけで、フレデリカという女性は、凍えていた。

 

それが、ロズワール邸の崩壊の始まりだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

魔人が崩壊の兆しに気付いたときには、すでに何もかもが手遅れだった。

 

「――――」

 

幽鬼めいた足取りで、魔人は自分の屋敷の中を歩く。

靴裏で、冷え込んだ空気の塊が音を立てて崩れ、肌寒い風が首筋をくすぐる。

首をすくめ、途端に、肌寒さに生理的な反応があることがおかしく思えた。

 

このところ、衣装選びも顔の化粧も、フレデリカに任せきりだった。

あの健気で、懸命な少女は、何もかもが手遅れになってしまったこの場所で、それでも恩返しをしようと励んでいて、何も感じないはずの胸がわずかに痛む。

 

――ロズワールの悲願は、いつしか、静かに道を途絶えていた。

 

「ラム、レム……」

 

おそらくは、契機となったのは鬼の姉妹を失ったことだ。

二人の存在は、ロズワールの悲願へ至るための計画になくてはならない重要な鍵だった。それが零れ落ち、気付けば、ロズワールは一人きりで。

 

四百年、長く、願い続けた祈りの道筋が途絶えたのだと、それに気付いてしまったとき、ロズワールは自分の足で立つことができなくなっていた。

 

「――ラム」

 

ぽつりと呟く名前、それが最大の後悔に通じる名前だ。

 

――元々、こうなる可能性を考慮はしていた。

それどころか、試みの分が悪い自覚があって、こうなる可能性の方がずっと高い。だからこそ、ロズワールは自分の存在に保険をかけていた。

自分が終わりを迎えるとき、それを、喜んで受け入れてくれる存在を欲した。

 

それが、自分より先に失われたことが、ロズワールの最後の歯車を狂わせた。

 

「――――」

 

だから今、こうして凍て付く邸内を歩く自分が、ロズワールには不思議だった。

すでに、立ち上がる気力を、歩き出す理由を、自分は失ったはずなのだ。

 

『旦那様、元に戻ってくださいまし。そんなことでは、二人が――』

 

幾度も、フレデリカはロズワールにそう呼びかけていた。

気力が萎え、精神の倦怠に沈んだロズワールをいたわり、フレデリカは根気強く、無気力な主を奮い立たせようと献身的に尽くした。

 

だから今、こうして凍て付く邸内を歩く力が、自分の中には残っていた。

だから今、宛てもなく歩く通路の途中で、窓の向こうの景色に目が留まった。

だから今、白く凍える世界と、そこで抗おうとする金髪の少女の姿が見えた。

 

「――――」

 

それを、守らなくてはならないと、おそらくは考えたのだと思う。

あるいは反射的な行動だったのかもしれない。

反射的に、そうしなくてはならないと体が判断する程度には、想いの残滓があって。

 

だから今、ロズワールは緩やかに腕を掲げ、膨大なマナを放とうと――、

 

「――っ!」

 

瞬間、ロズワールは己の首を目掛けて迸る、鮮やかな剣閃をかろうじて躱していた。

 

「――おや、これを避けられるとは予想外。もしかして、筆頭宮廷魔術師殿は、魔法だけじゃなく体術なんかも齧ってらっしゃったりします?」

 

軽やかな声が、ロズワールの背後から投げかけられる。

それは凍れる廊下を焦がすような速度でゾーリを滑らせ、こちらへ振り返った濃紺の髪をした青年の声音だ。

 

「今の動き、端役にできるものではありません。素直に感嘆しましたよ」

 

青いキモノ姿に足下はゾーリ、ひどく場違いな格好をした人物は、その腰に二振りの刀を差し、その内の一本を抜刀して、自分の肩をとんとんと叩いていた。

顔立ちは整っており、笑顔がよく似合う。幼気と悪戯っぽく輝く瞳が印象的で、長く伸ばした髪を括った姿から、どこか中性的な印象を他者へ与える。

ただし、彼から放たれる常識外れの透き通った剣気――浴びるだけで千も万も、自分の斬殺される死に姿が浮かぶ鬼気を前に、穏当な感想など浮かびもしまいが。

 

「魔法以上に腕に覚えのある方でしたら、僕の方も気が重くならなくて助かります。何しろ、一方的すぎるのは僕の美学に反しますからね。いえ、やれって言われたらやるんですが、なるべく、悪者扱いは避けたいところでして」

 

「噂通り、よく喋るじゃーぁないか……」

 

「え!僕の噂ですか?いやー、参ったなぁ。こんなところでも僕って有名人だったりします?へへへ、おかしな噂じゃないといいんですけどね」

 

ぺらぺらと流暢に語りながら、青年が照れ笑いを浮かべて頭を掻く。

その様子を目の当たりにしながら、ロズワールは自身の身に降りかかった事態を紐解こうと、緩慢だった思考に火を入れ、揺り起こす。

その熱に一役買ってくれているのが、左腕に発生した灼熱の感覚だ。

 

「――――」

 

「ところでその腕、早く処置しないと失血死するのでは?」

 

「ご忠告、痛み入るよ」

 

青年の指摘に、ロズワールは血の気の失せた唇を緩める。

そのロズワールの左腕は、二の腕あたりであまりに鮮やかに切断され、いっそ現実感がないほど人形的に廊下に転がっていた。

 

首を目掛けた初撃を回避した際、腕を持っていかれたのだ。

処置と言われ、ロズワールは傷口に手を当てると、瞬間的な炎で焼いて塞ぐ。凄まじい激痛が脳髄をつんざくが、それを微かに頬を硬くするだけで乗り切った。

 

その強引な応急処置を見やり、青年が軽く目を見開く。

 

「魔法使いって、もっと臆病なのかと思っていました。アーニャとかはその手合いですし……あ、ちなみにアーニャっていうのは僕の知り合いで」

 

「わかっているよ、セシルス・セグムントくん」

 

「――――」

 

「ヴォラキア帝国最強の戦士、『九神将』の筆頭だろう?一将の位を与えられた『青き雷光』の呼び名は、ルグニカでも有名だよ」

 

「それはそれは、光栄の至り」

 

ロズワールの低い声に、青年――セシルス・セグムントが優雅に一礼する。

身份を隠す素振りもなく、そもそも名を偽る理由などないとばかりに、いっそ清々しいほど堂々とした振る舞いだ。

その芝居がかった仕草を見届け、ロズワールは吐息をこぼした。

 

「それにしても、これはどういうわけなのかーぁな。よもや、ルグニカ王国の次代の王位が決まろうかというこの時期に、ヴォラキア帝国が条約に反した暴挙に出るなんて」

 

「あ、それは誤解です。今の僕は九神将を休業中というか、失業中といいますか、とにかく帝国とは全く関係ない、一般人の……流浪の最強剣士という触れ込みなので」

 

「――――」

 

「悪ふざけではありませんよ。僕の行動に、帝国は一切関知していません。無論、閣下への忠誠心は今もこの胸に宿っていますが……僕には、僕なりの故がある」

 

大げさな身振り手振りで、セシルスは自分と帝国との無関係を強調する。それを頭から信じることは難しいが、帝国の意向としては解せないのは事実。

それだけに、ロズワールは左右色違いの双眸を細め、セシルスに問いかける。

 

「だとしたら、より疑問だね。君は帝国の一将の座を捨ててまでここへきた。いったい、何がそこまで君を突き動かしたのかーぁな」

 

「簡単ですよ。――天剣へと至る道筋、その足掛かりを約束されまして」

 

「天剣」

 

その響きに、ロズワールは形のいい眉を顰めた。

それを見取り、セシルスは「ええ」と深く頷く。その表情は笑みのままだが、決定的に違っていたのは、瞳に宿る感情だ。

 

喜怒哀楽の喜びと楽しみ、それを以て『青き雷光』は人を斬る。

だがしかし、この瞬間のヴォラキア最強の瞳にあったのは、喜びや楽しみではなく、もっと色と熱の濃い、有体に言って――、

 

「生者に伝えたことのない悲願です。それを言い当てられ、挙句に手伝えるなどと嘯かれては……これを契機と、受け入れるのもやむなしかと」

 

「意外だ。君は他人の操り人形になるような手合いには見えないのに」

 

「他人に操られているのと、運命の用意した舞台を受け入れることとは、単なる主観の違いでしかないのでは?僕はこの世界の花形、主演役者として台本を受け入れる。その上で、台本にない台詞や演技を入れるのが役者の腕の見せ所でしょう?」

 

肩をすくめ、再び感情の戻ったセシルスの双眸に、ロズワールは頷く。

なるほどと、彼の主張の芯の強さには恐れ入った。強固なそれは、セシルスが勝利を積み上げる中で築き上げられた哲学だ。

それを曲げることなど、それこそ四百年の執着に生きたロズワールにはできない。

変わらないことを良しとするロズワールにとって、彼の哲学は甘露ですらあった。

 

「僕も、たぶん、あなたのことは嫌いじゃないです。むしろ好き。ですが、これも僕のお役目ですので……ルグニカ王国、筆頭宮廷魔術師、ロズワール・L・メイザース辺境伯、その首、貰い受けます」

 

それが彼なりの敬意なのか、セシルスは一度、手にした刀を鞘に納める。そして、もう一振りの刀の唾を鳴らすと、美しい剣の刀身が世界に晒された。

その刀の美しさはまさしく魔性、尋常ならざる力を秘めた魔剣が一本――。

 

「――一番刀、『夢剣』マサユメ」

 

「所有者の魂を蝕む、魔剣の一振りか。――セシルスくん、一つ聞いても?」

 

溢れ出す鬼気を目の前に、ロズワールは気楽な調子で指を立てた。

隻腕、血臭、凍れる大気に古今無双の剣豪を正面、その状況での問いかけに、セシルスもまた、場違いなぐらいに軽い調子で首を傾げ、

 

「なんでしょう。僕の弱点ですか?僕の弱点なら、人の話を聞かないことと、二十歳を過ぎても落ち着きがないこと。帝国の議会でもよく議題に上がっていました」

 

「君の、雇い主の名前は?」

 

それを聞かれて、セシルスは眉を軽く上げた。

それから刀を下段に構えて、後ろ足を引く。ゆっくりと、前傾に上半身を傾け、

 

「口さがないものは悪党、外道、そのやり口から『粛清王』なんて陰口を叩かれてもいますが……あなたには、正しい名前を伝えるように言われていますので」

 

そう前置きして、セシルスは唇を舌で湿らせる。

それから十分にもったいぶって、告げた。

 

「――――」

 

名前が言霊になり、鼓膜へ届いた刹那、屋敷の床が爆ぜ、セシルスが消える。

世界から消失したと、そう錯覚するほどに速い。

『青き雷光』はこの瞬間、その二つ名に相応しく、雷へ迫った。

 

故に、交錯は一瞬であった。

しかし、その刹那の合間に、ロズワールは薄く唇を綻ばせ、呟く。

 

「やはり、君だったか」

 

その言葉が、真に世界に音を与えるよりも、『夢剣』の軌跡の方が速い。

ただ、全てが彼方へ消え去る前に、ロズワールの意識は考える。

 

屋敷にいた、少女たちの安否を。

自分の悲願の巻き添えになり、挙句に、何の幸福も残せなかった少女たちを。

 

――謝る資格も時間もないなと、それを最後に、何もかもが消えた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『扉渡り』の仕組み自体は、禁書庫の扉を別の扉を繋ぐ、単純なものだ。

 

その単純な効能故に、『扉渡り』の応用性は高く、優れた魔法であると自負している。ただし、如何なる魔法もそうであるように、『扉渡り』もまた万能ではない。

仕組みが暴かれれば、有用性も弱点になりえる。だからこそ、禁書庫の存在と『扉渡り』の効果は、外部のものには秘匿されていなければならなかった。

そう、外部の人間には、知られてはならなかったのだ。

 

――それ故に、これは必然だったのだと思う。

 

「なんて、皮肉なのかしら」

 

禁書庫の扉に触れた瞬間、ベアトリスは自分が誘われていることを理解していた。

広い邸内、無数の扉が選択肢として存在するにも拘らず、ベアトリスに選択権はなく、たった一ヶ所の扉の前に誘導される。

その方法も簡単だ。――他の扉が、開けられない状態であればいい。

 

『扉渡り』の封じ方は、繋ぐ扉の選択肢を奪えばいいのだ。

それを堅実に実行され、邸内の扉が開く場所を一つに限定された。そして、その方法を実現するのに力を貸した存在が、大切な兄だとも半ば理解していた。

天秤が傾くのは、仕方のない話だ。それが、自分たちの存在の不文律――。

 

それで、兄を恨むなどと筋違い。故に、ベアトリスは兄への恨み言など抱かずに、ただ静かにそれを相対するべく、扉を開け放った。

 

「――よう、ベアトリス」

 

開かれた扉の向こうで、それは気安くベアトリスを呼んで、手を上げていた。

その声と態度に、覚えがある。だからこそ、ベアトリスの体は怖気に震えた。

 

記憶にある顔と、目の前にある顔と、細部がまるで一致しない。

大まかな記憶の再現としては正しくても、それはもはや別人のような有様だった。

 

「お前、なんて目をしているのよ」

 

昏い、昏い眼差しを前に、ベアトリスは首を横に振る。

拒絶と否定、そこに嫌悪感を付け加えたくなるほど、それは変わり果てていた。

 

珍しい、黒髪と黒瞳はそのままに、髪は艶を失い、瞳はどす黒い感情に鈍く光る。

目の周りには闇を思わせるほど色濃い隈が浮かび、痩せ衰えて頬のこけた顔と、わずかに見える手指の血色が死人のように青白かった。

黒い長衣に身を包み、肌の露出は最低限――黒で統一した衣装の中、目立つのが橙色の首巻きだろう。それだけが、暗鬱とした彼の印象を凄惨に裏切っていた。

 

あれから、いくらかの年月が過ぎた。

だが、それにしても、この変化は行き過ぎだ。ニンゲンが、こうも変わるものなのか。

 

「お前、ずいぶんと雰囲気が変わったみたいかしら」

 

「そう言うお前は変わらないな。成長期は落っことしてきたのか?普通、二年も経ったら少しは大人っぽくなってるもんだぞ」

 

掠れた声が、ベアトリスの言葉に軽口で応じる。

二年、だったか。当人がそう言うのであれば、過ぎた月日はそんなものなのだろう。

二年など、ベアトリスにとってはそれこそ瞬きのように短い感覚だ。それがニンゲンにとって、特に目の前のニンゲンにとって、どれほど意味ある年月だったのか。

 

――死に体だった男が、こうして復讐に舞い戻ってくる程度には、意味ある年月だったのか。

 

「覚えてるか、ベアトリス。ここで、一緒に飯を食ったよな」

 

「――。そんな記憶はないのよ。お前と、一緒に食事したことはないはずかしら」

 

対峙するニンゲンの言葉に、ベアトリスは眉を顰める。

二人、向かい合っているのは、屋敷の一階にある食堂だ。白い布のかかったテーブル、その真ん中の席に腰掛け、ニンゲンはベアトリスに意味のわからない問いを投げた。

そのベアトリスの返事に、相手は自分の目元の隈を指でなぞり、

 

「……ああ、そうだよな。お前は、それ知らないや。うん、今のは、俺が悪かった。いつも、俺が、悪い。いつだって、俺が」

 

「何があって……ううん、そんなこと、もう聞いても仕方ないことなのよ」

 

一瞬、ベアトリスの胸中を躊躇いが過った。

だが、少女はそれを瞬きで殺し、すぐに不要な選択肢を戒めと共に封じ込めた。それから、胡乱げにするニンゲンへと、自分の小さな掌を向ける。

そこには、禁書庫を守る司書としての矜持――あるいは、誰にも望まれていない役割に殉じることへの、儚い使命感が宿っていて。

 

「お前が、復讐したいと考えるのは正当な権利かもしれないかしら。だとしても、ベティーにはベティーの役割があるのよ。そのためにも……」

 

「――――」

 

強く、ベアトリスは自分の役割に徹し、彼の暴挙を食い止めようと睨みつける。

それを目にして、彼の表情が微かに強張った。それは何か、堪え難い感情を堪えようとしているようにも見えて、その間隙にベアトリスは踏み込もうと――、

 

「勘弁してくれよ、ベアトリス。――俺を、守ってくれるって契約したろ?」

 

――その瞬間、致命的な停滞を生じさせたのは、ベアトリスの方だった。

 

「……ぁ」

 

契約、その響きにベアトリスの全身が衝撃に貫かれて硬直した。

そしてその硬直は、ベアトリスの意思とは無関係に、解けることなく固定される。

精神的なものが原因ではない。物理的に、動きを封じられた。それは――、

 

「堪忍な。これでもう、動かれんよ」

 

ベアトリスの傍らに、影から湧き立つように一人の人物が現れていた。

それは、黒いキモノをだらしなく着込んで、金色のキセルを鋭い牙が並ぶ口にくわえた獣人――狼顔の、長身の男だった。

彼は糸のように細い目で、自分の腰ほどの高さのベアトリスを見下ろしている。その見えづらい瞳に何の感情も見出せず、ベアトリスの喉が細く鳴った。

 

「こ、れは……」

 

「影を縛った、みたいなシノビの不思議技だな。忍術だと思っていい。心配しなくても、そんなに長くはかけないよ。……お前は、俺の恩人だから」

 

硬直し、体の自由を奪われたベアトリスは、その声を聞き届ける以外にない。

かけられる言葉に震えはなく、共有される思い出に誤りはない。ゆっくりと席を立ち、こちらへ歩み寄る彼の瞳は昏く、しかし不穏の色はなかった。

 

復讐と、彼がここを訪れた理由をベアトリスは決め付けた。だが、そのニンゲンの目つきは、ベアトリスには復讐者のそれとはどうしても思えなくなる。

昏い光に満たされた黒瞳の中に、胸を掻き毟る何かを見つけてしまったから。

 

「あのとき、お前が俺を逃がしてくれたおかげで、今の俺がある。そのことをずっと、お前に伝えたいと思ってたんだ」

 

「その、やり方がこれなら……お前は、迷惑な男かしら。……本当に、迷惑な」

 

「悪かった。けど、わかったんだよ、ベアトリス」

 

歯噛みしたベアトリスの言葉を遮り、彼は首をゆるゆると横に振った。その唇が、微笑の形を描いて、そっとベアトリスを見下ろす。

思えば、彼がこうして微笑む姿など、見た覚えがあっただろうか。ほんの、数時間を禁書庫で過ごすことを許してやった、あの時間の中で。

 

そう回想するベアトリスに、彼は手を差し伸べて、告げる。

 

「――お前と俺が、同じものだってことに」

 

「――――」

 

目尻が下がり、このときだけ、彼の瞳は一番最初の、本当に最初の少年に立ち返る。

あの、屋敷の数日の、おかしくなる前の彼に戻って。

 

「あのとき、死ぬしかないって諦めて、それでも投げ出せなかった俺を、お前が救ってくれた。今も、何度も何度も、あの夕焼けのことを思い出すよ」

 

「お前……」

 

「感謝してるぜ、ベアトリス。……なんであのとき、俺を殺してくれなかったんだよ」

 

「――っ」

 

それは果たして、感謝だったのか、それとも恨み言だったのか。

いずれにせよ、泣き笑いのような顔で言われた言葉に、ベアトリスはただ瞠目した。

 

そうして、自分のしたことの影響を、彼の心を蝕んだ絶望を、受け入れる。

自然、硬直していた体の不自由が解かれ、突き出していた腕がだらりと下がった。しかし、取り戻された自由で、抵抗する気力はすでにどこにもない。

因果が、巡ってきたのだと、ひどくすんなりと納得ができた。

 

「ベアトリス、俺はお前に感謝してる。俺はたぶん、お前のことが好きだったんだよ。あの時間の中でお前だけが、本当に俺に寄り添ってくれたんだと思う」

 

「……最低の、告白なのよ」

 

「違いねぇ」

 

彼の言葉に、ベアトリスは空虚な心境で応じた。

そして、薄く微笑む彼の黒瞳に、ベアトリスは真実を見る。――それが、そこに宿っている昏い感情が、とても見慣れたものだと、わかった。

 

それは、多くのものの胸に巣食い、やがて希望を喰らい尽くす、忌むべき病巣。

 

――絶望という病が、彼の中に、自分の中に、巣食っている。

 

「ハリベル、クナイを」

 

その呼びかけに、ベアトリスの傍らに立つ獣人が眉を上げた。

沈黙し、二人のやり取りを傍観していた獣人は、くわえたキセルを上下に揺すり、

 

「……ええの?」

 

「クナイを」

 

重ねて命じられ、獣人は左腕を縦に振った。

直後、食堂の床に音を立てて、黒い鋼の塊が突き刺さる。足下に突き立ったそれを、彼はしゃがんで引き抜くと、ずっしりと重く見えるその感触を掌で確かめた。

鈍く輝く黒鉄は、命を刈り取る形をしていた。

 

「契約、覚えててくれて嬉しかった」

 

それを利用したくせに、と思わないでもなかった。

だが、それが本当に、遠い喜びを儚げに眺めるような声で。どうしても、咎めようという気持ちにならなかった。

 

「お前は、ちゃんと色がついてて、綺麗だな……」

 

「――――」

 

ただ、ベアトリスの瞳が見開かれ、大粒の涙が浮かんでいく。

ぼやけた視界に、それを穏やかに見る彼の姿がある。瞬きして、涙が頬を伝った。そうして涙を流して、彼の姿を最後まで見ていたいと願った。

 

彼と、自分は、同じものだと、そう言われた。

ならば、そこにいるのはきっと、今の自分そのもので。

 

あのとき、自分がしたことが、彼の人生を大きく歪めてしまったのかもしれない。

それが巡り巡って、こうして自分の下へと跳ね返ってきたのなら。

彼が、今、ベアトリスを、救おうとしてくれているのなら――、

 

「ぉ、まえが」

 

「――――」

 

痺れ、硬直した舌を震わせて、ベアトリスは言葉を紡ぐ。

吐息のように掠れた言霊が、すぐ目の前に立つ彼の、その動きをわずかに止めた。

時間をくれている。恨み言でも、なんであろうと受け止めようと、覚悟が見えた。

その覚悟に、ベアトリスは――、

 

「――お前が、ベティーの、『その人』なの?」

 

その問いかけの意味は、きっと彼にはわからなかった。

その答えがあることなど、ベアトリスは期待もしていなかった。

 

ただ、最後の最後、自分にそれが訪れるなら、聞かなくてはならないと。

 

「ああ」

 

――だから、彼が微笑み、頷く姿にベアトリスの心は割れ砕けた。

 

微笑みに親愛が、言葉には優しさが、振り上げる刃には祝福があって。

 

「俺が、お前の『その人』だよ」

 

一際、大きな涙の雫が、少女の赤らんだ頬を伝い落ちていった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「溺れるものは藁をも掴む、って言葉が俺の地元にはあるんですよ」

 

床に敷かれた赤い絨毯を見つめながら、男はその声を聞いていた。

 

絨毯と、男の顔との距離は近い。

近いといえば、男の呼吸の間隔も近かった。心臓の鼓動が早鐘の如く鳴り続け、息は全力で野を駆けた直後のように弾んでいる。

 

男は、御年六十に差し掛かる老年だった。

息子どころか孫が成人し、相応に人生の年輪を刻んできた自負がある。

立場上、多くの人間と言葉を交わし、渡り合ってくる必要があった。その戦歴は立派に人に誇れるほどだし、人を見る目には自信がある。

 

不世出の、などと嘯くつもりはないが、人並み以上の才覚に恵まれ、人生を豊かにするべく邁進してきたつもりだ。

だからこそ、男は自分の現状が、夢か幻か理解できずにいた。

 

――自分が、孫とそう変わらない年齢の相手を前に、跪かされる現状を。

 

「藁って、わかります?たぶん、藁はあると思うんだけど……まぁ、麦とかそういうヤツのことです。で、溺れてる人はすげぇ必死だから、掴まっても助かるわけないんだけど、それに掴まっちゃうみたいな」

 

「――――」

 

「わかりやすく言うと、死にかけた人間は生きるために必死みたいな格言ですよ。火事場の馬鹿力とは違うかな。そっちは逆転の目があるけど、藁は悪足掻きだし」

 

ぺらぺらと、頭上からの声は流暢に言葉を投げかけてくる。

その大半が益体のない言葉に聞こえるが、一言一句を聞き逃すわけにはいかない。それをして機嫌を損ねたものがどうなるのか、おぞましい噂は山ほどあるのだ。

 

彼が、こうして台頭して二年、残酷で陰惨な噂は後を絶たない。

敵対するものを、その家族を、関係者を、あらゆる手段で追い詰め、見せしめにし、破竹の勢いで拡大し続ける、結社『プレアデス』の代表。

おぞましい功績と類稀なる悪辣な手腕を評して、名乗らぬ彼を人は呼ぶ。

 

――『粛清王』と。

 

「――――」

 

男が跪くのは、いつしか四大国の陰に潜み、裏社会を牛耳り始めた結社の本部。

豪華絢爛な調度品や絵画、贅を凝らした品々が下品なぐらいに集められた建物で、商談の相手として招き入れられた応接間だった。

 

代表である王は、部屋の奥にある玉座――まさしく、宝と呼ぶのが相応しい、至高の玉座に座り、来客を見下ろしている。

絢爛な見栄えと豪奢な造りは、かけられた金額を思うと目が眩む。人の人生の千や二千では到底届かない、資産の暴力が眼球に叩きつけられる思いだ。

 

それが結社の――否、王の力の誇示であるのだと、察しの悪いものでも一目で理解ができる。仮に理解できないものがいたとしても、それはこの部屋に入ったが最後、二度と外の光を拝むことなどできないだろう。

 

力の誇示、すなわち財力の証明は何も物に限った話ではない。

壁際にずらりと並んだ十数名の男たちは、いずれも名の通った武人や傭兵揃い。金銭で従わせることが可能であろうと、それを実行するのにかかる費用はいかほどか。

それが十数名となれば、維持するだけでも莫大な金銭が必要となる。

 

そうした、金で動く輩の中でも最高峰が揃えられているかと思えば、玉座の左右を固めている存在の異質さは、跪く男に酩酊感を味わわせるのに十分だった。

 

――常外の超越者、『礼賛者』ハリベルと、『青き雷光』セシルス・セグムント。

 

カララギ都市国家と、神聖ヴォラキア帝国。

二つの国でそれぞれ、最強の名を欲しいままにした戦士が二人、脇を固める。この、唐突に出現した結社、それを率いる若僧の暴挙が許される理由など、これ以上にない。

 

「シグルムさん?」

 

「――――」

 

一瞬、気が遠くなったところに名前を呼ばれ、男――シグルムの心臓が凍り付く。

見れば、肘掛けに頬杖をつく粛清王が、笑みの消えた表情で、昏い黒瞳をシグルムへと向けている。

 

まさしく、心臓を鷲掴みにされる心地にシグルムは喘いだ。

何か、弁明をしなければと、酸素を求めて唇がわななく。しかし、そんなシグルムの哀れな反応に、粛清王は肩をすくめた。

 

「あー、退屈させてすみません。話が逸れるのは俺の悪い癖でして。昔から、回りくどい感じじゃないと、なかなか本題に入れないんですよ」

 

「い、え……その、私は」

 

「俺が話してる」

 

「――――」

 

自分の唇に右手の指を当てて、王の左手が男を指差していた。

静かな指摘に弁明を遮られ、男の背中をドッと脂汗が濡らしていく。そのまま、身も凍るような沈黙が十数秒、永遠のように長く感じれる時間が過ぎて、

 

「……すみません。脅かすつもりはなかったんです。ただ、ほら、こっちの二人とか、周りの連中は俺が雇ってるから従ってくれますが、あなたはそうじゃないでしょ?だからなんていうか……安心が欲しくて、すみません」

 

「――――」

 

敬語で、声の調子は静かで、それだけに異常性が際立つ。

粛清王は礼儀正しく、相対する相手に敬意を払い、その上で躊躇いなく暴力を行使する。

王の声色と、語りかけるための言葉が、聞く側には全く異なる思惑を孕んでいるように聞こえてならない。おどおどと、自信がないように見える青年の目つきは、こちらの胸中を見透かさんと細められ、全神経が相手の一挙手一投足を観察している。

彼の、仄暗い黒瞳が問いかけてくるのは、たった一つの問いかけだ。

 

――お前は、俺の味方なのか、敵なのか。

 

「――――」

 

無論、敵ではないと、そう主張するべきだ。

しかし、シグルムの言葉は封じられ、声で答えを返すことは禁じられている。

 

声を出せば、目で応じれば、態度で示せば、その機嫌を損ねるのではないか。

そんな恐怖が老人の心を絡め取り、人生で最も長い十数秒を永遠にする。

 

これを大げさと、笑い飛ばしたもので、生き残っているものは一人もいない。

結社の在り方は苛烈で、四大国にある裏社会の中枢、その大部分に彼の手が伸び、もはや剥がれ落ちることなどない、病巣と成り果てているのだ。

 

生き残るには、その病魔に罹患しないことと、病魔を克服する以外にない。

そして、その克服の方法こそが、恭順という名の全面降伏それだけなのだ。

 

関わってはならない不治の病、ついにはそれから逃げ切れず、老人はここへきた。

全ての答えをあらかじめ用意して、服従する覚悟を決めてやってきたのだ。

 

だが、その考えですら甘かったことを、シグルムはこの場でようやく理解する。

手足を縛られ、身動きのできない状態で水へ投げ込まれたように、呼吸が苦しくなり、酸素を求めて唇が喘ぐ。陸で、部屋で、視線に、溺れさせられる。

 

「――――」

 

病では、ない。これは呪いだった。

 

粛清王は、消えない呪いに支配されている。

病的なまでの恐怖心が彼の目を曇らせ、消えない疑心暗鬼が心を蝕んでいる。

 

彼は、人間を恐れているのだ。他人を恐れ、疑い、憎悪している。

彼自身が最も強い恐怖心を抱いているからこそ、彼は同じものが他者を蝕んでいないかと、それを確かめるのに躍起になり、他者を同じ病に感染させるのだ。

 

溺れるものはと、王は最初に話していた。その通りだった。

今、助かるならば、シグルムは藁にでも何にでも縋り付こうとするだろう。

 

「それで……そう、藁の話だ。生きるのに必死って話で……うん、だからわかります。シグルムさんが、うちにこうやって話を通しにきてくれたのは、そういう、ちゃんと筋を通そうとした結果だってことは」

 

「――――」

 

「俺は、筋を通す人は好きですよ。話し合おうって人は、いきなり殴りかかってくる奴よりずっと信用できる。うちの悪い噂をどのぐらい聞いてるかわかりませんけど、俺を噂で判断しないでください。……俺は、なるべく、波風を立てたくないんです」

 

話しながら、粛清王がこちらへ向けた左手を開いた。そして、話す順番を譲ると示すように、そっと手を差し出す仕草を見せる。

 

「ぁ」

 

途端、硬直が解けるように、シグルムの唇から掠れた息が漏れた。

一瞬、それが王の神経に障らないか恐怖したが、目の前の青年は反応しない。根気強い沈黙が、かろうじて世界へとシグルムを導いてくれた、らしい。

 

「シグルムさん?」

 

「い、え……申し訳ありません。こちらこそ、申し出は送った書状の通りです。結社の皆様とは、今後とも末永く、お付き合いいただければ」

 

言葉を慎重に選び、過剰にへりくだりはせず、シグルムは立場を表明した。

それを受け、粛清王が目を細め、しばし思案したあと、微笑む。

 

「――――」

 

その微笑を浮かべた表情が、唐突に年齢相応のそれに見えて、シグルムは驚く。

そうして、驚くシグルムに王は深々と頷いて、

 

「いいお付き合いをしましょう、シグルムさん。詳しいことは、あとで担当の人間と打ち合わせてください。これが、一番賢い選択だ」

 

「あ……」

 

「これからも、どうぞ結社をよろしく」

 

手を上げ、微笑んだまま、粛清王が商談を締め括る。

その言葉にシグルムはゆっくりと体を持ち上げた。跪く体が硬直していて、思わず体勢を崩しそうになるが、かろうじて堪え、長く、息を吐いた。

 

「ありがとう、ございました。今後とも、こちらこそ、ご贔屓に」

 

「ん」

 

何とか、舌の痺れを隠して、最後の挨拶まで言い終えた。

そして、用は済んだとばかりに頷く粛清王に頭を下げ、シグルムは後ろへ下がる。

 

「――――」

 

胸中を吹き荒れるのは、安堵と達成感の嵐だった。

つい数秒前まで全身を重く縛り付けていた鉛のような緊張は薄れ、男は自然と軽くなった足取りで、帰りを待つ家族の顔と名前を一つずつ思い浮かべ、頷いた。

 

荒波を乗り切り、どうにか望みを繋いだと――、

 

「――?」

 

そのときだ。

背後で、ほんの微かな軽い音がした。

 

耳に馴染み深いそれは、硬貨の音のそれであった。

硬貨が掌から滑り落ちて、床に落ちたときの音によく似ていて。

 

「裏」

 

一言、短い声が聞こえた。

それがなんなのか、シグルムの理解が及ぶよりも早く――、

 

「――――」

 

老人の視界が傾いて、床と平行になった。

跪いたときより、絨毯が近い。――と、それが最後だった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――――」

 

首を刎ねられた男の亡骸が倒れるのを、ハリベルは細めた目で眺めていた。

 

鮮やかな手並みだ。

老人の手足には痙攣がなく、絨毯に落ちた首は自分の死に気付いていない。死体を死体たらしめる条件を、奪命以外に満たしていないが故の、芸術品めいた亡骸だ。

もっとも、死体は死体でしかなく、それを美しいなどと評する趣味は自分にはない。

 

「お、うええ……っ」

 

その死体から血が噴出するのを見て、玉座に座る少年が口を押さえる。

もうすでに、何度となく死体も、人が死体に変わるところも目にしてきたはずだが、その神経は細いまま、一向にそれに慣れることがなかった。

 

「命じておいてそれっていうのは、さすがに死者への冒涜なのでは?死体に慣れろとは言いませんが、せめて死体を作るのを避ける努力をされてはどうです?」

 

「俺だって、好きで殺してるわけじゃない……ありません。直視できないなりに、現場には居合わせてる。それがせめてもの……」

 

「欺瞞ですね」

 

口元に手拭いを当てて、吐き気と戦う雇い主に同僚の言葉は容赦がない。

無論、正しいのはこの場では同僚――セシルスの方だ。雇い主がそれに腹を立てないのは、自分の行いが欺瞞である自覚がある、その証拠だろう。

 

そうして、青白い顔色をより死人に近付けた少年に、セシルスは「それにしても」と言葉を続ける。彼の視線は倒れ伏す亡骸、哀れな老人へと向けられていた。

 

「ボスの矛盾にはいささか以上に呆れます。あんな穏やかに話し合いを終わらせたのに、いきなり殺せなんて、閣下もビックリの心変わりですよ」

 

言いながら、セシルスは不満げに頬を膨らませる。二十代の男がしていい仕草ではないが、精神の未成熟さも相まって、セシルスにはその手の仕草がやたらと似合う。

人間的に美形であることと、普段の振る舞いがそれを許容させるのだろう。

 

ともあれ、そんなセシルスの暴言めいた指摘に、さしもの少年も頬を歪め、

 

「だから、言ってるじゃないですか。俺だって、別に殺したかったわけじゃないんです。その人にも言った通り、できれば信じたかった。嘘つく顔にも見えなかったし」

 

「では、何故?」

 

「嘘をついてるように見えなくても、嘘をつく奴は嘘をつくからですよ」

 

不思議そうな顔をするセシルスに、玉座で膝を立てる少年が唇を噛んだ。

その、ひどく渇いた人生観だけは、誰にも揺るがせない強い意志が垣間見える。

 

ハリベルも、セシルスも、彼の過去に何があったのかは知らない。

ただ、彼の過去に、それを信じさせるだけの出来事があったのだろう。

 

微笑み、親しげに接してくる人間が、その胸中に打算と疑念を溜め込んでいて、優しくしてくれたのと同じ手指で、唇で、憎悪と殺意を吐き出してくるような経験が。

そんな経験が、この少年に学ばせたのだ。

 

「先に芽は摘む。枝は落とす。俺は、絶対に、二度と、騙されない」

 

ぎゅっと、少年が自分の肩を掴み、布越しに肌に爪を立てる。容赦のない爪の食い込みを見れば、皮が破れ、血が滲み出しているのは明らかだ。

その自傷が、自分を保つために必要な儀式であるのだと、彼を知る側近と、結果的に長く付き合えている部下たちは知っているから、誰も止めない。

 

やがて痛みに満足したのか、少年がゆるりと玉座から立ち上がって、

 

「死体、片付けて埋葬してください。あと、その人の店に使者を出すように。全部没収するけど、従えば悪いようにしないと。逆らうようなら家人は皆殺しにして、店は燃やしてください。引継ぎが済んだら、次の担当者に挨拶にこさせるように。それで、残すか潰すか、判断します」

 

淡々とした語り口で、少年が室内にいる人間に聞こえるように指示する。

誰に、ではなく、誰かがやれという大雑把な指示だ。

過程ではなく、結果だけを求めるその呼びかけが、結果的に結社をうまく回す。誰かの手柄ではなく、全員が手柄に集中することで、結社は万全の体制を保ち続ける。

 

そうするだけの理由と、そうせざるを得ない弱味が、全員にあるのだ。

そして、誰かが日和見した結果、何もかもが奪われる危険性を冒すぐらいならばと、全員が全力で事に当たる。――ある種、理想的な職場環境である。

 

――例えば家族、例えば恋人、例えば財産、例えば命とその他諸々。

 

それらを保険として、安全策を握り続けることが、結社の代表たる男の主義。

粛清王と呼ばれて恐れられる、臆病な少年の戦い方なのだ。

 

「ボス、上着忘れとるよ」

 

「ああ、ありがとうございます」

 

立ち上がり、扉に向かおうとした少年の肩に、ハリベルが黒い上着をそっとかける。

肩に羽織るだけ。一言の礼も付け加えて。――直後、ハリベルの髭が微かな殺意を捉えて痺れる。強烈なそれに、ハリベルは糸目の奥の瞳を伏せた。

 

殺意の出所は、考えるまでもなく、目の前の少年だ。

おそらくは、背後に立ったから。

 

「……ハリベルさん、殺したくねぇなぁ」

 

「ははは、せやったら殺さんといたらええやん。うまぁく使ってくれたらええんよ」

 

「でも、道具持て余して自滅とか最悪じゃないですか。……舐めプして死ぬとか、負け方としてクソすぎるし」

 

ぶつぶつと、すぐ背後の側近の殺し方を考えながら、少年が上着に袖を通す。

その愚痴るような言葉を軽々しい調子で聞き流すが、少年の言葉は冗談ではない。彼は可能であれば、ハリベルを殺そうとするだろう。

今はただ単純に、殺すことの手間と、殺すための準備の不十分さと、殺したあとの手間と準備の不十分さとを見比べて、殺さない方に傾いているだけ。

 

「ボス、ボス。この方が持ってきた献上品は、どちらへ運んでおきます?」

 

「献上品……中身、なんでした?」

 

「中身は……ああ、魔鉱石ですね。どこでボスの好みを聞いてきたのやら。これだけ配慮してきたのに斬首とは、ますますこの方が哀れで哀れで」

 

「首を落としたのはセシルスさんの勝手でしょうに……」

 

部屋の入口で、呼び止められた少年が憎々しげに頬を歪める。それから、彼は飄々としたセシルスの態度に嘆息して、

 

「魔鉱石は、俺の部屋にお願いします。それ以外のものは皆さんでお好きに」

 

「はいはい、確かに。それから、ボス」

 

「……なんですか」

 

不機嫌な声を出す少年、その少年にセシルスが自分の目元を指でなぞり、

 

「隈、だいぶひどいですよ。そろそろ、お姫様のところでひと眠りされては?」

 

セシルスの言葉に、少年が盛大な舌打ち。

それをセシルスは笑い飛ばすが、彼の周囲にいる他の男たちは緊張に身を硬くする。あるいはここで、不機嫌を理由にセシルス討伐を命じられるのではと。

もちろん、そうなった場合、セシルスを殺すのは並大抵のことではない。この建物の全戦力を使い捨てて、ハリベルが相打ち狙いといったところか。

 

「――考えとく」

 

幸い、少年はその短気を起こさず、一言だけ残して背を向けた。

そうして、安堵の気配が広がる室内、男たちは立ち去る代表の背を見送る。一人、ひらひらと手を振るセシルスの気軽さが、ハリベルにとっても悩みの種だった。

 

「僕も、そんなに団体行動得意な方やないのになぁ……」

 

くわえたキセルを上下に揺すり、ハリベルは先を行く少年の背中に続く。

一応、一番付き合いの長い側近として、護衛のような役回りをするのがハリベルだ。ともあれ、邸内だろうと外だろうと、彼に危害を加える輩はそうそういない。

 

前者は恐怖から、後者は彼の存在を知らないものが多いため、だ。

 

「――――」

 

慎重に、全てを品定めする少年を、ハリベルは細い目でじっと見つめている。

彼が本部とした建物には、応接間以外も多種多様な芸術品やら絵画やらが飾られ、その暴力的な財力を見せびらかし、専守防衛の体を保っている。

権威を財力で示し、力を誇示するのは、不要な敵を作らないための苦肉の策だ。

 

戦わずして勝つ、などと少年は言っていたが、まさしく理想と言えるだろう。

 

無論、それはそれとして、過分な財力は他者の妬みや嫉みの対象になる。究極、何をしたとしても敵は増えるのだ。少年のやり方は、絶対数を減らす分には良策だ。

そして、敵の数が少なくなれば、あとは暴力の質で対抗するだけでいい。

 

「ハリベルさん……適当に、セシルスさんが暴発しないように見ててください」

 

「ほいほい、任せとき。ボスは、お姫様んとこ?」

 

「ん」

 

セシルスの提案を受け入れるのは屈辱的なのか、頬を歪めて少年が答える。

そのまま、二人の足は結社本部の一番奥――『パンデモニウム』などと名付けられた建物の最奥、厳重に守られた部屋の扉の前に到達する。

 

――その扉には、見たものが戦慄するほど大量の鍵と、錠前がかけられている。

 

五十に迫る鍵の量は、この扉の奥に隠されたものの重大性と、鍵を用意した人間の周到さと執拗さと偏執的な在り方を如実に印象付ける。

だが、最もこの扉の所有者が偏執的なのは、扉を開けるための鍵穴に符合する鍵が、一本たりともこの世に存在していないこと。

つまりはこの扉は、通常の方法では決して開けることができないのだ。

それを開けるには――、

 

「――パック」

 

「呼ばれて飛び出てにゃにゃにゃにゃーん」

 

少年の呼びかけを受け、気抜けする声と過剰な光の演出と共に、灰色の体毛をした小猫が中空に姿を現した。

とぼけた態度と愛くるしい姿だが、その実、絶大な力を秘めた大精霊――パックと、そう呼ばれる存在が、ふわふわと少年の肩に着地する。

 

「や、久しぶりにきたね。リアに用事かい?」

 

「ドア、開けてくれ」

 

「むむむ、なんだい、その言い方は。お父さんの機嫌を損ねると、娘に会わせてもらえないかもしれないよ。もうちょっと、年頃の娘を抱える父親の気持ちに寄り添って……」

 

「パック」

 

肩の上で、カイゼル髭を撫で付ける仕草をするパックを少年が呼ぶ。

その、色濃い隈に覆われた少年の顔を眺めて、パックは「やれやれ」とため息。

 

「またギリギリまで我慢したんだね。仕方ない。その努力に免じてあげよう」

 

そう言って、散々もったいぶったパックが短い両手を扉へ向ける。そして、無数の鍵のない鍵穴へと、淡い光が降り注いでいって、

 

「がちゃりー」

 

直後、淡い光は氷の鍵へと変わり、それが鍵穴の奥で開放の音を奏でる。

開けられない扉の開け方――存在しない鍵を、作り出すという裏技だ。

 

「うまぁく盲点をつくもんやね。鍵穴があったら、それに合う鍵を探したなるんが人情ってもんやのに。真似して開けられたら困るけども」

 

「魔法の波長もあるからね。ボク以外の誰かが同じことをしたら、すぐにボクや君たちに報せがいくようになってるよ。それに、ボクってずっとリアと一緒にいるし」

 

「それもそうやねえ」

 

パックの言葉に、ハリベルが納得と頷く。

そのやり取りを尻目に、少年が鍵の開いた扉に手をかけ、止まった。背後、何食わぬ顔で立っているハリベル、その顔を見上げて、

 

「ハリベルさん、いっていいよ」

 

「そう?僕も、たまにはお姫様に挨拶したいんやけど……」

 

「いっていいよ」

 

何の気ない申し出が、淡々とした物言いに却下された。

それが絶対の拒絶であると、ハリベルもはっきりと受け取った。食い下がるほどのことでもないと、ハリベルはキセルを噛んで後ろへ下がる。

 

「なんかあったら、気軽に呼んでくれてええからね」

 

「――――」

 

扉に手をかけたまま、警戒の眼差しを向ける少年にハリベルは背を向ける。

角を曲がり、見えなくなるまで、少年の視線は背中に突き刺さっていた。

 

どこまでも、警戒心が強く、慎重というより臆病な、雇い主であり、恩人。

 

「ああ言うても、絶対に、呼び出したりせえへんやろなぁ」

 

そんな気だるげな呟きと共に、ハリベルは紫煙を吐き出し、頭上を仰いだ。

煙が天井にぶつかって、行き場がなくなって霧散する。

 

――それがなんだか、自分たちの行く末の暗示のようにも思えた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

死んでしまったのかと思うぐらい、少年の寝顔は静かなものだった。

 

「――――」

 

自分の膝に頭を預け、死の淵に寝入っていく少年をエミリアは見つめている。

瞼の周りには、炭でも塗ったのかと思うほど濃い隈があり、それが少年の深刻な睡眠不足と、そうならざるを得ない過酷な環境を物語っていた。

 

「また、ずっと眠れてないみたい」

 

「仕方ないよ。この子の今の立場だと、気の休まる暇がないだろうしね。それこそ、たまにリアに甘えにくるときぐらいだろうし」

 

額を撫でて、睫毛を指でなぞる。そうして寝顔を自由にするエミリアに、ふわふわと浮かんでいたパックが長い尻尾をお腹に巻いてため息をつく。

そのまま、彼はぐるりとエミリアの『私室』を見回した。

 

白い部屋だ。

白い壁に、白い床。白い天井と白い寝台、白い家具に白いカーテンと、部屋の中のあらゆるものが白で統一されている。

そんな中、エミリアの纏った薄手の寝衣も白なのだから、病的なぐらいだ。

 

この部屋が、エミリアに与えられた自由の範囲。――監禁された、鳥籠の中。

監禁などと、そんな言葉を使っていいものか、エミリア自身も迷ったままなのだが。

 

「今でも、リアはこの子のことを怒ってるかい?」

 

「……どう、かな」

 

そのパックの問いかけに、エミリアは返答するのを躊躇った。

言いづらい、というわけではない。ただ、自分の心の在り処がよくわからない。

 

それこそ、最初はもちろん腹を立てていたし、今だって仲直りはしていない。

互いに謝り、謝られの時間を設けてもいないのだ。そのことに触れないまま、時間だけが淡々と過ぎてしまい、なあなあの日常が続いてしまっているだけで。

 

「でも、私、パックには怒ってるから。私に内緒で、勝手に連れ出す準備までして」

 

「ごめんよ。だけど、仕方なかったんだ。あんな状態のロズワールにリアを任せてなんておけないでしょ?危ない場所と立場に引っ張り出すだけ引っ張り出しておいて、本人があれじゃ無責任だよ。その点、リアの安全ってだけなら、ここはピカ一だし」

 

「――――」

 

「リアを危険な目に遭わせたくないって考えは、ボクとこの子で一緒だから」

 

だからパックは、ロズワール邸からエミリアを連れ去る内密の申し出に賛同し、王選からの離脱を躊躇いなく実行、結社への協力を惜しまなかった。

そしてエミリアだけが何も知らず、気付けばこの白い部屋で、囚われの籠の鳥――。

 

ただ、そのパックの判断を責める資格が自分にないことを、エミリアも理解している。

 

「結局、私は何にもできなかったから……」

 

ルグニカ王国の次代の王を決める王選――その戦いにおいて、エミリアは見るも無残な敗戦を、それも不戦敗に甘んじた。

その最大の原因は、王選候補者が集められた会合への参加を拒み、結果的に、王選への参加を認められなかったことにある。それは並びに、エミリアの後援者であったロズワール・L・メイザース辺境伯の失脚と、彼自身の失調をも意味していた。

 

早い話、エミリアは王選への参加の意思を示せず、後援者であるロズワールはその資格を喪失し、エミリア陣営は陣営としての初機能を前に瓦解したのである。

結果、エミリアは梯子を外される形になり、何もできないまま不戦敗とされた。

 

「……私の、願いは」

 

差別のない世界を作ることだった。

ハーフエルフであることや、生まれがその後の人生の絶対の評価とはならない場所、そんな環境を築くことが、拙いながらもエミリアの願いであるはずだった。

だが、その願いは口にすることもままならないまま、夢物語の彼方に消えた。

 

そうした願いの先にあった、エミリアの故郷の解放――エリオール大森林の大地で眠り続ける、氷像と化した仲間たちを救い出すこともまた、できなかった。

 

「あのまま、だらだらと何の庇護もない屋敷にいるぐらいなら、森に戻った方がよかったのに、リアはそれもできずにいたからね。さすがに、最初に密使から連絡があったときはボクも驚いちゃったけど」

 

「……すごーく、驚いた。だって」

 

ここへきて再会した少年を、エミリアは死んだものと思っていたからだ。

 

――王選への不参加、その運命を決定付けたのは、屋敷の使用人の少女の死だ。

魔獣が発端となった騒動で、最初の犠牲者となった少女、レム。彼女の死への関与が疑われたのが、ちょうど屋敷に滞在していた部外者の少年だった。

疑惑を向けられた少年はそれに耐えかね、逃げ出してしまった。その少年を追い、レムの姉であるラムもまた屋敷を飛び出し――そのまま、戻らなかった。

 

瓦解は、おそらくそこから始まったのだ。

レムの死の原因が魔獣の呪いにあるとわかったのは、近隣の村に被害が拡大し、すでに取り返しのつかない大失態が重なったあとだった。

 

魔獣騒動の結果を受け、ロズワールは挽回の機会を活かせずに失脚する。エミリアもまた、王選への参加を表明することが叶わずに不戦敗の屈辱を負わされ、屋敷は日増しに悪い方へ悪い方へ、誰も望まぬ崩壊へと、着実に歩み寄っていった。

 

そんなときだったのだ。

何も変えられない無力感に打ちひしがれ、緩慢とした日々を重ねていたエミリアを、あの日、いなくなったはずの少年が迎えにきたのは。

 

「――――」

 

パックに、答えた通りだ。エミリアは、少年に怒りを覚えていた。

こちらの事情を鑑みず、何の説明もなく、そもそも、いなくなるときも戻ってくるときも何も言ってくれなくて、こんなにいきなり自分を連れ出して。

 

エミリアを取り巻く世界が崩れ始めたのは、彼が切っ掛けだったかもしれないのに。

それなのに――、

 

「あんな風に……」

 

再会したエミリアに、少年は弱々しい顔で、不安と恐怖に疲れ切った顔で、今よりももっとひどい顔で、縋り付いて、泣きじゃくって、救いを求めた。

そうして、子どものように泣き喚く少年に、エミリアは怒ることを忘れたのだ。

 

甘い、のかもしれない。安い、のかもしれない。

それでも、子どものように泣きじゃくり、最後には赤ん坊のような寝顔を晒した少年を叱りつけられるほど、エミリアは自分の在り方が立派とは思えなかった。

 

そうして、少年がエミリアの下を訪れるのは、救いを求めにくるときだけ。

彼はエミリアの下へやってきて、自分が部屋の外で何をしてきたのかなんて一言も語らずに、ただただ自分の辛い思いをたどたどしく語り、エミリアの膝に命を預ける。

 

それを全霊の信頼を受け取るのか、心底から甘く見られている屈辱と受け取るのか、それはエミリア次第であり、エミリアはどちらの答えも出せていない。

 

「きっと、これってすごーく、不健康なのよね……」

 

これが、平常な状態でないことぐらい、世間知らずのエミリアにもわかる。

しかし、エミリアにはここで、縋り付く少年の涙を受け止めて、ひと時の安らぎに沈む彼を見つめ続ける以外に、自分の在り方を証明できない。

 

「――――」

 

少年がエミリアの下を訪れるのは、頻度で言えば十日に一度。

それ以外の時間はきっと、寝る時間すら惜しんで、彼は必死に足掻き続けている。

 

多く、言葉を交わしたりはしない。

ただ、こうして、自分の下を訪れる少年を、十日に一度の逢瀬を、エミリアは。

 

「……スバルの、オタンコナス」

 

――たぶん、心待ちにしているのだと、そんな自覚がエミリアにはあった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――弾かれた金貨が裏を示せば、ただそれだけで誰でも殺す。

 

そんな異常な主人の在り方に、フレデリカは嫌悪の感情を隠し切れない。

応接間に転がった首のない死体を片付け、フレデリカは汚れた絨毯を取り換えて、それから『パンデモニウム』の中にいる傭兵たちのために、食事の準備をする。

 

「他人を命運を、文字通りの運に投げる……神にでもなったおつもりなんですの?」

 

死体が死体となった顛末を受け、フレデリカは自身の劣等感の原因でもある、鋭い牙を噛み鳴らし、怒りに震える心を抑えつけた。

 

フレデリカ・バウマンが結社に雇われているのは、結社の代表である『粛清王』の情婦――そう噂されるエミリアが、強く懇願したからと聞いている。

 

あの日、屋敷が白く凍える冷気に満たされ、自分もまた、裏切った大精霊に命を奪われたと確信したフレデリカは、しかし、何の因果かここで目覚めた。

以来、首輪を嵌められ、ここでメイドとして、憎い相手に尽くすべく使われる立場。

 

いったい、自分がどれだけ不手際を働けば、これほど不条理な目に遭わされるのか。

 

「――旦那様、失礼いたします」

 

主人への食事は、フレデリカが直接部屋まで運ぶ決まりだ。

フレデリカ以外の誰にも任されず、代表はフレデリカが作った食事以外口にしない。それを光栄と、そんな風に考える心持ちは全くない。

そもそも、味や信頼がフレデリカに任された理由ではないのだ。ただ、フレデリカは馬鹿な真似をしないと、そう確信が持たれているだけで。

 

「入れ」

 

いくつもの鍵が外される音と、不躾な命令がフレデリカに入室を許した。

指示に従い、食事を運ぶカートと共に、フレデリカが主の部屋へ足を踏み入れる。

 

主の部屋は、贅を凝らした建物の内装や装飾品と打って変わって、広さ以外は非常に簡素で、言い換えれば人間味のない退屈な一室であった。

部屋の四隅には大量の本が、それも分野を選ばず、乱雑に集められた本が適当に詰め込まれており、几帳面なフレデリカには耐え難い空間だ。かといって、部屋の掃除を申し出ることを、この主人は強烈に嫌がる。

 

おそらくは、部屋に何かを仕掛けられることを警戒しているのだろう。

そんなことができないとわかっていて、それでもそれを警戒するのは、慎重というより臆病の発露――ひどく、軽蔑すべき醜態だ。

 

「旦那様、この、落ちている書類はいつものように?」

 

「……ん。ああ、頼む。わかりそうな奴に、見せてくれたらいいから」

 

言って、興味がなさそうに主人が手振りして示すのは、部屋の床に散らばっている、汚い字で書き殴られたいくつもの文章だ。

一見すれば、単なる書き損じとして片付けてしまいそうな紙切れだが、その実、これがこの結社の財源――粛清王のもたらす、神秘の数々の切っ掛けなのだ。

 

「その辺は、あんまり役に立たないかも。……エンジンとか、そういうのの仕組みって全然わかんねぇし。やっぱ、食事関係が一番わかりやすいよな……」

 

ぶつくさと呟きながら、ここではないどこかを眺めている主人。

彼が口にするのは、これまで誰も見たことがない、発見したことがない、気付いたことがない知識や文化、その糸口であったり、到達点であったりだ。

 

人と会えば、非常な決断を繰り返し続ける黒髪の少年――だが、彼は運命の悪戯か、稀代の発想をいくつも携えた、文化の開拓者としての才覚を与えられている。

 

彼が口にした多くの知識の切れ端が、在野に燻っていた知恵者たちに火を付けた。

常人には解せぬ到達点を一足跳びに示す少年の戯言を、知恵者たちは馬鹿正直に検証し、議論し合い、ついには一つの理論として確立する。

結果、それが莫大な利益を生み、何も持たない少年を大悪党へと育て上げた。

 

『今さら、現代知識でテンプレ無双とか、笑えてくるな』

 

以前、その功績を称えられた主人が、そんな呟きをこぼしたのをフレデリカは知っている。それを口にしたとき、彼が全く笑っていなかったことも。

 

ともあれ、大勢を不幸にする一方で、大勢の幸福を生み出してもいるのが、この黒髪の主人のあくどいところだ。

人間的には唾棄すべき存在でも、その頭脳には確かな価値がある。

これほど、扱いづらい存在は、きっと世界に二人といないに違いない。――そういう点ではもしかすると、ロズワールと気が合ったのかもしれないが。

 

「――――」

 

「フレデリカ、食事。先に、一口齧ってくれよ」

 

考え込む間も、てきぱきとフレデリカは食事の準備を進めていく。

この少年は、骨と皮だけのガリガリの姿をしている。食が細いわけではなく、精神的なものが大きいのだろう。

多くを傷付け、奪い、恨みを買っているわりに肝が細く、よく戻している姿を見かける。食事係として気分良くはないが、吐きたくて吐いているわけでもあるまい。

 

「旦那様、これで」

 

準備した食事は何故か二人分。

全てのメニューを二人分、倍の皿に盛り付け、テーブルへと並べる。それから、全部の皿の食事をフレデリカが一口ずつ齧り、毒見してみせるまでがお役目だ。

 

毒を盛ってやろう、と考えたことはない。やりたい、まではある。

ただ、フレデリカにとって、メイドとしての仕事は人生の大部分を占めた大事なものだ。教えてくれた人間、関わった人間、それらを思えば、暴挙はしたくない。

 

「では、出ておりますので、何かありましたら」

 

「ん」

 

食事中、主人はその姿を見られることをよしとしない。

そのため、食事の準備を終えたフレデリカは、終わった頃合いを見計らって、部屋を出ていることになる。

この日も、そうして部屋を離れ、外で待とうと考えて――ふと、目に留まった。

 

机に上に広げられたそれは、結社の構成員の名前が並んだ名簿に見えた。

その、名簿の横に、金貨が置かれているのが見えて。

 

瞬間、その意味を悟ったフレデリカは、背中に怖気が駆け上がるのを隠せない。

 

「旦那さ――」

 

「フレデリカ」

 

振り返り、主人を呼ぼうとしたフレデリカを、空っぽの黒瞳が見つめていた。

その空虚な闇に、フレデリカは息を呑む。そんな彼女の前で、主人はゆっくりと机に歩み寄ると、開いていた名簿を閉じる。

それから、そのすぐ横にある金貨を持ち上げ、親指に乗せると、

 

「――表」

 

軽々しい音と共に、弾かれた金貨が彼の左手に落ちる。それを受け取り、表裏を確かめた少年は、フレデリカに微笑みかける。

 

「表だ、フレデリカ。――弟と、祖母は無事だよ」

 

「――ぁ」

 

「出ていけ。いいって言われるまで、入ってくるな」

 

主人の言葉に、フレデリカはもはや返事もせず、人形のように頷く。

そして、込み上げる涙も隠せぬままに、頬を熱い雫で濡らしながら部屋を出た。それからすぐに、フレデリカは顔を覆い、走り出す。

 

「う、ううう……うぅぅぅッ!」

 

誰にも、何も、話すことはできない。打ち明けることは許されない。

 

どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

何故、こんなことになってしまったのだろうか。

 

あの屋敷の日々が、可愛くない後輩と、可愛い後輩と、困った主人と一緒に、過ごした日々が遠く、遠く――あの時間は、どこへ消えてしまったのだろうか。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――密使からの連絡を受け取って、セシルスは片目を閉じ、月を仰いだ。

 

「ふむ、ふむふむ、ふむふむふーむ」

 

そのまま首をひねり、腰をひねり、長い髪が地面を擦るほど身を傾ける。

元々、考えるのは得意ではない。セシルスは学がなく、そもそも学ぶつもりも皆無の人生であり、生涯、といっても二十年程度だが、費やしてきたものなどただ一つ。

 

ただ、剣客であることだけを誇りとし、刀を振るうこと幾星霜。

それだけの人生だったので、難しいことは御免被りたいのが本音も本音なのだった。

 

「さて、どうしたもんでしょうかね。僕としては」

 

傾けていた体を起こし、セシルスは床を擦った髪の毛を払う。それから、彼は腰の刀の唾を鳴らし、踊るように後ろへ振り返ると、

 

「ねえ、ハリベルさん。どう考えてます?」

 

「――なんや、そんな堂々とされると、息殺してた僕の方が恥ずかしいやないの」

 

城――パンデモニウムのバルコニー、月が覗く空に見下ろされる空間で、わずかな影から染み出すように、獣のシノビが現れる。

 

隠形を見破られたハリベルは頭を掻き、悪びれない顔のセシルスに歩み寄った。

懐からキセルを出し、くわえた先端に火を落とすと、紫煙を吸い込み、吐き出す。

 

「さっきの、こっそりとした遣いは誰やったん?」

 

「あれですか?一応、『九神将』の一人なんですが……まぁ、最強格のシノビであるハリベルさんにかかったら、見つかっても仕方ないことですよね」

 

「セーさんて、隠し事とかするの全然向かん人やな。今ので、セーさんが全然、ヴォラキア帝国と切れてないって僕にバレてしもたんと違う?」

 

「でも、ハリベルさんはそんなこと、とっくにご存知だったのでは?」

 

「――――」

 

困った風な笑みを浮かべたハリベルが、セシルスの指摘に笑みを深める。

それが否定の意味でないことは、セシルスにも素直にわかった。

 

「元々、ボスに協力してるのは閣下のお達しでしたしね。もちろん、ボスの誘い文句にふらふらと誘われて、こっちへきてしまったのも嘘ではないですが」

 

「帝国の首輪付き……ま、スーさんの動きは、適度に誘導できたら自国の利益にしやすいところやろしね。どこから持ち込んでくるんやかわからん知識も、ルグニカとグステコに比べたら、カララギとヴォラキアの方が受け入れやすかったやろし」

 

「ですです」

 

キモノの袂に手を入れて、セシルスは間者であった事実を肯定する。

セシルスが結社の企てに協力しているのは、宣言通りに、ヴォラキア皇帝の指示を受けてのものだ。とはいえ、皇帝もセシルスの気質はわかってくれているので、これといって細かい指示は受けていない。聞いても覚えていられないし。

 

ただ、端的に命じられたセシルスの役割は――、

 

「閣下以外であれば、ボスが殺せと命じた相手を殺せばいい。いつも通りに」

 

「セーさん、シノビの僕より暗殺者っぽくない?」

 

「いえいえ、さすがにそんなことありませんよ。だって、ずっと水に潜るとか、体中に毒を仕込んでるとか、影から湧き出すとか、そんなの僕はできませんから」

 

手と首を振って謙遜し、セシルスは分野の違いを素直に認める。

シノビとして、暗殺者として、自分はハリベルには遠く及ばない。その代わりに、真っ向勝負をするとなれば、ハリベルはセシルスに及ばない。

 

「で、まさしく密使と会っている現場に出くわしたわけですが、どうされますか?ここで一つ、僕と死合ってみたりします?」

 

「そら、密使の内容次第やなぁ」

 

「ふむ、その内容とは」

 

「もしもそれが、スーさんを殺せたらいうんやったら、止めるために戦わんと」

 

キセルを指に挟んで、紫煙を吐くハリベルの髪が冷たい夜風に揺れる。

あっけらかんと、主君のために命懸けで戦う宣告をされて、セシルスは「なるほど」と頷く。

 

「前々から気になってたんですが、ハリベルさんはどうしてボスのために?僕はほら、閣下の命令なんで、本気の忠誠心ってわけではありませんが」

 

「恩返し」

 

「――。あの方に、ハリベルさんが恩を受けるようなことが?」

 

思わぬ言葉が飛び出して、セシルスは素直な驚きで聞き返す。人によっては不躾と罵られるような図々しさだが、ハリベルはそうは受け取らなかった。

ただ、ハリベルは夜空の欠けた月を見上げ――、

 

「スーさんと出会った頃、カララギの端っこでちょっとした事件があったんやね。それがまぁ、四大精霊絡みの事件やったんやけど……スーさんが収めてくれたわけ」

 

「へえ、四大精霊!僕も一体知っていますが、わりと会話が通じませんよね、あれ。それを鎮めるなんて……あれ、ボスって思ったより強かったり……」

 

「ちゃうちゃう。そないに好戦的に受け取らんでええて。なんやろ……まぁ、何が直接の決め手かはわからんけど、あれやね。たまにスーさんが見せる、異様な先読みがあるやんか。あれみたいな、そんな感じやった」

 

唾を鳴らした刀を戻し、セシルスはハリベルの説明に片目を閉じる。

微妙に納得がいくような、いかないようなな雰囲気なのは、セシルスがある種の面で、ボスである少年を評価しているためだ。

 

ハリベルは異様な先読みと言ったが、セシルスはそうは捉えていない。

あれは、万事において備えておくが故の、臆病故の武器と考えている。そして、セシルスは強者を尊び、好ましく思う。

それがどんな戦い方であれ、勝とうと貪欲にあれるものを戦士と認める。

 

「まぁ、僕はその中でも剣客なので、できれば剣同士が一番燃えますが」

 

「セーさん、セーさん、僕の話はもうええの?」

 

「そうですね、十分です。どのみち、ハリベルさんを疑ったりとか、そういうこと考えたことありませんし。帝国と違って、都市国家は頭の思惑が絡まり合う……誰かの意向で動いてると言われるより、よっぽど信頼できますよ」

 

そう応じると、ハリベルは何やら脱力した様子で肩を落とす。その仕草にセシルスは首を傾げ、それから「ああ」と思い出したように手を叩いた。

 

「そうそう、忘れていました。さっきの密使からの連絡ですが」

 

「それ、僕に話してしもてええの?」

 

「話さないと、色々と困ることもあるかもと思いまして。実はですね」

 

そこで、セシルスは満面の笑みを浮かべると、ハリベルに言った。

 

「――元辺境伯殺しが明るみになったので、王国が本気で結社を滅ぼしにかかるらしいですよ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――そうして淡々と、終わりの瞬間は訪れる。

 

「本日はお目通り叶いまして、誠にありがとうございます」

 

そう言って、客人として応接間へ通された青年は、堂々と『粛清王』に対峙した。

 

「――――」

 

多くを殺し、多くの命を握り、多くの弱味を握るとされる男だ。

それを前にして、平静を保とうとしたもの、強がっていたもの、そうしたものは大勢いたものだが――、

 

「――なんか、堂々としてすごいですね。俺とそんな変わんないでしょうに」

 

「――。いきなりのお褒めの言葉、恐れ入ります」

 

頭を下げたのは、黒いスーツとネクタイを揃えた細身の青年だ。

柔和な顔立ちをしているが、瞳の奥にはどこか薄暗い闇が垣間見える。浮かべている笑みもおそらくは偽物で、しかもそれを見破られることを当然としている。

投げやりではないが、度胸は据わっている。――ちぐはぐな印象の青年だった。

 

「ええと、あなたは確か……」

 

「実は近々に、こちらの方で色々と手広く商売させていただきたく思っています。ですのでまず、結社の方にご挨拶と、贈り物をする機会をいただければと」

 

「なるほど、それは、まぁ、お気遣いどうも」

 

てきぱきと、自分の役割を進めようとする姿勢は好感触だ。

その姿勢を見習い、少年も淡々とした仕事に徹しようとする。

 

「献上品はこちらです。――代表は、これをお望みとお聞きしましたので」

 

「へえ」

 

青年が差し出した献上品、従者が運び込み、蓋を開いたそれに目を奪われる。

そこには大量の石――魔鉱石が詰め込まれ、純度の高さを証明するように、室内に満ち満ちるマナの濃度が一段と濃くなった。

その、献上品を見つめて、粛清王が呟く。

 

「何色が多い?」

 

「――?」

 

「赤と、青が多いですかね。でも、奥を見ると黄色と緑も……わりと、一揃いって感じに見えます。いやあ、気が利いてますね」

 

意味のわからない問いかけに、初めて青年が躊躇った。

その青年に代わり、答えたのは王の横に並び立っているセシルスだ。そのセシルスの報告を受け、王は厳かに頷くと、

 

「そうか、それはありがたい。心遣い、確かに受け取るよ。ええと……」

 

「ラッセル・フェローの遣いのものです」

 

「ん、わかったよ。あの、ラッセル・フェローの、な。よくわかった。何か、困ったことがあれば……」

 

そこで、粛清王が言葉を切る。

理由は、使者の青年が言葉を遮るように手を広げたことだ。

 

一瞬、室内にざわつく気配が広がる。王の言葉を遮った、その行いに粛清王がどんな反応を返すか、護衛たちが色めき立つ。

だが、そんな中で、ハリベルとセシルス、そして当事者の青年だけは冷静に、

 

「待ってください。実は、贈り物はまだこれだけではないんです」

 

「――へえ。ますます、感心だ」

 

続いた青年の言葉に、王がそう返答して、緊張感がわずかに薄れる。

そうして、いくらか緊張感が薄れた場で、青年は深々と頷く。

そして――、

 

「――ルグニカ王国から、粛清王の蛮行へ、返礼だそうです」

 

――直後、発生した白光が、応接間を丸ごと呑み込み、破砕する。

 

凄まじい光の奔流が、豪華絢爛な応接間を、魔城パンデモニウムを、まるで浄化するかの如く呑み込んで、白い塵へと変えていく。

 

何が起きたのかわからないまま、白い光に蒸発させられたもの、十八名――いずれも腕に覚えがあり、名のある戦士であったが、それはもはや格が違った。

仮に蒸発した彼らに事実を伝える方法があっても、誰一人として信じまい。

 

――自分たちを蒸発させた一撃が、ただの剣の一振りによって行われた所業などと。

 

崩落する、結社の本拠地。

主要なものたちが集まっていたその場所を吹き飛ばし、君臨する光輝の存在。

 

数多の悪行に手を染め、ついには世界の敵として認定された『粛清王』。

その存在を討つために、親竜の国が送り出した刺客、それこそが――、

 

「――『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

全ての努力を台無しにする、理不尽な神の鉄槌が、顕現した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

破壊された応接間に、悠然と男は立っていた。

燃える赤毛に空を写し取った青い瞳、その白い近衛騎士の制服に一切の穢れを残さぬ騎士の中の騎士、それが一枚の絵画の如く、立っている。

 

その騎士の手の中で、握られていた聖剣が粉々に砕け散った。

たったの一振りで、世に名を遺した名工が鍛えた鋼が容易く塵と化す。その代償に、無数の蛮行を重ねてきた男と、その一味を一網打尽に――、

 

「――できるほど、可愛げのある手合いでないのはおわかりでしょう?」

 

「――――」

 

雷速で噴煙を突き抜け、凄まじい剣撃がラインハルトへと叩きつけられる。

まさしく、雷鳴の如き衝撃音が鳴り響き、『剣聖』の長身が大きく背後へ弾かれた。ただし、その身に斬撃を浴びてはいない。――愛剣の、鞘で受け止めている。

手にするのではなく、身をひねって斬撃を鞘で受けたラインハルト、その曲芸じみた行動に、一撃を放った青年――セシルスが口笛を吹いた。

 

「いやはや、まったく、相変わらずの人間離れ……お変わりなくて嬉しいですよ、ラインハルトさん」

 

「僕は、この再会はあまり喜べそうにありませんよ、セシルス殿」

 

ゾーリで粉塵の舞う床を蹴り、抜き放った『邪剣』ムラサメを肩に担うセシルス。その挨拶代わりの一撃と挨拶に、ラインハルトは眉を顰める。

そして、噴煙の晴れてゆく部屋の奥へと目を凝らすと、

 

「……届かなかったか」

 

「ああ、ボスには届きませんでしたね。まぁ、僕とハリベルさんが守ってるところへの一撃ですから、なかなか難しいところではありました。ぶっちゃけ、僕はボス守る動きとか全然してなかったので、ハリベルさんの功績が十割ですけども」

 

そう言って、セシルスが能天気に顎でしゃくった部屋の奥――煙の晴れた玉座に、頬杖をつく『粛清王』と、それを背後に庇った狼人、ハリベルの姿がある。

ハリベルは、口にくわえたキセルから紫煙を吐くと、

 

「セーさん、訂正。これ、僕の功績と違うから」

 

「え!それじゃあ、まさか、秘められた僕の力が……」

 

「そういうんとも違う。これ、スーさんの仕業。……この玉座、やたらと強力な力で守られてるみたい。僕らも、聞いたことなかったけど」

 

自分の手をわなわなと見つめるセシルスに、ハリベルが首を横に振る。

そして、そのハリベルの背後で、玉座に腰掛けていた『粛清王』が立ち上がった。それから、彼は自分の首に巻いた橙色の首巻きを掴み、

 

「――お前の一発は盗品蔵で見てんだ。備えてるに決まってんだろ」

 

頬を歪め、ひどく痛々しい笑みを浮かべた。

それこそが、『粛清王』――否、ナツキ・スバルとラインハルトの、再会だった。

 

「スバル……!」

 

「外れ籤引いたもんだな、ラインハルト。お前が盗品蔵で俺を助けなかったら、今頃はこんなことにならなかっただろうよ。――その場合、大切なご主人様にも会えなかっただろうから、お前にとっちゃそうでもないのかな?」

 

「――っ」

 

ハリベルの背後から覗き込むように、スバルがラインハルトに舌を出した。

その悪辣な形相に、ラインハルトが痛みを覚えたように頬を硬くする。悲しげに揺れる青い瞳を見つめ、悪鬼の如く憎々しい表情を作っていたスバル。

それがふと、表情が掻き消えて、

 

「――なんだ。お前、やっぱり白黒のままかよ」

 

「――?白黒?それはいったい……」

 

「黙れ、嘘つき野郎。――そんなんじゃ、お前には殺されてやれねぇよ」

 

感情の凍えた声音で、スバルは興味を逸した風にラインハルトから目を逸らす。そのまま、ハリベルの肩を叩いたあと、ラインハルトと対峙するセシルスを見つめ、

 

「セシルス、好きにしていいです。俺はもう、興味がなくなったので」

 

「――。僕にはイマイチわかりませんが、どうやら僕とボスとでは見えているものが違うようですからね。ありがたく、好敵手はいただきましょう」

 

「見えてるものが違う……ははっ、道理だ。最後まで笑わせてくれるぜ」

 

セシルスの言葉の何が面白かったのか、スバルは楽しげに膝を叩いた。

それから、すぐに笑みは消えてなくなり、

 

「それなりに楽しかったよ、セシルス。お前は弱味がなくて、苦手だった」

 

「僕はあれです。――マヨネーズが怖い」

 

「ハッ!」

 

いけしゃあしゃあと言い放ったセシルスに、心底愉快そうにスバルが笑った。

そのスバルの姿が、ハリベルに抱えられる形で影へと沈み込む。そのまま、スバルとハリベルの二人は窮地に際し、この状況を離脱する――。

 

「待つんだ!まだ話は……」

 

「――終わりですよ、『剣聖』。終わりにしたくないのであれば、また追いついて始めてください。その前に、『粛清王』の忠実といえば忠実な部下が立ちはだかります」

 

「く……っ」

 

消えたスバルたちを追おうとするラインハルト、その足下を斬撃が通り抜ける。

床を横一線に斬りつけた一撃は、抜き放った瞬間すら見せない、圧倒的な剣速が為せる常外の一閃、剣の極みへと到達したものの一振りだ。

 

「生憎と、その評価を授けていただくにはまだ早い。僕はまだ、山登りの途上ですよ。あと一歩、乗り越えることができれば至れると思うんですが」

 

「至るとは、どこに」

 

「無論、天剣」

 

瞬間、空気が張り詰める音を立て、それが斬り裂かれ、死ぬのがわかる。

真に一刀の極みへ到達した剣士――否、剣客の放つ透き通った剣気。それはもはや魔性の域に達し、常識では計り知れない事態をも引き起こす。

 

そこに佇む剣の化身は、ただ刀に触れるだけで、見えざるものをも殺すのだ。

 

「このときを待っていました。――あなたと、剣を交えるこのときを」

 

「……セシルス殿、僕とあなたとは以前、すでに手合わせしたはずです。あの手合わせは僕にとっても、大きな意味があった。そのあなたが、どうして」

 

「当然、我が身は剣を振るうものなれば。――死線上にて、相見えるのみ」

 

二番刀、『邪剣』ムラサメが妖しげな輝きと共に抜き放たれる。

一番刀、『夢剣』マサユメが斬られることを望むほどに美しい刀身を剥き出す。

 

世界に存在する魔剣・名剣・聖剣の十振り、その二本が――否、

 

「――『龍剣』レイド」

 

常に『剣聖』の傍にあり、しかして『剣聖』に相応しき敵以外には抜かれることのない剣が、その白く輝く刀身を大気に晒す。

抜き放たれた刃に音を感じるのは、龍剣が喝采しているからに相違あるまい。

 

「ご存知でしょう、ラインハルトさん。僕たちの前には壁がある」

 

互いに、聖剣・魔剣・龍剣を手にし、超級の存在が向かい合う。

にじり合うように距離が縮まり、世界が衝突を恐れ、大気が歪んでいく。

 

「ある領域へ達したものたちは、その先への道を壁に遮られるものです。どうあっても越えられないその壁を、乗り越えずに諦めがつくものもいるでしょう。ですが、僕にはそれは不可能だ。その壁を越えなければ、僕は僕でいられない」

 

「――――」

 

「そこへきて、ボスの誘いがあったんです。壁を越える方法を……まぁ、つまるところ、死線上であなたと剣を交える方法を、本気で命の奪い合いへのお膳立てをすると。まさしく――藁にも縋る思いというやつでした」

 

「藁に……?」

 

「溺れるものは、ということだそうです」

 

それが、セシルス・セグムントがこの場へ至った、唯一の解法。

あるいは、剣客である自分の望みを言い当てられたとき、それは必定だったのか。

 

目を見開く『剣聖』に、セシルスは唇を湿らせた。

そして、笑い、笑顔で人を斬る『青き雷光』は、告げる。

 

「溺れているのですよ、ラインハルト・ヴァン・アストレア殿。僕の雇い主殿に言わせれば、僕たちは、何かを強く欲するものは、皆が皆、溺れているのだそうです。目にしたこともない『オオウナバラ』とやらで、溺れ続けているのです」

 

「――――」

 

息を呑む、ラインハルトが。

そこへ、身を低くし、二本の刀を構えるセシルスが、ゾーリを脱ぐ。

 

「――剣客、セシルス・セグムント」

 

ヴォラキア帝国、一将、『青き雷光』――余分な肩書きなど不要。

この身、只一つの剣客にして、天剣への道を望むもの。

 

――雷光が、雷鳴が、パンデモニウムをつんざく。

 

血飛沫が、舞った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――パンデモニウムに激震が続く。

 

戦いの余波が、激しい揺れと衝撃が、エミリアの私室まで轟いてくる。

天井から釣り下がる照明が大きく揺すられ、埃が舞い散るのを眺めながら、寝台に丸まるエミリアは選択を迫られていた。

 

「――――」

 

ここにいろ、とそう言われている。

あるいはそれは、「ここにいてくれ」という懇願のようでさえあった。

 

それを信じて待つべきなのか、それを無視して飛び出すべきなのか。

自分の置かれた立場と心の在り方に迷いながら、選択を先送りにし続ける。

しかし――、

 

「――リア、決着がつくよ」

 

「え……」

 

激戦の揺れが続く中、寝台のエミリアにパックがそう声をかける。震える紫紺の瞳で宙を見れば、短い腕を組むパックが小さな鼻を鳴らしていた。

 

決着と聞かされ、エミリアは息を呑む。

 

また、何もすることができなかった。

選択を先送りにして、選択しないことで結果を受け入れる。

それが卑怯な行いだと、半ばわかっていて、また自分は――。

 

彼に、スバルに対する態度を保留しようと――、

 

「――ラインハルトがいる。スバルの、負けだね」

 

「――――」

 

そんなエミリアの思考が、続けられたパックの言葉に凍り付いた。

 

「え」

 

形にならない思考、言葉にならない声をこぼし、エミリアは目を見開く。

決着と聞いて、エミリアはスバルの勝利を確信していた。それを疑ったことが一度もなかったことを、エミリアはこの瞬間に初めて理解する。

 

ナツキ・スバルは敗北しない。

どんな相手がこようと、勝手な理屈と強固な人間不信を武器に必ず勝利する。あらゆるものを手駒とし、考えうる手勢の全てを操り、どんな敵でも撃滅する。

そして、考えることに疲れ、ひと時の安寧を求めにエミリアの下を訪れると――。

 

必ず、スバルは自分のところへやってくると、エミリアは信じ込んでいた。

 

「今日まで、ボクはリアの選択を急がせたことはなかったけど、今回はダメかな。選ばなくちゃいけないときがきたんだ」

 

「選ぶ、って……」

 

「ここに残るか、ここから出ていくか、だよ」

 

どこまで知っているのか、淡々としたパックの言葉には確信があった。

ぎゅっと、シーツを握りしめるエミリアをパックが見下ろしている。その表情には普段の飄々としたそれが微塵もなく、ただ可愛い愛し子を憐れむ色が強い。

道に迷った愛し子の、その道行きを不安視する、親の目線だ。

 

「スバルがうまく情報統制してたみたいだからね。結社の活動に、リアが関与した形跡は一切ないって。まぁ、ホントにリアは関わってないんだけど、わりと長く一緒にいたから、邪推する輩は出てくるだろうし、必要な対策だよね」

 

「関わってないって、それなら私は、どういう立場だったの?」

 

「ロズワールのところから連れ去られて、監禁されていたって扱いだよ。今、パンデモニウムを壊そうとしている子たちは、君を助けにきた救出隊でもあるみたい」

 

思いがけない説明に、エミリアはただただ唖然とする。

エミリアが、自分の意思と無関係にロズワールの下から連れ出されたのは事実だ。そしてそのことに腹を立て、スバルのことを疎んだことがあったのも事実。

だが、救いを求めて縋り付くスバルを拒絶しなかったことも、彼がエミリアとの時間を守るために懸命なのを、見過ごしてきたのも事実であった。

それを受けてなお、エミリアは彼の在り方に無関係であったと言えるのか。

 

そう言い張るなどと、まさしく、厚顔無恥の極みではないのか。

 

「リア、ここで大人しく待っていれば、救出隊が可哀想なお姫様として助けてくれる。だけど……」

 

囁くように語りかけ、パックがエミリアの細い肩の上に着地する。そして、頬をすり寄せてくる猫精霊の、言わない言葉の続きはエミリアに痛いほどわかった。

 

待っていれば、被害者として助け出される。

だが、エミリアがここを自ら離れれば、それは自由意志の与えられた加害者だ。

 

その事実を前に、逡巡は一秒もなかった。

 

「――――」

 

立ち上がったエミリアが、白い部屋の唯一の扉に触れる。

外から開けるためには、複雑な術式による個人の認証が必要になり、スバルと、世話係のフレデリカ以外は入出ができない決まりとなっている扉だ。

その術式が、エミリアが内側から手を添えた途端、跡形もなく砕け散る。

 

「スバルの、オタンコナス……」

 

砕かれた術式の痕跡を掌に求めながら、エミリアはか細い声で呟いた。

元々、この術式はエミリアにだけは容易く破れるように設定されていたのだ。つまり、スバルはエミリアが逃げたいとき、いつでも逃げられるようにしていたということ。

鳥籠の扉はいつでも、籠の鳥の決意一つで破られるようになっていたのだ。

 

それが、エミリアは逃げないとスバルが高を括っていただけなのか。

それとも、エミリアの逃げたい意思を尊重するスバルなりの優しさだったのか。

 

その答えを、スバルの口から聞きたいと思った。

 

――それが、何も選択できずにいた時間の果てに、エミリアの選んだ答えだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

応接間を連れ出され、ハリベルと共に城の中を走りながら、『粛清王』は、少年は、ボスは、主人は、彼は、――ナツキ・スバルは、低く笑っていた。

 

「フェルトあたりを、ちゃんと、人質にしとけばよかったかな……」

 

そうすれば、ラインハルトの動きを縛ることができただろうか。

――否、それよりも、ラインハルトの怒りを買って、その力でパワーアップした『剣聖』と戦うことになる可能性の方が高そうだ。

 

とことん、シミュレーション通りの流れだった。

おそらくは、パンデモニウムが落ちるときはこうなる予感がしていたのだ。

 

「裏社会の大ボス気取りも、ちょっとは楽しかったかな……」

 

思い返す。ここまでの道のりを。

いったい、どれだけ苦労したことか。たくさんの人の弱味を握り、憎悪を向けられながら、相手の人生を支配して、気紛れにその命を奪って――。

 

――否、気紛れでは、断じてなかった。

 

遊びだと思われていたなら、それは大いなる誤解だ。

それを解こうと努力したことも、努力する意味もないから、考えたこともないが。

 

――スバルは、人間が怖かった。おぞましかった。

 

表面上は笑顔で接してきて、実際は腹に一物を抱えている。そんな人間の在り方が、真実を隠し、無数の思惑のままに動ける人間が、恐ろしかった。

 

一緒にいる人間が信じられるかどうか、そんなことを考慮するのが馬鹿らしくなる。

だからスバルは、人間関係をシンプルに簡略化することに決めたのだ。

 

全ての人間は嘘をつく。

その上で、全ての人間がスバルを憎悪したとしても、何の問題もない世界の確立。

 

どんな人間にも弱味はある。家族が、恋人が、財産が、夢が、希望が。

だから――、

 

「――世界中の人間の弱味が、握れたらなぁ」

 

そうすれば、ようやっとスバルは、誰も疑わなくてよくなる。

モノクロの世界で、信じられるカラフルがいない世界で、憎悪を糧に、安らげる。

 

「――――」

 

スバルを連れ、一緒に逃げてくれているハリベル。

そのハリベルの姿が、スバルには真実の形で見えない。――スバルには、彼の姿がモノクロに見える。白と黒、たったの二色になって見えるのだ。

 

「――――」

 

モノクロに見えるのは、ハリベルだけに限った話ではない。

今や、スバルに見える世界は、何もかもが色を失い、二色に移り変わっていた。

 

人も、物も、絵画も、調度品も、宝石も、魔鉱石も、鮮血も、水も、白と黒。

血と水の区別がつかず、スープと毒の区別もつかない。

 

全てはモノクロだ。モノクロなのだ。

そんな世界にあって、スバルにカラフルに見えるものが、いくつかあった。

 

それが本物だと、スバルは信じている。

それ以外の全ては偽物だと、スバルはそう信じている。

 

ベアトリスが、そうだった。

エミリアが、そうなのだ。

あとは、唯一、あとは。

 

とにかく、それ以外の全てを、スバルは信じられない。

それ以外からもたらされるものは、何もかもが文字通り色褪せて見える。

 

嘘にならない、本物だけ。

ナツキ・スバルを生かすも殺すも、決定権を持つのは、本物だけ。

 

「……ラインハルトには、ちょっと期待してたんだけどな」

 

もしかすると、あの日々の前――本当に、色を失う切っ掛けとなった出来事より前の関係者であれば、色褪せることなく在り続けてくれるのではと期待した。

だが、初めて会う人間さえもモノクロに見えるスバルなのだ。そんな期待は淡く、あの鮮やかだったラインハルトが、スバルには灰色の塊に見えた。薄汚れて見えた。

 

所詮はラインハルトも、人の子だ。

きっと彼もまた、嘘をつき続けて、生きている。それだけのことなのだ。

 

「旦那様――!」

 

城内を駆け回っているスバルたちを、ふいに横合いから高い声が呼ぶ。

見れば、廊下の向こうから走ってくるのは、長い髪をした長身のメイド、フレデリカだった。色分けはできないが、顔の主張が強い奴は覚えやすい。

スバルはフレデリカのことが、密かに気に入っていた。だから――、

 

「御覚悟――ッ!」

 

踏み込んで、律義にお命頂戴と叫んでしまうところも、可愛げがあると思える。

無論、フレデリカのその行動は、カララギ最強の目こぼしはされない。

 

「あ、ぅ!」

 

手にした短刀を奪われ、フレデリカが腕を極められて壁に押し付けられる。それをしたハリベルを、フレデリカは首だけ振り返って、

 

「何故、ですの、ハリベル様!今、混乱に乗じれば、その男を……!」

 

「殺せる。そう考えるんは、僕もよぅわかるよ。弱味を握られてる子ぉらは、スーさんを殺して解放されたくてしゃぁないやろね。せやけど……」

 

そこで、ハリベルは細めた目を開き、フレデリカを睨みつける。その眼光を間近で浴びて、フレデリカの細い喉が鳴った。

 

「生憎、僕は弱味で従ってるわけやない。スーさんには、恩で従っとるんよ」

 

「恩!?この男に、恩?ふざけないで、くださいまし……!」

 

壁に押し付けられたまま、血走った目でフレデリカがスバルを睨む。ただでさえ鋭い牙が肥大化し、その女性の細い指が、太く、強大な獣へと変じていく。

 

「絶対に……、っ!?」

 

「スーさん?」

 

その、懸命に身をよじるフレデリカの傍らに、いつの間にかスバルが立っている。

フレデリカが目を見開き、ハリベルが呼び止めるが、スバルは止まらない。そのまま、フレデリカの必死に持ち上げた腕が、スバルの首を掠める。

 

瞬間、はらりと、スバルが首に巻いていた布切れが舞い落ちて――。

 

「――ひ」

 

フレデリカが、それを目にして喉を引きつらせた。

ハリベルも、初めて見るそれを前に、微かな驚きを露わにする。

 

――ナツキ・スバルの首に、くっきりと残る、指の跡。

 

「ダメだ、フレデリカ。白黒のお前に、殺されてはやれない」

 

「――――」

 

硬直したフレデリカに、スバルは顔を近付け、はっきりと断言する。

あるいは、フレデリカならば、色がつくかもしれないと期待していた。しかし、この瞬間、決定的な瞬間になっても、フレデリカは白黒のままだった。

 

「ハリベルさん……フレデリカを連れて、逃がしてやってくれ」

 

「……スーさん。たぶん、『剣聖』を引き入れた内通者は」

 

「わかってる」

 

身動きの取れないフレデリカを見て、スバルはハリベルの言葉を遮った。

言われずとも、わかる。フレデリカが内々にそうした働きをするだろうことは、あの待遇の果てならば理解できる感情だ。

――否、フレデリカに限らない。彼女でなければ、他の誰かがしていただけ。

それこそ、彼女以外は全て、見込み違いだっただけで。

 

「戻ってこなくていいぜ、ハリベルさん。俺は、俺なりに決着をつけるから」

 

「――――」

 

「俺への恩義を返すなら、ここまででいい。そもそも、あんなの、恩に感じる必要なんてなかったんだ。……俺は、ズルしただけなんだから」

 

首を横に振り、スバルはハリベルに薄く笑いかけた。

ハリベルは、たぶん、スバルに対して真摯に接してくれていた気がする。それでも、ハリベルにも色はつかなかった。

もしかすると、一度失われた色は、戻らないのかもしれない。

 

何かを信じる資格を、スバルが失ってしまったから。

だからもはや、何一つ、世界はスバルに色づいてくれないのか。

 

だとしたら、あとは、縋れるものは――。

 

「スーさんとは、ちゃんと友達になりたかったわ」

 

「……俺が逃げ出してなかったら、なれたかもね」

 

スバルの意思を受け入れ、ハリベルはただ、その短い言葉を別れの挨拶とした。

スバルも、それ以上を彼と交わすのは無粋に感じる。

最後ぐらい、友達になれたかもしれなかった人には、格好つけておきたい。

 

「フレデリカ」

 

「――――」

 

呼びかけに、フレデリカがゆるゆるとこちらを向く。

すでに戦意喪失してしまった彼女に、スバルは伝えるべきか迷ったが。

伝えてほしいと、そう言われていたから、

 

「飯、いつもおいしかったって、伝えてくれってよ」

 

――たぶん、その奇妙な言い回しは、フレデリカに意味がわからなかっただろう。

 

最後まで、フレデリカにはナツキ・スバルが怪物に見えたはずだ。

それでいい。それで構わない。そう見えるように振る舞い、それをやり切った。

見たいはずの結果は、得ることができなかったけれど。

 

「さて、俺はどこへいこうか」

 

ハリベルがフレデリカを連れ、影に沈むように姿を消した。

そうして一人、ナツキ・スバルが、夢の跡地に取り残される。

 

揺れが続くパンデモニウム、おそらくはラインハルトとセシルスの激闘が繰り広げられている証拠だが、遠くから聞こえる複数の声は、攻めてきたのがラインハルトだけでなく、この機に乗じた潜在的な敵もいるのだろうと判断できた。

 

敵、敵、敵。敵ばっかりだ。

そうなるように生きてきた以上、仕方ないのだが。

 

「――――」

 

スバルは正面、分かれ道に達して、どちらへ向かうかわずかに迷った。

右へいけば、弱い自分が拠り所にしていたエミリアの寝所。

左へいけば、弱い自分が拠り所にしていた、彼女の――。

 

「――ぇ」

 

どちらへ、その選択肢に顔を上げた瞬間だった。

 

駆け寄ってきた何者かが、スバルの左脇に鋭い刃物を突き立てていたのは。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

見知らぬ城の、見知らぬ景色の中を、裸足のエミリアが走っていく。

 

約一年を過ごしたパンデモニウムだが、エミリアが知る城の光景は白い私室だけ。部屋の外のことも、建物の外のことも、エミリアには全てが慮外のことだった。

そしてそれは今も変わらない。エミリアの関心は世界にはない。

 

今、エミリアの関心が向くのは、自分を求め続けた少年、ただ一人だけだった。

 

「――エミリア様!」

 

名前を呼ばれ、ハッとした顔でエミリアは足を止めた。

あちこちが崩落し、原形を失いつつあるパンデモニウム。窓がひび割れ、傾く白い廊下でエミリアを呼び止めたのは、燃える赤毛を頂く青い目の青年だ。

 

「ラインハルト……」

 

「ご無事でしたか、エミリア様。またお目にかかれて何よりです」

 

こんな場にあっても、騎士の礼を貫き通す姿勢は勇ましく、あまりに気高い。

見つけたエミリアの下へ駆け寄り、頭を垂れる青年、ラインハルト・ヴァン・アストレアの姿に、エミリアは紫紺の瞳を戸惑いで揺らしていた。

 

「ラインハルト、ひどい怪我よ。大丈夫なの?」

 

「ご心配には及びません。軽い傷、とはさすがに言えませんが」

 

そう言って、エミリアの言葉にラインハルトが唇を緩める。

だが、そのラインハルトの姿は、彼にあっては想像もできない満身創痍の状態だ。

 

体中に無数の剣閃を浴びた刀傷が走り、今も止まらない出血が白い廊下に点々と血の雫を落としている。精悍な顔立ちの頬には乱れた赤毛が張り付き、呼吸を乱したところを見たこともない横顔には、確かな疲労の色があった。

騎士の白い制服は自他の血に塗れ、何より驚くべきなのは――、

 

「あなたの、剣が」

 

「ここは、『龍剣』が抜かれるべき場面だと、剣が判断したのです」

 

決して抜かれることのない聖剣、アストレア家に伝わる『龍剣』レイドが白く輝く。

その鮮やかな美しい刀身を目にして、エミリアはごくりと息を呑んだ。

その刃がいったい、この城の誰に対して振るわれ、これから振るうつもりなのかと。

 

「とにかく、エミリア様がご無事でよかった。……僕と一緒に、ここを離れましょう。城の外に竜車があります。それで、ルグニカへ」

 

「ルグニカに……ここは、どこなの?」

 

「ここは、カララギ都市国家の果てにある、ギラル赤丘の隠れ城……居場所を掴むのに苦労しましたが、腕利きの諜報員と、内通者のおかげで何とか」

 

エミリアの質問に応じながら、ラインハルトは周囲を警戒している。

今も、揺れが続くということは、この城のどこかで戦いが起きている証拠だ。ラインハルトからすれば、味方の援護に向かいたいところだろう。

いかに傷だらけであったとしても、それでも彼は王国最強――否、世界最強の男だ。

 

彼にかかれば、パンデモニウムを落とすことも時間の問題。

彼さえいなければ――。

 

「エミリア様、今はこの場を――」

 

急いで離れましょう、とラインハルトは続けようとしたのだろうか。

だが、その言葉は、背中を向けていたエミリアの行動によって、唐突に遮られた。

 

「――――」

 

一瞬のことだった。

 

ラインハルトの腹部を、背後から氷の剣が貫通する。青白い氷の刀身を血が伝い、内臓を破壊と氷結に侵され、『剣聖』がかつてない衝撃に血を吐いた。

 

「エミリア、さま」

 

「あ」

 

何事が起きたのか、理解できずにいるラインハルトが膝をつく。その様子を目にしながら、エミリアは呆然と、自分の白い指を見た。

自分が何をしたのか、それこそ、本当に思わぬ行動だったことに唖然として。

 

――これが、エミリアの本心からの裏切りであれば、ラインハルトは防いでいた。

 

敵意や殺意を込められた攻撃であれば、ラインハルトの直感を潜り抜けられない。あるいは加護がまともに働いていれば、やはりラインハルトの防備を貫けなかった。

しかし、ここがパンデモニウムであったことと、エミリア自身が自分の心を御し切れなかったこと――それが、ラインハルトに致命的な隙を与えた。

 

「だ、め……ダメよ。スバルは、ダメなの。ラインハルト、ダメよ。スバルは、傷付けさせない。スバルには、私が、必要なの……」

 

嫌々と首を横に振りながら、エミリアは自分の行動の真意を裏付けていく。

とっさの行動、とっさにラインハルトを自分が攻撃した理由、それは彼の存在がパンデモニウムを壊し、ナツキ・スバルを追い詰めると本能的に悟ったから。

そしてその悟りを、本能的に止めなくてはと考えてしまったから。

 

エミリアは無意識に、スバルを守るために、ラインハルトを殺すしかなかった。

 

「スバルは、私が……」

 

事、ここに至ってようやく、エミリアは自分の心を理解する。

幾度も幾度も、スバルが自分の下へやってきて、安らぎを得ようとする姿を見つめ続けて、そんな時間を過ごす内に、エミリアもまた、救われていたのだ。

 

――スバルがエミリアを必要とするように、エミリアもスバルが必要なのだ。

 

「私が、守る。私が、スバルを守ってあげなきゃ……」

 

「エミリア様、それは……」

 

「――パック!お願い!」

 

轟、と凄まじい冷風が溢れ出し、銀色の髪が白い廊下に美しくはためく。

いっそ、殺意に昇華された身を切る極寒の風を浴び、ラインハルトは血の線を宙に引きながら大きく後ろへ跳んだ。そして、咳に吐血を交えながら剣を構える。

 

空を映した青い瞳に、『氷結の魔女』と『終焉の獣』が並び立つ。

 

『悪いね、ラインハルト。リアの願いは、ボクの望みだ。――君がそこまで弱ってるなら勝ち目もある。ネコ科っぽい残酷さでしょ?』

 

「お願い、ラインハルト。このまま帰って。私と、スバルのことは放っておいて」

 

「――それは、できません」

 

この期に及んで、穏便な解決法を探ろうとするエミリアに、ラインハルトは首を振る。

すでに交渉は決裂している。背後から不意打ちを浴びせたときに――否、あるいはラインハルト自身は、傷のことなど考慮せず、状況が許せば和解に応じたかもしれない。

しかし、ラインハルトの信念が、すでにそれを許さないところへきている。

 

「結社『プレアデス』代表、『粛清王』ナツキ・スバルはすでに、ロズワール・L・メイザース元辺境伯を始めとした王国民、並びにヴォラキア帝国、カララギ都市国家、グステコ聖王国の臣民を、合わせて十二万六千七百二人、死なせています」

 

「――――」

 

「直接的な被害だけでその数。間接的な被害を含め、命以外の被害者を上げれば、その数はさらに膨れ上がる。とても、見過ごせる悪ではありません」

 

ラインハルトの言葉には、真摯な響きと懇願があった。

自分の言葉を聞いて、ナツキ・スバルの悪行を知ることで、エミリアの心変わりを願うような響きがあった。

事実、エミリアは衝撃を受けていた。私室にこもり、あくまでスバルの寝顔を眺めることだけが役割だったエミリアは、彼の悪行を一つも知らなかった。ロズワールを死なせ、自分を連れ出したことには薄々勘付いてはいたが。

 

そして、その衝撃を経て、エミリアは俯く。

衝撃、確かに衝撃はあった。だが、エミリアが抱いた衝撃は、スバルが犯した罪の重さと多さへの落胆ではなく――、

 

「――ごめんなさい、ラインハルト。私はそれでも、スバルが大事なの」

 

その悪行を知った今も、ナツキ・スバルへの執着が薄れない、自分自身への衝撃。

エミリアの立ち位置は、真実を知っても変わろうとはしなかった。

 

「――っ」

 

それを口にしたエミリアに、ラインハルトは唇を噛んだ。それから、彼はすぐに顔を上げると、抜き放たれた龍剣を正面へ構え、

 

「――『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

「私はエミリア。ただの、エミリアよ」

 

互いに名乗り合い、次の瞬間、白い衝撃波がパンデモニウムの最上層を破壊する。

救われるはずの囚われの姫が、救いにきた剣の騎士と、殺し合いを遂げて。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「く、そ……くそったれ……あの、クソ、ボケ……!」

 

崩壊する城の中を、スバルは悪態をつきながらよたよたと走っていた。

ふらつく足下、ぽたぽたと滴っていく鮮血――左脇には、刺客に襲われた際のナイフが突き刺さったままで、脳髄を延々と痛みがデンプシーロールしている。

 

「あの白黒野郎……次があったら、絶対に殺してやる……!」

 

脂汗を掻きながら、廊下の壁を頼りに進み続けるスバルは、最後のダメ押しをしていった挙句、トドメはくれずに逃げた刺客を――応接間で消えたはずの男を、思い浮かべた。

 

『これ以上は僕の仕事の範囲外ですので。ナツキさん、お足下にお気を付けて』

 

敵中で大将を斬りつけ、あの逃げ足と語り草は見事の一言――などと、敵を称えるような趣味はスバルにはない。

的確に、やられて嫌なことをやっていく男だった。純粋に屈辱感と、あの難敵を見落としていた自分の迂闊さへの失望が憤怒に変わる。

 

だが、その激情の発散も、この状況では果たされそうにない。

 

「似合いの最後、似合いの末路か……」

 

じくじくと、火傷のように痛む左脇に手を当てながら、スバルは陰鬱に呟く。

自分のしてきたことを思えば、いつか報いを受けることは確実だとわかっていた。それでも、その報いを受ける瞬間を地獄まで先延ばしにするのが理想だったのだが、所詮は凡人の浅知恵――始めてから三年も経たずに限界とは、情けない。

 

独裁者の迎える末路なんてそんなものだ。

疑心暗鬼の果てにやりすぎたことも、その滅びに拍車をかけたことは違いない。

 

しかし、後悔はなかった。

あれをしていればこれをしていれば、なんてわかりやすい修正点も見当たらない。

間違っているのは最初からわかっていて、正そうと考えたこともない。ただ、間違っているなりの生き方があるだろうと、スバルは足掻いていただけだ。

 

溺れていただけ。溺れていたものが、息継ぎに懸命になっていただけ。

ただそれだけで――、

 

「――スバル」

 

「――――」

 

血の跡をつけながら、廊下を這うような速度で進むスバルを誰かが呼んだ。

 

一瞬、その声の正体がわからず、スバルは眉を顰める。――心当たりがなかったわけではない。ただ、その声が、ここで聞こえる理由がわからなかった。

だって、彼女の私室はこことは真反対の位置にあって、外へ逃げるためならば、こんなところへやってくる理由なんてないのだから。

だから――、

 

「う、ぉあ!」

 

「よかった、スバル……ちゃんと会えた……っ」

 

「エミリア……?」

 

駆け寄ってきたエミリアに飛びつかれ、廊下に押し倒されて、その美しい顔を至近で眺めて初めて、スバルはそれが現実であると受け止めた。

 

白黒の世界に、銀色と、紫紺と、桜色の唇と、色が、ついていく。

エミリアだけがまるで、世界で唯一だと教えてくれるように、色づいている。

 

「――でも、なんで」

 

色づくエミリアの姿に、しかしスバルは状況が理解できない。

確かな温もりが、痛いほどの抱擁が、エミリアからスバルに与えられる。

いつだって、エミリアを求めるのはスバルの方から一方的で、そんな彼女がどうして、こんな状況になってスバルの下へ――、

 

「……エミリア、その怪我って」

 

「――。大丈夫、だから。ホントに、何ともありません。へっちゃらよ」

 

抱き着くエミリアを改めて見れば、微笑んで強がる彼女は傷だらけだった。

美しい銀髪は乱れ、一部を切り落とされて不揃いの状態になっている。白い薄手の寝衣はほつれと血で汚れ、素足にも痛々しい裂傷がいくつもあった。

 

こんな風にならないように、彼女の私室には無数の防衛策を施しておいたはずだ。

それに、彼女がこんな目に遭うことを許さない精霊が、一緒にいたはずで。

 

「パックは何をしてたんだよ……」

 

「パックは……ううん、その話は、今は、いいの。今はいいから……」

 

「――?」

 

一瞬、エミリアの瞳を逡巡が過ったが、それはすぐに閉じた瞼に隠される。

その反応をスバルは訝しんだが、次にエミリアが瞼を開いたとき、垣間見えた逡巡はどこにもなかった。

 

「スバル、一緒に逃げましょう。今なら、誰も私たちを追ってこれないから」

 

「――逃げるって、俺と?」

 

「そうよ。他に誰がいるの。変なこと言わないの」

 

少しだけ怒った風に、エミリアがスバルの鼻を指でつついた。それがあまりに場違いな仕草に思えて、スバルの頭上を疑問符が飛び交い続ける。

そもそも、エミリアはスバルのことを、疎んでいたはずだ。

 

「それでも、君が優しいから、俺はそれに甘えてただけで……」

 

「――そう、だったのかな。私も、そうだったらって思ってたけど」

 

「エミリア?」

 

胸に手を当てて、エミリアが寂しげに、儚げに目尻を下げる。

その胸を、脳裏を過るのは、スバルが彼女を連れ去って、ここで過ごした日々だろうか。足繁く通う憎い相手の寝顔を、見つめ続けるしかなかった時間だろうか。

あの時間にスバルは救われていて、しかしエミリアには屈辱のはずで――。

 

「私、スバルに怒ってたと、思う。でも、それってホントに最初だけで……あとは、ずっとスバルに助けられてたって、思うの」

 

「俺に、助けられてた……?」

 

「私を、スバルが必要としてくれたから。誰にも必要にされないって、そんな風に諦めてた私を、スバルが許してくれた気がして、だから……」

 

共依存、そんな単語がスバルの脳裏に浮かび上がった。

スバルが、エミリアの存在を心の安定に必要としたように。エミリアもまた、あの時間の必然性を自分の中に求める間に、そんな結論に思い至った。

それ故に二人は、互いに互いを必要とする、共依存の関係に陥ったと。

 

「スバルと、一緒にいたいの。だから、逃げましょう?」

 

「……そう、言ってくれるのは、嬉しい、けど」

 

たどたどしく応じながら、スバルはいまだ、エミリアの告白が受け止めきれない。

衝撃に打ちのめされる心中、それを余所に、思考は現実的な解答を導き出す。

 

エミリアが言ってくれるように、彼女と逃げるのは不可能だ。

ラインハルトがきている。彼を、セシルスが押さえてくれているとしても、城の外には『粛清王』の討伐を求め、多くの敵がひしめき合っているはずだ。

 

もはや、城の外にはスバルの味方はいない。潜在的な敵を抑えるための数多の手管も、この状況では機能しない。潜在的な敵は、確かな敵となって立ちはだかる。

 

エミリアを連れて逃げるなど、全く現実的ではない。

ナツキ・スバルはここで終わりだ。ここで、終わって――、

 

「――だったら、一緒に死んであげる」

 

「――――」

 

瞬間、スバルは腹を刺されたときより、ラインハルトが登場したときより、終わりを悟ったときよりも、呆けた。

 

微笑むエミリアが、スバルを見つめて、慈しみと、確かな親愛を込め、言った。

ナツキ・スバルが終わるならば、エミリアもまたここで――、

 

「一緒に終わってあげる。あなたが、必要としてくれない場所に、私はいたくない」

 

「――ぁ」

 

「お願い、スバル。あなたが、必要なの。私と、一緒にいてほしいの」

 

胸に、エミリアが縋り付いてくる。熱い雫と吐息の感触を味わって、スバルは普段とは真逆の触れ合いで、自分が必要とされていることを強く実感した。

自分が、エミリアに縋り付くように、エミリアがスバルに縋り付いている。

 

ずっと、スバルはエミリアを必要としていた。彼女に、救われていた。

だから、エミリアがスバルを必要として、救いを求めてくれている今が。

 

エミリアが、スバルを必要として、救いを求めてくれている、今が。

今が、今が、そんな瞬間が、くることなんて、考えたことも――。

 

「スバル……?」

 

縋り付くエミリアの肩を掴んで、スバルは彼女を押しやった。

そして、凝然と目を見開く彼女の前で立ち上がり、スバルは後ろに下がる。

 

エミリアが、スバルを見上げている。

そんなエミリアに、スバルは唇を震わせ、言った。

 

「う、そだ……」

 

嫌々と、首を横に振り、スバルはエミリアを――恐怖の目で、見ていた。

 

「すば、……」

 

「嫌だ、やめろ、やめてくれ。なんで、俺を、今さら、なんで!やめろ!やめろやめろやめろ!やめてくれよぉっ!!」

 

恐怖、恐怖だ。

恐怖があった。恐怖しかなかった。恐怖だけがあった。恐怖だけなのだ。

恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖――。

 

『――そんなに魔女の臭いを漂わせて』

 

耳を塞ぐ。

頭を抱える。

声を、絶叫を上げて、聞こえる声から逃げようとする。

 

『――無関係だなんて白々しいにも限度がありますよ』

 

耳を塞ごうと、

頭を抱えようと、

声を、絶叫を上げようと、逃げようとしても、逃げ切れない。

 

『――姉様は、優しすぎます』

 

「そんなこと、俺が知るかよぉぉぉぉぉ――ッ!!」

 

血を吐くほどに絶叫し、スバルは後ろへ後ずさる。

エミリアが立ち上がり、何事か語りかけてくる。聞こえない。

甘い、甘い、優しい言葉で、スバルに寄り添おうとする。聞こえない。

彼女の言葉が、声が、聞こえてこない。聞きたくないのだ。

 

甘やかすな。優しく接するな。

どうして、今さら寄り添おうとする。

そんなことは不可能なはずだ。

いったい、どれだけ悪行を重ねてきたと思っている。

それを、許せるエミリアではないはずだ。

なかったはずだ。

それを変えてしまったのか。

 

スバルが縋り付いて、情けなく鼻水を垂らして、眠れぬ夜をエミリアに頼ることで乗り切ることで、ナツキ・スバルの愚かしさが、エミリアを変えてしまったのか。

 

エミリアも、変わるのか。

 

「俺を!嫌っていてくれたらよかったんだ!俺を、疎んでいてくれたらよかった!」

 

「――――」

 

エミリアが、色褪せていく。

エミリアから色が抜け落ちて、白黒の世界へ沈み込んでいく。

 

嘘だ、嘘だった。欺瞞が、スバルの世界を色褪せさせていく。

銀色が、紫紺が、エミリアを構成する、スバルの信じる美しいエミリアを構成する色が抜け落ちて、彼女が欺瞞の白黒へと染まっていく。

その現実が受け止めきれない。エミリアは、尊く、変わらないはずだった。

 

憎い相手であっても、縋り付く相手を遠ざけられない。

彼女の優しさが、そうした心の表れだと信じていたから、彼女はスバルを許してなどくれないと、そう信じていられたから、スバルはエミリアに溺れることができた。

 

だが、エミリアもまた、変わるのだと理解してしまったら――。

 

「優しくなんて、するなよ……!」

 

「どうせ、俺のことを、嫌いになるんだろ。疑うんだろ?俺が邪魔になって、殺したいと思って、憎んで、呪って、裏切るんだろ!?」

 

「だったら、最初から俺を憎んだままでいてくれよ!変わらない、そのままであってくれたらそれでよかったんだよ!憎んだら、そのままだ。憎んだら、そのままで……!」

 

込み上げてくる、怒りが。

何もかもが、うまくいかぬ世界への、怒りに、溺れていく。

 

溺れる自分を救いたいと、必死に足掻いて、息継ぎを繰り返してきたのに、ここへきてついに、エミリアさえも、スバルを裏切った。

 

――変わるものは、いつか裏切るのだから、今、裏切ったも同然なのだ。

 

「いつか俺を裏切るくせに、俺を愛したふりなんか、しないでくれよぉ!!」

 

「――っ」

 

ふらふらと、スバルへ手を伸ばしたモノクロのエミリアを、突き飛ばす。

思い切りに後ろへ突き飛ばして、支えのないエミリアが廊下に倒れ込んだ。刹那、胸に躊躇いが過ったが、スバルはそれを恐怖で塗り潰す。

 

エミリアすらも、もはや安らぎではないのだ。

いつか、くるかもしれないと、本当に最後の可能性として考慮していた事態が、きてしまった。――必要とされるなどと、そこまでは考えていなかったが。

 

――エミリアは、いつか、スバルを許してしまうかもしれない。

 

そんな日がこなければいいと願っていたが、それは、やはりきてしまった。

だからスバルは、もう、この白と黒の二色しかない世界で、最後の手段に縋る。

 

「――!!」

 

倒れたエミリアが、何事か叫んでいる。

それを背中に追いやって、スバルは走り出した。

 

脇腹の痛みも感じない。もはや、そんなものにすら頓着しない。

あるものは、終わりへの意思だけ。スバルの色づく世界は、全て掻き消えて。

 

残っているものは、ただそれだけ。

溺れるナツキ・スバルが縋れる、最後の藁は、それだけ――。

 

――決して、変わらないものを、スバルを、許してはくれない憎悪を。

 

「――!!」

 

半狂乱になるエミリアの声は、半狂乱になるスバルに届かない。

魔境は、パンデモニウムの崩落は、主の心の崩壊と同じく、加速度的に進んでいく。

 

壊れていく世界で、色をなくしていく世界で、スバルは辿り着く。

 

「――――」

 

壊れ切っていない、ナツキ・スバルの執務室だ。

エミリアの私室に負けず劣らず、強固な防護が施された一室――それは、エミリアと同じように、絶対に壊されてはならないものが、この部屋にあるから。

 

傷付けたくないから、遠ざけたエミリアと真逆に。

最も自分の身近な場所に置き続けた、それを、スバルは開放する。

 

書棚の後ろに隠された扉は、真に、スバル以外には開けることのできない扉だ。

それを、スバルはゆっくりと開放する。

 

開かれた扉の向こうで、鎖の音が、壁と繋がれる鎖の音が、鳴り響く。

そして、鎖の音を奏でながら、『薄紅』の瞳がスバルを見つめて、言った。

 

「――やっと、死にたくなったの、バルス」

 

――憎悪だけを理由に、自分を殺してくれる女の微笑は、血の色をしていた。

 

『ゼロカラオボレルイセカイセイカツ』Fin