『ゼロカラツギハグイセカイセイカツ』


 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、ツギハギしながら今も、未完成のままで――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

 

その問いかけに、少女、アミュー・シアーズは小さく息を呑んだ。

 

それは何の変哲もない、とりとめもない質問だった。

答えるのにだって、さして時間も覚悟も必要としない退屈な質問のはずだ。

知っているなら知っている。知らないなら知らない。それだけでいい。

 

「――――」

 

しかし、字面で見ればそれだけの質問に、アミューは声が出なかった。

 

人生とは選択の連続だ。

それはまだ、十四歳になったばかりのアミューであっても、短い生涯の中の実体験として十分に思い知った真実である。

 

人生とは、何事においても決断しなくてはならない。

それは日常の些細なことから始まり、あるいは人生を左右するような大きな決断まで様々だ。だが、事の大小を抜きにしても、人生とは全て決断でできている。

 

そして今、アミュー・シアーズに投げかけられたのは、彼女の十四年の生涯の中で最大の重みを持った問いかけであり、あるいは彼女の人生で最大の決断かもしれなかった。

それこそが、直前に投げかけられた、さしたる特別感もない退屈な質問。

 

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

 

重ねられた問いかけが、アミューの喉を締め上げていく。

ただ、問いを投げかけた当人には、どうやらそんな意図はないらしい。今一度、質問を繰り返したのも親切心、そんな配慮が感じられたのが何ともアンバランスだ。

 

アミューを苦しめているのが質問者なら、アミューを最も案じているのも質問者。

本当に、彼が求めているのは質問の答えだけなのだと、それがわかる。

だからこそ、アミューは何の手掛かりもなく、正しい選択肢を手探りで模索し、内なる自分自身との対話の中で見つけ出す他にない。

 

――果たして、何と答えることが正解なのか。

 

知っているのと、知らないのと、どちらが質問者の期待に適っているのか。

あるいは知らなくても、知っていると答えた方がいいのか。知っていても、知らないと答えた方がいいのか。――不自由な二択に、アミューの心は悲鳴を上げる。

 

「――なぁ、君は、俺の、名前を、知っているか?」

 

焦れたように、繰り返される問いかけの文節がより細かに区切られた。

言葉が通じていないとでも不安視されたのか、そんな不安がアミューの胸中を掻き毟った。正直、『はい』とも『いいえ』とも答えられないことが、質問者の意図に適うことだけは絶対にありえないと確信ができる。

 

何も言わないままに、答えを出さないままに、決断をしないままに、終われない。

解放はされない。――それだけは間違いなかった。

 

「――――」

 

声を出せないまま、すぐ真正面にある黒瞳を見つめ返し、アミューは思案する。

空っぽに見える黒瞳の中、憔悴したアミュー自身のひどい顔が見えた。

 

わざわざ声に出して言ったりしないが、それなりに見られる方だと自覚していた自分の容姿は見る影もなく、ただただ目の前の質問者の支配力に怯え、竦んでいる。

まるで数十歳も一気に老け込んだように、アミューの顔は疲れ切っていた。

このまま、問いかけの圧力だけで死んでしまいそうなぐらい、弱々しく――、

 

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

 

ふと、死を思わせる圧迫感が、かえってアミューに希望を抱かせた。

息苦しく、胸が潰れそうな感覚を味わいながら、質問に答えることでそれから解放されるのではないかと、そんな予感がアミューを支配したのだ。

そう考えた途端、全身を支配していた重苦しい感覚が薄れていくのがわかる。

 

何を答えればいいのか、という疑心暗鬼の圧迫感からくる息苦しさ。そこから解放されたいがために、最初の問いかけへの不安感を噛み殺す。

それは一種の自己防衛本能だったのかもしれないが、この瞬間のアミューには少なくとも天啓に思えた。故に、彼女は唇を震わせ、改めて黒瞳を見つめ返した。

 

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

 

問いかけに答えることで、この瞬間の息苦しさから解放される。

その一心で、アミューはついに、痙攣する舌を動かして、言葉を紡いだ。

 

「い、いいえ……」

 

知らないと、アミューは自分の心に従い、そう答えた。

それまで延々と、頭の中をぐるぐると回っていた選択肢から思考を離して、彼女は純粋な心境で質問に答えた。

 

事実、彼女は目の前の質問者の名前も、顔も、知らなかった。

辺鄙な片田舎、いわゆる辺境と呼ぶべき場所で暮らしている彼女には、遠く、音に聞こえた王国の一大事すらも遠い場所の出来事のようで。

だから、どんな大人物であろうとも、彼女にとっては見知らぬ他人――、

 

「――そうか」

 

短い一言だった。

その一言に込められたものが感慨なのか、落胆なのか、その区別もできない。

ただ、アミューの決断は為された。あとは、質問者の方の問題だ。

 

人生が選択と決断の連続であるなら、それは誰にとっても同じこと。

アミューが選んだように、質問者もまた選ぶ。

 

「――――」

 

ただ静かに、十四歳の少女は、質問者の選択を待った。

 

――もう、自分以外の誰もいなくなってしまった村の真ん中で一人、答えを待った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『ねえ、スバル。そろそろ、お昼の時間にしない?』

 

その呼びかけに足を止めて、ナツキ・スバルは自分の腹をさすった。

時刻はすでに昼を回って、言われてみればそれなりに空腹感を覚えている。言われるまでにそれに気付かなかったのは、無心で歩くことに集中していたからだ。

歩くことに集中しなくてはならないぐらい、街道は長く長く、ずっと続いている。先々のことを思えば、気が重くなるぐらい、途方もなく長い道のりだった。

 

「とはいえ、休憩は大事だよな。悪いね、エミリアたん。疲れさせちゃった?」

 

『ううん、私は全然へっちゃらよ。でも、ずっと歩いてるスバルの方が心配だなって思っただけ。何ともなかったならいいんだけど……』

 

「いやいや、ちょうど俺もお腹がペコペコだったとこだよ。危うくお腹と背中がくっつくとこだったぜ。ふー、危ない危ない」

 

『そうなの?それって、すごーく危ないところだったのね……』

 

大げさに腹を押さえたスバルの答えを聞いて、銀髪の少女――エミリアが口元に手を当ててくすくすと笑った。

まるで銀鈴のような声音で、この世で最も愛らしい顔立ちの少女が微笑む。その笑顔を間近にしながら、スバルは自分の頭を掻いて、やはり唇を綻ばせた。

と、そんな二人の横合いから――、

 

『あんまりエミリアをからかうんじゃないかしら。どんなに腹ペコでも、お腹と背中がくっつくなんてことありえないのよ』

 

「おっと」

 

声の方に振り返ると、そこには短い腕を組んですまし顔をしたベアトリスがいる。華やかなドレス姿の少女の指摘に、スバルはふっと瞳を細めた。

それを見て、ベアトリスが『何かしら』と形のいい眉をきりりとさせる。

 

『そのスバルの顔、なんだか気になるのよ。どうしたのかしら』

 

「お前が腹ペコって言ったのが可愛かったんだよ。もう一回言ってくれ」

 

『むきーっなのよ!変なとこに引っかかるんじゃないかしら!』

 

顔を赤くして、ベアトリスがスバルの益体のない軽口に噛みつく。そんなベアトリスの様子に、スバルとエミリアは顔を見合わせて笑い合った。

それを見て、ますます頬を膨らませるベアトリスが愛らしい。――この感覚は、確かに間違いないものだ。これを直接伝えたら、彼女のご機嫌を損ねるだろうことも。

それを確認してから、スバルは「よし」と自分の袖をまくり、

 

「それじゃ、エミリアたんのお気遣いに甘えて、飯の時間にするか。今日のところは俺が腕を振るわせていただこう。ご要望は?」

 

『あ、じゃあ、私、マヨネーズ使ってほしいな。ほら、ちょうどラムがマヨネーズを作り直してくれてたでしょ?』

 

「はいはい、エミリアたんのご注文なら喜んでー!幸い、ラムのおかげで備蓄はたっぷりあるからな。あいつも、ようやくマヨネーズの魅力に気付いて……」

 

『――馬鹿なことを言うのはやめなさい』

 

「うお!?」

 

背負っていた荷物を下ろし、街道の外れに野営地を作り始めるスバル。その傍らにざっと細い足が立つのを見て、驚くスバルを薄紅の瞳が見下ろしていた。

己の腕を抱く、勇壮たる立ち姿。それはメイド服を纏いながら、おもてなしの精神と一切無縁の眼差しを持つ少女――、

 

「いきなりご挨拶だな、ラム。せめて最後まで言い切らせろよ」

 

『ハッ!笑わせるのはやめなさい。ラムがマヨネーズ作りに手を貸すのは、あくまで業務命令だからよ。ラムがあんな白くて酸っぱいだけの調味料に心を許す?おぞましい』

 

「おぞましいは言いすぎだろ!大体、お前だって蒸かし芋にマヨネーズを使うことの破壊力は否定できねぇはずだ!あの味を嘘だとは言わせねぇぞ!」

 

塩気を孕んだホクホクの蒸かし芋に、たっぷりとマヨネーズを塗り込む味わい。

舌を支配する甘美で禁忌な味わいは、マヨネーズを嗜むものならば誰もが一度は味わうべき桃源郷――芋とマヨネーズの間には決して薄れ得ない極上の相性がある。

その見事な調和、味のハーモニーを思い出し、スバルの喉が鳴る。スバルのすぐ隣では同じ味を想像したのか、エミリアとベアトリスの目が輝くのが見えた。

 

「見ろ、あの二人の可愛い食いしん坊の反応を!これでもまだ、マヨネーズを邪道とそしれるのか!」

 

『……そうね。バルスの言う通りだわ。蒸かし芋の素晴らしさは、あのマヨネーズなんて得体の知れない調味料にさえも価値を与えてしまうのね』

 

「そっちじゃねぇよ、逆だよ!いや、逆って話でもねぇけど、強情だな、姉様!」

 

あくまで、マヨネーズではなく、蒸かし芋の貢献が大きいのだとラムは譲らない。

その頑なな姿勢にスバルは拳を震わせたが、そんな二人の間に『まあまあ』とエミリアが苦笑気味に割って入った。

 

『スバルったら落ち着いて。私、蒸かし芋もマヨネーズも、蒸かし芋にマヨネーズを乗せた料理もどっちも好きよ。それに、ラムはちょっと素直になれないだけだから』

 

『……エミリア様、勝手にラムの考えを代弁した気になるのはやめてください。エミリア様の言い方だと、ラムの対象年齢が下がります』

 

『え、ごめんね。でも、対象年齢って……?』

 

ラムの理不尽で難解な物言いにエミリアが困惑する。

しかし、二人のやり取りに滲んでいるのは険悪感ではなく、隠し切れない信頼と親愛の情だった。

これで存外、エミリアとラムは理想的な関係を築けている。主従関係と呼ぶには、ラムの方に従の自覚がなさすぎるのが微妙に問題だが、それ以上の絆が二人にはあった。

それを、他ならぬスバルはよくわかっている。

ともあれ――、

 

「姉様には悪いが、エミリアたんのお言葉は全てに優先する。それがこのパーティーのスタイルだ。ってわけで、今日の昼食はマヨネーズ尽くしで決定!」

 

『わーい、やったっ』

 

エミリアが嬉しそうに手を叩くと、ラムがげんなりとため息をつく。それでも、それ以上食い下がらないあたりに、ラムも十分、エミリアには甘いのがわかる。

無論、スバルは生粋のマヨラーであるため、この献立は判官びいきである。

 

「もちろん、ベア子は俺と同じでマヨネーズ大好きだもんな。嬉しいだろ?」

 

『否定はしないのよ。でも、見透かした風な言い方は腹立たしいかしら。ベティーのこの怒りは簡単には晴れないのよ。その分、おいしいご飯を所望するかしら』

 

「へへー、仰せのままにー」

 

薄い胸を張り、可愛い注文を付けてくるベアトリスにスバルは一礼。その芝居がかった態度を見て、エミリアたちが満足げにするのを確かめてから、食事の準備に取り掛かる。

とはいえ、野外での食事にそこまで凝ったことはできない。もちろん、魔法の力を使えばそれなりに火や水を利用することが可能なのだが、

 

『ごめんね、スバル。ちゃんと手伝ってあげられなくて』

 

「謝る必要ねぇって。それこそ、ここが俺の工夫の見せどころってヤツだろ?逆に、思わぬ発想力を見せる俺に惚れ直してくれていいからね」

 

『もう、バカなんだから』

 

薄く微笑むエミリアに笑い返し、スバルは今ある材料で食事に趣向を凝らす。

食事は日々の活力だ。ここに手を抜くことはしたくない。荷の中身を確認して、スバルはできるだけ全員の要望に応えられる食事の準備に腐心した。

 

同行する面々は全員、食事をおいしそうに食べてくれる顔ぶれだ。

これまであまり考えたことがなかったが、作った料理をおいしそうに食べてもらえるのは喜ばしいことだ。作っている側にとってもモチベーションに繋がる。

 

こんな簡単なことでいいのなら、もっとちゃんと、母に喜びを伝えるべきだった。

 

『ふんふんふん……』

 

そんな感慨を頭の片隅に置きながら、スバルは炊事する手元を覗き込んで楽しげなエミリアたちの姿に頬を緩める。鼻歌なども聞こえる。音痴だ。

 

『あらあ、今日の食事係はお兄さんなのねえ。ちょっと不安だわあ』

 

そうして食事の準備をしていると、ひょっこりとメィリィが顔を出した。彼女は自分の濃い青の三つ編みを指でいじりながら、年齢に見合わぬ艶めいた眼差しをスバルへ向ける。その嫣然とした視線に、スバルは胡乱げな目つきで見返した。

 

「不安ってなんだ、不安って。そんな生意気なこと言う子には食べさせてやらねぇぞ」

 

『やあだ、それって虐待だわあ。それに、お兄さんって何でもあのマヨネーズって調味料を漬けようとするでしょお?わたし、あれあんまり好きじゃないのよねえ』

 

「な、なんだと……お前まで、マヨネーズの魅力がわからないだと……!?」

 

『そんなこの世の終わりみたいな顔しないでよねえ』

 

愕然とした顔をするスバルに、メィリィが呆れた様子で嘆息する。が、彼女の受け答えにスバルが受けた衝撃は計り知れない。

この世の終わりとまではいかなくとも、気付いたら今年の終わりぐらいの衝撃は受けた。

 

『それでも、いささか大仰に受け取りすぎだろう。メィリィ嬢はただ、どんな食材にもマヨネーズを合わせようとする君の姿勢に歩調は合わせられないと、そう言っているだけだ』

 

「む……」

 

マヨネーズを拒絶する姿勢を見せるメィリィ、そんな彼女の発言をフォローしたのは、その歩き姿さえ優麗に思える美丈夫、ユリウスだ。

こちらへやってくるユリウスは、ふっとスバルに笑いかけると、

 

『付け加えれば、私もメィリィ嬢に同意見だ。マヨネーズ自体はそう悪いものでもないが、あらゆるものに付け合わされれば最初の感動も薄れる。自重したまえよ』

 

「チクチクとうるせぇ奴だな。今のは俺とメィリィの問題なんで、わざわざ口を挟んでいただかなくても結構なんですけど」

 

『集団の健全な環境を保つのも、その中の一員としての役割だろう。不和の種を見逃した結果、それが蕾となり、花開くことがあっては悔やんでも悔やみ切れない。そうなる前に忠言するのは私の義務と、そのように受け止めているのだが?』

 

「ああ言えばこう言いやがる奴だな、お前は!」

 

いちいち迂遠な言い回しでスバルの浅慮をつつくユリウス。彼の言行にやり込めれそうになって、スバルは苛立たしげに語気を荒くした。

と、そんな二人のやり取りを聞いていたエミリアが『ふふっ』と笑い出し、

 

「エミリアたん?」

 

『相変わらず、スバルとユリウスはすごーく仲良しね』

 

微笑ましいものを見つめるエミリアの視線に、スバルはげんなりと肩を落とした。同じ立場のユリウスも、自分の前髪に触れながら片目をつむっている。

このタイミングだけ、スバルとユリウスの意見は一致を見ているようだが、その意見とエミリアの受け取り方にはずいぶんと落差がありそうだった。

彼女の宝石のような紫紺の瞳には、今のスバルとユリウスのやり取りが仲良しこよしの一幕に見えているらしかったので。

 

「あのさ、エミリアたん。いつも言ってるけど、それはさぁ……」

 

『それは?』

 

それは、いくら何でも大いなる誤解である。

そう、首を傾げるエミリアにスバルは弁解しようとして――、

 

「それは……」

 

『――――』

 

とっさに続けようとした弁解の言葉、その先が詰まり、スバルの舌が強張った。

途端、目の前で微笑み、首を傾げていたエミリアの動きが静止する。――否、静止したのはエミリアだけではない。

炊事中のスバルの周囲、今の今まで和やかに話していた面々、それが直前までの状態のままぴたりと動きを止め、全員、完全に硬直してしまっていた。

 

――まるで、スバルの次なる反応を待って、世界が時間を止めてくれたかのように。

 

しかし、そうでないことは風の音が、草木の香りが、沸騰する水が教えてくれる。

世界は止まってなどいない。――ただ、エミリアたちだけが止まっている。

 

スバルの、彼女たちを再現しようとするイメージが追いつくのを待つかのように。

ただ、エミリアたちだけが止まって――。

 

「――お師様~!ざざーっと先まで見てきたッスよ~!」

 

「――――」

 

ふと、その静止した沈黙の世界に異物が割り込んでくる。

大きな石に座り込み、火を焚いていたスバルの眼前へ、ぴょんと跳躍した人影が勢いよく飛び込んできたのだ。

 

「すちゃっとシャウラご帰還ッス!お師様、褒めて抱きしめて愛してくださいッス!」

 

そう言って、スバルに満面の笑みを向けたのは背の高い、美しい顔立ちの女性だ。

長い褐色の髪を一つに束ねて、健康的な白い肌を豪快に晒した人物である。女性的な肉感に富んだ体を惜し気もなく見せつけ、彼女――シャウラは屈託のない笑みを浮かべる。

 

「――――」

 

だが、そんなシャウラの全面的な好意の発露に、スバルの反応は芳しくない。それもそのはず、彼女が飛び込んできたのは、直前までエミリアが微笑していた位置だ。

やかましく、豪快な彼女の跳躍はエミリアを吹き散らし、静止していた他の面々までも消し飛ばしてしまった。その事実に、スバルは眉を顰める。

 

「あ、あれ?ど、どうしたッスか、お師様?もしかして、あーし、またなんかやっちゃったッスか?」

 

「……いや、何でもない。気にすんな。お前が悪いわけじゃねぇし」

 

「そうッスか?じゃ、気にしないッス!あ、それよりお師様、ご飯の準備中なんて嬉しいッス!あーし、お腹ペコペコだったんスよ~」

 

一瞬、スバルの表情に顔を曇らせかけたシャウラだが、スバルの言い繕いを即座に真に受けて、直前の不安など忘れた顔でスバルの腕に抱き着いた。

腕に押し付けられるシャウラの体、その猛烈な柔らかさを肘や肩に感じながら、しかしスバルはそれを「ええい、離せい」とすげなく振り払う。

 

「あんっ!お師様ったらいけずッス……でも、あーしは挫けないッス。この調子でガンガン攻め込んで、お師様のハートと下心と男心を狙い撃ちッス」

 

「なんか、全部正中線にありそうな狙いだな……。あと、料理中の人間の腕を掴むんじゃない。手ぇ切ったり火傷したりしたらどうする」

 

「そのときは、あーしが優しく患部を舐めてあげるッス!四六時中舐って舐って離さないッス!」

 

「そんなのふやけるじゃん……」

 

ガッと両手を上げ、勢いよくというより、勢いだけの状態でシャウラが主張する。そのシャウラの態度にスバルは肩を落とし、力なく笑った。

それを見て、シャウラが「ややっ!」と眉を上げる。

 

「今、お師様笑ったッスか?何か面白いこととかあったッスか?」

 

「面白かったのはお前だよ、お前」

 

「え、それって、プロポーズッスか……?」

 

「違いますけど!?」

 

どう話が飛躍したのかわからないが、頬を染めてもじもじとしたシャウラの額にスバルは抗議と否定の意を込めたデコピンを撃ち込んだ。

それを受け、シャウラは「あう~」と唸り、

 

「だってだって、『お前、面白い女だな』ってのは男女が恋に落ちる王道のやり取りじゃないッスか!そのあとに続くのは、『俺の女になれよ』しかないはずッスよ!?」

 

「お前のその偏った知識って、ホントにどこ発信なの?そんなの、もう俺の故郷でもほとんど見られないぐらい使い古されたパターンだろ……」

 

少女漫画や女性向けのゲームなどでは、そうした初対面イベントを使いこなす男性キャラは少なくなかったかもしれないが、それが現在も通用するのかスバルにはわからない。

ともあれ、シャウラを面白がったのは口説くためではない。

ただ、シャウラの反応がスバルにとって――、

 

「――お前の言うことは予想がつかなくて、新鮮なんだよな」

 

「――――」

 

「だから、お前と話してるのはなんだ……悪くない。それは間違いないよ」

 

特段、シャウラ以外と会話するのが苦痛だなんて言わない。

ただ、シャウラ以外と会話をすると、自然と、スバルは自分の至らなさを自覚させられることが多く、それは苦痛だった。

誰が悪いわけではない。――悪いのは、いつだって自分だ。

 

「悪いのは、いつも俺。だから……」

 

「つまり、今度こそプロポーズッスか!?」

 

「違うっつってんだろ!」

 

真面目な話に持ち込む雰囲気が秒しかもたず、怒鳴るスバルにシャウラは不満を爆発させる。彼女は「え~」と手足をじたばたさせ、

 

「でもでも、退屈で灰色な時間を過ごしていたところに、新鮮な風を吹き込んでくれたのがあなたです的な展開って、やっぱり王道中の王道じゃないッスか~」

 

「いや、だから、お前のその偏った知識の泉はどこから湧いてんだよ……」

 

わりと真剣な話のつもりが、シャウラに完全に話の腰を砕かれてスバルは諦めた。

ぼんやりと頬を緩め、スバルは炊事に集中する。

 

街道の脇で炊事するスバルの手元、用意された食事は二人分。

スバルと、シャウラの二人分――ここまで会話を楽しんだはずの、エミリアやベアトリス、ラムやメィリィ、ユリウスらの分はない。

 

――その事実を改めて認識して、スバルの胸はひどく虚しく、痛みを訴えた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

自分が不完全な存在であると、そうたびたび思い知らされるのは神経を削る。

想像するだけでも健康的なメンタリティでないのは歴然だが、実際にその環境に置かれてみれば、魂の摩耗していく感覚を如実に味わえようというものだ。

 

端的に言えば、今のナツキ・スバルの心境がまさしくそんな状態だった。

 

「――お師様、お師様、次はどこにいくんスか?」

 

「そうだな……」

 

上機嫌に、シャウラはスバルの隣を鼻歌まじりに歩いている。

その彼女の問いかけに視線を上げて、街道の先を眺めながらスバルは考える。

 

『とりあえず、西に向かっていくのがいいでしょうね。人里を目指すんでしょう?人里から遠ざかりたいなら、回れ右して、大瀑布に突っ込むといいわよ』

 

「姉様はものすごい提案をしてくれるな……気持ちだけ受け取っておくよ」

 

素直なアドバイスだけでなく、毒を交えるあたりがラムらしい言い分だった。それを胸に留めながら、スバルは助言に従い、西を目指すことを方針に定める。

 

「俺はこのまま西に向かうつもりだ。……けど、お前はどうする?」

 

「え?そりゃ、あーしはお師様にがっちりついていくッスよ?長々と離れ離れの時間が続いたんスから、お師様とはもう一秒だって離れ難いッス。おはようからおはようまで暮らしを見つめるシャウラをよろしくお願いするッス」

 

「おはようからおはようって……こわっ!一日中じゃん!」

 

「それも連日連夜ッス」

 

なかなか壮絶なストーカー予告に戦慄しつつ、スバルは難しい顔で俯く。

正直、シャウラと連れ立って歩く状況は不思議な気分だった。

 

陰気で後ろ暗い罪悪感を抱えるスバルと、野放図であけすけに振る舞うシャウラ。組み合わせとしてはテンションのプラスマイナスで釣り合いが取れているのかもしれないが、シャウラの言動に少なからず救われているスバルはともかく、シャウラの方には一緒にいるメリットがあるとは思えないのだが。

 

「お師様がお師様であること、それがあーしにとって一番のことなんスよ」

 

「……正直、よくわかんねぇ。本気でずっとついてくるのか?」

 

「もちろんッス!死が二人を分かつまでってヤツッス!会えない時間が育てた愛はこんなもんじゃ枯らせないッスよ~。もう、何があってもお師様の傍を離れないッス。あーし、野球チームぐらい子どもも生むッス」

 

「ものすごい剛速球投げてくるな、お前……」

 

豊かな胸を張り、シャウラがきらきらと輝く瞳でこっちを見てくる。その視線を掌で遮りながら、嘆息するスバルの心中は複雑怪奇だ。

 

シャウラのこの直接的な言動、これを求愛と呼んでいいのかよくわからないが、それ自体はスバルも男として嬉しく思わないわけではない。

その奇矯な言行を横に置けば、シャウラは美人だし、魅力的だ。

 

「――――」

 

しかし、ナツキ・スバルはそのシャウラの誘惑に心を揺すられない。

何故なら、そうした人間らしい情動は、ちゃんとした人間にしか許されないものだ。つまるところ、今の自分には決して届かぬ資格、なのだから。

 

『スバルはもうちょっと、シャウラに優しくしてあげた方がいいと思うの。こんなに一生懸命なのに、可哀想じゃない』

 

そんなスバルの躊躇いに、不意に銀鈴の声音が差し込まれる。ちらと視線を横に向ければ、エミリアがスバルの顔を覗き込んでいるのが見えた。

その可愛らしく拗ねた顔つきに、スバルは片目をつむる。

 

「……エミリアたんはそう言うけど、それって結構残酷なことだぜ?俺がエミリアたんのことをどう思ってたか知ってるくせに」

 

『ん……そう、かな。そうかも。ごめんね。もちろん、私だって寂しいけど、でも、いつまでもくよくよしてたらダメだと思うの。だって』

 

「だって?」

 

『だって、私はもう――』

 

紫紺の瞳を細めながら、エミリアがその先の言葉を続けようとする。とっさに、スバルはそれを聞きたくないと遮りたくなるが、それは困難なことだ。

このエミリアの言葉に耳を傾けないのは、神の言葉を遮ることより難しい。

しかし――、

 

「おっと」

 

自発的に遮るのは不可能でも、外的要因によって遮られることは許される。

ふと、背後から迫ってくる騒音を聞きつけ、スバルはエミリアから意識を外して、街道に脇へと道を譲った。近付いてくる車輪の音は、走行する竜車の接近を知らせている。

とっさにシャウラの腕を引いてやり、竜車の進路から二人で逃れた。

 

「やん、お師様ったら強引……」

 

「離れろ」

 

腕を引かれたことに乗じて、抱き着いてくるシャウラをスバルが華麗に回避。避けられたシャウラが街道沿いの木に体ごと激突し、「ぎゃふんっ」と悲鳴を上げる。

そのままぶつけた鼻を赤くするシャウラを尻目に、スバルは竜車が行き過ぎるのを待って、改めて街道に戻ろうとし――、

 

「うん?」

 

視線の先、スバルたちを追い越した竜車が音を立てて停車した。

車体のトラブル、といった風には見えない。そうなると、停車した原因はスバルたち以外に思い当たらない。

まだ日も高い時間帯だが、人気のない道だ。あるいは野盗とでも出くわしたかと、スバルが一瞬、警戒を強くする。

 

「――もしや、ナツキ・スバルさんではありませんか?」

 

だが、その警戒も、竜車の御者台を降りた人物の呼びかけによって早々に霧散した。

名前を呼ばれて、警戒をほどくスバルの前にやってくるのは、竜車の御者台に座っていたはずの背の高い青年だった。

 

灰色の髪を一つにまとめた、スバルとそう変わらない年代の人物だ。

柔和な顔つきから線が細く見えるが、意外と体つきの方はしっかりしている。力仕事に従事している雰囲気ではないが、そうしたことと無縁の仕事でもないといったところか。

そうした初見の印象はともかく、スバルにとって重要なのは、この青年がスバルのことを認識し、その名前を呼んできたことにある。

 

「ああ、やっぱり、ナツキさんじゃありませんか。お久しぶりです」

 

「あー、ええと……」

 

微妙な距離はありつつも、知人に違いない雰囲気で声をかけてくる青年。その彼になんと応じたものか躊躇いつつ、スバルは視線を周りに巡らせる。

その視線を受け、エミリアやベアトリスたちは首を横に振り、心当たりがないとスバルに訴えかけてきていた。エミリアたちがそれだとスバルもお手上げなのだが、知った風な口で知った風な会話を始めるのは躊躇われる。

それはスバルの得意技だが、諸事情で今はそれをしたくはなかった。

そんな心境でまごつくスバルを見て、青年は形のいい眉を顰めると、

 

「おや、もしかしてお忘れですか?僕です、レギン・スーウェン……兄の、オットー・スーウェンがお世話になっています。以前、一度、村でお会いしましたよ」

 

「レギン……って、ああ、あのオットーの!」

 

「あのオットーって言い方だと、なんだか他人事みたいな言われようですね」

 

不自然な言い回しに苦笑し、青年――レギンの前でスバルは合点がいったと手を打った。生憎、レギンの姿に見覚えはないが、オットーなら見知っている。

言われてみればなるほどと、レギンとオットーの顔立ちには似た特徴が多い。彼らが兄弟であるのも、スバルと知人なのも間違いないだろう。

 

「悪かった悪かった。ちょっと今、頭の中が色々立て込んでるタイミングでさ。とっさに名前が出てこなかったというか、そんな感じなんだ」

 

「いえ、お忙しい立場でしょうから仕方ありませんよ。王選のことは、片田舎で暮らす僕の耳にも届いています。……兄さんはご迷惑をおかけしていませんか?」

 

『オットーくんが迷惑なんて、とんでもない話よね。私たちみんな、オットーくんのおかげで色んなことが助けられてるもの』

 

「そうだな。オットーには陣営一同でだいぶ世話になってる……的な状況だよ。あいつがいなかったら、もっとあちこちガタついてるってのが実情らしいぜ」

 

「そう、ですか。だったらよろしいんですが……」

 

と、どことなく恐縮していたレギンだが、兄の近況を聞かされてわずかに安堵した様子だ。それから、彼はスバルと、少し離れて立つシャウラを交互に見ると、

 

「それにしても、ナツキさんはこんなところで何を?竜車にも乗らないで街道を歩いてるなんて、なかなか骨の折れることだと思いますが……」

 

「あー、その意見はごもっともというか、俺もできれば竜車ぐらい使いたいところなんだが諸般の事情で難しくてな。あと、俺が何してるのかって言われると……」

 

そこで言葉を切り、スバルは少し考え込む。

それから、適切な言葉を見つけて、

 

「今の俺は自分を見つめ直してる真っ最中……『自分探しの旅』ってとこだな」

 

「自分探しの旅、ですか?」

 

「ああ、そうなんだ。自分探しの旅……く、ははは」

 

自分で自分の言葉がおかしくて、思わずスバルは笑ってしまう。

自分探しとは若者に付き物の言葉ではあるが、これほど今のスバルに適切な言葉が他にあるだろうか。そう思ったら、おかしくてならない。

そのスバルの様子に、レギンはどことなく違和感を覚えたようで、「大丈夫ですか?」とこちらを案じる素振りを見せる。

 

「やっぱり、どこかお体が悪いのでは?一瞬、ナツキさんに気付くのが遅れた原因がまさにそうですが、ずいぶん、以前と見違えましたから……」

 

「体調は悪くない、本当だ。気分の話なら、最悪の一歩手前かな。でも、そこで踏みとどまれたのはレギンのおかげだ。ここでお前に会えてホッとしたよ」

 

レギンの言葉を遮り、スバルは深々と頭を下げて感謝を表明する。そのスバルの姿勢を見て、レギンは困惑を深める一方だ。

ただ、その態度が目の前のスバルがただならぬ状態にあるのだと確信を抱かせたらしい。レギンは意を決した表情を作ると、「ナツキさん」とスバルを呼び、

 

「イマイチ状況は呑み込めていませんが、ひとまず、村まできてください。僕の診療所で詳しい話をしましょう。あなたには休養が必要です」

 

「医者みたいなこと言うんだな?」

 

「患者は地竜や家畜ですが、医者ではありますよ。それも忘れたんですか?」

 

「――忘れた。ああ、そうだな。忘れた、か」

 

「ナツキさん?」

 

忘れたというだけなら、ナツキ・スバルはここまでの隔絶感を味わわずに済んだろう。

だが、ナツキ・スバルを責め苛む感覚は、忘却なんて生易しいものですらない。

 

「この先に、お前の村があるんだな?俺も立ち寄ったことがある?」

 

「え、ええ、もちろんです。以前、ちょっとした問題があった際に、兄と、もうお一方と一緒にいらして……」

 

「――わかった。ありがとう」

 

おおよそ、聞きたいことは聞くことができた。

そのスバルの発言に、鼻白むレギンへと顔を向け、続ける。

 

「お前、兄貴と喋り方そっくりだな」

 

「え?」

 

「お前がこんだけいい奴なんだ。お前の兄貴も、いい奴なんだろうよ」

 

だから今後、『初めて再会』するのが恐ろしくもある。

決して、それを楽しみに心待ちにすることなどないだろうから。

 

「――シャウラ」

 

「はい、どうしたッスか、お師様」

 

「苦しめるな」

 

短く、要領を得ない呼びかけだった。

しかし、たったそれだけで意を察したとばかりに、シャウラは「あらほらさっさー」と頷いた。

そして――、

 

「ごめんな」

 

一言、スバルが眼前のレギンに謝った。

今度の謝罪の真意は、先ほどの曖昧なものよりずっと明確なものだった。しかし、その正しい意味をレギンが理解することはない。

 

――何故なら、理解より早く、レギンの頭部は光に呑まれ、蒸発していたからだ。

 

「――――」

 

どう、と苦鳴も漏らさず、頭をなくしたレギンの体が街道に倒れる。凄まじい熱が傷口を焼いていて、首の断面からは血すら流れようとしない。

鮮やか、と殺しの手口を褒め称えるのは倫理的に間違ったことだが、思わずそう評したくなるほどに洗練された一撃だった。

 

「何回見ても見事なもんだな」

 

「四百年、特にやることなく、塔の上から来る日も来る日も遠くに見える魔獣をスナイプして磨いた技ッス。今思えば、年頃の乙女とは思えない灰色の日々ッスね」

 

「四百年生きてて年頃の乙女……?」

 

目の前の惨劇に感動もなく、スバルはシャウラの言葉に首を傾げる。それから、レギンの頭のない亡骸を引きずり、主を失った彼の竜車へと近付いていく。

しかし、そうして近付くスバルたちに気付くと、地竜は即座に走り出し、スバルたちを街道に置き去りにしようとしてしまう。

 

瞬間、スバルのすぐ脇を白光が突き抜け、竜車の荷車を貫通し、そのまま竜車を引いていた地竜の体内に一撃が侵入、内臓を焼き、頭部を貫いてその命を奪う。

鮮やかだが、やってほしくなかった一撃だった。

 

「……おーい」

 

「わ、悪気はなかったッス!正当防衛ッスよ!あーしなりに止めようって踏ん張った結果ッス!ちょっと、キリングマシーンの習性が抜けなかっただけッス!」

 

「怒ってはねぇよ。怒ってはねぇけど、これでまた竜車を手に入れ損ねたじゃねぇか。いつになったら、移動手段が徒歩から先に進化するんだよ……」

 

こんな調子で、シャウラを連れているとどうにも地竜との縁がない。おかげで同行者が彼女の間、スバルは延々と徒歩を強制されることになる。

 

「だーかーらー、ずっと言ってるじゃないッスか。緊急時じゃなくても、あーしはお師様ならいつでもおんぶするッスよ~。そのとき、うっかり変なとこ触ってもハプニングってことであーしは気にしないッス!どうッスか!?」

 

「なんか、あとでお金取られそう」

 

すげない言葉でシャウラの誘惑を躱して、スバルは強制的に停車した竜車の中にレギンの亡骸を引っ張り込む。地竜の巨体も街道に倒れており、頭部を失ったところまで主人と全く同じ末路だ。さすがに、地竜はスバルの力では連れ出せないが。

 

「ひとまず、竜車ごと地竜は近くの森にでも引っ張っといてくれ。俺はレギンが話してた村の方にいってみる。――俺の場所はわかるよな?」

 

「楽勝ッス。見つかんないようにしとけばいいんスよね?」

 

「少しの間、見つからなけりゃそれでいい。二、三日隠しておければ十分だ」

 

竜車を降りて、シャウラに惨劇の隠蔽を指示する。挙手してそれを受け入れるシャウラは地竜の巨体を掴むと、その細腕で軽々と死体を担ぎ上げ、竜車も引っ張り始めた。

そのまま、彼女が竜車を森へ隠してくる間に、スバルは村のある方へ目を向ける。

 

「さて」

 

無目的ではなく、目的を持ってスバルは歩き出した。

レギンが帰るはずだった村へ向かって、真っ直ぐに。

 

その村に、『ナツキ・スバル』を知る人間がどのぐらいいるのか。

あまり多くても、あまり少なくても、どちらでも気が重くはある。だが、嫌なことだからといって避けていては、正しい道を選び取れない。

 

非情な選択ではあるが、仕方のないことなのだ。

大丈夫。――『ナツキ・スバル』さえ取り戻すことができれば、全ては。

 

「取り返しが利くことなんだろ?」

 

だからそのために、『ナツキ・スバル』の取れない選択肢を、スバルがするのだと。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――っ、はぁ」

 

意識が現実へと回帰した瞬間、スバルは両手に握っていた本を取り落としていた。

膝が震え、息が荒くなる。地べたに座っているにも関わらず、くらりとやってくるのは堪え難い立ち眩みのような感覚だ。

 

――こればかりは、何度味わっても慣れるものではないと、そう感じる。

 

「はぁ、はぁ……」

 

冷や汗の浮かんだ額を袖で乱暴に拭い、スバルは深呼吸を繰り返して心臓の鼓動を落ち着ける。不整脈めいた拍動の乱れは、精神と肉体の不一致からくる混乱が原因か。

一冊一冊に挑むたびに、本の中では『自分』というものが曖昧になるのがわかる。

あるいはこんな作業を繰り返し続けていたら、正気の人間は自分と他者との境がわからなくなって溶け合い、かえって自我らしいものを見失ってしまうのではないか。

 

「お師様、大丈夫ッスか?」

 

「……ああ、大丈夫、大丈夫だ。それより、次の本は見つかったか?」

 

「あーっと、まだ探し中ッス。絵合わせみたいで捜すの大変なんスよ~。こういうちまちました作業、あーし向きじゃないッスもん……」

 

息の荒いスバルを心配して、声をかけてきたシャウラが不甲斐ない進捗に指を突き合わせる。だが、そんな弱々しい彼女を責めるつもりはスバルにはない。

彼女自身に自覚がある通り、向いていない作業を手伝わせているのが原因なのだ。その上で無償で付き合ってくれている彼女を責めるなど、人でなしにも限度がある。

もう十分以上、人でなしの道をひた走るスバルにも引くべき一線があった。

 

「向き不向きがあるのはわかってるが、頼むぜ、シャウラ。お前しか、力を貸してくれる奴がいねぇんだ」

 

「お師様にはあーしだけ……って言ってくれたらいいッス」

 

「……今、俺が頼れるのはお前だけだ」

 

「むふー、今はそれで満足してあげるッス」

 

小鼻を膨らませ、シャウラは満足げな顔で再び本の海へと潜っていく。おそらく、あの上機嫌もさほど長くはもつまいが、彼女の目は本の探索に欠かせない。

単純な人手という意味でも、彼女の有無はスバルの死活問題だった。

 

「――――」

 

足下に落とした、直前まで読んでいた本を拾い上げ、スバルは背表紙に書かれているタイトルを指でなぞる。

黒い本のタイトルは簡素なもので、そこには『レギン・スーウェン』とあった。

過去に『ナツキ・スバル』と邂逅し、今のナツキ・スバルと遭遇したことで、運悪く命を落とした若者――その一生を、スバルは書によって追体験した。

その追体験の中には、確かに『ナツキ・スバル』と邂逅した記憶もあったが。

 

「……大した付き合いじゃなかったな。レギンの主観じゃ、『ナツキ・スバル』は兄貴とセットでついてきた、よくわからない奴か」

 

自分の中の一部となった記憶を参照して、スバルは徒労感に嘆息する。

正直、一番ため息をつきたいのは犠牲になったレギンの方だと思うが、肩透かしのような感覚に徒労を覚えることも避けられない。

 

『ちょっと、いくら何でもそれはないんじゃありませんか、ナツキさん』

 

「……悪い。一応、お前の記憶も全部さらってはいるんだが、それでも関係性が薄すぎて再現性が低くなる。あんまり、お前に構ってやる機会はなさそうだ」

 

書架の中、自分の名前が書かれた本を恨めしげに見つめて、レギンが何とも味わい深い表情をスバルに向けている。当然だが、視線には非難の色が濃い。

殺された挙句、その死があまり役立たなかったとこき下ろされれば、誰だって不機嫌にもなるものだ。

それがわかるから、スバルも素直に「すまん」と謝るのだが――、

 

『まぁ、死んでしまったものは仕方ありませんよ。それに、ナツキさんの目的が果たされたんなら、全部丸っと元通りになるんでしょう?それに期待しましょう』

 

「おお、器がでかいな。その度量に甘えっ放しで悪いが、それで頼む。ちゃんと、元通りになったらこの借りは返すよ」

 

『期待しないで、それを待っているとしましょうか』

 

肩をすくめたレギンが、手を振ってスバルの視界から霞むように消えていく。それを見届けて、スバルはレギンの『死者の書』を書架の中へと戻した。

それから、手元にあった紙を拾い、そこに羽ペンで横線を入れる。――それは、いくつもの名前が書かれた名簿であり、今しがた、レギンの名前に横線が引かれたところだ。

 

「……あと、二十三人か」

 

振られた番号を数えながら、スバルは先はまだまだ長いと首の骨を鳴らした。

『死者の書』が陳列された書庫――『タイゲタ』の不親切さは健在で、あれから何度となく足を運んでも、一向にスバルに書庫内の検索機能などを与えてくれない。

これだけ頻繁に利用しているのだから、少しはサービスが向上しても罰は当たらないと思うのだが、何とも忌々しいものだ。

 

『ベティーの禁書庫も大したものだったけど、ここはその比じゃないかしら。日を改めても誰も文句は言わないはずなのよ、スバル』

 

『その通りだ。これだけ広大な書庫の中、特定の本を見つけるのは至難だろう。じっくりと腰を据えて挑まなくては、闇雲に続けてもくたびれる一方だ』

 

弱音が頭を過った途端、ベアトリスとユリウスが書庫を見回しながら助言してくる。その内容はスバルに優しいが、だからこそ頑として首を横に振った。

確かに言われるがままに時間をかけることを選べば、この徒労感と心労は少しは安らぐのかもしれないが――、

 

「そもそも、安らごうってのが贅沢な話だ。俺がだらだらと時間を使ってる暇なんかどこにもない。一刻も早く、答えに辿り着かなきゃ……」

 

『辿り着かないと何なの?バルスが多少急いで何かが変わる?』

 

「変わるさ。――それこそ、全部が変わる」

 

拳を握りしめて、そう言い切るスバルをラムが冷たい薄紅の瞳で見つめている。その視線から顔を背け、スバルは手の中の名簿をじっと見下ろした。

レギンと、同じ村の人々の名前が記された名簿だ。レギンの記憶を参照する限り、決定的な何かを得るのに役立つ可能性はかなり低い。低いが、ゼロではない。

だったら――、

 

『その人たちの本を読んだら、スバルのやりたいことは叶うの?』

 

「エミリアたん……」

 

心配そうな目をしたエミリアの問いかけに、スバルは一瞬だけ躊躇いを得る。だが、スバルはエミリアに、何より自分に言い聞かせるように頷く。

 

「もちろん、そうだ。俺が……俺が何もかも忘れたせいで、みんなにとんでもない迷惑をかけちまった。それを挽回するには、この手しかない」

 

『挽回なんて、そんなこと考えなくても……』

 

「――それじゃダメなんだよ!」

 

無茶するスバルを見ていられないとでもいうように、表情を暗くしたエミリアにスバルは思わず声を高くしていた。

驚いた顔をするエミリア、その瞳を真っ直ぐ見据え、スバルは続ける。

 

「お願いだから、そんなこと言わないでくれ。俺は、何としても『ナツキ・スバル』を取り戻してみせる。それから……」

 

『……それから?』

 

「それから、もう一回、君たちに会うんだ。……会って、やり直すんだ」

 

何もかも、失ってから大切だったと気付くのでは遅すぎる。

自分の手の中にあったものが掛け替えのないものだったのだと、どうして人は背負った積み荷が軽くなるまで気付けないのだろうか。

全てを取りこぼして、取り返しがつかなくなってからでなくては、何故――。

 

『――――』

 

絞り出すように呟くスバルを、エミリアがどこか儚げな瞳で見つめている。その紫紺の瞳にこもった感情は複雑で、スバルにも全てを読み取ることができない。

彼女のことであれば、それこそ、手に取るように全てを見通したはずなのに、ここにいる彼女の心中がわからないことが、ひどくスバルの不安を掻き立てた。

 

エミリアは何を考え、何を思い、今のスバルをどう受け止めるのか。

その答えは――、

 

「――お師様!次の本見つけたッス!褒めて褒めて!」

 

「あ、ああ、よくやった。偉いぞ、シャウラ」

 

「うへへへ~ッス」

 

飛びついてくるシャウラが、エミリアとの問答を強制的に終わらせる。そのシャウラの頭をスバルが撫でてやると、彼女はだらしなく顔を弛緩させて喜んだ。

その彼女が手にしている一冊には、確かに名簿と一致する名前が書かれている。

 

「……あんたの中には、どのぐらい『ナツキ・スバル』が眠ってるんだ?」

 

シャウラから本を受け取り、スバルは答えるはずのない本に問いを投げかける。当然だが、本がスバルの質問に簡潔に答えてくれたりはしない。

しかし、本の中に答えはある。全てはそのための蛮行、必要な犠牲だ。

 

「客観的な、断片的な情報でいい。それを搔き集めて、完成形に近付ける……」

 

評価とは、他人の物差しで測られて決まるものだ。

ならばそれこそ、全ての人間の物差しを確かめることができれば、全ての物差しで測られた個人が確かめられれば、その人間を再構成することもできるはず。

 

――『ナツキ・スバル』を取り戻すこと。

 

それが、ナツキ・スバルにとっての最優先事項であり、全てはそのための行程。

生まれてしまった犠牲はもちろん、これから生み出されていく犠牲も何もかも、ナツキ・スバルが『ナツキ・スバル』を取り戻すために必要な行いだ。

 

『ナツキ・スバル』が取り戻せれば、彼さえ戻ってきてくれたなら。

 

「……お前なら、全部、何とかしてくれるはずなんだ」

 

エミリアの、ベアトリスの、ラムの、メィリィの、ユリウスの、彼女たち以外の、大勢の関係者の記憶が、それに類することを願っていた。

だから、『ナツキ・スバル』にならその力があるはずなのだ。

だから、その力で――、

 

「――俺を救ってくれ」

 

頼むよ、『ナツキ・スバル』。お前が、英雄なら、助けてくれ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――『殺人は、癖になる』。

 

それは、かの有名な名探偵、エルキュール・ポアロが世に残した言葉の一つだ。

その言葉の意味は、人を殺した人間が殺人の嗜好に目覚め、己の欲求を満たすために犯行を繰り返すようになる、といった意味ではない。

一度、殺人によって問題の解決を図ったものは、次なる問題が発生した場合、やはり同じように殺人によって状況を打破しようと考える、という意味だ。

 

――『殺人は、癖になる』。

 

だが、殺人をすることが、真に問題の解決に繋がっているとしたら、それは殺人が癖になった結果と言えるだろうか。

これは殺人が癖になったのではなく、やむにやまれぬ事情があってのことと、そう言えるのではあるまいか。

癖になったから、殺人を選択肢に入れているのではなく、殺人をする以外に選択肢がない場合は、癖になったなんてことは言えないのではないか。

 

――『殺人は、癖に』。

 

大体、何がエルキュール・ポアロだ。創作上の探偵が偉そうに語るな。

何もかも見透かした風に言われてたまるものか。どんなものにも、どんな状況にも、様々で複雑で密接に入り組み、絡み合った事情があるのだ。

それらも無視して、一様の言葉に当てはめようなどと、馬鹿にするな。

 

――『殺人は』。

 

これは、他に手段が存在しないだけだ。

最も合理的で、正解へ通じる手段が他に存在しないだけなのだ。

だから、これは癖になったのではない。

 

――『殺人だけが、答えになる』。

 

そう、そうだ。そうなのだ。それだけが答え、それだけが正解。

それだけが、この袋小路の絶望感を打開する、最後の手立て。

 

『スバルはいつも私を助けてくれて、どんなことでも解決しちゃう、私の騎士様なの』

 

『スバルがいなかったら、ベティーは今も、禁書庫で一人きりでいたかしら』

 

『バルスはそうね……タイミングのいい男だわ。それだけは、ラムも認めてあげる』

 

『お兄さんが邪魔しなければあ、きっとお仕事失敗しなかったのよねえ』

 

『スバル、君に自覚はないだろうが、私は君に救われてもいた。君の在り方が、私にとって希望の道途でもあったんだ』

 

「わかってる」

 

お前たちが、『ナツキ・スバル』が大好きなことはわかっている。

お前たちが、『ナツキ・スバル』を大切に思っていることはわかっている。

お前たちを救った『ナツキ・スバル』が、スーパーマンであることはわかっている。

 

お前たちを救えた『ナツキ・スバル』がしたことを、全部台無しにした自覚はある。

だから、それを取り戻さなくては。

 

それを、『ナツキ・スバル』を取り戻しさえすれば。

それさえすれば、万事がうまくいく。うまくいくのだ。

 

いかなくては、ならないのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――ナツキ・スバルは乱心して、同行していたエミリアやユリウスたちを手にかけた。ワタシも命からがら、何とか逃げ延びて、こうしている」

 

アナスタシアが持ち帰ったその報告に、集められた面々は一様に顔をしかめた。その表情が示す意味は単純なもので。

 

「信じ難い、と君たちが判断するのは当然のことだ。ワタシも、こんな報告を持ち帰らなくてはならないことに痛恨の思いがある。だが、彼の危険性を鑑みれば、現実逃避をしている余裕はワタシたちにはない」

 

「アナスタシア様、そう仰られても……」

 

「――ワタシはエキドナだ。アナは、今もこの体の奥底で眠り続けている。あるいは彼女にとっては、このままの方が幸福なことかもしれないが」

 

「……にわかには、信じ難いお話です」

 

アナスタシア――否、エキドナの正面、目を伏せて受け答えするのは赤毛の騎士、ラインハルト・ヴァン・アストレアだ。

場所は水門都市プリステラ――その場に集ったのは王選に関わるものたちであり、都市での戦いが終結してしばらく、東へ向かったスバルたちの帰還の報告を待ちわびていた面々である。

プリステラで発生した大罪司教たちによる魔女教の大被害、エミリアたちはそれらの被害を回復する手段を求めて、『賢者』の知恵を借りるために東へ向かった。

 

不安はあった。だが、吉報を持ち帰ってくれると。

そう信じさせるだけの根拠が、東へ向かった顔ぶれの中にはあった。その根拠、それこそが他ならぬナツキ・スバルであった。――それが、乱心したなどと。

 

「とても、わかりましたと頷ける話ではありません」

 

「信じられなくても、事実だ。今の彼は、君たちの知っている彼ではない。ナツキ・スバルは記憶をなくして、それを取り戻すことに執着している。そのための手法として、彼は最悪の手段を選択した」

 

「最悪の手段とは……」

 

「プレアデス監視塔の中にあった『死者の書』……死んだ人間の記憶と半生、それを読み解くことが可能となる本だ。生憎、ワタシは一冊も読んでいないから、その効力のほどはわかりかねるけどね」

 

エキドナの返答を受け、奇妙な力を持つ本の話を聞かされても、なお納得がいかない。

無論、記憶が失われることの脅威、それはすでに十分以上に実証されている。それもまた、スバルたちが何とかしようと志した被害の一つだったのだから。

だが、そのための旅路がそのようなことを引き起こすなど、誰が予想できる。

 

「――ナツキさんが一人で、それをやれるとは思えません。『死者の書』を読むのが目的だとして、どうやってその実行を?」

 

「オットー、君は信じるのか?」

 

冷然と響く問いかけを放ったオットーに、ラインハルトが目を見開いて振り返る。その『剣聖』の青い瞳に、オットーは「ええ」と頷いて、

 

「アナスタシア様……今はエキドナさん、でしたか。彼女が僕たちにこんな嘘をつく理由がありません。突拍子もなさすぎるし、意味もない。実際、彼女がこうして一人で戻ってきたということは、予想外の事態が起きたとしか考えられない」

 

「それは……だが」

 

「僕だって、信じたくはありませんよ。そんなこと」

 

ぐっと、拳を固めるオットーが食い下がるラインハルトに声を震わせる。その声の震えを聞けば、オットーがどれだけ強い感情を腹腔で押し殺しているのかわかる。

兄貴分の無念の横顔に、隣に並んだガーフィールが「オットー兄ィ……」と案じる。

 

「……オットーくんの見立ては正しい。記憶を失い、ナツキ・スバルの行動の規範が変わったとしても、そのままならエミリアやユリウスが取り押さえることは容易だったはず。その目論見を外したのは彼の協力者、シャウラだ」

 

「シャウラ……?そりゃァ、監視塔にいるッはずの『賢者』の名前じゃァねェか。そいつが大将に……いや、頭が混乱してきた。『オズムンドの躊躇い』ってヤツだ……」

 

「生憎、君の混乱が鎮まるのを待っていてやれる余裕はない。お察しの通り、シャウラは監視塔にいた観測者の名前だ。当人の言葉を借りれば、あくまで『賢者』というのは彼女の師匠筋であって、自分自身はそうではないとのことだったけどね」

 

「色々と、聞きたいことはありますが……そのシャウラが、スバルに協力している?」

 

ラインハルトが確かめると、エキドナは首を縦に振った。

その彼女の肯定に、場は騒然となりかける。

 

水門都市を大罪司教から救わんとした英雄、その思いがけない変節と、その変貌に付き合っているのが長く歴史に語られてきた三英傑の一人である『賢者』。

悪夢の中でまた悪夢を見るような残酷な環境で、世界を嘆かずに誰がおれよう。

 

「……ワタシがこの事実を持ち帰ったのは、別に敵討ちを望んでのことじゃない」

 

ふと、その報告に広がる混沌の中心で、下を向くエキドナがポツリと呟く。

彼女のその呟きを聞きつけ、「エキドナ?」とラインハルトが眉を上げた。そんな彼を始めとした複数の視線を集めながら、エキドナは短く息をついて、

 

「アナの気持ちや、ワタシ自身がユリウスと過ごした時間を思えば、彼を手にかけたナツキ・スバルへの怒りを募らせるのが正当なんだろう。……だが、ワタシは疲れた」

 

「疲れた?」

 

「憎んだり、憎まれたりもそうだし、拳を振りかざして迫ってくるのが必死なだけの子どもだということにも、疲れたんだよ」

 

力なく首を振り、エキドナはゆっくりと立ち上がる。

彼女はアナスタシアの顔と声で、しかし、彼女であれば決して浮かべることがなかっただろう弱々しい顔つきで、

 

「ワタシは、この舞台を降りるよ。アナを、この舞台へ戻すことの残酷さは耐え難い。ワタシたちは、取り返しのつかない失敗をしたんだ」

 

「そんな、ことは……」

 

「君に悪気がないことはわかっている。だが、諦めることが最善であるときに、諦めないよう説得されることは苦痛でしかない。ワタシは、ここまでだ」

 

そうして、すっかりと心の折れた彼女を引き止める言葉を誰も持たない。エキドナもまた、自分を引き止めるものが誰もいないとわかっていた。

わかっていたから、彼女は観衆たちに背を向けて、その場を辞する。――それは先刻の言葉通り、王選の舞台を降りることそのものだった。

 

「君たちの健闘を祈っている。――どうか、気を付けてほしい」

 

それが、プレアデス監視塔へ旅立った一団の中、唯一、無事に帰り着いた一人が残した最後の報告であり、重苦しい不安を掻き立てる全てだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「……お前は、これからどないするつもりなんや」

 

帰途を歩みながら、隣に並んだリカードが問いかけてくるのにエキドナは目をつむる。

片腕をなくした負傷は重く、リカードの失われた部位にはかつての太くたくましい腕はついていない。代わりに鉤爪のようなものが取り付けられており、それはそれで、戦うことを諦めない姿勢が彼らしいと言えるが――、

 

「言った通りだよ。諦める。それが賢明だ。ワタシはこれ以上、アナの体で彼女を装おうとも思えない。……せめて、ホーシン商会に対する最低限の責任は果たすけどね」

 

「最低限の責任っちゅうんは……」

 

「商会を解散し、従業員の次の仕事を世話しないとならない。商会自体は、副会長のチュデンに任せればうまくやってくれるだろう」

 

「――――」

 

「不満はわかるよ。だが、仕方のないことだ」

 

正体こそ明かしてこなかったが、エキドナとリカードの付き合いは相応に長い。一方的な面識だが、リカードがアナスタシアに向ける強い感情には理解がある。

何故ならそれは、エキドナがアナスタシアに抱くものと全く同質のものだから。

 

リカードがアナスタシアに、父親のような情を抱いていたのだとしたら、エキドナもまた同じように、アナスタシアに母親のような情を抱いていたのかもしれない。

だから――、

 

「『鉄の牙』も、手放そうと思う。今後はリカード、君の好きにしていい」

 

「ワイの好きにしてええんやったら、ワイはお嬢の目ぇ覚まさせる方法を捜すぞ」

 

「……一番の可能性が断たれた状態で、君がなおもそれを目指すというならワタシからは何も言えない。『鉄の牙』の子たちが従うなら、なおさらね」

 

リカードの姿勢を強情と、そんな風に言い捨てることはエキドナにはできない。

彼もまた、譲れないものを譲らず、守りたいものを守るために真剣なのだ。当人が何かを始める前から、それを無意味と断ずるほど残酷なことはない。

エキドナが諦めたからといって、リカードが諦める必要はないのだ。

ただ――、

 

「君のその姿勢を、アナが喜ぶかはワタシにもわからない」

 

「……叱られるんやったら、それはそれや。それも確かめんうちから諦めるやなんて真似ができてたまるかい。ワイは、アナ坊の父親代わりなんやからな」

 

「――――」

 

「娘見捨てる父親に、父親の資格なんぞあるかい。何を言われても諦めんぞ、ワイは」

 

断固たるリカードの宣言は、エキドナへの皮肉では決してなかった。しかし、それが胸の奥に突き刺さってしまうのは、エキドナの方が自分の弱さの自覚があるからだ。

故に、エキドナは渇いた笑みを浮かべ、リカードの強さを称賛する。

そして――、

 

「――リカード、君は本当に」

 

強いのだね、とエキドナは言葉を続けようとした。

あるいは時間をかければ、自分にも同じ強さを得る機会があるだろうかと、そんな風に問い返したかったのかもしれない。

 

――だが、それは間に合わない。

 

「――――」

 

地鳴りのような感覚が足下を伝い、刹那、エキドナはリカードが腕を伸ばすのを見る。彼の太い、鉤爪となった腕がエキドナの首根っこにかかり、足が宙に浮いた。

リカードが自分を摘まみ上げたのだと、そこまで気付いて、それで終わりだ。

 

次の瞬間、爆発的な勢いで迫ってくる水流がエキドナを、リカードを、都市を呑み込んで、全てを一切合切、押し流していく。

 

――魔女教がやり損ねた水害が、一度は難を逃れた水門都市を今度こそ襲った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

大水に呑み込まれていく都市を見下ろしながら、スバルは短く息をつく。

すり鉢状に作られた都市の設計は、なるほど、水が流れ込めば逃げ道がなく、まるで蟻の巣を水攻めするような圧倒的な効果を発揮してみせた。

 

「さすが、対魔獣決戦用の都市……罠の効果は抜群だな」

 

元々、魔獣やら魔女やらを倒すために成り立った都市という知識の通り、大水門を開放した効果は絶大だった。

水の暴力は一瞬で都市を水底へ引きずり込み、逃げる間もなく住民たちを呑み込む。

 

『なるほど、見事なものじゃーぁないか。これで、君を知る人間の多くが一挙に片付いた。……自分探しが捗る、そう思っていいだろーぉね』

 

「……うるさい」

 

惨状を見下ろすスバルの後ろで、道化姿の長身が不謹慎な感想をこぼした。

その表情はご満悦とは言わないが、目の前の結果に相応の手応えを得た様子だ。彼の知識と助言があって実行した計画だけに、その考えもわからなくはないが。

 

『旦那様って、ホントに悪趣味……』

 

そんな道化姿の主人のことを、メイド姿の少女が軽蔑の眼差しで見ている。愛らしく、利発そうな印象を抱かせる少女はスバルに寄り添い、そっと手を握ってきた。

その手を握り返してやり、スバルは彼女に頷きかける。

 

「ペトラ、どんな塩梅に見える?」

 

『えっとね、シャウラさんはちゃんとやってくれたみたい。制御塔、四つとも動かせたから逃げ切れた人はいないと思う。……避難所も、たぶん』

 

「……そうか。辛い報告させて悪かった」

 

客観的な意見を求めたところで、ペトラが気丈な微笑みを浮かべる。

スバルの知る彼女は芯こそ強いが、その中身は決して特別なところのない普通の子だ。そんな彼女を巻き込むことに罪悪感がないわけではないが――、

 

『そんな感傷を抱かれるぐらいなら、最初からこんなことを始めなければよろしかったですのに。スバル様は中途半端なお人ですのね』

 

「そう言われちまっちゃぁ、言い返す言葉もねぇよ」

 

糾弾してくる金髪のメイド、フレデリカの怒りは簡単には晴れない。

彼女は自分自身が見舞われた悲劇より、周りの人に起こった悲劇の方を重視する。そうした意味では、スバルの行いを決して許すことはないだろう。

こればかりは理屈ではなく、感情の問題だ。理性的に見えて、存外、自分の感情に素直なあたり、ガーフィールとの血縁を感じさせられる。

 

「とはいえ、ガーフィールも人づてにしか知らねぇんだが」

 

嘆息気味に呟いて、スバルはそっと自分の前髪に指を差し込んだ。ガシガシと乱暴に頭を掻いて、強く息を吐く。

意識を切り替え、戦いに集中するために。

 

『それで?次はどうするつもりなーぁんだい、スバルくん』

 

前のめりになり、すぐ隣から顔を覗き込んでくるロズワールに舌打ちする。それから、スバルは「決まってるだろ」と悪態をつくように言い放ち、

 

「手筈通りにいく。――最初に、一番厄介な奴から攻めるのが上策だ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ごほっ、えほっ……!」

 

「オットー兄ィ、大丈夫ッか!?水吐け!全部吐け!」

 

肺の中まで入り込んだ水を吐き出すべく、オットーは盛大に咳き込み、涙を流す。その状態を危険と見て、ガーフィールが水を吐く作業を手伝ってくれるが、さすがに足を持って逆さに振られるのは心身に堪えた。

おかげで、肺の中に入った水を吐き出すのには成功したが。

 

「クソッ!いったい、何がありやがったんだ……!?」

 

「……都市の、大水門が開放されたんでしょう。それで、水が街を呑み込んだんです。魔女教相手に必死で食い止めた戦いだったのに、全部、水の泡だ」

 

周囲、水没する都市の情景を眺めて、牙を震わせるガーフィールにオットーが呟く。それを聞いて、弟分の翠の瞳が悲痛に歪むのを確かめ、オットーは顔を伏せた。

一瞥すれば、絶望的な状況となった都市の様子が全方位に確認できる。幸い、オットーは傍らにいたガーフィールに担がれ、かろうじて水が届かない高さへ逃れられたが、同じことができた人間が都市の中にどれだけいたことか。

 

「全部、水の底に……」

 

凝然と目を見開いて、ガーフィールは都市を襲った水害に打ちひしがれている。

詳しく話は聞いていないが、ガーフィールがプリステラで何か大きな出会いを経験していたらしいことはオットーも感じ取っていた。

それが彼にとって好ましい相手で、大切な存在であっただろうことも。

 

――この大水は、そんなガーフィールの絆さえも、無情に押し流していった。

 

「……いえ、それだけじゃない」

 

ガーフィールの精神状態も心配だが、オットーが懸念すべきは他の関係者たちだ。

思いがけない報告を持ち帰ったアナスタシア――エキドナを始めとして、彼女の報告を聞くために集まった王選候補者を含めた面々も、この被害に見舞われたはず。

関係者に注意を呼びかけるつもりで集めたのが、逆に仇になった形だ。

 

「酷なこと言います。ガーフィール、立ってください。僕たちは、この状況に対処しなくてはなりません。それこそ、前回の魔女教のときと同じように」

 

「お、オットー兄ィ……けど、よォ……」

 

「今、僕たちが呆けていたらどうなりますか!?ナツキさんも、エミリア様もいない!立ってください、ガーフィール!僕たちしかいないんだ!」

 

「――――」

 

胸倉を掴んで、オットーは弱々しい顔つきの弟分を怒鳴りつける。それが残酷な発破であることはわかっているが、今この瞬間は呑み込み、噛み潰した。

萎えた心を叱咤して、焚き付け、立ち上がらせる。

そうすることで、非情と罵られようと構いはしない。――あとでガーフィールに憎まれたとしても、果たすべき役割を果たせないより、ずっといい。

 

「生存者を捜すのと、王選候補者や、騎士たちと合流します。これが都市に敵対的な人物の攻撃なら、団結して立ち向かわないと……」

 

「――ッ!オットー兄ィ!」

 

「――!?」

 

非情な判断を言い聞かせ、ガーフィールの説得に打ち込むオットー。その胸を突き飛ばして、ガーフィールが吠えた。

直後、建物の屋上で尻餅をつくオットーの正面を、目で追い切れないほど凄まじい速度で光が突き抜ける。

 

「ぐ、うううう!」

 

一瞬、ほんのわずかに胸元を掠めた光に全身が焼け付く痛みを味わわされる。出血はない。だが、オットーの服の胸部が焼け焦げ、その下の肌が炭化したのを目にした。

凄まじい熱量、それが今の白光の正体だ。

そして、その白光は――、

 

「お、おおおおおお――ッ!!」

 

超速で迫りくる白光、恐るべきことに連続してやってくる白い死を、ガーフィールが吠え猛りながら強引に打ち払った。

その腕に銀の盾を装着し、ガーフィールは目にも留まらぬ圧倒的な物量に正面から挑む。超次元の戦闘が展開され、それはオットーの目では到底追い切れない。

ただ、起きている事象にはわずかながら想像がついた。

 

「どこから……」

 

痛みを堪えながら、オットーは周囲に視線を巡らせ、白光の発射地点に目を凝らす。

オットーとガーフィールを狙い撃ちにする攻撃、その下手人が大水門を開いた下手人でもある。思い当たる敵は当然、魔女教徒と――、

 

「――っ、あんな距離から!?」

 

視界の端、はるか遠くに見える大水門の制御塔――オットーたちのいる位置から、ほとんど都市の対極に位置する塔の頂点が光るのが見える。

一瞬、ちかっと視界が閃いたかと思った直後、光は即座にこちらへ迸ってくる。今は何とか、ガーフィールが防いでいるが――、

 

「このままじゃじり貧ッだ!オットー兄ィ、隠れる場所探せ!俺様ァ、この野郎をぶっ潰すッ!」

 

「ガーフィール!距離を詰めて大丈夫なんですか!?」

 

吠えるガーフィールだが、その形勢は決して有利とは言えない。

迫りくる白光の速度は尋常でなく、相手との距離があることがかろうじてガーフィールの防御を光に間に合わせている。距離が縮まれば、その分だけ光に対処する時間は減る。それが瞬きのような差異であろうと、超次元の戦闘では致命的だ。

 

「それッでも、やってやるしかねェ!俺様たちしかいねェ!そォだろ!?」

 

「――。その通りです。ガーフィール!」

 

「おおよォッ!!」

 

先のオットーの発言を繰り返し、ガーフィールが力強い踏み込みと共に跳躍する。そのまま、大水に呑まれる都市でかろうじて足場とできる建物を利用し、ガーフィールは猛然と前進し、白光の発射地点である都市の制御塔へと果敢に攻め込んだ。

 

「お、おお、おおおォォォ――ッ!!」

 

一発一発、骨の髄まで痺れるような衝撃を味わいながら、ガーフィールは吹き飛ばされそうになる体で踏ん張り、足場の悪い状況で勝利に食らいつく。

 

凄まじい手合いだった。

あれだけの遠距離から正確に攻撃を当ててくる力量もさることながら、これだけの威力の攻撃をほとんど間髪入れずに叩き込んでくるマナの保有量も常軌を逸している。

最初に距離を取られたという立ち位置から考えれば、相手に圧倒的有利な状況だ。

 

「だからって……」

 

相手の方が上手だったと、そう諦めてやれるほど物分かりは良くない。

それ以上に、相手がやってくれたことの方がずっと、ずっとずっと重く、許し難い。

 

水門都市プリステラが水底に沈み、おそらくは想像以上の人間が犠牲になった。

まだ、前回の魔女教の襲撃が残した爪痕も癒え切らないままに、畳みかけるような悲劇が都市を覆ったのだ。――その中には、ガーフィールの血を分けた家族もいて。

 

「――ッ!」

 

考えてはならないと、ガーフィールは奥歯を噛みしめて必死にかぶりを振る。

しかし、考えないようにしようと懸命になることは、結局、考えていることと何も変わらない。胸の奥、悲しみと怒りがない交ぜになり、ガーフィールの心はどす黒い激情に呑み込まれ、ささくれ立っていく。

そのどす黒い激情を爪に、牙に込めて、この敵へと叩きつけてやれば――、

 

「――ガーフィール」

 

ふと、激情に支配された頭蓋に声が届いた。

ただ名前を呼ばれただけ。それだけだったなら、ガーフィールもそれを一顧だにすることはなかっただろう。

だが――、

 

「――大将?」

 

その声が、帰還を待ち望んでいた待ち人のものであったなら話は別だ。

翠の瞳を巡らせ、超速の攻防の中にガーフィールは声の主の姿を捜した。

 

――エキドナが持ち帰った情報、それをガーフィールは頭から信じていない。

 

元々、エキドナなんて名前の存在を信用できるガーフィールではない。無論、その名前を名乗る存在の危険性をスバルに訴え、その上でプレアデス監視塔へ向かうことを無理やり納得した形ではあった。

それでも、結果、アナスタシアの姿をしたエキドナが戻ったのを見て、ガーフィールは自分の考えが浅く甘く、青かったことを悔やんだ。

すぐにでも、スバルやエミリアたちを捜すために後を追うべきだと考えた。

 

都市に大水が流れ込んできたのは、その相談をオットーに持ち掛けた直後だった。オットーにはオットーの考えがあったようだが、ガーフィールは牙に力を込めて、断固としてそんな誤った考えは認められない。

 

スバルが、しくじるとはガーフィールには思えなかった。

だから、この状況でナツキ・スバルの声が聞こえたことに、ガーフィールは希望を見出してしまう。何もかもが袋小路に呑まれた状況を変えてくれるのではと。

そんな、都合のいい幻想に縋りつくように、姿を探し求めて――、

 

「一番肝心なところで割り切れない。――やっぱり、身内の目は的確だな」

 

声の主が目に入った瞬間、ガーフィールは困惑に眉間の皺を深めた。

それは呟きが耳に届いたからではない。呟きは聞こえなかった。純粋に、目に見えたものへの驚きが、ガーフィールの表情に変化を生んだのだ。

 

「――――」

 

眼下、白光へ向かって飛ぶガーフィールを見上げ、こちらを見ている人影がある。

その姿かたちは、確かに見知った存在と同じに見えたが、

 

「――誰だ、てめェ」

 

鼻に意識を集中すれば、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔に滑り込んでくる。

しかし、五感ではなく本能が、それが見知った相手であることを否定しようとした。

 

思考に生まれる、ほんの刹那にも満たない空白。

だが、致命的な空白。

そこへ――、

 

「――はい、どーん!」

「な」

 

正面、気の抜けるような掛け声と共に、突っ込んでくる黒髪の女が蹴りを叩き込んでくる。それをとっさに盾で受け、竜車の突撃のような威力を両腕で殺した。

しかし、眼前と眼下と、意識が二方向へ散った状態で相手にできる敵ではなかった。

 

「悪くなかったッスけど、あーしのお師様への愛の方が、百枚上手だったッスね」

 

にんまりと笑った女の掌が、ガーフィールの顔の正面へとかざされた。瞬間、全身の総毛立つ気配にガーフィールは身を硬くし、とっさに顔を後ろへ反らして――、

 

「ぶ」

 

衝撃が、ガーフィールの腹部を貫通し、内臓を背中からぶちまけていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――空中で、血の花が咲くのを見ながらオットーは頭を回転させていた。

 

「――っ」

 

歯の根を噛みしめて、オットーは自分の中の冷酷な部分に罵声を浴びせる。

この状況下で、冷静に事態を把握しようとする自分がいることが何とも憎らしい。目の前で弟分が吹き飛んで、それでも感情的になり切れない自分。

 

圧倒的不利な状態にも活路を求めるように、オットーの意識は周囲に気をやっている。

自分の『言霊の加護』を応用すれば、どんな状況であっても一縷の望みは残せる。その考えを信じて、これまであらゆる難局を乗り切ってきた。

だから――、

 

「残念だが、鼠も溺れ死ぬぐらいまんべんなく水浸しだ。お前の話に付き合ってくれる奴はどこにもいないだろうよ」

 

「――――」

 

声は、足音を伴ってオットーの鼓膜を静かに打った。

恐ろしく、静まり返っているように思える世界の中、ゆっくりと足音が近付いてくる。振り返り、足音の方を見やってオットーは短く息を詰めた。

それから、詰めた息を短く吐いて、

 

「……ずいぶん、見違えましたね、ナツキさん」

 

「そうか?自分だと、イマイチわからなかったりするもんだが……」

 

「鏡を見てみればはっきりすることでしょうに。ああ、そうでしたか。エキドナさんのお話だと、記憶をなくされたんでしたね。それでわからないんですか?」

 

「ははっ、そうかもな。もっとはっきり、あらゆる面で違ってくれてたんならそれはそれで諦めがつくんだが……」

 

頬を掻きながら、オットーの挑発的な物言いに相手が笑う。

相手、その名前をなんて呼ぶべきなのか、オットーの頭の中、冷静と激発が同時に叫ぶ。あれを、正しく呼ぶことを躊躇い、他の呼び方がないことを躊躇い、叫ぶ。

 

「あなたは……」

 

「言わなくても知ってるだろ。俺の名前は、ナツキ・スバル。天下不滅の無一文」

 

「――――」

 

「お前のことも、よく聞いてるよ。お噂はかねがねだ。やっと会えたな、オットー」

 

そう言って、その人物――ナツキ・スバルの見た目をした、しかし決定的にオットーの知る彼と異なる人物が笑った。

濁って光のない左目と、何があったのか真っ白になった頭髪、どこかタガの外れたような笑みを湛えながら、ナツキ・スバルが嗤っていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――――」

 

警戒するオットーを眼前にしながら、スバルは長い息を吐いた。

ずいぶんと変わった、とは的確にこちらの嫌なことを言ってくれるものだ。無論、変わっていないと言われても皮肉としか受け取れないのが今のスバルの心境だが、真っ向から「お前は別人だ」と言われるのはなかなか堪える。

 

そこまでストレートな物言いは、塔の中にいた面々からも、その後に出くわしてツギハギに加えた顔ぶれからも聞かれなかったから。

 

「正直、かなり手こずってるんだよ」

 

「……何に、ですか?」

 

「エキドナから、俺の目的は聞いてるんじゃないのか?記憶が吹っ飛んで、頭がおかしくなった俺が暴れ回ってる……そんな感じで」

 

「その件でしたら、一応。自分の記憶を取り戻そうと、執着しているとも」

 

「そこまで話した覚えはないんだが……まぁ、順当な推察だな。やっぱり、どいつもこいつも有能だよ。無能なダメ人間は、俺一人しかいない」

 

そっと左目を手で撫で付けて、スバルが自嘲するようにそう呟いた。その仕草を見ながら、オットーは唾を呑み込むと、

 

「その目はどうしたのか、聞いても?」

 

「目……ああ、左目か。ちょっと霞んで見えるけど、どってことねぇよ。ただ、最初にショッキングなことがあったとき、頭をぶつけすぎたみたいでな。髪の毛も、別に何かしたわけじゃなく、勝手にこうなってた。笑えるだろ」

 

「はははは、笑える。これで満足ですか?」

 

「満足には程遠いな。俺が満足するには、まだまだ先が長い。気が重くなるぐらい、遠い」

 

渇いた笑みを返してくるオットーに、スバルも渇いた笑みを浮かべて応じる。

元々、スバルとオットーとはいい友人関係だったそうだが、なるほど、頷ける。エミリアやベアトリス、陣営の皆の目から見ただけでなく、実感としてわかった。

 

『スバルとオットーくん、いつも仲良くはしゃいでて、すごーく微笑ましかったの』

 

『まぁ、基本はスバルがオットーを振り回してることが多かったのよ。それについては今もあんまり変わってない気がするかしら』

 

オットーを左右から囲んで、エミリアとベアトリスがそれぞれ口々に説明してくれる。その説明に頷きながら、スバルは「さて」と舌で唇を湿らせた。

 

「長々とお前と『初再会』するのを心待ちにしてたんだが、時間を与えれば与えただけ危ない野郎だってのはわかってるんでな。悪ぃが、すぐに済ませるぞ」

 

「『初再会』ってなかなか独特な物言いですが、僕はともかく、あなたの目的を考えたらこれは失敗だったんじゃありませんか?」

 

「なに?」

 

首を傾げ、スバルが眉を顰める。

すると、オットーは「いえね」と言葉を継いで、

 

「実際、効果的な一手ではありましたよ。関係者が一堂に集まったのを見計らって、逃げ場のない制圧攻撃で一気に仕留めにかかる……脱帽しました。相手が災害となれば、剣の達人だろうと傭兵団だろうと、跳ね返せるはずもない」

 

「――――」

 

「この分だと、エキドナさんだけ監視塔から逃がしたのも作戦の内なんじゃありませんか?彼女を逃がして、報告させる形であなたを知る人間を一挙に集めた。その場合、集まるのは問題の中心にあるプリステラの可能性が高い。ここなら、水門がある」

 

「……お褒めに与り光栄だよ」

 

そうして称賛を受け入れる姿勢を見せながら、スバルは内心で舌を巻く。むしろ、称賛されるべきはオットーの方だ。

エキドナに逃亡を許したことも含め、ほぼ的確にオットーは事実を言い当てている。

もっとも、

 

「最初にエキドナに逃げられたのは偶然で、逃がしたあとで使えるってことに気付いたから追いかけなかったってのが真相だけどな」

 

「なるほど。さすがにそこまで見透かしてたら驚かされますよ。記憶がなくなった方が有能になるって、厄介って話じゃありませんし。――ですが」

 

そこで言葉を切り、オットーは真っ直ぐ、スバルを睨みつけてくる。その視線に込められた意思の強さを受け止め、スバルは目の奥に力を入れた。

そうして身構えるスバルに、オットーは続ける。

 

「最後の最後、詰めでしくじりましたね」

 

「しくじった?俺が?その心は?」

 

「……またよくわからない言い回しですが、心も何もありませんよ。これだけ完璧な形で不意打てる機会はそうそうない。あなたが本気なら、初志貫徹すべきだった」

 

「初志貫徹……」

 

「欲張らずに、ラインハルトさんを一直線に狙うべきだったんですよ」

 

指を突き付けて、オットーがはっきりスバルにそう言い切った。その断言にスバルは目を見開き、驚きを露わにするスバルへとオットーは畳みかける。

 

「あなたが、他人の記憶が読み取れる『死者の書』でしたか?それを利用して自分を取り戻そうと画策するなら、一番の敵になるのがラインハルトさんだ。そして彼を狙うんだとしたら、最初の一撃以外にありえない。以降は警戒をされる。二度と届かない」

 

「だから、最初の牙が届く瞬間を手放すべきじゃなかった。お前はそう言うのか?」

 

「ええ、その通りです。ですから……」

 

「く」

 

「――?」

 

不意に、スバルの喉から聞こえた不可思議な音に、オットーが眉を上げた。それは驚きであり、困惑であり、混乱でもある反応だ。

それは演技や小細工ではなく、自然にオットー自身から出てきてしまった反応。

そうした反応になるのも、ある種、当然かもしれない。

 

ここまで事態が読み切れるのに、最後の最後、詰め間違えているのは。

 

「お前の方だよ、オットー。勘違いしてるのはお前の方だ」

 

「それは……」

 

「俺が狙ったのはラインハルトじゃない。もちろん、この洪水のどさくさで死んでてくれたら手間が省けるんだが、そんな偶然に頼るような真似しないさ」

 

ラインハルトの規格外さは、とにかくあらゆる人間からの忠告で痛感している。

噂に聞くばかりの『剣聖』だが、彼を殺し切るのは至難の業――とにかく、彼を殺すためだけの方策を積み上げ、積み上げ、積み上げ続ける必要があるだろう。

偶発的なラッキーパンチに当たって死ぬなんて、英雄に期待できる死ではない。

 

「だから、あいつを殺そうとするなら、そのための手段を捜すさ。弱らせるでも、不意打ちするでも、罠にかけるでも、人質を取るでもいい。あいつを殺す必要があるならそうする。……でも、優先順位は低いな」

 

「だったら、洪水は単純にあなたを知る人間を一気に片付けるために?確かに、先日の事件のことであなたを知っている人間はこの都市で爆発的に……」

 

増えた、と続けようとするオットーに、スバルは掌を差し出した。

彼が語ろうとしている話はスバルもわかっている。水門都市プリステラで発生した魔女教の暴挙、その出来事は様々な角度から閲覧済みだ。

確かに、そういう意味でこの都市を利用したのも目的の一つではある。しかし、それは最大の理由と比べれば些末なこと。

スバルが水門都市を舞台に、こうして洪水による被害を生み出した目的は一つ。

最大の目的、それは――、

 

「――オットー、お前だよ」

 

「……は?」

 

「お前を確実に殺すために仕組んだ手口だ。他の死人は、まぁ、おまけだな」

 

「――――」

 

突き付けられた目的、その意味がわからないとばかりに、オットーが硬直する。

そうして、愕然となるオットーに片目をつむり、スバルはぼやけて見える左目で世界を映しながら、ぐるりと屋上の景色に首を巡らせた。

 

「……なんで、僕を」

 

「なんでお前のためだけにこんな大掛かりなことをしたかって?それは、お前に対する最大限の警戒の表れだよ。お前の傍にガーフィールがいることも含めて、安全策に慎重策を重ねたってのが本当のところだ」

 

「――――」

 

「言っとくが、これは俺だけの考えじゃねぇぞ。俺は、俺の考えを信用したりしないからな。俺が使えない頭使って、ない知恵を絞ったところでたかが知れてる」

 

そう、スバルの悪知恵なんてたかが知れている。

この世界のルールの把握に甘く、この世界の抜け道に縁遠く、この世界の法則を知らないスバルでは、碌な考えなど浮かびもしない。

だから――、

 

「ちゃんと相談したんだ」

 

「――――」

 

黙り込むオットー、打ちひしがれる彼の周囲を取り囲んでいるのは、オットーの目には決して映らない、スバルの左目だけに見える頼りになる仲間たちだ。

 

エミリアが、ベアトリスが、ラムが、ロズワールが、ペトラが、フレデリカが、エミリア陣営として一丸となっていた仲間たちが、オットーを取り囲んでいる。

その彼ら一人一人の顔を見て、スバルは「だろ?」と肩をすくめて、

 

「俺を知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットーくん』

 

エミリアが答える。

 

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットーかしら』

 

ベアトリスが答える。

 

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットーでしょうね。癪だけど』

 

ラムが答える。

 

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットーくんだーぁね』

 

ロズワールが答える。

 

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットーさん』

 

ペトラが答える。

 

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

 

『オットー様ですわ』

 

フレデリカが答える。

 

「――全会一致だ。もし、ガーフィールがこの列に加わってても、きっと同じことを言っただろうよ」

 

「いったい、誰と話を……」

 

「時間稼ぎしようとしても無駄だぜ。言ったはずだぞ。都市を水浸しにしたのはお前を殺すためだって。――鼠一匹いない場所じゃ、お前でも打開策は見つからない」

 

そのために、スバルは大水門を開放し、都市を水底へと沈めたのだ。

水竜も、鼠も、虫けらだろうと、オットー・スーウェンに近付けない。土の地面から離したことで、お得意の魔法も使わせはしない。

 

身内の知識をフルに使って、スバルはここまでのことをやってのけた。

それもこれも全ては――、

 

「――俺は、お前を過小評価しない。俺は、俺以外の誰も過小評価しない。お前らは、すごい奴らだ。だから、手は抜かないで殺してやる」

 

「あなたは……」

 

「――お師様」

 

スバルの全力の宣戦布告を受け、何事か続けようとしたオットーを声が遮る。屋上に軽やかに着地したのは、その半身を真っ赤な血で染めたシャウラだ。

彼女はべったりと血で汚れた胸のあたりを手で撫でながら、

 

「やっとこ終わったッス。や~、しぶとかったしぶとかったッス。まさか、お腹の中身をあんだけぶっ飛ばされて動けるとか、不死身なのかと思ったッスよ」

 

「道理で時間かかったと思った。……ちゃんと終わらせたか?」

 

「頭まで潰したんでたぶん。人間って、お師様以外は頭潰したら死ぬッスよね?」

 

「俺を除外した意味がわからん。俺だって頭潰れたら死ぬぞ」

 

「またまた~」

 

へらへらと笑い、信じないとばかりに肩を押してくるシャウラ。スバルからすればその考えの方がよっぽど理解できないのだが、シャウラの価値観に突っ込むのも野暮だ。

何より、彼女は課せられた役目を果たしてくれた。今は、それでいい。

 

「ご苦労だったな、シャウラ。あとは……」

 

「本命さんの方を仕留めるだけ、ッスか。でもでも、ここまでやんなきゃなんない相手だったんスか?あーしにはとてもそうは……」

 

「力の強い弱いだけで言ったら、俺だってお前に片手で捻り潰されるだろ」

 

オットーの強さは、シャウラの物差しでは測り難い部分にある。それが、スバルがエミリアたちから聞いた話を総合し、判断した結論だ。

そのスバルの答えを聞いて、シャウラは「はえ~、確かにッス」と納得。

一方でオットーは、そのスバルとシャウラのやり取りを心底憎々しげに見て、

 

「まさか、人生最大の高評価を得たのが裏目に出るとは、最悪の気分ですよ」

 

「人生最大の評価?そりゃお前、勘違いってもんだろ」

 

オットーの言葉に皮肉ではなく、スバルは本心から伝える。

エミリア陣営の、全員の書を閲覧したスバルから見た真実だ。間違いない。

 

「お前はずっと、陣営の全員から最高評価だったぜ、オットー!」

 

「――くたばれ、偽物」

 

歯を見せて笑ったスバルに、オットーもまた歯を見せて凶暴に笑った。

その一言は、何とも、スバルの胸に突き刺さったが――、

 

「――――」

 

――次の瞬間、白い光がオットーの全身へ突き刺さり、会話は強制的に断たれていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――そこまでだ」

 

その一言が聞こえた瞬間、ナツキ・スバルは閉じていた瞼をゆっくり開いた。

眼前、足下には上半身の消し飛んだオットーの亡骸が倒れていて、少し離れた水面には敗死したガーフィールがぷかぷかと浮いているはずだ。

 

そんな状況下でスバルがしていたのは、ひどく偽善的なことだが、黙祷だった。

 

スバルは、オットーやガーフィールに恨みがあったわけではない。

ここまで命を奪った誰に対しても、スバルが恨みを抱くような理由は一つもない。――否、さすがにかなりやらかしていたロズワールには元のスバルも恨みつらみを残してあるべきだと思ったが、そのあたりの本音は今のスバルにはわからない。

 

そうした微妙な引っかかりを除けば、スバルは誰にも恨みなど持っていない。

いつだって、憎むべきは自分。憎まれるべきは、『ナツキ・スバル』ではない自分。

 

誰からも必要とされない、『偽物』の自分。

『ナツキ・スバル』の断片を集めて、パッチワークして、何とかツギハギの自分を形作ろうとする、滑稽なナツキ・スバルだけだった。

だから――、

 

「俺はお前にも、申し訳ねぇなって気持ちしかないんだぜ」

 

「……スバル」

 

振り返り、スバルは屋上の縁に立っているラインハルトを正面に見据えた。

大勢の記憶の中で目にした姿だが、その整然とした立ち姿には一片の曇りもない。実際のところ、服の端々に濡れた形跡さえないのだが、いったいどうやったのか。

 

「なるほど、規格外だ」

 

「スバル、これは君がしたことなのか?……オットーや、ガーフィールを」

 

「殺させた、って意味ならそうだ。この二人だけじゃない。この洪水で都市にいた大勢が犠牲になった。……それも、俺の仕業だよ」

 

「何故……何故なんだ!?君は、この街の人たちを救うために……」

 

「監視塔に向かった、だろ?知ってる。よーく知ってるよ。相変わらず実感には乏しいんだが、漫画のあらすじを読んだみたいなぼんやりした知識はある」

 

ラインハルトの糾弾を浴びながら、スバルは両手を広げ、都市を示した。

水没の憂き目にあった都市だが、この水害の前にも散々な目に遭ったことは知っている。魔女教とやらの大暴れが刻んだ傷跡は、深いというより歪だ。

人々の記憶を奪い、その姿かたちを人ではないものに変え、圧倒的力で意に沿わないものを強引に従え、歪んだ考えを無理やり押し付け、共感させる。

 

人間性を踏み躙るという意味で、最悪の手合いだったことは語るまでもない。

しかし、同時にこうも思わされた。

 

「――計画が穴だらけだ。自分たちが負けるわけないって思ってるから、ああいうとんちきな計画で突っ込もうなんて考えるんだろうよ」

 

超常の力を持っているらしき大罪司教たちは、全員がその能力に胡坐を掻いている。

誰も奴らに教えてやらなかったのだろうか。どんな強力な力を持っていたとしても、間違った使い方をすればどんな人間でも敗北するのだ。

知恵か、数か、より強い才能か、なんであれ、必ず敗北する。

 

「俺は、半端な覚悟で勝負に挑んだりしないぞ。勝てる方法を見極めて、これってタイミングでしか仕掛けない。そのために、相談する」

 

「相談……君を誑かしたのが、その隣の彼女なのか?」

 

「え、あーしッスか?」

 

いきなり話題に上げられて、スバルの傍らにいたシャウラが目を丸くする。彼女は自分を指差しながら、ラインハルトをじっと見つめて、

 

「あーしがお師様を誑かすとか、そんな悪女ムーブができたらとっくにやってるッス!お師様、全然あーしの色仕掛けに引っかかってくんないんスから……こう、セクシー!セクシーって攻めてるッスのに」

 

「横のこいつは協力者ってポジションだが、悪巧みに乗っかれる頭がねぇよ。誰に誑かされたわけでも……いや、しいて言うなら内なる声かな」

 

「内なる、声……?」

 

「俺の中の眠れる獅子が、解放のときを求めて暴れ回んのさ」

 

スバルのその返答を真面目に聞いて、ラインハルトはすぐにそれが戯言と気付く。目に見えてラインハルトの瞳が失望に染まるのを見ながら、スバルの小脇をシャウラが「お師様お師様」と肘でつついてきた。

 

「あれッスけど、なんかレイドっぽい気配がメチャクチャするッス。ヤバくないッスか?」

 

「よくわかったな。メチャクチャヤバいぞ。あいつ、レイドの子孫だから」

 

「し、そん」

 

「子どもの子どもの、そのまた子どもぐらいのニュアンスだ」

 

「うげーっ!じゃあ、本気でレイドの関係者じゃねッスか!聞いてねッスよ!」

 

孔明の罠にかけられたみたいな顔で、シャウラがスバルに分の悪さを訴える。実際、レイド相手にボコボコにされた記憶が鮮明なスバルたちだ。

当然、その血縁者であるラインハルトにも、まともに挑んで勝てるはずがない。

 

「――残念だが、君の蛮行はここで止めよう。それが僕にできる、君への友情の証だ」

 

「一緒に結婚式に殴り込みかけた仲だってのに、悲しいこと言ってくれるぜ。言わせたのは俺なんだが、そりゃもう、エミリアたんは喜んでてなぁ……」

 

「スバル、もうやめてくれ。――もう、やめてくれ」

 

「――――」

 

ラインハルトの懇願、その沈痛な響きにスバルは口を閉ざした。

顔を痛々しく歪めたラインハルトの表情、そこからスバルが受けるのは胸を裂かれるような鋭い痛みだった。

 

オットーとガーフィールに恨みがないのと同じだ。

スバルは、ラインハルトにだって恨みはない。彼に何の非もなく、責められる謂れのない恩人であり、いい友人であったこともわかっている。

それでも――、

 

「――『ナツキ・スバル』を取り戻すために、お前の中のピースも必要だ。だから、俺はいずれお前を殺しにくる」

 

「――――」

 

「だけど、それは今じゃない。今日じゃない。明日の、明日の話だ」

 

スバルの宣言を聞いて、ラインハルトはわずかな困惑に瞳を曇らせた。

今ここで、ラインハルトは決着をつけようとしている。実際、ラインハルトがそう望めば、一歩で距離を詰められる位置にいるスバルなど一瞬で仕留められる。

シャウラが防衛に回ったとしても、それは結果を大きく左右しない。

それなのに、スバルがこんな風に言えるのは――、

 

『この状況、フェルトが逃げ込むとすれば都市の端にあるあのあたりじゃろうよ』

 

――そう、禿頭の巨人族が指差した方角へ向け、シャウラが白光を放った。

 

「――――」

 

瞬間、ラインハルトは息を詰め、まさしく光も同然の速度で飛んでいく一撃を追いかけ、後ろへ向かって飛びずさった。

正面にいるスバルを仕留めるためではなく、はるか遠く、洪水から生存したラインハルトの主人――フェルトが身を潜めている建物へ向かい、白光を撃ち落とすために。

 

『大事なものを手元に置けば、当然、弱点を晒すのと同じことになる。それは、『剣聖』ラインハルトであっても同じことだーぁよね』

 

献策をしたロズワールが、意地の悪い笑みを浮かべて『剣聖』を出し抜く満足感に浸る。それを横目に、スバルは短く息をつくと、

 

「シャウラ、引くぞ。――今日はここまでだ」

 

「はーいッス」

 

元気よく手を上げ、シャウラがスバルの腰に手を回した。そのまま、彼女は細腕からは信じられない膂力でスバルを持ち上げると、軽く膝を曲げ、都市の外へ飛ぼうとする。

その、最初の跳躍が始まる直前、スバルはラインハルトの方に目を向け、

 

「――お前はお前が思ってるほど、超人でもなけりゃ、万能でもないよ」

 

だから――、

 

「――必ず、お前も殺してやるからな、ラインハルト」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――改めて聞かせてほしい。君の名前は?」

 

「あ、アミュー。アミュー・シアーズ……」

 

「そうか、いい名前だね、アミュー。……今回のことは辛かったね」

 

「ふぐっ……」

 

膝をついた赤毛の騎士が、アミューと視線の高さを合わせてそう言ってくれる。その言葉を聞いた途端、少女の強張っていた感情、それが決壊した。

ぐずぐずと涙を流し、アミューが遅れて蘇ってきた恐怖に体を震わせ始める。

そうして泣きじゃくる少女を見つめながら、騎士――ラインハルトは周囲を見回し、その惨状に胸を痛め、唇を噛んだ。

 

「――――」

 

事件があったのは二日前、ルグニカ王国の北部にある小さな村でのことだった。

王都とも、五大都市とも距離のある辺境の地であったために発覚が遅れ、ラインハルトを始めとした騎士団の派遣は数日遅れになってしまった。

その間、村で唯一の生存者となったアミューは、孤独の中で膝を抱えているしかなかった。――それも全て、家族や親しい隣人の亡骸と隣り合わせの環境で。

 

「スバル……」

 

腰に備えた『龍剣』の柄に触れて、ラインハルトが思わしげに呟く。

事件性の問題を思えば、これが魔女教徒による蛮行である可能性は十分にある。だが、ラインハルトの直感は、この惨状が誰の手によるものなのか自然と見極めていた。

 

「これをしたのは、男女の二人組で間違いなかったかい?若い、二人組だ」

 

「は、はい……そう、でした。あ、でも……」

 

「でも?」

 

ラインハルトの問いかけに、アミューがしゃくり上げながら言葉を詰まらせる。その途絶えた言葉の先を求めて、形のいい眉を顰めたラインハルトにアミューは躊躇い、

 

「女の、人はわからないですけど、男の人は……」

 

「男は?」

 

「わたしは気付かなかったけど、誰かと、話してたような……」

 

「――――」

 

曖昧な情報を伝えることに躊躇があるのか、アミューの説明は力がない。しかし、そのアミューの言葉に、ラインハルトは目をつむり、長い息を吐いた。

アミューの洞察力は確かだ。その男女――否、ナツキ・スバルはきっと、アミューが見た通りに、連れの女性とは別の誰かと会話をしていた。

 

その誰かが、ラインハルトの知る誰であるのかはわからないが――、

 

「情報提供に感謝する。すぐに、騎士団の人間が対応してくれるはずだ。君は、家族の他に親戚がいたりは……」

 

「――ぁ」

 

頷きかけ、優しく話したラインハルト、その裾をアミューの指がそっと掴む。まるで遠ざかることを恐れるように、アミューは自分の行動が信じられない顔をした。

だが、彼女の心境を思えば、それも無理からぬこと。

 

家族を失い、故郷も失い、これから先、どれだけの苦難が彼女に待ち受けているのか。

そんな最中の不安を紛らわすのに役立つのなら。

 

「わかった。君の安全が確保されるまで、僕が一緒についているよ。だから、安心してほしい。もう誰も、君を傷付けるものは近付けないから」

 

「う、うぅ……ご、ごめんなさい。ごめんなさい……」

 

「謝ることなんてないんだ。――君は、何も悪くないんだから」

 

手を握り、再びぽろぽろと涙を流し始めるアミューを見ながら、ラインハルトは静かに胸中で、この惨状を引き起こした相手へと述懐する。

 

「これで……これで、君は満足なのか?満たされるのか?いったい、君の目には何が映っているんだ。僕にはわからないんだ。――スバル」

 

そう、ここにはいない存在の名を呟いて、ラインハルトは目を閉じた。

瞼の裏に映し出される姿は、いずれ、ラインハルトを殺すために現れるだろう友。そのためならば、どんな手段も惜しまないだろう友。

 

いずれ必ず、ラインハルトがこの手で斬らなくてはならない、友だった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『あのアミューって子は、ラインハルトさんに拾われた頃ですかね』

 

「焼かれた村の唯一の生き残り、か。あのぐらいの年代の子が、ラインハルトを見たらホッとして離れられなくなるだろうよ。――これで、追跡は間に合わないな」

 

『悪知恵というか、悪賢いというか……まぁ、僕の言えた話じゃありませんが』

 

『ッだよなァ。大将とオットー兄ィ、こういうときはホントに息合ってやがってよォ』

 

「『うげえ』」

 

『お、揃いッやがった』

 

手にした枝で茂みをかき分け、道なき道を行くスバルが顔をしかめる。その横では同じように森を踏むオットーが似た顔をしており、その二人の顔を見たガーフィールが手を叩いて牙を鳴らし、その状況を笑い飛ばしていた。

 

『ふふっ、でも、やっとみんな揃ってよかったわよね。おかげですごーく賑やかで……スバルが頑張ってくれたおかげね』

 

「そう言ってくれると、俺も頑張った甲斐があって浮かばれるよ。これで本格的にやってやった気分なら、エミリアたんに色んな方法でねぎらってほしいんだけど……」

 

『ほしいんだけど?』

 

「……まぁ、純情少年であるところの俺は言い出せない男心なわけですよ」

 

無邪気に首を傾げるエミリアを見て、スバルは頬を掻きながら顔を背けた。その顔を背けた先、軽蔑の眼差しを向けてくるラムと視線がぶつかり、

 

『いやらしい』

 

「バッサリ切り捨てんなよ!大体、言わなかったじゃねぇか!ちゃんとお恥ずかしい願望を言わなかった俺の気持ちを褒めてもらいたい!」

 

『ラムが?バルスを?天地がひっくり返った方がマシね』

 

「天変地異より下!?」

 

肩をすくめて、こちらへ背を向けてラムが颯爽と歩き始める。そのラムの態度にスバルがげんなりと肩を落とすと、そっとスバルの手を左右から小さな手が取り、

 

『まったく、そんなに目に見えて落ち込むんじゃないのよ。ベティーのパートナーともあろうものが、そんなんだと先が思いやられるかしら』

 

『そうそう。ラム姉様がつっけんどんなのなんて今に始まったことじゃないもん。その分、わたしがスバル様に優しくしてあげるから。いい子いい子』

 

「おいおい、まさかの幼女サンドかよ……ってほど、ペトラももう小さくないか。やれやれ、時間は残酷に、ベア子だけを幼女にしたまま通り過ぎていくんだな……」

 

『幼女、幼女うるさいのよ!レディーに対して失礼かしら!!』

 

少女扱いを卒業されて、嬉しげに胸を張るペトラと明暗が分かれたベアトリス。とはいえ、ベアトリスは性質的に幼女のままであるらしいので仕方のないことだ。

 

「世のお父さんお母さんは子どもが一番可愛いタイミングで成長が止まってほしいって思うものらしいし、そういう意味だと夢のような存在だぞ、ベア子」

 

『む……それは暗に、ベティーがこの世で一番可愛いって言ってるのよ?』

 

「この世で一番可愛いの座は候補者を集めて競い合いたいけど、この世で一番プリティなのはお前だ。俺が勲章をやろう」

 

『わたしは?ねえねえ、スバル様、わたしは?』

 

「うーん、ペトラはこの世で一番キューティー」

 

『やった!』

 

きゃいきゃいと喜び、ペトラがベアトリスの手を取ってはしゃぐ。その勢いに呑まれながらも、ベアトリスも満更悪い気はしていない様子だ。

そこへ――、

 

『おーやおや、ずいぶんなはしゃぎようじゃーぁないかね。外見はともかく、実年齢的にはこの中でもぶっちぎっているはずなのに、可愛らしいものだーぁね』

 

『うげ、かしら……』

 

悠然と長い足で大きく一歩を踏み、顔を見せたロズワールにベアトリスが苦い顔。ちなみに、ベアトリスと手を取り合うペトラも渋い顔をしたので、このご主人様の陣営での立場の悪さは筋金入りである。まぁ、しでかしたことを思えば残当だが。

 

『ベアトリス様、ペトラ、そんなに嫌な顔をするものではありませんわ』

 

『そうそう、さすがだねーぇ、フレデリカ。ちゃんと二人に言い聞かせて……』

 

『そんな顔をすればするほど、旦那様を喜ばせるだけだとおわかりでしょう?旦那様はそういうお方なのですから』

 

『前言撤回だーぁね』

 

フレデリカの鋭い一撃を受け、ロズワールも形無しだ。

一方、ベアトリスとペトラの二人は大人しくフレデリカの言葉を受け入れ、「はーい」「わかったのよ」と素直なものだった。

 

「……まぁ、騒がしすぎる気もするが、この騒がしさも日常の一ページか」

 

『日常の一ページは構わないが、私やメィリィ嬢のことも忘れないでくれたまえよ?』

 

「ん……」

 

正面、やいのやいのと話し合いながら歩くエミリア陣営とは少し離れて、こちらの後方を歩いているユリウスがそう発言していた。

彼は片目をつむり、その黄色い瞳にスバルを映すと、

 

『ラインハルトと相対するに当たって、私の助言は君の役に立ったと自負しているが?』

 

「役に立たなかったとは言わねぇけど、お前のラインハルト評価ってちょっと夢男子入ってるから信憑性が怪しいんだよな。英雄症候群も大概にしろよ」

 

『何とも、力の貸し甲斐のない答えだ。今後は少し、姿勢を改めるべきかな』

 

『こーらこら、そんなん言うたらあかんよ、ユリウス。ナツキくんにはきっちり貸しを作っとかな。契約書なんてなくても、十分機能するはずやからね』

 

売り言葉に買い言葉、そのまま言い合いに発展しかねないスバルとユリウスのやり取りに、やんわりとした調子でアナスタシアが割って入る。

すっかり、商人然とした態度を取り戻したアナスタシアは、その浅葱色の瞳でスバルを見つめると、軽くこちらをたじろがせてから、

 

『ナツキくん、忘れてへんね?ウチらがちゃぁんと協力したら、ナツキくんが元通りになったときに……』

 

「――ああ、覚えてるよ。俺が、『ナツキ・スバル』を取り戻して、全部、ちゃんと挽回できる時間まで遡ったら、そのときは」

 

そこで言葉を切り、スバルは深呼吸してから、続けた。

 

「ようやく、俺が殺した全部の人に、贖罪するタイミングが作れるんだ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

完成へと近付けて、ツギハギが今度こそ完成したら。

ツギハギが元通りにツギハギできたらきっと。

 

――きっと、全部、やり直せるに違いないのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――『ナツキ・スバル』には、運命をやり直せる力がある。

 

それが、ナツキ・スバルの結論だった。

 

エミリアの、ベアトリスの、ラムの、ユリウスの、メィリィの、ペトラの、フレデリカの、ロズワールの、ロム爺の、ガーフィールの、オットーの、アナスタシアの、リカードの、ヘータローの、ティビーの、ミミの、キリタカの、リリアナの、命を、取り戻せる。

 

『ナツキ・スバル』であれば、可能のはずだ。

だって、『ナツキ・スバル』は――。

 

『私の騎士様』『ベティーのパートナーかしら』『タイミングだけはいい男ね』『善き友人と、そう思っている』『まあ、ちょっとは認めてあげてもいいかもねえ』『わたし、スバルのおかげで頑張ろうって思えたの!』『スバル様には幾度も救われ、感謝していますわ』『スバルくん、君こそが私の長年待ち望んだ……』『まさか、あの若造がこれだけやれるとは儂も思いもよらなかったわい』『大将!なんかッあったらいつでも言えよォ!腕力でどうにかッなることなら何でもやってやるぜ!』『それで、尻拭いの結果が僕の方に回ってくるのは怖いので程々にしてほしいんですけどねえ』『うんうん、賑やかなんはええことやね。ウチも、ミミたちともうちょぉっと羽を伸ばそか』『お、アナ坊にしたらええ変化やないか!そやそや、働きすぎやねん!休みすぎるぐらいがちょうどええわ!』『お嬢がお休みするなら、ボクがお仕事手伝えるから……』『ナツキさんがお手伝いしてほしいとき、お嬢が全力を出せるようにするですです』『おー、それな!わかるわかる!ミミも、ミミも!ガーフと一緒にめっちゃがんばりまっせー!』『都市を救っていただいた恩に報いるために……とは、あとの結果を思うと簡単には言い切れませんが』『またまたぁ、キリタカさんったら根に持ちすぎですよぅ。だってだって、ナツキ・スバル様がぜーんぶ丸っと元通りになられたら、何もかも取り戻されるんですもんね!』

 

怒涛の勢いで、スバルを取り囲む仲間たちが『ナツキ・スバル』に期待を傾ける。

それを照れ臭げに、他人事のような気持ちで聞きながら、スバルは頷いた。

 

「ああ、そうだ。そうなんだ。俺には、とても無理だけど、無理だったけど」

 

『スバルにだったら、それができる?』

 

「きっと……いいや、絶対に。だって、そうだろ?」

 

力強く拳を固めて、そう言い切ったスバルに仲間たちから歓声が上がる。その喧騒を眼前にしながら、ふと、スバルは歩み寄ってくるエミリアに眉を上げた。

彼女は小さくスバルに手招きして、それから、仲間たちの輪から少し離れた方角へと指を向ける。その、白い指の指し示す方に立っていたのは――、

 

『――シャウラ、寂しそうにしてる。ダメよ、スバル。可哀想じゃない』

 

「あいつは……」

 

『言い訳しないの。私たちだって、スバルと一緒に色々頑張りたい。でも、一番頑張ってくれてるのはスバルで、その次がシャウラでしょ?だから……』

 

「――――」

 

『だから、大事にしてあげなくちゃダメよ。――約束』

 

約束と、エミリアがスバルに口にするのは、二人の間でとてもとても重い意味を持つ。

――否、実際のところ、その重みを『ナツキ・スバル』がどう思っていたのか、それは『ナツキ・スバル』ではないスバルにはわからない。

ただ、『ナツキ・スバル』のことはわからなくても、『ナツキ・スバル』と約束を交わそうとするエミリアの、その信頼は痛いほどにわかっているから。

 

「……わかった。約束だ」

 

『ん、それでいいの。――それじゃ、いってらっしゃい、スバル』

 

そう言って、エミリアが微笑みながら手を振った。

それを認識した途端、スバルの霞みつつある左目の中、視界にいた大勢の仲間たちの姿が掻き消えてしまう。

あとには静かな、誰もいない、スバル以外を切り取ったような静寂が残されている。

 

そこには約束を交わした相手どころか、交わしたはずの約束だってどこにも。

 

「――シャウラ、こっちこい」

 

その渇いた思考を放り捨て、スバルは遠くを歩くシャウラを呼んだ。その呼びかけを聞くと、シャウラはパッと顔を輝かせ、飛ぶようにしてスバルの下へやってくる。

 

「どうしたッスか、お師様!あの、なんか楽しそうにぶつぶつ独り言やってるお楽しみタイムはおしまいッスか!?」

 

「お前、メチャクチャストレートに言いやがるな。精神がいっちゃってる奴にあなたいっちゃってますねってはっきり言うなよ。傷付くどころじゃないだろ」

 

「てへぺろッス」

 

自分の頭を拳でこつんとやって、シャウラが舌を出しながら失言を詫びる。詫びているんだろうか。詫びてない気もするが、まぁいい。

ともあれ、砂の塔からこっち、ずっとスバルに付き従ってくれているシャウラ――エミリアの言葉ではないが、確かに、スバルの目的への一番の貢献者は彼女だ。

 

行動の方針や、計画の立案には大勢の仲間たちの知恵や知識、発想を借りる。しかし、いずれも必要なのは実行力、端的に言えば戦闘力。

それらを可能とするには、シャウラの存在は欠かせない。それなのに、スバルはシャウラのことを、彼女に報いることをほとんどしないままやってきた。

 

まるで、いつでも汲める井戸のような気持ちで。

『ナツキ・スバル』ではない自分ならば、何をしてもいいとでもいうかのように。

 

「――――」

 

「お師様?」

 

思わず、黙り込んだスバルにシャウラが不思議そうに首を傾げる。すると、彼女の剥き出しになった白い肩の上を、長い黒髪がゆっくりと流れ落ちていく。

それを目に留めながら、スバルは唾を呑み込み、思考を整えて、

 

「シャウラ。結局、お前は最後までどうしたいんだよ?」

 

「ん~、何がッスか?」

 

「何が、じゃねぇよ。お前だって、俺の目的はわかってるはずだろ?」

 

直前までの、シャウラに報いるだのどうのという思考を無視して、気付けばスバルはそんな悪態じみた態度から言葉を始めていた。

その言葉に、シャウラはぴんときていない顔で眉を寄せている。そのまま、彼女はしかめた顔を近付けてきたので、スバルはその額を掌で押さえた。

押さえたまま、

 

「俺は、俺を知ってる奴を全員殺して、その全員の『死者の書』を閲覧する。心当たりが全滅したら、最後はお前だ。それで、お前の本を読む。それでも……」

 

一番大事な部分がぽっかりと欠けて、自分の力で大きな穴を埋められないスバルは、『ナツキ・スバル』を知る全ての人たちから少しずつ、少しずつ、『ナツキ・スバル』を搔き集めて、元の形にツギハギした『ナツキ・スバル』を作り上げるしかない。

その完成形には、『ナツキ・スバル』と親しくしていた全ての人の記憶がいる。エミリアやベアトリスがそうだったように、シャウラも、それは例外ではない。

 

だから、いつか殺すと、ラインハルトにも約束したように。

目の前の、あけすけに笑い、スバルの目的を躊躇いなく手伝い、そして屈託のない態度で接し続けてくれる、彼女を、殺さなくてはならない。

 

「それでも、俺についてくるのか?シャウラ」

 

「あーしのこと、心配してくれるッスか?それって、愛してくれてるからッスか?」

 

「――。茶化すな。俺は本気で聞いてんだよ」

 

本心からの問いかけに、シャウラの答えはいつもと変わらぬ音調で、それがスバルの神経を逆撫でしたから、少しだけ荒っぽく聞き返すことになる。

しかし、そんなスバルの言葉を受け、シャウラは「お師様」と呼び返し、

 

「あーしだって、冗談で聞いてるわけじゃないッス。だって、お師様に愛されることがあーしの生きる意味なんスから。だから、それが一番大事ッス」

 

「――――」

 

「お師様があーしを愛してくれるんなら、いくらでも利用してくれていいッス。あーしの命はお師様のモノ。お師様のために使い潰される、それが望みッス」

 

普段と変わらぬ調子で、すげなく振り払われるスキンシップの態度で、本気とも冗談ともつかない軽薄な雰囲気のまま、シャウラは、自分の豊かな胸を撫で下ろした。

撫で下ろして、その黒い瞳をスバルに向け、薄く微笑む。

 

そこには彼女の本気の、常日頃から、一切に偽りなく、本気で生きる姿勢がある。

シャウラは、いつも本気だ。――本気だから、嘘をつく必要もなくて。

 

「いくらでも使い潰して、あーしが無様に死ぬまで利用してくれていいッス。その代わり、あーしを愛して、あーしが死んだら泣いてほしいッス。あーし、それだけで……本当に、それだけでいいッスから」

 

「……なんで、お前はそんなに俺に尽くす?だって、俺は、『ナツキ・スバル』じゃ」

 

「関係ないッスよ」

 

「――――」

 

「お師様はお師様とか、そういうのもどうでもいいッス。あーしは愛したいものを愛したいように愛したいだけ愛するッス。で、その人にあーしも愛し返してもらえたらそれで最高ッス。あーし、なんか変なこと言ってるッスか?」

 

首を傾げ、シャウラは自分の発言に何ら疑問を持たない様子でいる。

それを見ていて、スバルは小さく「は」と息を吐いた。吐いて、それはやがてただの吐息ではなくなり、少しずつ喉を引きつらせ、笑い声に変わる。

 

スバルは笑った。

『ナツキ・スバル』ではなく、エミリアたちの前で『ナツキ・スバル』を演じるのでもなく、異世界での暮らしの全てを忘れ、空っぽなナツキ・スバルとして笑った。

 

「ああ、まったく、お前って奴は……人が、自分探しってヤツで思い悩んでるってのに軽々しく言いやがって、馬鹿が」

 

「え!?お師様、まさか怒ったッスか!?あーし、変なこと言っちゃったッスか!?もしかして、月・木・金は燃えるゴミって捨てられるッスか!?」

 

「怒ってねぇよ。呆れたんだ。呆れて、ああ、モノが言えねぇよ」

 

吐息をついて、スバルは軽く頭を振ると、歩き始めた。そのスバルの背中を、シャウラはらしくもなくおずおずと見守る。

その視線の未練がましさに、スバルはまたしても長くため息をついた。

 

「好きにしていいから、早くこい」

 

「好きにしていいって……もしかして、腕に抱き着いても怒らないッスか?」

 

「体重かけてこなけりゃな」

 

パッと顔を明るくして、飛びつくシャウラが自分の胸にスバルの腕を抱く。普段は大雑把なくせに、こうしてスバルに触れるときだけ、シャウラの力加減は絶妙だ。

まるで、壊れ物を扱うかのように、大切なモノを壊さないようにするみたいに。

それを嫌でも思い知らされるから、スバルはシャウラに引っ付かれるのが嫌い――否、苦手だった。優しくされることが、居心地が悪くて。

 

シャウラが優しくしたい相手は『ナツキ・スバル』で、誰も、『ナツキ・スバル』以外のナツキ・スバルになど、興味も関心もないと思っていたから。

 

「お師様、お師様~」

 

「あー?」

 

「あーし、お師様を愛してるッス。ラブイズオーバーッス」

 

「そうか。俺は、お前のこと愛してないけども」

 

「うぎぃっ!お、お師様ったらいけず……」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「……お前は、ラインハルトを殺して、それから最後に殺してやる。お前が、『ナツキ・スバル』じゃない俺が、最後に殺すのはお前にしてやる」

 

「――――」

 

「それだけは、約束してやる」

 

「あ、あは、あははっ!お師様、お師様、ホントッスか?あーしが最後?あーしがお師様の最後の女ッスか?」

 

「そういう言い方されると、早くも約束破りたくなるな」

 

「え~!ダメッス!約束ッス!絶対の絶対、約束ッスから!」

 

「冗談だ」

 

「ええ!?冗談って、どっちが冗談なんスか!?お師様、お師様~!」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

 

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、ツギハギが多すぎて、元の形がわからないぐらいにツギハギして、新しい形がツギハギされても、まだ。

 

ツギハギして、生きていく。

ツギハギして、生きていく。

 

いつか死ぬまで、ツギハギして、生きて、いく――。

 

『ゼロカラツギハグイセカイセイカツ』Fin